心霊学研究所

(期間限定)悠々塾問題特設掲示板

悠々塾問題専用の期間限定特設掲示板。過去ログ(その3)です。

過去ログの目次][心霊学研究所トップページ


1043  残念ですが・・・
名前: 有希  投稿日: 2001年09月09日 (日) 01時55分17秒

まさかとは思いましたが、とても速くメッセージを下ろされたんですね。
私が、 「では、私の見せたくない動機がどういうものかを示していただきたい。」
    「本当はこうありたい」と願う内容を導き出していただきたい。」
と書いたことへのメッセージだけ伺えるかと思っていましたが、たくさん枝葉がついてきたのには少々驚いています。枝葉ばかりで肝腎なことが書かれていないんですね。

一言いえば、これでもかこれでもか、というように十言返してくる人に似ていると思いました。
メッセージを下ろしてくる霊はそんな霊なんでしょうか。

私の心の内について細かく出してくださったようですけど、今はただただ呆然と言葉の羅列を見ているだけです。
今回は細かいコメントは差し控えます。
ここまで私自身が認識していないことが出てくるならば、潜在意識の中にはそういうものがあるかもしれません、としか答えようがないからです。

でも、3つだけコメントさせていただきます。

霊界の事実を知るものが、「肉親の死に際して、何の感情も湧かないのであれば、その自然な発露を阻むものがあるからにほかならない。」と切り返されるのですから、果たして本当に霊界からのメッセージかと再度疑ってしまいました。

私の父親の青年期以前は、父親自身からは直接知らされていませんでしたが、葬儀の日に父の姉妹からいろいろ聞いてわかったことがいくつかあります。それを聞く中では、父に対する指摘は的外れでした。

>  彼が地上を去る前に「手を合わせた」としたら、それは「感謝」ではなく「謝罪」である。

実は、ここは投稿した後、再度自分のを読み返してみて、なぜここにこんなコメントを付けてしまったのか、と反省していた箇所に対するメッセージの言葉です。読み方によっては、私に手を合わせたと勘違いしそうな表現になってしまっていましたから、申し訳ないと思っていたところでした。まさかそこにレスを付けられるとは思ってもみませんでした。
詳細を言えば、この手を合わせるのを見たのは私の母であって、私ではありません。ですから、当然私に対して手を合わせたわけではありません。私はその時浜松にいて、父のいる名古屋にはいなかったんです。ですから、父が手を合わせる場面を見ていないんです。母の話を聞くかぎりでは、お参りをするような感じで手を合わせて顔は上気し、とても有り難がっていたと言っていましたから、私は守護霊に対して手を合わせていたと思いました。

この手違いは私が意図的にやったことではなく、配慮したにもかかわらずそうなってしまったのですから、ご承知おきください。

これでMr.しろさんが検証に立ち会うまでもないかと思います。
悠々塾のメッセージはほとんど何も言い当ててはいませんし、むしろ、地上の言葉に惑わされてメッセージを出してくるぐらいですから、そうしたことを踏まえて判断されるのが一番かと思います。

もし悠々塾が、ほとんど当たっていなかったという私のコメントに対して怒りをおもちでしたら、別の人にメッセージを出して言い当ててあげてください。
Mr.しろさんが望んでおられるように、彼へのメッセージを出されてはいかがでしょうか。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98)ppa5101.wbs.ne.jp


1042 素朴な質問
名前: こども相談室  投稿日: 2001年09月09日 (日) 00時43分22秒

悠々塾の方たちと有希さん、しろさん、通行人さん、アラムさんたちの一連のやりとりを
はじめは「なかなか勉強になるわい」と思って拝見してきました。特にしろさんの書き込み
はとても勉強になりました。決して悠々塾を中傷しているとは思いません。厳しい内容
では有りましたが私は悠々塾だけでなくすべてのスピリチュアリストに向けられた
メッセージと受け止めました。

このごろは有希さんへのメッセージのあたりからだんだん悠々塾への信頼が薄れてきてしまっています。

素朴な疑問をひとつ。
霊界通信を検証するのにしろさんが誰であるのか聞かなければならないのですか?
その人について何の先入観もない方がメッセージを受ける人の顕在意識が入らないから、
より信頼できるというものではないのですか?
占い師ではないからというのでは納得できません。それだけのメッセージを降ろすからには
すべて知っていて当然なのではないのですか?

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; AOL 4.0; Mac_PPC)spider-tf074.proxy.aol.com


1041 悠々塾さんのメッセージに関して
名前: アラム  投稿日: 2001年09月08日 (土) 23時58分12秒

悠々塾さんのメッセージを読んでみて、スピリチュアリズムの霊訓、霊的指導ではなく、ニューエイジ系の過去世や過去の想念記録を霊が読み取るリーディングの要素が強く出ているように思いました。

リーディングの場合は霊的親和度が高まるほどその正確性が増していきますので、親和性がそれほどでもない場合には正確なものを伝えるのに困難が生じるということはないのでしょうか?

正式に絆もつながっていない人でも確実に正確な情報が入手できるのでしょうか?

また、霊界から見たままの現在の状態を伝えるのと想念記録から読み取った過去の情報を伝えるのとが混ざってしまうようなことはないのでしょうか?

メッセージには、過去にこういう出来事があったのでこういう心の問題が生じたという形が出てきていますから、こうした部分は正確であったかどうかをメッセージを読んだ当人には判定ができます。そうした人たちに正確であったかどうかを尋ねて、その答えを集めていけば、その的中率がはっきり出てくるでしょう。

それさえ出てくれば、わざわざ当て物実験をする必要はなくなると思います。

ただ、「このメッセージを受け入れるかどうかは当人の自由である」とのことですが、「メッセージを受け入れることができないのは当人の心の状態、問題のせいである」と述べられているように受け取れますから、霊団の方はリーディングに100%の自信を持っていることになりますね。

「Yさんへのメッセージ」に関しては「自称スピリチュアリスト」という決めつけ発言が出てきました。
スピリチュアリストというのは「理想的なスピリチュアリスト」でなければそう名乗ってはいけないものなのでしょうか?
それを目指して霊訓を学び、それを指標として努力している人はスピリチュアリストとは言えないのでしょうか?

「その情報に全く思い当たる節がなく、的外れなもの」、その時、スピリチュアリストはどうあらねばならないと述べられているのでしょうか?

「謙虚」で「真摯」で「公正公平」に「もっと柔軟かつ広い目で」

そして、導きの言葉を認められないのは「みせたくない動機」、「かげり」があり、それを自己正当化しようとするからだ と述べられています。

これでは、「メッセージを受け入れるかどうかは当人の自由である」と述べられていますが、「信じて、素直にこのメッセージを認めなさい」という真意があることになります。

「認められないのであれば、自分の理性が納得するまでは納得しなくてもかまいません。自分の理性にとことんまで照らし合わせてください」とは述べられていないのですね。

疑問を持つのではなく、十分に納得できるだけのものを提示したにもかかわらず、否定的な疑い、不信をもって接した場合にはインペレーターさえそれをたしなめましたが、そこまで至るまではその理性の検証、疑問を有することを好ましいことであると容認しています。

こうしたことを霊団の方は認めてはいないのでしょうか?

この私の意見、感想が私の理解の不足から出ているものと思われましたなら、どうぞご指摘ください。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98; Win 9x 4.90)kmts1DS46.isk.mesh.ad.jp


1040 Yさんへのメッセージ 4
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月08日 (土) 21時48分27秒



○あなたは自分の父親のことを許すことができていない。感謝という言葉をつかってはいるが、その一方で深いわだかまりを解くことはできなかった。
 死の意味を知り、肉体や地上生活への執着がなくなったとしても、「人間の情」は地上に生きる者には消すことのできぬもの。肉親の死に際して、何の感情も湧かないのであれば、その自然な発露を阻むものがあるからにほかならない。
 あなたが父の「心」を癒した、と言うのであれば、また、何のわだかまりもない、と言うのであれば、互いの間に流れているものは、「父と娘の情愛」であるはず。そこから発せられるはずの言葉や振る舞いがなかったのはなぜか。

