心霊学研究所

スピリチュアリスト掲示板

2000年9月のログ、その3です。

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掲示板移動のお知らせ

 投稿日 2000年10月1日(日)05時29分 投稿者 ペーパーバーチ [toyohashi2-p15.alpha-net.ne.jp]

本当に突然なんですが、急に思い立って掲示板システムを変更することにしました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、現在進行中のお話の続きは新掲示板でお願いいたします。

新しい掲示板をしばらく使ってみて、使い勝手など、様子を見てみたいと思います。(評判次第では元に戻すかも(^^;)

新掲示板はこちらです。
http://www.paperbirch.com/sp-bbs/type-a.cgi


こころ震えて
 投稿日 2000年9月30日(土)08時43分 投稿者 ラルフ [pl074.nas122.m-hiroshima.nttpc.ne.jp]

TMHさん
 真夜中の緊急治療ご苦労様です。患者さんが助かって本当に良かったですね。
 NHKの”ER”という番組を思い出して、感動してしまいました。現実は厳しい
 ものでしょうから不謹慎だったら申し訳ありません。
 スピリットの力とともに人間の人間くさい必死のアツイおもいがエネルギーとなる
 のではという気がします。
 これは生死というギリギリの場面であっても、日常の普遍的な状況であっても同じ
 なのではないでしょうか。今、ここという一瞬一瞬をアツく生きていくことが大切
 なことだと思うのです。一寸先はわからないということでは同じだから・・・。

 「バランス」ってこと、大切だなって思います。一個のものが成り立つ場合もそうだし
 組織の場合もスペシャリストばかりでは成り立っていかない。全体をバランスよくまと
 めまとめるゼネラリストがいてはじめてうまくいくものだから。
 偏るということは結構心地よくて楽なことなので、反対にバランスがいいってことは
 苦しいことなのではないでしょうか。

宮崎さん
 ”理がまさっていることこそ情が深いということ”と私は理解しているのですが・・。
 逆に言えば”情が深いからこそ理がまさる”と思っています。私が変でしょうか?
 やっぱり世の中にはいろんな人がいますね。(^^;)

いつも直感的な(?)文しか書けない自分に自己嫌悪し、皆さまの論理的な文章に深く
納得し憧れている私ですが、これから研鑚していきますのでよろしくお願いします。
 


真夜中の診察室
 投稿日 2000年9月30日(土)04時18分 投稿者 TMH [ns.asahino.or.jp]

夜中に救急患者処置に呼び出され奮闘の上、一命をとりとめました(汗)。
患者の背後霊をはじめ、様々なスピリットのご協力のお陰と感謝いたす次第です。
暇になったので書き込みいたします。

ペーパーバーチさん、こんばんは。
18,000アクセスおめでとうございます!(^^)!。
20,000アクセスももうすぐですね。
これからも「知にはたらけば角が立つ」などと悟ることなく、舌鋒鋭く邁進してください。
(って、無責任過ぎ??)
ところで遅ればせながら東海豪雨禍お見舞い申し上げます。

さて情報です。先日角川春樹ボーダーランド文庫でハンス・ホルツァーという人の「霊界写本」という本を見つけました。解説はあの志水一夫さんで、彼によると、ハンス・ホルツァーという人は「霊界のシャーロック・ホームズ」なんだそうです。(コナン・ドイルの立場はどうなるんだあ!!)
内容は当HPでも注目されている「ジャック・ウェーバー」をはじめとした物理的霊現象がかなり詳細に考察されています。また後半はスピリチュアリズムに相通ずる彼独自の形而上学的思想にも触れており、読み応えがあります。皆さんもぜひ一度お読みになって下さい。(もう読まれた方がいらっしゃいましたら、感想を教えてください。)

りゅうじんさん、過分なお言葉恐縮いたしました。
今あなたのHPをはまって読ませていただいているところです。
な・か・な・かです(*_*)
感想はかなりへびーになりそうなので、後日(じっくり読み込んでから)りゅうじんさんのHPのBBSに直接書きこませていただきますね。そのときはよろしくおつきあいくださいm(_ _)m。

じんあきらさん(いつの間にかひらがなに変わっていたのですね。)、こんばんは。
丁寧なお答えありがとうございました。

you wrote;
>牛の乳を絞っていた女が歌う歌詞「げんのねは つよく しめれば いとはきれ、
> げんのねは よわくては ねいろがわるい、、、」中道のこころを悟った時ですが、
>理も情もちょうどよくしめたいものですね。
全く同感です。僕が大好きな言葉「一張一弛(いっちょういっし)」もほぼ同様の意味ですが、何事も「メリハリ」、「バランス」が重要ということは、僕も常日頃から痛感しているところです。

you wrote;
>虐殺の件についての意見です。
>キリスト教というものはイエスの考えられたことと同じでしょうか。
>イエスの教えを信じていたら、虐殺がおきたでしょうか。人々は学問的に、
>また当時の狭い論理体系で組み立てられて出来上がったキリスト教を盲信したからこそ、
>「正義の闘い」と称して異教徒を虐殺したのだと私は思います。
手元にある三省堂の辞林21で「学問」の項を開いてみますと、

@一定の原理によって体系化した知識と理論的に構成された研究方法などの全体をいう語。
A勉強すること。知識を得るため学ぶこと。また、それによって得た知識。

とあります。じんさんが「学問的」とおっしゃっているのは、恐らく@の意味で使用されているのではと愚考させていただきました。すなわち、体系化し、硬直した「神学」ということですね。しかし学問には能動的な意味でのAと言う側面もあります。僕が以前考察した「哲学」と言う語の語源はphilosophiaで、上記「学問」のAにほぼ近いと考えられます。従ってペーパーバーチさんが「既成宗教が没論理的」と言われているのも、「学問」のAの意味をふまえて言われているのだろうと推察する次第です。

you wrote;
>ちなみに、臓器移植といえば、心臓移植や腎移植、肝臓移植などが思い浮かびますが、
>輸血や骨髄移植も同じ考えになるようです。
>その他にアルブミン製剤など、人の材料を使ったものはいくつかあると思いますが、、、、
>是非を問うのは難しい問題ですね。
非常に鋭く、また重要なご指摘だと思います。確かに輸血に際し、霊的な影響を主張されて拒否される◯◯◯の証人の方々には、僕も苦労させられたことがありますが、彼らの態度を批判しつつ、臓器移植に反対するのは明らかに論理が破綻していますね。まあ輸血や血液製剤などは、ドナーの同意が明らかと言う若干の相違点はありますが。じんさんがおっしゃるように、是非を問うのは難しい問題であることは確かだと、僕も思います。突き詰めればどこで線引きするかと言う問題になるのでしょうが、現時点では以前にも書きましたが、心臓移植、脳移植(現実には行われていませんが)と、それ以外の移植を分けて考えるのが妥当だと僕自身は思っています。

