これはメッセージによる(TMHさんへの)回答です。
この掲示板へのメッセージの投稿は、管理人であるペーパーバーチさんがお断りされています。削除を前提としての受信は本来ならばしないはずのことです。が、今回に限って回答致します。削除された場合は、悠々塾のホームページ(http://www.d5.dion.ne.jp/~susa/)
の掲示板をごらんください。
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■TMHさんへの回答
○ここではあなたの個人的見解に対しては何らコメント致しません。ただ、「花粉症について」のメッセージに関しては“熟読した”とは思えない部分があります。再度読まれること(そのおつもりがあれば)をお勧めします。
○まず、あなたの質問の動機は、私どもが通信を送るにあたっての目的に沿うものではないことを、こちら側から断言させて頂きます。御自分の「心」を振り返れば分かることでありましょう。
本来ならば、通信を読んで生じた疑問、さらに知ろうとする動機が「質問」というものとなるはずです。あなたの動機はそこにはありません。しかしここではこのことに時間をかけることが目的ではないので、これ以上言及は致しません。
あなたのおっしゃる「霊的要因」がどういうものかは構いません。魂の意識を地上の人間はほとんど認識できません。それが地上の人間に認識できるのは、理性と感情のところにおいてです。つまり、地上の人間は肉体とともに「心」で生きていると言えるのです。では「肉体」は何か。それは、魂から心へと変換されてきた意識を「表現する媒体」です。物質的な世界で「魂」や「心」を表現するために、その世界と同次元の肉体を携える、ということです。
その人の「魂―心」の情報・状態が「肉体」に表現されることを前提とするならば、「病」は、物質レベルから見るだけでは解消できないものになります。しかし、これはあくまでもエネルギ―的側面から見た場合であって、その場合、解消するのに必要なエネルギーを“物質”(具体的には薬品であったり、食品であったり)で代用することも可能となります。しかし、人間が肉体を器として「魂―心」で生きるのならば、その本質は、いかなる場合も「心」であります。病発生のメカニズムを物質的側面から見るだけでは根本的な治療は望めません。ただ心と体は一体のものですから、肉体的(物質的)治療がその人の心を喜びで満たしきった時、「心」そのものにあった「病の要因」も解消できる。それは実際にあることです。
○人は肉体を携えて「心」で生きている。心が本質である。ならば病と心の関連性についての情報を手にすることは、人々が自らの気づきによって病から解放されていく道筋を知ることでもあります。それは、「あなたの心がけが悪いから」「もっと良い心になりなさい」などという話では全くありませんし、私どもの通信を素直に読めば、その程度のことはごく普通に読み取れましょう。病は肉体に表れた“かげり”。ならばそれは、何らかの“心のかげり”が表現されたもの、とらえられます。健やかな肉体の回復を求めるために、それを「心の健やかさの回復」から見ていくことは、「事の本質」にかなうところです。
○あなたが医療従事者ならお分かりでしょう。ある病を抱えた者が「“自分の病気”について知りたい」「どうすれば良くなるのか」と思うこと。それに対して、「それを含む病気全般のことを教えます」と言われても少しも嬉しくはなく、むしろ「自分は“この病気”について知りたいのに」とがっかりします。「花粉症」はあなたが言われるように、国民のかなり高い割合が関心を持つ、悩んでいる症状です。(アレルギー全般はもちろんですが)その「花粉症」の発症期に合わせて、それに関するメッセージを送ることは、あなたのおっしゃる「ショボいこと」などと言えるのですか。それに悩む患者、苦しむ患者を知るならば、とうていそのような表現にはなりますまい。あなたがシルバーバーチに学び、その視点を備えた医療従事者として患者に関わるのであれば、いわゆる「医学的」「科学的」「物質的」なところからだけでなく、人間の本質である「心」から見ていく視点は「持ちたい」と思われるのではありませんか。(物質的側面から語るのはあなた方が担われているところでしょう)
スギ・ヒノキの発症にまつわる「仕組み」はメッセージを再読のこと。