○あなたの幼少期の「記憶」がいくつに遡るかは別として、トラウマによって父親への嫌悪感が生じたのであれば、それ以前はどうだったのか。それをあなたは見ようとはしない。それだけのことである。
 しかしながら、あなたが父親の「心」について分かっていこうとする「柔軟な心の目」を持っていたのなら、彼の言動のもとになったところまで思いやることができたであろう。
 彼が、あなたが「頑張る」のを嫌がったのはなぜか?
 「彼は、頑張っている自分を認めてもらったり、ほめてもらったことがなかった」からである。あなた同様、そうしてほしくてもそうしてもらえない環境で育ったのである。そこで傷ついた彼が、「まじめさ」や「一生懸命さ」を否定し、初めから、そうでないように振る舞おうとしても、それは致し方のないものであった。求めているものが与えられないなかでは人はあきらめていくのか、形をかえてさらに求めるのか、のどちらかになる。彼は前者を選んだのだ。「結局、頑張っても、どうせ分かってなどもらえない、認めてなどもらえないのだ」という失望は、意欲や向上心を奪う。せっかく与えられている能力ですら、それを花開かせる前に放棄することになる。そしてそれだけでなく、何かにつけて、責任を押し付けられるなかでは、さらに気持ちは萎えていく。うまくいかないこと、困った事態、失敗などがあった時、「彼のせい」にされてしまうことが続くなかにおいては。
しかし、それでも人の「願いや欲求」はその人のなかにあり、外へ出たがる。彼が高圧的な態度や物言いにそれを表現するしかなかったのはそれで理解できよう。
あなたが「頑張っていた自分の心」をありのままに見ることができないのは、「頑張っていたのに認めてはもらえなかったこと」を許せないからである。頑張っていた自分を見てしまえば、同時に、認められなかった寂しさや悲しさまで見ざるを得ない。その寂しく惨めな自分の心を見るのが嫌なのである。
「自分はたいして頑張ってはいなくとも、ここまでできてしまうんです。ここまでできました。」その形にしてしまえば強い自己肯定や評価を求める自分という見たくないかげりを見ずにすむからである。
 彼が地上を去る前に「手を合わせた」としたら、それは「感謝」ではなく「謝罪」である。しかしそれすらあなたは自分なりの思いのなかに組み入れてしまった。

○「自らに癒しの力があると知っている」のだとしたら、それを苦しむ人のために少しでも役立てようとするのが、「スピリチュアリズムの教え」にかなったことではなかったのか。「知りながらそうしなかった」としたら、そこにどういう心があったのか。苦しむ人を目の前にした時、「肉体より心」などという意識は飛び去ってしまう。それが「人の心」であり「思いやり」であり「情」である。その、やむにやまれぬ思いこそ、癒しの根本であるはずなのだ。
 「知りながらそうしなかったこと」についての自分なりの理由をいくつ並べてみても、「本来すべきだったこと」を打ち消すことはできない。

○学びを重ねる、とは自らの心の光をさらに輝かせるという側面だけではない。自らの心のかげり(至らなさ、過ち)を見つめ、詫び、それを光に変えていく側面の方が難しく、それだけに重要なのである。自らのかげりをそのままにしておく、ということは、そのかげりの次元と共鳴する幽界の影響を受け続けるということである。それがあなたの場合は、「自己肯定」であり、「評価を求めること」であり、「自分より力のある者を妬み、認めまいとすること」である。これは以前も伝えたように、あなたの「見せたくない動機」である。これらのかげりをあなたがすでに越えたのであれば、あなたの心は、公正公平であり、寛容であり、広く受け入れる心にあふれ、力を持つ者に対しては素直に認める、そしてそれを心から喜べる、というようになっているはずである。くだらない詮索や自分には〜ができるという主張をすることもない。そして、父親との関わりに関しては愛情のこもったつながり方ができているはずである。母親に対してだけでなく。いくつものかげりをすでに越えたならば、誰に対しても愛情深く関わることができるはず。なぜなら、「魂の成長」とは、「愛情を、どれだけ深く、広くしていけるか」なのだから。

○「私が父親を許せていないなんて言われるのは絶対に嫌だ。誰にでも優しい私でありたい、そう思われたいのだから。手を差し伸べるなんて、できるわけがない。そんな気にはなれなかった。それに、私が何かしてもどうすることもできなかつた。そんな状態じゃなかった。どうせやってみたって、できるわけがなかった。やってみて効果がないのは困る。しないほうがましだった。どうせ、むだなことだったのだから。私は悪くない。間違っていない。」
 「私が頑張って、今の私になったなんて思われたくはない。私には力が備わっているんだから。努力して分かっていったんじゃない。そういうことが分かる人間なのだと思われたい。いろんなものが与えられている人間なのだと思われたい。幸せな人だと思ってほしい。」
「愛情を交わし合う、なんてことはよく分からない。それは知られたくない。寂しい人だなんて思われたくない。私は喜びに満たされた人だと思われたい。」
「妬む自分、うらやむ自分は見られたくない。誰にでも優しい、思いやり深い人だと思われたい。だから、自分より力のありそうな人、力のある人のことは認めたくない。そういう人は嫌だ。」
 今のあなたの心の姿である。しかしそれは「願い」の裏返しなのであり、自らのかげり(動機)をありのままに見ることさえできれば、願っている姿に近づいていけるはずである。

○霊界側の計画があるとすれば、「浄化」にほかならない。救いを見出し、喜びにつながったはずのもの(あなたの場合、スピリチュアリズム、だということだが)を、自らの心のかげりを正当化するための道具にしてしまっている者に気づく機会をもたらすための。救いを見出し喜びにつながったのであれば、その流れに沿った「心」で生き、それを言動に反映させていくのが、その人の進むべき方向である。しかし、その喜びを私(わたくし)せんとし、全て分かったかのように言い、振る舞い、謙虚さをなくしていくことは、地上界のかげりをますます深めることになる。それらを「浄化」することが、今回の霊界側の計画、と言える。
 この二人に「野心」があるとすれば、それは「地上界の浄化を推し進めること」。しかしそれは、こちら側の計画に沿うものであり、何かを私せんとする動機が全くないことから、「野心」という言葉は、そこではどうしても当てはまらなくなるが・・・。個人的な「野心」を持つのは、自己肯定、自己評価、を求める者。
 働きのうえでの「野心」とは、神のこころを顕現させようとひたすら前へ進もうとする心。彼らの「野心」は、これに当てはまるのである。
                       (2001.9.8 受信)

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)SANcc-03p63.ppp.odn.ad.jp


1039 通行人さんへ
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月08日 (土) 18時42分16秒

こんにちは。

通行人さん
あなたは私の問いにまだ答えていない。
あなたが悠々塾をカルトばりの狂信団体と断じる根拠は何なのか。
何の根拠もなく、ただ憶測で言ったのなら、あなたの発言はそれこそ「社会的常識もしくは日本国の法律に反する」おそれがあると言わざるを得ない。

「一般論を述べたに過ぎない」などと言い逃れは許されない。
あの発言は一般論ではなく、明確に悠々塾を論じる文脈の中での発言だからだ。

答えたくないなら、答えない理由を述べてほしい。
そして、「口がすべって言い過ぎた」というのなら、悠々塾に謝罪しなさい。

あれだけ他人を傷つける言葉を吐いて、そのままうやむやにできるなどと考えるほどあなたは常識のない方ではないはずだ。

説明を乞う。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.01; Windows 98)itbs082n013.ppp.infoweb.ne.jp


1038 公明正大に
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月08日 (土) 15時49分00秒


ペーパーバーチさん、通行人さん、

何をしゃあしゃあとしているのです。
何もなかったかのように。
あれだけのことを言いながら。
自分の言動に責任を持ちなさい。
いくら自称でもスピリチュアリストを名乗るからには、
せめてごくごく普通の人間としての良識は持ちなさい。
自分の発言に責任を持ちなさい。

Mr.しろさん、

私たちが受信してきたメッセージの「検証」の件、
具体的に進めていきたいと思います。
お互い公明正大に、堂々といきましょう。
あなたがどなたであるのかは知りませんが、
私情からではなく、純粋にスピリチュアリズムのことを思ってのご発言であるならば、
あなたにも当然協力していただけるでしょう。
いや、あなたには「検証」に立ち会う責任がある。
その前に、あなたのお名前、スピリチュアリズムとの関わり、活動など、
予備的なことを明らかにしていただきたい。
今までのあなた方の発言はスピリユアリズムという大義、大道を背景にしていると、
あなた方は主張してきた。
それらの主張が見るからに無責任な匿名性のなかでなされ続けたのは、奇妙なことであった。
スピリチュアリズムを愛し、崇高なるその波動と一体化しているかのように言うのであれば、
何一つ隠蔽できないのが本来の霊界だと知り、誰よりもその世界を知っているかのように言うのであれば、
最低限のことは明らかにした上で、私たちの受けてきた膨大な「霊界通信」の「検証」に協力してほしい。

罵詈雑言の限りを浴びせたままで、ほっかむりを決め込むようなことだけはしてはならない。
何よりも、あなた方が愛するスピリチュアリズムのために。シルバーバーチに学ぼうとしている同志のために。そしてもちろん、あなた方のために。私たちのためにも。
スピリチュアリストの名にかけて、明らかにしてほしい。

今回のコメントに対しては、揶揄や屁理屈は無用である。
もっともらしい言い訳、言い逃れも、無視も通らない。
正面から、事実のみ答えていただきたい。
この国のスピリチュアリズムを、口先だけの低級霊に繋がるものたちの影響下から解き放つために。
あなた方以上に、私たちは本気なのだ。

ペーパーバーチ氏、 通行人氏、 Mr.しろ氏、
ご回答いただきたい。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)SANcc-03p61.ppp.odn.ad.jp


1037 とんでもなく長いですが・・・
名前: 有希  投稿日: 2001年09月08日 (土) 13時40分05秒

一通目のメッセージに対してです。メッセージそのものに関してはすでに悠々塾の掲示板に掲載されていますから、それに対して私が書いたコメントを掲載します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(01/02/21)
メールをありがとうございました。
私も個人的には「悠々塾」さんのページはとても真面目で真摯なので好感を持っています。