宮崎さん、こんばんは。
勝手に「哲学的スピリチュアリスト」などと決めつけてすみません。(褒め言葉だったんですが…。)
ともかく知識の吸収に貪欲な、いいかえれば学ぶ姿勢を忘れず、かといって頭でっかちにならずに素朴な生き方のよさも評価されていらっしゃる、そんな宮崎さんのバランスの良さに敬意を表する次第です。(ホントに。)

you wrote;
>僕の予想としては、今後人類に霊的真理が行き渡り、利他的人間が増えていけば、
>自ずと選択肢は一つに絞られていくと思います。
>つまり「神にお任せ」ということです。
早くそうなるといいですね。
ところで、宮崎さんはモーツァルトがご趣味とのこと。スピリチュアリズムっぽくてよいですなあ。
僕のようにジャズ(リー・コニッツやMJQなどのサックスプレイヤーが特に好きです。)が好きな人は、死後どうすればいいんでしょう?おまけに酒好きだし…。
とても「ベールの彼方の生活」に出てくるような音楽の都市には入れてもらえそうにありませんねえ。
ねえ、りゅうじんさん!(ってふってどうする?)


裏取引
 投稿日 2000年9月30日(土)01時04分 投稿者 杉浦久美 [HMMca-0116p113.ppp.odn.ad.jp]

東京都新宿区にある財団法人日本心霊科学協会の心霊治療研究会の直接治療で,治療師に真如苑と言う宗教団体の霊能者達がいっていたことがノートに書いてあるから見せようかといったところ、驚き慌てふためき,それはいいすべてがゼロになると言い出したつといって,背中に回り,指を使いいろいろな事をしだす.その他いろいろ.そして,真如苑という宗教団体の霊能者たちが,いっていた言葉を口走るようになる.ゆうこときかないわねえーわがままわがままと口走るようになる.その他いろいろ.変なことを口走る.お互いに,うちの女性信者と一緒にさすという事でお互いに手を打ちましょうと,口走る.


(^_^)/
 投稿日 2000年9月28日(木)11時50分 投稿者 宮崎 護 [cs67118.ppp.infoweb.ne.jp]

じんさん、こんにちは。
>キリスト教というものはイエスの考えられたことと同じでしょうか。
>イエスの教えを信じていたら、虐殺がおきたでしょうか。
>人々は学問的に、また当時の狭い論理体系で組み立てられて出来上が
>ったキリスト教を盲信したからこそ、「正義の闘い」と称して異教徒
>を虐殺したのだと私は思います。
>ペーパーバーチさんはきっと、「論理的に考えれば」隣人を愛せよと唱える
>イエスの教えが虐殺を招くはずはない、との意見だったのだと思っていますが。
ぼくも、そう思います。

>確か宮崎さんもドクターだったと記憶していますが。
と、とんでもない、僕はそんな・・・・

今日からしばらく出張します。んじゃまた〜 (^_^)/~


秋の夜長、、、、。
 投稿日 2000年9月28日(木)00時59分 投稿者 じん あきら[p29-dn03hamamatsu.shizuoka.ocn.ne.jp]

宮崎さん、こんばんわ。
新聞紙上では増加傾向にある犯罪の記事が所狭しと見受けられるようになりました。殺伐とした世相を反映しているのでしょうが、そんな中でここに登場されているような方々がいられるということは大変救われる気持ちにさせられます。私も、生老病死の待ち受けるこれからの人生のなかで、できるだけ霊的真理にそった人生を歩みたいと思っています。これからも多くの発言をお願いしますね。色々な人の意見、考え方は私にとってとても参考になります。狭い世界閉じこもっていてはいけないと、常々自分に言い聞かせておる次第です。
哲学的スピリチュアリストって、いいではないですか。それだけ、人生や世界を追求する情熱に燃えているということなんですよね。
昔読んだ高橋信次氏の書籍のなかで、シッタルダー(ゴーダマ・ブッダ)が悟りを開く一歩となったネランジャラの川の場面がありました。牛の乳を絞っていた女が歌う歌詞「げんのねは つよく しめれば いとはきれ、 げんのねは よわくては ねいろがわるい、、、」中道のこころを悟った時ですが、理も情もちょうどよくしめたいものですね。

TMHさん、こんばんわ。
本当に、レスポンス遅くてすみません。一言書き込んだ手前、これでも頻回にみているつもりなんですが、、、、、。
本当にTMHさんがおっしゃるように、
※"議論"はけんかのように忌むべきものではなく、むしろ学ぶ喜びなのです。(正解※を求めるというのではなく、他者の考え方を客観的に自分の知識に生かすという※意味で。)
ということなら、私は何も言うことはありません。前にも書いたのですが、このインターネットの世界は相手の顔が見えない分だけ、自分の考えのみ大きくなってしまって、相手のことを考えないような危険性を孕んでいそうです。書き込まれた文章を読んでも明らかに悪意や怒り、嘲笑、侮蔑を感じさせるものがあるように思います。特に議論を呼ぶものは、、、。それはここの場にはふさわしくないと思ったものですから、ついいらぬ口をたたいてしまいました。