○ハウスダスト及びダニについては、そこに共鳴するエネルギーはもちろんあります。ハウスダストはひとつの物質のみでできているのではありませんから、それ全体について「重苦しい思い」と伝えます。ダニについては「おもしろくない」ということです。いわゆる「害虫」と人の心のエネルギーの共鳴は、別の傾向・意味あいがあります。それは別の通信によってすでに伝えられています。(ホームページ上では未公開です)。
たとえ雑草であれ、農作物であれ、全ての生命、物質には特有のエネルギーがあります。それらは地球全体のエネルギーの調和のごくごく一部を担っているにすぎません。しかし、それらのバランスが現代は崩れ、偏っているからこそ不調和はさまざまな形として表れるのです。人の心のバランスが乱れている今(誰もが何かしら不調和を抱えています。あなたも)、不調和の要素の共鳴は当然生じ、それは肉体にも表れる。
○スギ・ヒノキの植生を御存知でしょうか。北海道・沖縄は? 御自分でお調べなさい。
北海道で多いシラカバが持つエネルギーは「堅牢と柔軟の兼備」です。人の心におきかえれば、「やわらかく深い心を持ちながらもたくましい」というところです。これを読んだあなたは「そうならば、北海道の人だけが、そのエネルギーと反応するのか。シラカバはそこだけではないのに」あるいは「他の地域の人はそのエネルギーと無関係なのか」などと聞くやもしれません。問題は植生の関連だけ、ではなく「その人の心にとって何が苦しいのか」であり「エネルギーの総量」が問題なのです。伝え始めればキリがありませんから、ここでやめますが…。そのエネルギーに共鳴しきれない部分が心にある、と言われたら、それはその人が否定されたことにはなりません。本来そうであるはずの「心」がそれぞれ(個々人の)理由で硬さを増してしまったり、しなやかさを失ってしまったり、という不調和を抱えた、ということなのです。その人のせい、ということでは全くなく、人との関わりのなか、あるいは社会のなかで生み出された心の不調和がそこにはある、ということなのです。
私どもの通信が伝えるのが「人の心」から見てのことではあっても、そこに、「苦しむ者のせい」「悩む者のせい」という見解は全くない、ということ、そしてむしろ、そういう心を抱いた者をどう支え、どう助けていくべきか、あるいは本人がどう意識・意志していけばいいのか、であることはいくつかの項を読んだだけでもお分かりでしょう。まして熟読されたのでしたらば、そこに貫かれている「目的意識」はよくお分かりのはずです。(もしもそれが読み取れないのであるとすれば、あなたに何らかの先入観・偏見がある、と申し上げます)
○「男女によるちがい」はもちろんあります。心のエネルギー傾向は同じではありません。そして心の特徴的な要素は「対になっている」ととらえてよろしい。ホームページの別項をおよみなさい。
○江戸時代云々では、当時の人々の心の状況が現代とはかなり違う、ということをお忘れなく。その時々で人は心をかげらせて生きていますが、「江戸時代」と「現代」とでは人々を取り巻く社会的状況も、抱くかげりも同じものと見ることはできません。求めるものも違います。(もちろんいつの時代も人は「幸せ」を求めるところでは共通ですよ)
○乳幼児の場合は「その子自身の意識・心」というよりも、むしろ「その子の身近な者(父・母を始めとして)の意識・心」の影響を大きく受けます。乳幼児は「心・意識」のうち理性が未発達です。よって「感覚・感情」という、より肉体に近い意識の部分で不調和がおこります。そしてそれだけでなく、乳幼児は身近な者の「心・意識」のエネルギーをそのまま自らの「感覚・感情」のところで受けてしまいます。理性での判断・処理という「エネルギーの回路」がまだできないからです。平易に言えば「心と心がつながっているから」です。ですが、ここでもあなたにはお伝えしておかなければなりませんね。「だからといって親のせいということではありません」と。乳幼児は親たちに心を開いた状態でいるから、その影響を受けやすいのだ、と思ってください。