一つお聞きしたいことがあります。
そちらのインスピレーションはどのあたりの霊から来てるものでしょうか。
それだけが気にかかります。

頂いたメッセージをじっくりと読みましたので、それについて率直に私の感覚を述べさせていただきます。

> ○「見えない世界」に興味を抱き、あるいはそこに惹かれるものを感じ、あるいは喜びを見出す。
> 今の自分(今までの自分)は、どこかまだ本当の自分と重なっていない、と感じている。

確かに以前はそういう感じをもったこともありましたが、今は重なっています。
「見えない世界」に惹かれるというより、事実そのものと確信していますから、興味があるとかないという段階は過ぎていると思っています。私の中では地上も霊界も一本の線ですでに繋がっていますから、見えない世界ではなく、まだ体験していない世界(まだ生きていますから)にすぎません。

> 自分のことを「本当に」分かってくれる者がいないと思っている。

ここは全然違います。
私のことを私以上にわかってくれている人はいます。
これは思いこみで言っているのではありません。

> まだ知らない「何か」を確かめることができるような気がする。

それはそう思います。
未来は未知の世界ですから当然でしょう。

>  ――――これらのことにあなたは自分の姿を重ねるのではないでしょうか。「何か」
> を感じる自分や、「何か」を分かっていく自分があっても、その喜びを共有できる人
> たちが長い間見つからなかったのではないでしょうか。

喜びを共有できる人がいないと感じていたのは27歳の時までです。
それからすでに20年経っています。(現在47歳ですから)
私の回りには同じ体験、同じ喜びを共有できる人が一人や二人ではなく、何人もいます。
ネット上でも数人はいます、といってもまだまだ私の望む範囲の共有ではありませんが。

> 「多くの人とつながっていくこと」は、現代は容易にできます。しかし、深い共感や
> 分かり合える喜びはなかなか手にできるものではありません。それを人一倍寂しく思っ
> てはいなかったでしょうか。

20年前まではそうでした。
今は寂しさどころか、感謝と喜びでいっぱいです。

>  霊的真理を学んでいくことは、あらゆる地上的なこと、あらゆる自分なりの感情を
> 越えて、確かに自分を守り導き、全てを受け入れてくれる存在を確信し、そのことに
> よって、自らの人生を見る眼差しが変わるところから始まります。

それが確信できたからこそ変われました。

> そして、その確信を、共に地上に生きる「人の心」のなかにも見出せた時、人は人と
> 共に生きることを喜びとできるのです。信頼も、尊敬も、共感も、それらのなかに含
> まれます。

そうですね。
深く深く、そう感じています。

> ○あなたがたくさんの知識を得ながらも、どこか自信を持てずにいたのは、本来つな
> がっていくべき「喜び」に、まだ触れられずにいたからでした。

自信がないとは何に対してでしょうか?
能力ですか? 経済力ですか? そういうのでしたら人より優れているかどうか、という意味では自信はありません。しかし、霊界は私が生きて行くために必要なものは全て与えてくれています。たくさんは与えられていませんが、回りの人に申し訳ないと思うほどに与えられていると実感しています。そういう意味では自信があるとか、ないというのは私の感覚の中にはありません。

>  しかし今回あなたがひとつの「いのち」と関わり、その「いのち」を癒したことが、
> あなたには大きな転機をもたらすことになった、それに気づいているでしょうか。

具体的に何を指していらっしゃるのでしょうか。
私の地上での目標は「魂の成長」です。自分も、そして関わる人全ての成長です。
その中には当然「いのちの癒し」も含まれています。それに対して全力とは言いませんけど、自分の人生をかけていますから。

> この先あなたが関わるたくさんの人々、今まわりにいるたくさんの人々に対して、同
> じような「思いやり」「優しさ」の心をぜひ向けて頂きたい。もちろん「今までもそ
> うしてきたつもりだった」と思われるでしょう。しかし、同じようでも違うのです。
> 「通ずるのだ」(分かってもらえるのだ)という確信・実感を持った後では。
>  実際の肉体的な病を持たない人でもきっとその人の「心」が安らいだり、元気が出
> たりするでしょう。何かの痛みを訴える人には躊躇なく触れてあげてください。願い
> を込めて。もしも一度では変化がなくとも、がっかりせず、また試みてください。
> “その思い”が大事なのですから。

こうした内容はすでに無意識のうちに人に対して感じているものですし、実行しているつもりです。
同じようでも違うと言われるのなら、もっと具体的に示していただかないと私にはわかりませんが。

> ○今回実感できた喜び、癒しのエネルギーということ、それらを役立てていこうとい
> う意志を自分のなかで強く持って頂きたい。癒しの力とはその人の意欲や思いによっ
> てさらに強くなり、変化するものなのです。癒しもまたスピリチュアリズムの実践の
> ひとつ。それを経験していく喜びが新たにもたらされたのです。

こうした経験、実践はずっとし続けてきました。
それ以上に何をおっしゃりたいのでしょうか。
20年前にこの内容を知っていれば私の人生は大きく変わったでしょう。
でも、今の私には過ぎ去った自分を見るだけです。

>  メールの返信を書こうと思いながら、悠々塾の飯沼・堀江からこの通信を送ってく
> ださい、とのことでした。掲示板に投稿したのは私(林)ですが、役割の違いと思っ
> ています。霊団からの受信は堀江、検証は飯沼の役割。私はただの伝え手です。まだ
> 一度もお会いしたことのない私たちに違和感、不信感を持たれても当然だと思います。
> ですが、このメッセージと有希さんと違えばお伝えください。

わかりました。

>  掲示板で私見を控えさせて頂きましたが、つい最近まで自分の蒔いた種を刈り取ろ
> うとはせず、自分の行為・行動・発言の責任をとろうとはしなかったからです。そん
> な自分が公の場で発言することはできません。ごめんなさい。

気にしないでください。
林さんたちのしていらっしゃることを必要とされる方はたくさんいらっしゃると思います。
無私の思いでたずさわっていらっしゃる純粋さは私も見習わなければと思っています。

> 有希さんのHPは個人的には好きです。優しさが伝わってきます。(お世辞ではあり
> ません)これからもこの働きに邁進ください。

ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記の1通目は唖然としていながらも、否定するコメントを書き続けている自分と自分と一致しないメッセージに対すること両方に、正直言ってイライラしながら書きました。

このコメントを書いて送ったら2日後に次のメッセージが送られてきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(01/02/23)
「再度、有希さんへのメッセージです。」

○あなたが言う「魂の成長」とは?
 あなた自身は、どういう自分でありたいと願うのか。どのように「成長」していく
ことを目指しているのか。
 あなたが自らの内に持つ「こうありたい」という願いをあなた自身は明確に意識で
きているのかどうか。
 私どもからのメッセージをあなたに送るにあたっては、“どの霊”などと身元を明
かす必要はない。ただ、あなたの「魂の成長」を願い導く霊、指導霊、からのインス
ピレーションとだけ理解してもらえばよろしい。

 霊的な世界に確かにつがっていると感じるのであれば、おそらくあなたは何の不安
も恐れも持たずに日々を暮らし、人と関わることができるのでしょう。全て喜びのな
かで。自分に与えられている「人を癒す力」を機会あるごとに惜しみなく注ぎ、人に
喜びをもたらしてくれているのでしょう。
 さまざまな悩み、あらゆる恐れや不安を抱いている人々に対しては、「何も心配す
ることはない、全て導きのなかにある。力を尽くし、心を尽くして精一杯のことをし
たならば、必ず“ふさわしく”導かれる」と伝え、「安心」や「希望」をもたらすこ
とができているのでしょう。
 あなた自身は日々生ずるさまざまな出来事に心をかげらすことなく、いつも心晴れ
やかでいてくれるのでしょう。

――――これが、あなたが霊的世界とつながり、日々を喜びのなかで生きるならば、
見せてくれている姿のはずです。
 しかし、残念なことに、地上に生きるほとんど全ての者は、喜びの心のみで満たさ
れてはいません。いつも些細なことで心を揺らしたり、心をかげらせてしまいます。
しかし、霊的な世界に貫かれる「全ては喜び」を実感しているならば(実感している
からこそ)、いつでもそこに心とらわれることなく、次へと進んでいけるとも言えま
す。
 あなたは今の自分のあり方、自分の心の状態、“今の自分”を見た時、「これが本
当の自分、本来の自分だ」と断言できますか。「今を喜ぶことができていること」と
「本来の自分として生きていること」は違います。本来の自分とは「あなたが持つ心
の力(エネルギー)をそのまま“全て”発揮してこそ」のあなたです。
 人に対する優しい心、人に向ける思いやり、人をいたわる心、それらを人に注ぎつ
つ人と関わっているとは思いますが。が、まだまだ力はあるのです。それは、今のあ
なたが不十分という意味ではありません。あなた自身の気づいていない力がまだまだ
表に出ずにある、ということです。
 それが引き出されていくきっかけとなるのが迷い猫を癒したところにあったのです。
「相手を思う心」が「癒しの力」と直結することを実感していくきっかけです。それ
を分かってもらうための、そしてあなたが、内に宿した力をさらに発揮していくため
の、きっかけとしてもらうメッセージだったのです。