虐殺の件についての意見です。
キリスト教というものはイエスの考えられたことと同じでしょうか。イエスの教えを信じていたら、虐殺がおきたでしょうか。人々は学問的に、また当時の狭い論理体系で組み立てられて出来上がったキリスト教を盲信したからこそ、「正義の闘い」と称して異教徒を虐殺したのだと私は思います。
ペーパーバーチさんはきっと、「論理的に考えれば」隣人を愛せよと唱えるイエスの教えが虐殺を招くはずはない、との意見だったのだと思っていますが。

確か宮崎さんもドクターだったと記憶していますが、TMNさんも立場上、大変ですね
。お二人とも本当に謙虚な語り口で、私のほうこそ敬意を表しております。これからも頑張ってくださいださいね。

ちなみに、臓器移植といえば、心臓移植や腎移植、肝臓移植などが思い浮かびますが、輸血や骨髄移植も同じ考えになるようです。その他にアルブミン製剤など、人の材料を使ったものはいくつかあると思いますが、、、、是非を問うのは難しい問題ですね。


秋の夜長
 投稿日 2000年9月28日(木)00時03分 投稿者 宮崎 護 [cs67132.ppp.infoweb.ne.jp]

 や〜、今、コンサートから帰ってきました。モーツァルトの室内楽ばかりを集めたプログラムで、僕にとっては正に至福の時間でした。学生(音楽)時代にタイムスリップしたみたいで、いろいろなことを思い浮かべながら、楽員たちと感動を共にしてきました。
 ところで、ある本で読んだのですが、モーツァルトの作曲方法は独特で、予め曲全体が立体的な像(!)となって、見えるのだそうです。あとはそれを五線紙に書き写すだけ・・・だそうです。だから彼の楽譜には修正の跡がまったくないのです。正に霊界からのインスピレーションを受けて作曲していたのですね。そこへいくと、ベートーヴェンの楽譜は推敲だらけ。苦心惨憺のあげくに完成させるそうです。しかし、一度完成した作品は絶対に手直ししないのが彼のモットー。彼が言うには「一度完成した作品は生きものだから」だ、そうです。
そのベートーヴェンが生前、モーツァルトの音楽を聴いたとき「私にはとてもあのように美しい曲は書けない!」「モーツァルトは神が人類のために送ってくれた天使だ!(ちょっと表現が違っているかも知れない)」と言ったそうです。
とにかく本当にモーツァルトはいい!素晴らしい!
 因みにベートーヴェンですが、今も霊界で音楽的才能を発揮しているみたいですよ。モーゼスによる通信にはベートーヴェン霊によるものがあります。


RE:秋の空ですね。
 投稿日 2000年9月27日(水)15時57分 投稿者 宮崎 護 [cs67124.ppp.infoweb.ne.jp]

じん あきらさん、こんにちは。
you wrote:
>しかし、いろいろな人と議論をして、相手、
>もしくは自分の考えが変わったということは、
>ついぞ経験したことはありません。とことん議論をして、
>納得できたことといえば、「相手にはしっかりとした
>信念があるんだな」、という変な尊敬の念しかありません。
>自分の考えが正しい、と思い込んでいたからです。
このコメントを読んでいて思い出したのは、僕の生涯の愛読書、D.カーネギーの『人を動かす』です。カーネギーは言っています「たとえ私が相手を説き伏せたとしても、決して相手は引き下がらないだろう。自尊心がそれを許さないからである」「人を動かす方法は、この世に一つしかない。それは自ら動く気持ちにさせることである」と。・・・・だいぶ昔に読んだ本なので、正確に記憶しているわけではないのですが、だいたいそういう意味のことを言っていたと思います。じんさんのおっしゃっていることと、共通する部分があるのではないですか?
 そもそもスピリチュアリストとは霊的判断力を身につけた(或いは身につけようとしている)人のことを言うと思います。もしそうであるなら、スピリチュアリストこそ、その行動様式が、一般の人より利他的になっていなければおかしいのですね。でも、ともすると僕たちはそれを忘れてしまいがちです。(僕だけかも知れませんが)いつの間にか、自分のことに固執したり、悪いと思いながら我を張ったり・・・・。
 ですから、相手に対してものを言うときは、まず自問自答してみることが必要かも知れません、「自分は相手の進歩向上を願って、或いは己の至らなさを発見したいが為に発言しようとしているのか?それとも、相手を意固地にさせ、自分を正当化するために発言しようとしているのか?」と。そして、もし良心からの答えが後者だった場合には、黙って静かにしていることが賢明かも知れません。
 僕はある先輩から「君は“理”がまさり過ぎている。もっと“情”を培わなければいけない」と指摘されたことがあります。確かに、そうかなっ、て思います。TMHさんからも、哲学的スピリチュアリストって評価されるくらい理屈っぽい(^^;)(笑)。でも、僕の本当の理想は素朴な人です。一番大切な真理を身体で体得し、頭でゴネゴネ言わない人、『ベールの彼方の生活』に出てくる靴職人のような人、ああいう人になれたらいいなぁ、と思っています。


TMHさんへ
 投稿日 2000年9月27日(水)01時25分 投稿者 りゅうじん [Cngy21DS71.aic.mesh.ad.jp]

TMHさん、ご丁寧にどうも。はじめまして、りゅうじんです。
といっても、僕も投稿はよく拝見させてもらっています。

>折々に人生経験を感じさせる渋いコメント、いつも感心して拝見しています。
いや、お恥ずかしい。難しいことは言えないだけです(笑)。

>植木等的タイトル、いいですねえ!本文コメントも同世代のせいか、非常に共感を覚えました。
気づいてくれましたね。日本一の無責任男(笑)。

>やはり、まじめな議論も面白いけど、時々"いい加減"になることも必要ですよね。
>(いい意味で。以前このようなタイトルの本を出したこともあります。)
>ペーパーバーチさんも「テキトー主義者」だそうですし。
たけちゃんは、テキトーっていうのかなあ(笑)。

>ところでりゅうじんさんのHPも読ませていただきました。
>またいつか機会があれば、感想を述べさせていただきたいと思います。
是非、よろしくお願いします。うちの掲示板でもメールでもいいので。