○「化学物質」は、環境中にしかないのですか?食品にも薬品にも。今や、あらゆるところに「化学物質」はありますね。それらの「化学物質」とは「人間が一定の目的のために作り出してきたもの」です。それは、本来自然界に在るものの「代用」であったり、本来自然界にはないものです。それらに対して反応する、ということは? もうお分かりでしょうが「自分の周囲(自分を取り巻くあらゆるもの)に対する強い違和感」しかもそれが「あるべきではないものに」と思えている場合。ここで、「違和感」ならば、人は誰でも少なからず持つはずだと思われるでしょう。もちろんそうです。ただその違和感がどの程度その人にとって苦しいものかは個人によって違います。発症させてしまうほどのものなのか、そうでないのかは、その人の「心全体」との兼ね合いのなかのことです。さらに言うならば、強い違和感を持っていても、別なところで大きな喜びを得ている場合、エネルギー的には肉体に反映するところにまでは至りませんし、また、その違和感をどの程度自分が意識できているかも個々人によって違います。
通信では「花粉症が日本に多く、化学物質が外国に多い」とは伝えておりません。「日本で特に花粉症等のアレルギーが顕著なのは〜ある時期以降の人々の心の急激な変化に理由がある。日本以外の国での化学物質に対するアレルギーが顕著なのは、その国ならではの人々の心の動きの様相との関連があるからである」です。ここでは言い換えれば、特徴的傾向がある、ととらえて頂ければ良かったのです。
それは、長い歴史のなかで主に西欧米を中心とする国が「物質」を重視して発展を遂げてきた積み重ね――それは、価値基準や受け継ぐ観念につながります。――を持ち、比較において日本は「心」を重視する歴史的流れがある、からだと言えましょう。どちらが良い悪いなどとは申しておりません。あくまでも“傾向”です。そのことが「(化学)物質」に反応しやすいか、あるいは「花粉等(の自然界の物質)」に反応しやすいかの傾向を特徴づける、ということです。しかし、日本においても、価値観は推移しますし、それに基づいて育つ世代においては反応する傾向も変化していきます。その結果、化学物質に反応しての発症が増加する、ということです。
○私どもが事細かにメッセージを伝えるのは、あなたへの回答だけが目的なのではありません。あなたのうしろでこのメッセージを読むであろう、数多くの方々のためです。そのなかのたったひとりであっても、これを目にすることで、自らの症状と心について気づきがもたらされそこに救いや治癒がもたらされれば、それで私どもは役に立てたと喜べます。実際にこのメッセージを受信する二人(飯沼・堀江)も長い期間、スギ・ヒノキ・雑草類をアレルゲンとする花粉症に悩み・苦しみました。しかし、何の治療も修業もなく、現在は「症状」はありません。何かがあるとすれば彼らの「心の状態の変化」です。このことからも「心から病を見ること」(あなたの言うように“心の問題のみ”で通信が語られているわけではないことを、ここで加えておきますが)の意味は十分、彼ら自身が実感するところでしょう。その彼らをアレルギーテストした時、それに「反応」するのかどうかはまた別の話です。あなたは「発症して苦しみ、悩んでいる人」と「反応する人」とを混同してはいませんか?しかし数字そのものが絶対でないことは御承知のうえだと思います。アレルギー症状のある者が全て病院の門をたたくわけではありませんし、特定の国の総人口の何パーセントと出してみても、それはあくまでも抽出したデータです。大切なのは、それを悩み、苦しみとする人々の役に立つことのみなのです。
○「スギ・ヒノキ」の両方がアレルゲンとなっている場合、理由は簡単です。その両方を心の要因として持っているから、です。「人として素直に生き、自分を守ることなくありのままの心で生きたいから」です。スギとヒノキが担うエネルギーの要素が似通っている、いない、の問題ではありません。花粉の形状は似ているかもしれませんが、それとは別です。一見、かけ離れた心の要素であるかのように思えても「心」という人ひとりの全体のなかで見てみれば、つながるもの――求めるもの――の方向性は同じなのですから。
「ブタクサ」などの雑草類について、ホームページを読んで頂きたい。ただ、特に「ブタクサ」には、“排除”のエネルギーが“顕著”だと加えておきます。「イネ科」の牧草類については“一定距離を保つ”というエネルギーです。それは“排除”や“拒絶”という強さを持つまでは至らなくとも、それに近い心のエネルギーの状態です。「踏み込まれないこと」や「深く関わらないこと」です。