○霊的世界につながる道筋は“ひとつ”ではない。自分が「これ」と思うものだけが
「ただひとつのもの」ではない。あらゆるつながり方があるということは、あなた自
身の許容範囲、受容の通路を広くするうえで理解し受け入れていかねばならないとこ
ろ。それはすなわち、自分が好むと好まざるとにかかわらず、“関わる人”全てにエ
ネルギーを(喜びを)もたらすことに反映されるのだから。

○あなたが「過去のこと」としている「心の姿」(「寂しかった自分」、「分かって
もらえないと思っていた自分」)について伝えたことについて。
 あなたが「今を喜べていること」「今が満たされていること」はよく分かります。
それまで知らなかった世界に触れたところから、「喜び」が始まったのでしょうから。
それによって「それまでのあなた」が変わり、思い方も考え方も、人との関わり方も
変わっていったのでしょうから。――――しかし、何度も伝えたようにあなたが本当
の意味で満たされていくのは、あなたのなかのまだ表に出ていない力を発揮しながら
のことです。それは、それまでの自分とは違う自分が現れ始めることでもあり、あな
たの「心」がさらに開かれていくことでもあるのです。そこで味わうことのできる
「喜び」は、まだあなたの知らないものです。
 その喜びをぜひ手にして頂きたい。そしてその「喜び」は、「自分が嬉しかった、
という喜び」ではなく、「人と共有できる喜び、であり、人にもたらす喜び」でもあ
ります。
 それらの世界が広がった時、改めてあなたは思うでしょう。それまで自分はこうい
う幸せを味わったことはなかった、と。こんなふうにまで人と分かり合えるとは思っ
ていなかった、と。
その時になって、これらのメッセージの意味も分かってもらえることでしょう。

*** *** ***
 
 以上のメッセージを再び送らせて頂きます。有希さんに「無理に分からせよう」な
どとは全く思っておりませんので御気分を害されませんように。あくまでも「情報の
ひとつ」としてお受けとめください。
 いずれにしても、これからもよろしくお願い致します。

(飯沼・堀江)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この2通目に対してはコメントを送っていません。ここであえて言えば、2通目は20年前ではなく、10年前ぐらいにはすでに体験していたことが書かれています。そういう意味では当たっています。私をよく知る人なら容易にわかる事柄でしょう。でも、メッセージの内容としては、私がまだ体験していないことが前提でしたから、コメントする気が起こらなかったのです。

次に三つめのメッセージです。これは悠々塾の掲示板に掲載されていますから、あえてここに掲載する必要はないと思いましたから、それに対するコメントの方を掲載します。長くもなりますしね。
一つ目と三つ目のコメントのついていないメッセージが必要なら、ペーパーバーチさんの方で載せていただければと思います。

三つ目の「ある女性へのメッセージ 」と称する内容は、私のHPを読んでいらっしゃる方ならおわかりかと思いますけど、先日父が亡くなりまして、それについて触れられています。ただ、もし私がHPに父のことを書いていなかったとしたら、それでもこうしたメッセージは下りたんでしょうか。最初読んだ時、その疑問が先に立ちました。

そして、父親とのことですけど、今回のは全く違っているとは言いません。
そうしたことも含めて、正直に、嘘隠しなく言わせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

> ある女性へのメッセージ
>  自らをスピリチュアリストと称する彼女が、もたらされた情報をどう受けとめ、どう学びの材料としていく
> のか、は彼女の反応から誰の目にも分かるものであろう。そしてその情報に全く思い当たる節がなく、的外れ
> なものであった時、それに対してどういう言葉を向けていくかによって、その人の心の位相が分かるのである。
> 彼女が自らをスピリチュアリストと称するならば、まずは謙虚でなければならない。口先だけでなく。自分の
> 姿を見るにあたっては真摯でなければならない。合理化、正当化、などはもってのほか。公正公平でなければ
> ならない

自分では謙虚にと思っていても、実際は気がつかないところで傲慢になっていることは多々あると思います。

>  ふたつのメッセージが彼女に示すのは、「もっと柔軟かつ広い目でもってあらゆる事と接するように」と
> いうこと。それが今までと今の彼女が学びを進めていく鍵となるのだ、ということ。そしてこれは彼女に対し
> てだけでなく、「自称スピリチュアリスト」に向けられたものでもある。

なぜか、宮崎さんが投稿された内容と似ていますね。どうしてでしょう。

>  彼女に対してもたらされたメッセージにどこか不純なものがあったろうか。訳の分からぬ戯言が並んでいる
> のだろうか。

不純だとは思いませんが、全体的にクリアな感じを受けません。
それは、表現の仕方であって、わけのわからない戯言が並んでいるのとは意味が違うとは思いますが。

>  今の彼女を認めたうえで、彼女がさらなる喜びに近づき、より貢献できることを願っての導きの言葉とは認
> めないのであろうか。

認めないのではなく、そうは思えないのです。
なぜ思えないかというと、最初のメッセージがあまりにも私自身とかけ離れていたためです。
例えば、金銭に全く困っていなくて今の生活に満足している人に対して、あなたはお金がないと嘆いている、もっとお金があったら心も潤うのに・・・と言った類いの的外れの感じと似ています。
内容がことごとく違っていて、それでいて私に宛てた内容を認めよと言われて誰が認められるでしょう。
「さらなる喜びに近づき、より貢献できることを願っての言葉」とありますが、それはシルバーバーチを理解すればメッセージで言われるまでもなくわかる事柄です。
そして、何より、神と霊界のための善き道具になりたいと望んでいるのは私自身なのですから。

>  善意、正直、素直、思いやりという心を動機とする言葉を悪意、偽り、作りごと、混乱と受けとり、そう
> 表現してしまうのはなぜか。そこに彼女の見せたくない動機があるからにほかならない。

では、私の見せたくない動機がどういうものかを示していただきたい。
暴露していただいてもかまいません。
私の動機には自分でも気がついていない不純なものがあるであろうというのは思います。。
とても完璧に清いとは言えません。
地上にいる間はものごとは相対的であり、ことに地上の人間の心に完璧な利他愛など存在しないと思っています。
ましてや、私はまだまだ未熟であり、その動機もまだまだ漠然とした方向を向いているだけです。
ですから、「見せたくない動機」が何か、私にわかるように説明していただきたい。
それは今後自分で気がつくでしょう、というような曖昧なものではなく、確かな答えを頂きたいと思うのは間違っているでしょうか。

> しかしそれは彼女の
> 苦しさであり、寂しさであり、悲しさである、と理解すべきである。「見せたくない動機」のその奥には、
> 「本当はこうありたい」という輝きへの強い欲求があるのだから。

私が「本当はこうありたい」と願う内容を導き出していただきたい。
それが明確に出るのなら、この言葉をそのまま認めることができます。
ただ、「本当はこうありたい」と願っているのは確かですけど、それは「見せたくない動機」には繋がっていないと思います。なぜかというと、私はすでに見せているからです。

> ○自分のなかにある強烈な「自己肯定」を彼女ははっきりと自覚しているはずである。周囲に対しては評価を
> 求めてしまう自分がいる。

確かに以前は周囲に対して評価を求めていた時もありましたが、残念ながら、今はそういう気持ちはとても薄いものになっています。というよりむしろ評価されたくないと思っています。そういうことにはすでに意義を感じなくなっている、いえむしろ以前そういう心を持っていた自分がこの上なく恥ずかしいかったからにほかなりませんが。

> 自分以上に「力」を持つ者に対しては違和感を持つ。特に自分にない力に対しては妬みを伴って。

誰しも嫉妬や妬みはあると思います。
しかし、残念ながら、そういう気持ちははるか昔に多少感じたこともありますが、今はほとんどありません。
そういう感情を持つ自分のおろかさに気がついた時から、私にはほとんどそういう感情はなくなっていきました。嫉妬とか妬みは、20代にはほぼなくなっていましたから。
誰でも、生まれつきの資質というものがありますから、例えば私より能力的に優れている人はとてもたくさんいるのは誰にでもわかることです。ではその能力がなぜもたらされているのかと考えて、その答えを持っているなら、妬みの湧きようがないはずです。ただし、いくら立派な人でも、地上にいるということは未熟さも同時に持っているということですから、未熟さは未熟さとして認識します。玉石混合しないのが私のモットーですから。
同じことは自分に対しても言えるわけで、私の中にも他人より優れているといわれる点もあれば、圧倒的に劣っている点もあります。しかし、なぜそういう極端なものを持っているのかという本質を知ったなら、劣等感に陥ることも、優越感に浸ることもなくなるわけで、ましてや、妬みや嫉妬をもつことはなくなるでしょう。

>  自分の立場を悪くするようなことは絶対に避けたい。否定や批判は嫌だ。ほめられたい。

否定や批判は確かに好きではありません。
これは肯定します。
でも、褒められたいとは思いません。
褒められることは悪い気はしませんが、それほど好きではありません。
私にとって褒められるということは、自分の足りなさが浮き彫りにされることですから。