>今後ともよろしくお願いいたします。
こちらこそ。

この度は、「哲学的スピリチュアリストvs宗教的スピリチュアリスト」の分析、お見事でした。いい加減(笑)な僕も、分類すれば「哲学的」だと思います。まあ、霊感も何もないので、自分の感覚は全く信じられないため、そうならざるを得ないのですが(笑)。1年余り、たくさんのスピリチュアリストの方と関わらせてもらってきましたが、ほんとにいろんなタイプの方がいらっしゃいますね。僕はいい加減(いや、ほんとに)ですから、敢えて誰の味方もする気はないのですが、いい勉強をさせてもらいました。

>どうしてこのような状況になってしまったかというと、その点にこそ我らが「スピリチュアリズム」の奥の深い側面が端的に現れていると思います。今までの宗教(あらゆる宗教、新興宗教も含めて)には、ペーパーバーチさんや宮崎さんをはじめとする"哲学的人間"や"科学的人間"(ブッチーさんや、物理学者さんという人もいましたっけ)を包含する包容力というものはなかったのです。この包容力と多面性こそがスピリチュアリズムの一番素晴らしい点だと僕は思います。

全く同感です。これが、スピリチュアリズムが他の宗教や思想と一線を画するゆえんですね。
注)「ブッチー」は、物理学者さんに付けられたあだ名です。


RE:成熟=純化…未熟=不純?
 投稿日 2000年9月27日(水)00時55分 投稿者 ペーパーバーチ [toyohashi2-p51.alpha-net.ne.jp]

Dr.Rayさん、こんにちは。後回しにしてしまって今さらかも知れませんが、コメントさせていただきます(^^)。


|納得できそうなのですが、未熟=不純であることを受け入れるのは
|少々抵抗があります。人は生まれながら「不純」なのでしょうか?

不純と言ってはイメージが悪すぎるかも知れませんね(^^;。ただ、霊として生まれたばかりの状態は、たとえば鉄鉱石や宝石の原石のようなもので、精製したり磨かれなければ「純粋」ということは無いと思います。

類魂説によれば、新たに生まれる霊は、霊的な“親”のカルマのパターンを雛型にして生まれて来ると言います。良い部分だけ受け継ぐ事が出来れば良いのですが、そんなことはあり得ませんから(それでは意味がないですし(^^;)、やはり、大なり小なり「不純」な部分を生まれながらに持つことになります。


|例えば肉体を脱いで間も無い霊に肉体の生理的欲求に同調する部分が
|残っているならばそれは霊界に暮らす者には不要な不純物でしょうが、
|肉体を着ている間は「必要な不純さ」なんだと思います。(このへん、

世紀末フォーラムで言われていた“虎”ですよね。心の中に隠れている“虎”。虎に精神を支配されてはいけないけれど、全くいなくなってしまったら人間は生きることができない、と言っていましたね。当時から、上手いことを言うもんだなぁと思っていたものでした。

で、そうした不純物があるからこそ、他人との関わりの中でもお互いの不純な部分、引っかかる部分がぶつかり合い、磨かれ合うという事もあるのではないか……というふうにも思います。つまり、逆説的かもしれませんが、不純だからこそ成長するという。


|と言ったのは、たとえば幼児やある種の知的障害者が他界した場合、
|霊界のことには疎いけれどこの世への執着や物質的欲求も小さいので
|却ってあの世で身軽だったりするかも…といった状況を想定しました。

実際にそういうことはあるようです。生後間もなく死んでしまった子供などは、物質界への執着が少なく、純粋なまま霊界に行けるというメリットはあります。が、その反面、物質界でしか積めない経験に欠けるので、少しでもそれを補うために、この世に連れてこられることもあるそうです。
霊界ばかりが素晴らしいワケではなくて、この世にはこの世の存在意義があるんですね。


ご挨拶(一期一会に感謝しつつ…)
 投稿日 2000年9月26日(火)11時42分 投稿者 TMH [ns.asahino.or.jp]

神 明さん、はじめまして。TMHといいます。
以後お見知りおきを。
先ほど考察をお示ししたように、世の中には「議論好き」なスピリチュアリストもたくさんいるのですよ。彼らにとっては"議論"はけんかのように忌むべきものではなく、むしろ学ぶ喜びなのです。(正解を求めるというのではなく、他者の考え方を客観的に自分の知識に生かすという意味で。)
ちなみに「虐殺」についてですが、普通に考えると"宗教的人間"が、対話(=議論)を用いずに伝道を進めたときに、異なる宗教観、世界観を持った人々を支配することができなくなって、これを排除しようとするために起こるケースが一般的だと思います。(十字軍や、コンキスタドールなど。)したがって、宗教が論理的になれば虐殺が増えるという論理は理解しづらいのですが、その論拠を教えていただければ幸いです。
それから臓器移植についてですが、この問題については医者として、なおかつスピリチュアリズムに興味のあるものとして長い間悩んでいた問題です。神さんのご意見は現代の
医学界の常識、特に臓器移植を待ち望んでいる重病の方々にとっては、正論過ぎる正論です。ただ一人の医者として、またスピリチュアリストとして諸手をあげて賛成できない問題点もいくつか含んでいます。まず最大の問題は、現在の特に日本で採用されている「竹内基準」と言われる脳死判定基準が、驚くほどいい加減に人間の死を決めてしまっていると言う点です。(この点については立花隆の「脳死臨調批判」中央公論社文庫刊で詳しく考察されています。)従って宮崎さんも指摘されたように、ドナーから臓器を取り出した時点でドナーがまだ生存し、なおかつ意識もある可能性があるということです。目の前に瀕死の重病人がいたら助けたいと思うのは人間愛から発する自然な感情だと思いますが、じゃあ、目の前にいる重病人を助けるために、他の瀕死の人間を殺して臓器を取り出していいのかと言う問題になります。レシピエントと同等にドナーの人権も考える必要があるのです。
 医学的にも臓器移植が「人工臓器」が開発されるまでの過渡的な医療という問題点もあります。そこには人工臓器の開発を待ちきれない患者や家族の要望だけでなく、今や自分の技術を発揮できる機会が減少の一途をたどる"外科医"たちの功名心と言う問題も微妙に絡んでいます。(ちなみに僕もいわゆる外科医ですが。)
 純粋にスピリチュアリズム的な問題としては、やはり肉体以外のレベルで二つの人格が混ざる可能性があると言うことは、スピリチュアリストとして見過ごせない問題です。酒の全く飲めない女性が、若い酒好きな(後で判ったことですが)男性から心臓移植を受けた後の最初の感想が「ビールが飲みたい」だったというのは、空恐ろしい気がします。(C・シルビア「記憶する心臓」角川書店刊)
これらのことを考えあわせ僕は基本的に心臓移植はやはり行うべきではないと感じています。心臓以外の臓器は、ドナーの死を厳密に確認するという条件付きでなら、さらには神さんや宮崎さんがおっしゃるように動機が利他的であるならば、現時点では許容できると思います。
 なお臓器移植については、以前このHPでペーパーバーチさん、高野英作さんと討論したことがあります。(7月頃?)そのときペーパーバーチさんが、スピリチュアリズムの観点からの臓器移植についてある程度詳細な考察をされましたので、興味のある方は過去ログをご覧下さい。
 色々いいたいことを書かせてもらいましたが、基本的に神さんのご意見は他人を思いやる優しさが感じられ、好ましく読ませてもらっていることを最後に付け加えておきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