○気道に限らず「アレルギー性炎症」全般についてのメッセージはホームページの項にて伝えてあります。それよりもあなたは「霊的要因」という言葉を、どう捉えているのでしょうか。そもそも「霊」とは何なのでしょうか。もちろんそれは「魂」と置き換えることができます。大いなる神の一部として存在するものです。神の愛を分け持つ存在です。そして、それは地上においては、次元を変えて「心・意識」として顕現されています。(さらに地上では、肉体を伴って肉体と共に“存在”します)。もしも「霊的要因」という言葉をどうしても使いたいのであれば、この点を前提にしていなければなりません。つまり「摂理・法則に基づく要因」ということです。なぜなら、霊(魂)は全て、神の摂理に従って存在するものだからです。それが地上の人間のうえには「意識・心・肉体・行動」という次元で表現されるのです。神の摂理が常に喜びを求めての進化の道筋であることは御存知ですね。とすれば、病の原因を「霊的要因」からみるならば「喜びを求める方向に逆行するもの、喜びを求めるための動きをとどめようとするもの」であるのです。
病のなかにある人たちにこの部分だけを伝えたところで、実際的に役に立つとお考えですか。今、病にある人はそれに対する具体的な答えが欲しいのです。なかには、「摂理」から、大いなる喜びにつながる人がいるかもしれません。しかし、地上の人々の多くは、そうではないのです。地上界の今を理解し、それを喜びで満たしていくためにならば「霊的要因」という言葉を持ち出したとしても、それはそれでふさわしい。しかし、今のあなたの意識は、そこまでのものではなく、決して「霊的視野」に立った物の考え方、見方、とらえ方をしているとは言えません。もっと、今、地上で生きる人々の「心」をしっかりと見るべきです。いたわりや思いやりを持って。それこそが“霊的に学んでいる者”の姿ではありませんか。
あなたの質問の動機に澱んだものが混じっていることを私どもは承知のうえでメッセージを送りました。不純な動機を基にして、あら探しをしようとするような者の質問に応えるほどこの二人(飯沼・堀江)は暇ではありません。ここまで事細かに応えるために費やす二人のエネルギーと時間など、あなたには分かりません。しかしそれでもあえてそうするのは、全て「働き」のためです。私どもがメッセージを伝えるのは常に「地上界の浄化」が目的です。それに沿った動機であるならば、いかにそれが細かいことであろうと、個人的すぎることであろうとメッセージはもたらされ、二人は受信に臨みます。
あなたの今回の質問が、本来ならば「一蹴すべきような動機」であったとしても、私どもが応えたのは次の理由からです。
あなたが抱いたような“かげり”によって、私どもの「目的」や「働き」はいささかの影響も受けません。私どもは「貢献」を喜びとする者たちの霊団です。ゆえに、不純な動機による質問であっても、応えることにより「誰かしら」への貢献につながることを確信致します。しかし、これが最後です。受け入れるつもりのない者はそれでよろしい。否定したければすればよろしい。それが今のその人の学びの程度なのだから。私どもの通信に貫かれている目的を汲み取ることはおろか、共鳴することなどとうていできない者には、高級、低級の区別・判断などできるはずもありません。ラベルはりをするのは自由です。真実や本質を見極めることのできない者は、自分のラベルで選んだなかで次へ進むこともできず、選んだものからすら学びとることはできない。
私どもの通信が完璧だなどとは申しません。私どもも伝え手であり、学ぶ途中にあり、法則・摂理の全てを理解できるはずもないからです。そして、地上で受信するこの二人が、私どもが送る思念のかたまりを、丸ごと完全に言語化できる由もありません。完全なものを目指し、自分たちのエネルギーを高め、通信の回路をより広くしていくために彼らもまた学び続けているのです。シルバーバーチに学ぶ、とあなた はおっしゃいました。かの霊が伝えていることの「本質」をあなたは全く分かってはいません。これを機に地上に生きる人間として、そして至らぬ存在として、学びの途中にある者として謙虚に読み返すことをお勧めします。
私どもはあなたの動機のくもりはいずれあなたが越えていくもの、と認識します。学びが進めば進むほど、自らの動機と至らなさに目がいくからです。その時がいつ来るのかはあなた次第です。シルバーバーチに学ぶ、その一歩目は、そこにあるとお伝えし、通信を終えます。
http://www.d5.dion.ne.jp/~susa