>  これらの「かげり」は誰でも抱いたことのある感情だと言ってしまえばそれまでのこと。しかし、言動の
> 動機にいつもこれらが混じっていることを分かりながら、全く自分はそうではないと振る舞う、さらにはその
> 自分を見つめよう、あるいはそこから変わっていこうという意識ではなく、むしろ、それを正当化するところ
> に問題があるのだ。そのことが人を傷つけ、汚し、おとしめていることが分からぬはずはない。

正当化するつもりはありません。
そのことが本当に人を傷つけ、汚している、おとしめているとするなら、それは私は改めなければならないし、もっと自分を見つめなおさなければならないことだと思います。

しかし、相手のためを思って、相手のために発した言葉が、結果的にその人を傷つけることはよくあることだと思います。私も心無い言動によって傷ついたことは何度もあります。でも、それは傷つけた相手が悪いのではなく、傷ついた自分に問題があったからだといつも認識します。逆を言えば、私が傷ついたならその人は私を傷つけた悪い人になってしまうし、私が傷つかずにそこから何かを得たならその人は良い人になるわけです。私の心の持ち方一つでその人が良い人にも悪い人にもなってしまう。そして、自分が傷ついたと言えば更にその人を傷つけることになってしまうので、私は傷つかないようにしようと決めました。ただ、相手が悪意を持って臨んだ場合は別ですが。

世の中には、傷つき易い人はたくさんいます。病的なほどに傷つく人もいます。そういう人たちが多くいる地上で自分の言動で誰も傷つかないようにといくら配慮したとしても、それは不可能なことです。そうではないでしょうか。もし、誰も傷つけないように生活したいのなら、人と関わることをやめて人里離れて一人で生活するしかないからです。でも、それは私の本意ではありませんし、霊的真理を知っている者なら、それがどれだけ愚かしい考えであるかはわかります。それならどうしたらいいのか、自分の未熟さには焦点をあてずに神と霊界の役に立つ人間になるようにするしかない、と私の中では結論が出ました。そうして行く中で自然と自分の未熟さに気がつきますし、それを見ないようにして回避していては役に立つ自分にはなれないことも知っていますから、役に立つ自分になっていこうとするそれだけで未熟さを克服させられるし、それ以上に驚くほどの喜びと感謝の世界に至ることができます。それは私が何度も体験している世界です。

私が役に立つことは、人の成長に関わる、それも表立ってではなく、できるだけ気がつかれないように関わるのが一番だと気がつきました。そして、あとは霊界の配慮に任せるのが一番ですから。今私に課せられているのは、その動機の持続と、それに見合った言動です。いくら動機が純粋でも、その言動で場合によっては不純なものにすり変わってしまうからです。自分では純粋だと思っている動機が、どこかですり替っていないかどうかを確認すること、それが今後私が自分で自分をしっかり見て行かなければいけない部分だと思っています。役に立つ仕事はこれからどんどん変わっていくでしょう。示されたことをそのまま受け入れることが最良の道だと思っていますから、私は余分なことを考えずにそれに邁進するだけです。

しかし、真理を知らない人や、私とは違う資質を持った人は大勢いますから、私がそう思ったからといってそれを回りに要求することはできないことぐらいは私も知っています。人と人とは比べられないし、というより比べる基準がこの地上にはないと思っていますから。

私のそういう部分は霊界はすでにお見通しのはずです。
そうした部分に触れずに、単に人を傷つけ、汚し、おとしめている云々というのは、本当の私を見ていない現れだと思いました。むしろ、メッセージを下ろしてくる霊はそのあたりのことを引き合いに出す霊なのでしょうか。

> ○そこまでの強い自己肯定を持つに至るには必ず理由がある。彼女の場合ももちろんそうである。
>  彼女は「よく頑張る子」だった。

残念ですが、子供の頃の私は、とても怠惰な子でした。成績表にはいつも「頑張ればできるのに」でしたから。

> いわゆる「良い子」だった。

本を読んでいるかテレビを見ているかのどちらかでしたから、手がかからないという意味では良い子だったかもしれません。

> 父親が好き、母親が好き、だから自分のことも好きになってほしい、「良い子」ならもっと好きになってもら
> える。もっとほめてもらえる。二人は喜ぶ。
> 自分も嬉しい。

これも違います。どこの家庭でも一つや二つは問題があると思いますが、私のところも例にもれずで、大変な問題を抱えていました。それがもとで私はトラウマを背負い、私にとって父は大嫌いな存在になっていきました。母のことは好きでしたが、でもそれは嫌いではなかったという意味でです。

>  だが、父親も母親も「よくできる人」だった。

なにをもって「よくできる人」なのでしょう。
父は勉強はそこそこにできたようですが、人格的にはお世辞にもできた人とはいえません。
母も成績はそこそこでしたが、人格的には単なるお人よしで、やはりよくできた人とは言い難いのが実状です。
でも、それを「よくできた人」というならそうなのでしょう。

> 特に父親には彼女の頑張りは当たり前のことだった。
> 自分もそうしてきたのだし、誰でもそうなのだから。

これも残念なのですが、父は私が頑張るのを嫌う人でした。
普通、親なら子供には頑張ってほしいと思うものなのでしょうが、私が頑張ると自分に迷惑が及ぶと言っていた人ですから。
そして、父は働くのが嫌いで、頑張る人の気が知れない、と言っていたぐらいです。
個人的なことは申し訳ないぐらいに全部違います。
これ以上は否定したくないので、この先個人的なことへのコメントを書くことはやめにします・・・

(少し省略します)

父の死に対しても同様なのですが、気を取りなおして続けます。

>  そして残念なことに、心の距離はそのまま埋まることはなかった。彼女にはその機会は与えられたのだ。
> 病を得た父親に向けて、精一杯の心を尽くすこと、それが再び心の絆を結び直す機会だったのだ。
> 苦しむ者、病む者に対し、人は思わず手を差し伸べてしまう。それがたとえ犬や猫であっても。まして自分の
> 父親がその状況にあるならば、しかも死を間近に控えていることを彼女が知っているならば。それまでのわだ
> かまりを飛び越えて、手を差し伸べたはずである。
>  しかも、メッセージによって彼女には伝えてあったのだ。癒しの力についても、癒しの意味についても。
> その情報に対してそれまでは否定的であったとしても、その時、はっきりと分かるはずなのだ。「こういうことだったのか」と。

私が手を差し伸べたのは父にではなく、母に対してです。父のためにとことん苦労して、我慢して、最後まで仕えてきた母の心と体をいたわってのことです。医学的なことに対しては余分な手は施していません。
癒しの意味はメッセージを読まなくても知っていました。スピリチュアリストなら当然のことでしょう。
ただ、私は当然のごとく、肉体を生き長らえることに執着はしていません。確かに私にも多少の癒しの力はあるようです。でも、父にそれを使って生き長らえさせることは不必要だと思いましたから、していません。

ただ、癒しの力の中で一番大切なのは、心の癒しだと思っていますから、当然父の心を癒すことはしました。
それが通じたかどうかは私にはわかりません。
でも、あの父が手を合わせて拝んでいたのですから・・・

「こういうことだったのか」ということはありました。でも、それは癒しのことではなく、全く別のことでした。
先日、友人たちにはそのことを話ましたから、その人たちは私のこの言葉の意味がわかるはずです。

> そして実際は彼女はそれを思い知ったのである。だが、それを認めることはできなかった。

ここは何を言わんとしているのか、私にはわかりません。どなたか代わりに説明してくださると有り難いのですが。

>  迷わず手を差し伸べるはずの自分―――スピリチュアリストは、その時苦しい人が目の前にいれば手を差し
> 伸べるのだから―――、思いやりも愛情も人一倍強いはずの自分。なのにそうはできなかった。父親への違和
> 感、かつての悔しさ、許し難さが邪魔をして。

父親への違和感・・・これはその通りです。でも、私は思いやりも愛情も強くない人間です。むしろ冷たい人間なので、愛情深くなりたいと願ってはきました。しかし、父からのトラウマはすでに氷解していますから、それが邪魔をして云々と言うのは当てはまらないと思います。

> そして、そうはしてやれなかった自分を、何より彼女は悔いたのだ。そういう自分が本当は情けなかったのだ。
> だからそういったさまざまな感情を抑え込むしかなかったのである。

悔いてはいません。それに感情を押さえこむほどのことはもうありませんでしたから。
最後に霊界の話もできたし、死が全ての終わりではないことも伝えましたから、私の父に対する責任はそれで充分だったと思っています。何より、この父だったからこそ良かったのだと心底思えるし、感謝しているくらいです。もちろん、その感謝の思いは父に伝えました。

>  しかし、彼女は知っている。「死」が終わりでないことを。そうであるからこそ、父親の心は自分を見てい
> る、と。ならば自分の心をたどり彼へ向けて思ってほしい。「自分はあなたにどうしても認められたかった。
> それは純粋な願いだった。