橋口美鈴さん、はじめまして。
そうですか、宮崎さんのお知り合いですか。彼はなかなかの哲学的スピリチュアリストで、教えられることが多いです。
宇宙の果て!これこそ昔から大哲学者達の基本的大命題(こんな言い方ありましたっけ?)の一つで、こんな誰でも抱いたことのある素朴な疑問を大人になっても持ち続けられているなんて、嬉しくなってしまいます。ちなみに科学的にも哲学的にも、また霊的にもこの疑問に答えるだけの知識はありません。しかし二次元的世界に生きていると考えられる生物(昆虫など)が球体の上に置かれたときに、平面としての世界の果てが理解できないように、三次元的な尺度に生きている人間の常識では理解しづらい構造になっているのではないかと愚考しています。あくまでも想像ですが、想像の世界に遊ぶのも人間の特権として悪くはないのではないでしょうか。
今後ともよろしくお願いいたします。

りゅうじんさん、はじめまして。
折々に人生経験を感じさせる渋いコメント、いつも感心して拝見しています。
植木等的タイトル、いいですねえ!本文コメントも同世代のせいか、非常に共感を覚えました。
やはり、まじめな議論も面白いけど、時々"いい加減"になることも必要ですよね。(いい意味で。以前このようなタイトルの本を出したこともあります。)ペーパーバーチさんも「テキトー主義者」だそうですし。
ところでりゅうじんさんのHPも読ませていただきました。またいつか機会があれば、感想を述べさせていただきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

Sepさん、ラルフさん、リラタイさんはじめまして。
TMHといいます。
電子掲示板上とはいえ、同じ書物、思想に興味を持った皆さんと出会え、意見を交換できることを大変嬉しく、また誇りに思います。
皆様、今後ともよろしくおつきあいのほどお願いいたします。


哲学的スピリチュアリストvs宗教的スピリチュアリスト
 投稿日 2000年9月26日(火)11時39分 投稿者 TMH [ns.asahino.or.jp]

過日例の他HPでの論争が頂点に達し、ついに"両雄激突"(プロレスみたい!?)と相成りましたね。ここ数日その論争が当HPにも飛び火しているようでしたが、宮崎さん他のご活躍で論争もいい方向に収まりつつあるようで、喜ばしく思います。そこで私TMH(モード切換が必要なハンドルですみません。なおしようがないものですから^^;)も、論争の原点と思われる次の命題について、いつもより少しだけ論理的に考証してみたいと思います。(…といってもたかが知れていますが。)

  スピリチュアリズムに議論は不必要か?

 哲学の素養のある方なら既にお気づきかと思いますが、対立の根本的な原因として考えられるのは、福田定良言うところの"哲学的人間"(もしくは哲学的思考方法をする人間、あるいは理性的人間)と"宗教的人間"が「スピリチュアリズム」という同じ土俵で意見を戦わせているという点にあると言えます。両タイプの人間の意見が相容れないのは当然です。そもそもこの両者は他人と"対話"する時のスタンスがまるで異なるのですから。

 "哲学的人間"は他者と対話するときにはお互いの"無知"を自覚した上で議論を重ねることにより、「理性的なコミュニケーション」を構築しようとします。この時、言葉の定義に差異がある場合は議論を応酬することにより、お互いの言葉の定義、理解の差を縮めようとするし、差異が縮まらなくてもそれはそれでお互いの差異の理解によって議論は先に進むことができます。
 このBBSでの議論を例に挙げると、Dr.Rayさんが最初に提議した「高級霊、低級霊」についての議論がまさにこの「理性的なコミュニケーション」にあたるでしょう。いまいち言葉の持つ具体的なイメージが湧きにくいという人から疑問が呈され、それに対し色々な人が様々意見を述べることにより、最初の疑問発案者はもとより議論に参加した人すべてが言葉のイメージを再構築し、以前より豊かな意味を持つ言語として咀嚼、獲得するのです。
このような"哲学的人間"の対話=議論については、福田定良がその著書「哲学のすすめ」の中で簡潔に述べていますので、少し長くなりますが、以下に引用してみます。