父に認められたいと思った記憶は私の中にはありません。父に褒めてもらおうと思ったことすらありません。

> けれどもそこで心を深くかげらせてしまった。それが今までの私の言動に表れてい
> た。あなたを愛していながら、許すことができなかった。最後まであなたへの愛情を伝えることができなかっ
> た。私は愚かでした。そういう私を許してください。私は再びあなたと愛情で結ばれていることを喜びとしま
> す。心おきなく本来の霊界で学びを進めてください」

あまりにも違いすぎて・・・どう書いていいかわからなくなってきました・・・

> ○父親の死は、彼女が自らの姿を見る機会を提供することになった。彼が「死」によって彼女にもたらすもの
> は、彼女が課題を越えていくための手助けであった。至らなさや不十分さを思う機会に彼女ができることを願
> っての。そうできるかどうか、そうしようとするかどうか、は彼女に委ねられる。しかし彼は信じているのだ。
> 「あの子はよくできる子だから大丈夫だ。良い子なのだから、必ずそうしてくれる」と。しかし、やわらかい
> 言葉でほめる、などとはできなかった。自分もそうされて育ってはこなかったのだから。同じように頑張って
> きた自分だからこそ、彼女の思いが本当はよく分かっていたのである。

今回他界したのが母だったら、私にとってはなにかの機会になっていたと思いますが・・・

> ○自分が見せまいとしてきただけでなく、自分で見るまいとしてきたのであるならば、それを見せられた時、
> 人は大抵強く否定する。「全くそんなことはない」「思ったこともない」「昔はそうだったが今は違う」・・
> ・。それは、それだけその人が実は苦しかったのであり、認めないことで自分の心を守ろうとするからである。

見るまいとしてきたこととは・・・?
メッセージを下ろすなら、全て暴露していただきたいです。
もちろん、自分で自分のことに気がついていないことはたくさん有ると思います。
確かにかつてはトラウマの部分で見るまいとしてきた、というより自分の心に蓋をしてきた部分はありました。
そして、自分の中の矛盾がどこから来ているのかをずっと探っていった時、始めてその蓋の存在に気がついて躊躇せずに開けることができました。
そういう意味では当たっていますが、やはり過去のことだと思わずにはいられません。
それとも、まだ何か残っているのでしょうか。
それは今後を見ていくしかないと思っています。

今までの私が書いたコメントを読まれた方はどう思ったでしょう。
一番目のメッセージに対してですけど、確かに以前は苦しかったこともあるし、その苦しみから逃れたいと思ってたのも確かです。そうやって自分の心を守ろうとしてきたことも確かです。それは認めます。その点では、今回のメッセージはところどころは言い得ていますが、でも、それは私がHPの中で書いてきたことと、1通目にコメントしていたからわかったのであって、最初からはわかっていなかったのではないかと疑ってしまうのです。

> もしも地上で分からなくとも、霊界においては全てが明らかにある。それでよろしい。

私もそう思います。とするなら、なぜメッセージが下りたのでしょう。

> 彼女がどう受け取った
> としても、彼女の「本当の心」は「本当のこと」を知っているのだから。  2001.9.5受信

そうですね。真実はコメントした通りです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最後に、飯沼さんの私への投稿に対してのレスです。

> 有希さん、
この3通のメールのやり取りであなたのご質問に対する回答はすでになされていると思います。

すみません、私の理解力が足りないのでしょうか、誰しもが納得するような明確な回答とは思えないんですが。
私が箇条書きにしたように、箇条書きで回答していただけないでしょうか。もちろん、この箇所に対する回答はこの部分です、というように抜粋していただいてもかまいません。

T子さんに関する事はわかりました。見掛けではなく、当事者にしかわからない現場の状況というのはありますから、飯沼さんがご自分の責任においてそうされているのなら、たとえT子さんが傷ついたとしても必要なことなのかもしれません。この件に関しては、私はこれ以上タッチするつもりはありません。過干渉であったならお詫びします。

> あなたの、今回のコメントにしても、あなたの思い込み、思い違いが幾つか見受けられます。
> 明らかなことに対してもそういうところがおありのようですから、ましてはっきりとは見えない心の奥深くの
> ことについては、なおのことそういうところはあるのかもしれません。

これはその通りだと思います。
なぜでしょう、メッセージよりも飯沼さんのこの言葉の方が私にはしっくりくるのですが。

会費のことは私にはわからないことですし、それこそ動機以前のことでしょうから、飯沼さんの言葉をそのまま信じることにします。

今回メッセージを頂いて思ったことがあります。まず、メッセージ自身がクリアな感じがしないということ、といってもこれは私の主観の問題かもしれませんから、私の受けた感覚が正しいとはいいません。
しかし、コメントを書いているうちに、違うものが見えてきました。もしこれが本当に霊界からのメッセージであるとするなら、私自身の内容とかなり違ったものを掲載させられたということは、飯沼さん、あなたに対して何か示したいことがあるからではないでしょうか。これらのメッセージは私にはとても読みにくいし、理解しにくい内容ばかりです。そのため、メッセージの意図とは全く違う理解の仕方をしてコメントしているかもしれません。そういうメッセージを掲示板に出さなければいけなくなった経緯、もっと遡れば、あなたが私の掲示板で統一教会に関する議論に参加しようとして書きこんだところ、全く予想もしない方へ流れが変わってしまったこと、これら一連のことを考えてみてはいかがでしょう。霊界の意図が見えてきませんか。

今悠々塾は新しくやりなおす時ではないでしょうか。あなたの中に野心はありませんか? あなたは常に動機の純粋性を言ってはいますが、その動機の純粋性も、やり方を間違えたら動機だけ純粋だと思っているだけで、実際は自分の中にある野心を正当化するものとしての詭弁にもなってしまいます。人を救うという動機で始めた当初はすばらしくても、それが喜びに変わるにつれて野心が出始め、自分を高い者のようにしてしまう野心です。大川隆法がそのいい例でしょう。飯沼さんに限ってそんなことはないと思っていますが、他にもそういう人たちを何人か目にしたことがあるので、もしやと思いまして。それこそ全く違っていたらごめんなさい。

霊界は自分たちと波長の合う人間、自分たちと同レベルの人間を使ってメッセージを下ろすと聞いたことがあります。もちろんバーバネルのように使命を帯びた人は別でしょうが、魂の成長していない人が霊媒になった場合、これはとんでもないメッセージを下ろすことになると思います。ところが本人はいたって真面目に「神のお告げ」だと言います。もちろん悠々塾が下ろしているメッセージは神のお告げと称するほど程度の悪いものではないことはわかります。そして、曖昧な言葉を使えば、人は勝手に自分のことに当てはめて納得します。そして、よく当たると褒めてくれます。私も少しは占いをやっていましたから、そうしたメッセージに対する人の反応がよくわかります(例が悪くてごめんなさい)。飯沼さんたちにはこういうことはあってほしくないと思っています。でも、大なり小なりそういうことは起こり得るので、それで検証された方が良いと思うのです。検証してみて、やはり高い霊からのものだったということになればとても嬉しいことですし、もし違えば訂正すればいいのだと思いますから。

以上余分なことまで書きましたが、もし気に触るところがあったらお詫びします。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98)pppu070.wbs.ne.jp


1036 Mr.しろさんへ
名前: 飯沼正晴  投稿日: 2001年09月08日 (土) 00時45分46秒

No.1021のあなたへの文章をもう一度お読み下さい。
しっかり読んでしっかりと話を詰めていきましょう。
具体的に。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)SANcd-01p76.ppp.odn.ad.jp


1035 有希さんへ
名前: 飯沼正晴  投稿日: 2001年09月08日 (土) 00時41分34秒

有希さん、
この3通のメールのやり取りであなたのご質問に対する回答はすでになされていると思います。ここでは補足のみさせていただきます。
T子さんのことは、実際私もどうしようかとは思いました。報告が遅れたのはそのせいもあります。しかし、彼女のおかれている状況を分かった上で、皆さんの協力をお願いしようと思いました。あなたのように思われた方もおられたかもしれませんが、それを越えて更にT子さんに共感してくれた方もおられると思います・
いずれにしても、それは私の責任においてしたことです。
どうしようかと迷うとき、私はいつも自分の動機を検証し、それに曇りがなければ、積極的に動く方を選びます。結果的に、それがいつも最良の道だったとは申しません。後で振り返って、ああする方がよかったかもしれない、と思うこともあります。しかし、失敗を恐れていては動きが取れないこともあります。人としての道に反する場合は別ですが、動機に曇りがなく、よりその人の役に立つための選択肢であるならば、当事者の判断を尊重していただきたい。そして、私の至らなさや判断ミスの可能性があるならば、なおさらのことそれを越えて、対象者のためにエネルギーを送ってあげてほしいのです。井戸端会議的な発想で、足を引っ張り合うことはしたくありません。