>哲学の方法としての対話は、自分の知識をひけらかす手段でもなければエライ人にものを教わるための手段でもない。それは何よりもまず、理性的な人間関係を作る方法、いいかえれば、理性的なコミュニケーションを保証する方法である。プラトンは、学問の方法としての対話を弁証法と呼んだが、ディアレクティケーという言葉の本来の意味は、対話の技術と言うことである。
(中略)
>そこで私たちは一つの会合を想定しながら、その人間関係が理性的な人間関係に発展するために必要な条件を考えてみることにしよう。
>ふつうの会合の席上で意見をのべる人にとっては、自分の意見の正しさをなるべく多くの聴衆に認めさせることが必要である。だが、ここでは、自分の意見にすこしでもまちがいがあれば、その間違いを指摘してもらうことが必要である。本当に正しい考えというものは、話し手が聞き手になるほどと思わせることによって成立するのではない。いいかえれば、話し手個人の正しさとして認められるようなものではない。ほんとうに正しい考えとは、すべてのきき手が自分で考えてみた結果、それぞれの人が自分の考えとしてもつことができるようなものでなければならない。そのためには、会合で発表する意見の弱点をかくしてはならない。
(中略)
>だが、対話としての弁証法は、こういう理性的なコミュニケーションの方法として終わるのではない。大切なことは、それによって、こういう対話に参加したひとびとが、自分でものを考えることのたのしさを知るようになる、ということである。いいかえれば、いつのまにか、自分にも理性があたえられたことを自覚するようになる、ということである。一般の知的な人間関係(たとえば、現実の大学における人間関係)において通用する賢愚・教養の有無などという区別は、ここでは無意味である。理性的な人間関係においては、ひとは理性を持つことにおいて自由であり平等である。私たちは、そこでは、真理を知るとか、真理について考えるとかよりも、真理の世界(理性的なコミュニケーションによって人の心と心が結ばれる世界)に生きているという実感をもつことができる。
         (福田定良「哲学のすすめ」法政大学出版局編より、一部抜粋)

彼が言うような議論の場では正解が出ることもありますが、必ずしも正解が出る必要はありません。このタイプの人間にとっては議論する過程が重要であり、また喜びでさえあるのです。このように「言葉」による議論はお互いの無知を前提としているわけですが、裏を返せばお互いの思考力、想像力を認めあっているから成立するとも言えます。だから「言葉に縛られる」という意見は、相手の思考力、想像力を否定するネガティブなものといえるのです。

 これに対し"宗教的人間"の対話の目的は、"絶対的価値観"の「伝道」にあります。彼らにとっては伝道を妨げる「理性的なコミュニケーション」や、異教徒との対話は邪魔なものでしかありません。よって、理性的な議論でさえも"口げんか"と同等の扱いを受け、信仰の低さの証拠とされます。そして彼らの多くは「愛」を単なる口当たりの良い優しさと勘違いし、愛の名の下に議論することそのものを否定します。しかも彼らは大抵「無知の自覚」に欠けているのです。
 したがって"哲学的人間"は"宗教的人間"の無知をソクラテス流の「産婆法」で自覚させようとするでしょうし(=啓蒙)、逆に"宗教的人間"は愛の名のもとに"哲学的人間"に議論をやめさせようとするでしょう(=伝道)。両者(というよりも後者)が同じ土俵の上に上がっていないのですから、啓蒙と伝道がぶつかり合っていつまでたっても両者の溝は埋まらないというわけです。

 どうしてこのような状況になってしまったかというと、その点にこそ我らが「スピリチュアリズム」の奥の深い側面が端的に現れていると思います。今までの宗教(あらゆる宗教、新興宗教も含めて)には、ペーパーバーチさんや宮崎さんをはじめとする"哲学的人間"や"科学的人間"(ブッチーさんや、物理学者さんという人もいましたっけ)を包含する包容力というものはなかったのです。この包容力と多面性こそがスピリチュアリズムの一番素晴らしい点だと僕は思います。

 ただペーパーバーチさんや宮崎さんが単なる"哲学的人間"であるだけなら、「哲学」を対象としたHPを作ればいいわけで、このようなホームページを作られたり、参加されたりしているということは、彼らの中に多分に"宗教的人間"の要素も存在することを示しているのでしょう。人間の単純にラベリングできない複雑さを示しているものと思われますが、ことこの掲示板に関しては参加する人皆が無知な低級霊との自覚を持ち、良い意味での議論を重ねることによって参加する皆が「スピリチュアリズム」に対する理解を深める"理性的なコミュニケーション"の場となっているのは間違いなく、そのような人々にとっては非常に有意義な討論の場とであると思います。逆に自分の無知に気づいていない人(平たくいえば知ったかぶり)や、愛という美名のもとに頭から議論を否定するような人に対しては、ペーパーバーチさんは容赦なく「産婆術」を使ってきますので、居心地が悪くなるほどいたぶられる覚悟が必要といえそうです。

 先の命題に対する結論;スピリチュアリズムでは時に大いに議論が必要である。

というより、"哲学的人間"の議論の対象にさえなるほどに、スピリチュアリズムの理論は確固として揺るぎない、ということもできます。
 ただしこの結論は僕の個人的思惟から導かれたものですので、誤りを含んでいるかも知れません。皆さんそれぞれで考えていただき、できれば違った結論でもかまいませんのでご意見を教えてください。


秋の空ですね。
 投稿日 2000年9月26日(火)00時38分 投稿者 じん あきら[p03-dn04hamamatsu.shizuoka.ocn.ne.jp]

宮崎さんへ。

どうも、レスポンス遅くって申し訳ありません。一週間に一回はここを見るようにしますね。

以前にも書き込んだとおり、私は意見を言い合って、それを自分の魂の成長の糧にすることはとても良い事だと思います。しかし、いろいろな人と議論をして、相手、もしくは自分の考えが変わったということは、ついぞ経験したことはありません。とことん議論をして、納得できたことといえば、「相手にはしっかりとした信念があるんだな」、という変な尊敬の念しかありません。自分の考えが正しい、と思い込んでいたからです。
「正義」という言葉。いい言葉だと思います。でも、難しい言葉だと思います。自分が正義の立場にある、と私には言い切れません。過ちを犯すレベルの魂だからこそ、この地上に生まれてきているのではないでしょうか。

私の言いたいことは、自分が正しいと思うことが全てではないということです。
明らかに弱いものをいたぶったり、非人道的な所業には断固として闘うべきであるということに異論はありません。スピリチュアリズムを中傷するような意見にも、はっきりいって私も不快に思います。
そういう時は毅然とした態度でいればいいのだ、と思います。言葉で非難、攻撃するのは愚かなことだと考えるからです。

臓器移植のお話について、私の意見ですが、、、、、、。
とても難しいですね。スピリチュアリズムをよく知っている人は、それは愚かな行為だと嘆くことと思います。

でも、、、。
もしも、目の前に霊的真理も知らず、明日をも知れぬ息絶え絶えの人がいて、もっと生きたい、もっと楽になりたい、という人がいたらどうしますか?
その人にむかって、健康で病の苦しみなんぞ知らない人間が、「この世の生にしがみつくことは意味がないんだ、あの世というものがあって、それこそが真実の世界なんだから、、、」そう言えますか。

自分の臓器を提供することに同意した人の好意ある臓器があって、苦痛にあえいでいる人がいるのなら、その人が臓器移植を受けて残りの短い人生の間でかけがえのない経験をするのなら、そしてその人を救ってあげたいと願っている人々の真摯な動機があれば、それは間違っていないと私は思いますよ。

何が正しいか。

人間は間違いを犯す存在ではあります。間違いを犯す存在だからこそ、いつも真摯に人のためを考えて行動するべきだと思います。すべての基準は「動機」にあるのでは?


ありがとうございます
 投稿日 2000年9月25日(月)06時29分 投稿者 ラルフ [pl022.nas144.m-hiroshima.nttpc.ne.jp]

こんにちは。
ラルフは前に飼っていた犬の名前です。

宮崎さんありがとうございます。深く納得できて疑問の糸がほどけそうな気がします。
神の御心のままにということですね。
内なる神の真理の声が聞こえてくるよう自分自身を成長させれば、自ずと答えは出て
くるでしょう。がんばります。いや、やっぱりおかしいかな??
もしかして神とは父なる神でしょうか?

論理的にきちんと表現できなくてすいません。
文章表現能力とパソコン使いこなし能力の不足のため時間ばかりかかっています。
宮崎さんにお礼を申し上げたくて書きました。またゆっくり書きます。


ラルフさん
 投稿日 2000年9月24日(日)17時57分 投稿者 宮崎 護 [cs67105.ppp.infoweb.ne.jp]

ラルフさん、こんにちは。
>ごめんなさい
そんなつもりで言ったのではないのに (^_^;)
こちらこそ、よけいなこと言っちゃってごめんなさい。。
(でもこの方が書きいいナ・・・・)

>今スピリチュアリズムを学んでいくなかで、宮崎さんも
>書かれているように臓器提供が魂の成長という観点から
>どう判断されるのかが疑問に思えてきました。(略)
>医学の世界で、どの程度まで人為的な行為が許されるのでしょうか。
>肉体をできるだけ長らえさせることが絶対使命の世界で・・。
奥の深い問題ですよね。シルバーバーチも確かこのこと言ってましたよね。何巻でしたっけ?思い出せないのですが。
僕はこの問題を解決するカギは二つあると思います。まず一つは真理(実相)から見て正しいかどうかという事です。例えば、死後臓器を提供すると言っても、真理から見た場合、シルバーコードが繋がっている内は、人はまだ死んでないわけです。人間の浅知恵で脳死=人の死と判断し、摘出手術をしてしまった場合、これは明らかに罪を犯したことになりそうです。また同じく人間の浅知恵で、ただ命を長らえさせることが救いと思い込み、また逆に、植物人間を安楽死させることが救いと思い込み、それを実行してしまった場合、それが魂の成長を阻害してしまうこともあり得ます。
つまりスピリチュアリズムを通して、真理に通暁しなければこの問題は絶対に解けないということです。
二つ目のカギは“動機”がどうであるかと言うことです。例えば、僕みたいに、早くブルーアイランドに行きたいと思って臓器提供を受けることを拒否する人と、「幼い子どもたちのためにも生きなければ」と思い、臓器移植を受け入れ、薄暗い地上に留まろうとする人と、動機としてはどちらが利他的か?また、自分の幽界での生活に支障を来すのではないかとの心配から臓器提供を拒否する人と、少しでも人の為になれればと臓器提供を希望する人と、動機としてはどちらが利他的か?
つまり、真理に照らしてその行為が正しいかどうかという面と、その行為にいたる動機が利他的かどうかという、二つの面を考えなければならないと思うのです。
僕の予想としては、今後人類に霊的真理が行き渡り、利他的人間が増えていけば、自ずと選択肢は一つに絞られていくと思います。つまり「神にお任せ」ということです。
イエスがゲッセマネの園で祈った如く
「父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。されど、もしもこれがあなたの思し召しであるならば、私の願いではなく、あなたの意思のままになさしめ給え」……この価値観に統一されていくのではないでしょうか。
なんか、まとまらない文章になってしまってすいません。


ハンドル
 投稿日 2000年9月24日(日)16時11分 投稿者 リラタイ [210.135.19.55]

すみません。私もハンドルが英字でした。

リラタイで宜しくお願いします。
ちなみに「リラックスタイム」の略です(分からないですよね(^^;)。
ホームページのタイトルでもあります。


ごめんなさい
 投稿日 2000年9月24日(日)08時50分 投稿者 ラルフ [pl077.nas122.m-hiroshima.nttpc.ne.jp]

こんにちは。
宮崎さん、ご指摘ありがとうございます。ハンドルネームの件、メールアドレスを
そのまま使っていました。確かに書きにくいのでカタカナに変えます。

臓器移植についてもご意見ありがとうございます。
私は、長い間人工透析をうけている友人がいたりするので、自分の肉体が役に立つ
のならという気軽な気持ちで腎バンクに登録し、その延長で臓器提供意思カードを
持っています。しかし今スピリチュアリズムを学んでいくなかで、宮崎さんも書か
れているように臓器提供が魂の成長という観点からどう判断されるのかが疑問に思
えてきました。
心臓移植を受けたアメリカの医師が、「その心臓とその他の自分の肉体が、それぞ
れ別の人格があるような気がしていつまでも融和しない。」とNHKのTVで話し
ていた言葉にも考えさせられます。「幼い子どもたちのためにも生きなければ。」
と移植を受けたそうですが。
医学の世界で、どの程度まで人為的な行為が許されるのでしょうか。
肉体をできるだけ長らえさせることが絶対使命の世界で。