個人宛てのメッセージの受信は、これまでに1000通をはるかに越えていると思います。公開したものは、ほんの数通です。それぞれに理由ははっきりとあります。
あなたのものについてはすでにお知らせしてあります。
なぜ、あなたへのメッセージを受信するようにとのインスピレーションがあったのか、実は私にもわかってはいませんでした。否定的な反応がありそうなことは予想できましたし、相当に忙しい時期でしたから。それになんかいつものとはどこか違っているようにも思いましたし。確かに、ほんとうは何を伝えたいのだろうと、私たちも思いました。それで、今回そういう設定で受信したのです。私たちは先の2通のことの意味が分かったように思いました。あなたがたとえ今は受け入れることができなくても、私たちが否定されればすむことです。それよりも、あなたに読んでいただきたいと思いました。3通目も公開したのは、否定された後にまた公開するよりも、3通揃えて掲載した方が分かりやすいだろうという判断です。

あなたのメールによるコメントを掲載しなかったのは、この掲示板のコメントとすこし違っているように感じたので、改めてあなたのコメントを待った方がいいだろうと考えたからです。
ご批判は頂きましたが、私はやはりよかったと思っています。
あなたの、今回のコメントにしても、あなたの思い込み、思い違いが幾つか見受けられます。明らかなことに対してもそういうところがおありのようですから、ましてはっきりとは見えない心の奥深くのことについては、なおのことそういうところはあるのかもしれません。
全くもってでたらめなメッセージであれば、改めてお詫びいたします。しかし、いつかあなたが本当のあなたとして、地上界の浄化をはっきりと視野に入れたスピリチュアリストとして、その役割を果たしてくださるきっかけになるかも知れないとも思います。その意味でも受信してよかったと思います。もっとひどい火傷を負うかも知れないと覚悟していましたし。
最後になりましたが、私たちは「会費」を集めてはおりません。「天地悠々」の購読料は頂いていますが、購読料が振り込まれなくても、贈呈している方もたくさんいますし、決して儲かるものではありません。癒しの関わりでも、経済的に厳しい状況にある方からは、一切費用は頂きません。以前はほとんど無料でしていたのですが、借金がかさむ一方だったので、今は一応希望料金を提示してあります。まゆみさんは、長時間のパートに出ながら、無農薬の野菜を作って出荷しています。
それでも経済的にはなかなか成り立たず、事情を知っている仲間や支援者が時々カンパしてくれます。有希さん、これでよろしいですか?
私は怒りをあらわにしてはいませんよ。ただ、自分の信条を値踏みされたかのような、不快感はありましたが。
それでは失礼致します。

以下に参考資料として、あなたと私の最近のメールを公開いたします。

****************************

(飯沼より有希さんへ)
Sent: Friday, August 31, 2001 11:38 PM

Pさんの掲示板へのご投稿読ませていただきました。
公のところで細かいことを言いたくないので、メールで失礼致します。
有希さんには一目おいてもらって、癒しに協力してもらったり、こき下ろされたりで、悠々塾も大変です。

高級霊は個人的なことをたずねもしないのに伝えてこない、とのことでしたが、ジョージ・オゥエン氏は、尋ねもしないのにかなりの個人メッセージを受けているはずです。しかも他人に対する批判的なものを。出版するときに割愛しただけだったはずですが。モーゼズ氏にしても、かなり個人的なことを受けていませんか。
シルバーバーチははっきりと、自分は個人的なことには答えられないと言っていますから、これは高級、低級の問題ではなく、役割の問題ではないでしょうか。

悠々塾のHPはテーマが「来るべき地上界のために」ですから、当然地上的なものになっています。しかも、ほとんどの項目については、私が設定して質問したものです。
「地上人類の歩み」は霊的なことについて、また「天地悠々」でも、霊的法則や霊界の仕組みについては受信したものを掲載しています。

あなたについてのメッセージを受信したことは改めてお詫びいたします。しかし、インスピレーションには逆らえないのです。受け入れられなければ、拒絶反応も致し方ないでしょう。おそらくはそれも折込済みのことだと思います。後になって霊団の意図が分かることも珍しくありませんから。
あなたへのメッセージは、もちろん名前を伏せていずれ悠々塾の掲示板に掲載します。
ああまで言われてしまえば、参考資料として公にせざるをえないことはお分かりください。

しろさんにもお尋ねしたのですが、あなたにも同じことについてご意見を伺いたいと思いました。
ゆっくり休息された後、お答え頂ければ参考にさせていただきます。

しかし、しろさんにしても、アラムさんにしても不思議な方ですね。

とり急ぎにて失礼いてします。         飯沼正晴
****************************

(飯沼より有希さんへ)
Sent: Saturday, September 01, 2001 1:10 PM

昨夜の件ですが、そちらからのご訂正がなければ何らかの形でこちらの見解を表明せざるをえません。
その場合はかなり厳しい指摘になってしまうと思います。
あまり気が進まないので、事前にお伝えし、あなた自らの修正・訂正を促したいと思いました。
お疲れでしょうから、今はその御意志があるかどうかだけ、早急にお知らせください。
場合によっては、メールを公開する事になるかもしれませんが、霊界とは全てが明らかになっているところ、それをご存知のあなたですから、問題ありませんよね。
お互いが考え直すよい機会にしていきたいと思います。
****************************
(有希さんから飯沼へ)
From: 有希
Sent: Saturday, September 01, 2001 2:36 PM
Subject: 返信が遅くなりました

> メール、拝見しました。
>
> > 有希さんには一目おいてもらって、癒しに協力してもらったり、こき下ろされたりで、悠々塾も大変です。
>
> こき下ろしたつもりはないんですが、結果的にはそうなってしまったようですね。
> 私は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という考え方はしません。
> 良いことは良い、悪いことは悪い、ただそれだけです。
> ですから、一目置いていることも、癒しに関する事も、事実ですし、掲示板に書いたことも事実です。
>
> 私自身は飯沼さんたちの純粋さがとても好きですし、いえ、それ以上に自分の人生をかけていらっしゃるその姿勢には頭が下がります。
> 飯沼さんと堀江さんはお仕事はどうされているのでしょう。
> まさか、会費などでまかなってはいらっしゃらないとは思いますが。
> もし、自分の生活は自分でまかなっている上でこうした活動をされているのなら、本当にすばらしいと思います。
>
> > 高級霊は個人的なことをたずねもしないのに伝えてこない、とのことでしたが、ジョージ・オゥエン氏は、尋ねもしないのにかなりの個人メッセージを受けているはずです。しかも他人に対する批判的なものを。出版するときに割愛しただけだったはずですが。モーゼズ氏にしても、かなり個人的なことを受けていませんか。
> シルバーバーチははっきりと、自分は個人的なことには答えられないと言っていますから、これは高級、低級の問題ではなく、役割の問題ではないでしょうか。
>
> 役割というより、その霊の性格なのかもしれませんね。
> ただ、尋ねもしないのに個人メッセージを受けていることが問題なのではないと思います。
> 問題はあなた方がメッセージを公にしているということです。
> メッセンジャーは背後の霊と個人の間に立つだけの媒介の仕事なのが、なぜ公にするのかということです。
> それも、本人の承諾を得ずにです。
> シルバーバーチも交霊会では個人向けにかなり話していると聞いています。
> でも、個人のことはあくまでも個人のものですから、機関紙にはもちろん、霊訓の中にはほとんど登場させていません。
> これはメッセージを受けて、それを管理する側としての当然の配慮でしょう。
>
> ただ、私はそちらのHPの内容は間違っているとは思っていないし、不必要だとも思っていません。
> なぜかというと、多くの人は何をどう考えたらいいのか迷っている人が多いから、そういう人たちにはモノの考え方を学ぶという点ではとても意義があると思うからです。
> ただ、内容的にはやはり高い霊団のものとは考えにくいというのがいまでも思います。
> メッセージを送ってきているのは地上にいた時はかなりの知識人で指導的な立場にあった者が今だに幽界にも行けず、もしくは幽界には行ったけれど、地上に執着するあまリ地上に戻ってきて今だに教えつづけている、という感覚で伝わってきます。
> それは、その後のメッセージにも感じられます。
> といっても、これはあくまでも私が感じたことであって、確証があるわけではないのですが。
>
> > あなたについてのメッセージを受信したことは改めてお詫びいたします。しかし、インスピレーションには逆らえないのです。
>
> 私は受信したことを問題にしているのではありません。
> 私もある程度の受信能力はありますから、逆らえないのはわかります。
> ただ、伝える以上は受信する側の責任ですから、私の場合は言葉として要点だけを伝えることにしています。
> その言葉をどう処理するか、それはその人とその人の背後との関係で活用されることですから、その辺は今更私が言わなくても、ですよね。
> ただ、私の場合は受信能力といっても微々たるものだし、それが正しいのかどうかという確証も持っていないので、能力の強い方とは比較にはなりませんが。
>
> ですから、私のところにメッセージを送っていただいたこと、これも何とも思ってはいません。
> ただ、内容には驚きました。
> 20年前の私に対してでしたら、あてはまっていることは多分にありましたから。
> でも、今の私は全く違っています。
>
> > 受け入れられなければ、拒絶反応も致し方ないでしょう。おそらくはそれも折込済みのことだと思います。後になって霊団の意図が分かることも珍しくありませんから。
>
> 拒絶反応ではなく、受けいれたいと思っても、すっきりと心の中に入って来ないのです。
> もしかしたらこれは私の問題かもしれないと思い、何度も読み返してみましたが、それでも心に響かないのです。
> 感覚としては、霊界で渦を巻いていて、言葉だけが地上に来て、内容は混沌としている感じです。
> ごめんなさい、感覚的なことなのでわかりにくいですよね。
>
> > あなたへのメッセージは、もちろん名前を伏せていずれ悠々塾の掲示板に掲載します。
>
> 名前を入れていただいてもいいですよ。
> ただし、あのメッセージに対する私の返信も同時に載せてください。
> でないと読み手にはわかりづらいでしょうから。
>
> > ああまで言われてしまえば、参考資料として公にせざるをえないことはお分かりください。
>
> なぜ参考資料にするのでしょうか。
> ご自分の保身のためですか?
> 霊団が正統だと証明するためですか?
> そもそも、公にすること自体がどういう意味を持つものか、おわかりになっていないようですね。
>
> これは私からの助言ですが、ご自分たちのしている立場をもっと明確にされる方がいいかと思います。
> 霊的内容を伝える立場なのか、霊能者としてメッセージを伝えることに重点を置くのか、純粋に人の人生に関わり役に立とうとする立場なのか。
> それらによってずいぶん変わると思います。
>
> それと、メッセージを発表する立場を取る以上は、あらゆる角度から霊団の検証は行わなければいけないと思います。
> もしそれを拒む霊団であるのなら、それ相応の処置をしなければいけないのではないでしょうか。
> ある程度高い霊であれば、拒むはずはありませんから、それも見極めの一つになるかと思います。
>
> 私は、今回のことは悠々塾が心機一転してさらに成長する良い機会だと思っています。
> 今の立場を保持するのではなく、もっと大きく活躍するための壁に来ているのではないでしょうか。
> そして、同時に私にとっても心機一転の時期だと思っています。
>
> ここまで書いていたところへ飯沼さんからの次のメールがきてしまいました。
>
> > 昨夜の件ですが、そちらからのご訂正がなければ何らかの形でこちらの見解を表明せざるをえません。
>
> 特に訂正はありません。
>
> > その場合はかなり厳しい指摘になってしまうと思います。
>
> 私自身は自分の未熟さをよく知っていますから、厳しい指摘が事実であるなら謙虚に受け止めたいと思います。
>
> > あまり気が進まないので、事前にお伝えし、あなた自らの修正・訂正を促したいと思いました。
>
> どこを修正・訂正すべきところなのでしょうか。
> 私は自分が感じたまま、そして事実を書いたまでですが。
> ただ、表現に偏ったところはあったかもしれません。
>
> > お疲れでしょうから、今はその御意志があるかどうかだけ、早急にお知らせください。
>
> 何に対する意志でしょうか。
> 全てはそちらの良識にお任せします。
>
> > 場合によっては、メールを公開する事になるかもしれませんが、霊界とは全てが明らかになっているところ、それをご存知のあなたですから、問題ありませんよね。
>
> けっこうです。
> メールを公開されても何ら問題はありませんから。
> ただし、第三者が絡んでいる部分はご配慮ください。
>
> > お互いが考え直すよい機会にしていきたいと思います。
>
> 私もそう思います。
>
> *-----*--- see you later -----*-----*
>
>    ☆★☆ 有希 ☆★☆
****************************>
(飯沼から有希さんへ)
Sent: Monday, September 03, 2001 1:18 PM
Subject: メール読みました