私も自身への臓器提供は希望しません。ブルーアイランドを始めとして早く霊界を
体験したいと思っていますので(笑)。でもこの世での使命さえ自覚できていない
のでまだまだのようですが・・・(^^;)。


再び有難うございます。
 投稿日 2000年9月24日(日)06時06分 投稿者 riratai [210.135.19.42]

ペーパーバーチさん、こんにちは。

>一緒にやってこられたのは、霊的知識云々じゃなく、志《こころざし》
>の部分で響き合えるところが大きかったからなのだなぁと、今、しみ
>じみと感じます。(たとえシルバーバーチの知識を持っていても、人
>物がダメだったら良い関係は築けないんですよね)

確かにそうですよね。知識を知識で終わらせない努力が必要なんでしょ
うね。これが難儀なんですが、一生かけてやるしかないです。
アリオン関係では、ウェルカムメッセージが、謎めいていて好きでした。

>僕も以前から「今年中に一度は読書会に行きたい」と言っているんで
>すが、早九月。なかなか機会がないんですよね。でも、そのうちお会
>いできるかも知れませんね(^^ゞ。

私も、コンスタントには行っていないので、お知らせしていただけれ
ば参加させていただきます(^^;。

>シルバーバーチのテープは僕も持っていますが、ハート出版から3,0
>00円で出ていますよ。僕のページでも少しだけ聴けるようになりまし
>たが、そちらのページに注文先は書いてあります。宜しければどうぞ(^^)。

有難うございます。検討してみたいと思います。


あれっ・・
 投稿日 2000年9月23日(土)12時18分 投稿者 宮崎 護 [cs67129.ppp.infoweb.ne.jp]

あれっ・・・Sepさんの書き込みがあった後、
ralphさんが書き込みされていたように、思ったのですが、、?

Sepさん、いいんですよ。お互い過ちは改めて、成長していきましょう。僕も言い過ぎや、誤認などたくさんあると思いますが、(なんたってB型ですから(;_;))その時は遠慮なく、「そこはお前、間違ってるぞ!」って教えて下さい。

ralphさん、はじめまして。
めんどくさいハンドルネームを使っていますね。ネームと“さん”をいちいちモード切り換えしなければならないですもんね。っと愚痴を言った後、高尚な話をするのもなんですが、、、
僕は臓器移植の問題に関しては、次の二点を明確にしておく必要があると思います。
T、臓器を提供する人が、本当に死んでいるのか?
U、臓器移植が本当に、その人の救いになるのか?
以上の点を考えた上で、結論として、僕の場合は他人に臓器提供はしません。それは自分が来世どうなるかを考えてのことではなく、臓器提供という行為が他人の魂の成長に役立つとは思えないからです。
また、僕は臓器提供を受けません。それはせっかく自然な形で霊界に帰れそうな時に、わざわざ人為的に肉体を長らえさせるメリットがないからです。
では、また(^^)/~~~


宮崎さんへ
 投稿日 2000年9月23日(土)10時19分 投稿者 Sep. [3540519680r42.freeserve.ne.jp]

> こういう皮肉はやめていただけないでしょうか。これは失礼です。

ご迷惑をおかけしました。
お詫びいたします。


はじめまして
 投稿日 2000年9月23日(土)07時42分 投稿者 ralph [pl086.nas144.m-hiroshima.nttpc.ne.jp]

スピリチュアリズムもパソコンも初心者です。
このサイトを始めとしてさまざまなかたちで学ばせていただいています。
ありがとうございます。
スピリチュアリズムを学んでいくことによって、子どもの頃から感じていた多くの
疑問が解決されていく喜びを得ました。またそれとともにこれまで生きてきて(結構
長く生きてます(^^;)いろいろと身につけてしまった垢を落とすのに時間がかかるで
あろうことを感じています。

一個の人間として自分で自分を評価する時、その評価は神様(一般的な意味での)の
評価と同レベルであろうか? せめてそのレベルが近づくよう自分を知り、そして
成長していきたいと思っています。
ここのBBSでいま繰り広げられている議論?は、個々の魂の成長の差がある中で
同じ土俵で交わされている気がしています。未熟者でありながら生意気な言い方を
して申し訳ないのですが、よい表現が見つかりません。
人の言葉をどう受けとめるか、こんなにも個人によって異なるものなのですね。
私はベーパーバーチさんのありすさんに対する書き込みを罵倒だとは思いません。
むしろキチンと対応されていることに敬意を感じます。私だったら無視するかも
知れません。

幅広い知識と深い洞察力、そして磨かれた感性、もうひとつ篤いココロ・・・・
まだまだの私だけれど、少しずつでも身につけていきたいと思っています。
ゆっくり学んでいくつもりです。

最後に唐突ですが、臓器提供は利他愛なのでしょうか? 
シルバーバーチは賛成していないようですが・・・。


宮崎さんへ
 投稿日 2000年9月23日(土)21時24分 投稿者 Sep. [3540519936r113.freeserve.ne.jp]

> こういう皮肉はやめていただけないでしょうか。これは失礼です。
> 誰に対してかは、あなたが一番よくご存じのはずです。

大変失礼いたしました。
スピリチュアリズムを標榜しながら、罵倒とも言える心ない書き込みがみられ
たり(だって、ありすさんに対する書き込みを眉をひそめずに見ていられる方
っておられますか?人のいやがる書き方を心得ていて、これはこれですごい才
能ですが。)、軽薄な知識自慢があったりで、すごく嫌な気がしたので、つい
つい、「では私も」と、腹立ち紛れに書いてしまいました。
本当にご迷惑をおかけいたしました。
心よりお詫びいたします。


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