悠々塾の掲示板にあなたへのメッセージを公開せざるを得ないのは、公開の場であなたが「内容が全く違っている」と公言されたからです。私たちの保身のためではなく(そんな人間だと思っているのでしょうか?)、
どのようなメッセージをあなたが、そう思ったのか公に提示する必要があるからです。そこから、なぜあなたにメッセージがもたらされたのかについても霊団側から明らかにされていくのでしょう。
今後どのような経過をたどるのか、私には分かりません。ですから、やはり名前を伏せて掲載します。「全面的に違っている」との反応だったことは添えます。その他のことは、ペーパーバーチさんの掲示板にてあなたのご意見を確認してもらえばいいのですから。

テストのことに関しては、こちらのコメントをすでに準備しています。しろさんのご返事待ちです。
あらゆる角度からの検証は私たちも望んでいます。(原稿用紙にして、多分1万枚は越えているかも知れませんから、私たちも系統立てた整理ができなくなっているのです。)
あなたへのメッセージの公開もそのひとつのつもりです。
あなたのように、否定される人がほとんどいなかったので、いい機会になると思います。
スピリチュアリズムのために、意見を出し尽くしあいましょう。
私たちを導く霊が、あなたの言う程度の者たちならば、あなたの知る真理の力でもって諭すなり、撃退するなりしてあげてください。
お互いに自分の言動には責任を持つ、つまり自分のまいた種は自分で刈り取る、という基本的なことをしっかりと踏まえた上で。

私たちがどのようにして生活費を得ているか、何かあなたに関係がありますか?
なぜあなたがそう聞いたのか、動機を見直してみてください。

とり急ぎ、失礼します。
                           飯沼正晴

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)SANcd-01p76.ppp.odn.ad.jp


1034 メッセージ&メール投稿希望(有希さんと飯沼さんへ)
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年09月08日 (土) 00時26分35秒

有希さん、こんにちは。
さっそくいらっしゃいましたね(^^)。

有希さんのメールの公開を希望します。この後お二人の対話が続くとして、当然メールの内容を踏まえた展開になると思います。そうすると読者の側が話が見えなくなってしまうと思いますから。

また、公平な判断が出来るように、悠々塾(飯沼さん)からの反論のメールも公開されることを希望します。ただ、こればかりは勝手に公開してはマズいと思いますので……飯沼さん、公開許可をお願いします。

それから肝心の悠々塾から有希さんへのメッセージですが、ここだけ見ている人や将来過去ログで見る人のために、こちらの掲示板にも有る方が良いと思います。できればメールのついでに有希さんの方でこちらにも投稿していただけないでしょうか? 場合によっては僕がやっても良いですけど。

以上、宜しくお願いします。

PS.全然関係ないHPの宣伝が(当サイトの三掲示板全部に同じモノが!)投稿されていましたので、さくっと削除しておきました。当サイトの掲示板は宣伝は禁止ですんで宜しく。

http://www.paperbirch.com/

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)e159041.ppp.asahi-net.or.jp


1032 ■☆ 最後のコメント ☆■
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月07日 (金) 12時57分11秒

 管理人のペーパーバーチさんが、今回このような設定をされたこと、及び「悠々塾問題専用掲示板」というタイトルに違和感を感じます。よって、僕はこの掲示板では、このコメントを唯一の例外として一切の発言を致しません。
 最後に、自称スピリチュアリスト様方に申し上げておきたいことがあります。・・・
霊界側は人間に何を求めて、数々の通信を送ってきたのでしょうか?それは伝えられる真理を、行動や言葉に反映して欲しいからです。そして人間同士がお互いの尊厳を認めあい、互いを慈しみあって欲しいからです。それがなされていなかったとしたら、もはやそれはスピリチュアリズムではありません。単なる言葉です。
「もし、シルバーバーチが自称スピリチュアリスト達の掲示板を見ていたら?・・・・・・」
どうか、ご自分の後ろ姿を、素直な心の眼でご覧になって下さい。
では、さようなら。
☆★☆ Miyazaki Mamoru ★☆★

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows 98)cs67113.ppp.infoweb.ne.jp


1031 メッセージに対して
名前: 有希  投稿日: 2001年09月07日 (金) 11時26分31秒

せっかくペーパーバーチさんのこの掲示板でお話を始めたわけですから、あちこちに飛んで会話をすることは混乱の元だと判断しましたので、こちらへまとめて書かせていただくことにしました。
率直に述べさせていただきます。

メッセージ(悠々塾の掲示板)をありがとうございました。
これは嫌味でもなんでもなく、正直な気持ちです。
夕べ一晩かけて、メッセージに対するコメントを一つ一つ書きましたが、最後に近づくにつれて涙がが溢れ出て止まらなくなりました。それは、やはりといっていいほど的外れな内容、ただし、第1回目よりは少し納得するところもありましたが、大半においてはどう考えても違うとしか言い様のない内容と、それを公表せざるを得なかったあなた方に憐憫の情が湧いたからです。ですから、コメントは書きましたが、今ここで掲載するのは控えます。

気を取りなおして、発言を続けます。
悠々塾での掲示板に私に対するメッセージを載せると伺った時に、最初のメッセージに対する私の意見も同時に載せてほしいとお願いしましたけど(私がメッセージの解答率に対して発言した後、個人メールで少しやり取りしていますので)、なぜ載せられなかったのでしょうか。
新しいメッセージの受信は9/5ということですが、飯沼さんはもっと前に個人メールで私宛のメッセージを受けたと書いていらっしゃいましたが、その内容とは違うということなんですね。

正直なところ、今回はもっと当たっていてほしいと願っていました。
でも、結果は・・・どう考えてもやはり私の内容と違うのです。
私をよく知っている友人に最初のメッセージを見せたところ、私をよく知っている人なら全然違うと言うことがよくわかる、と言っていましたから。

しろさんはスピリチュアリズムの基本に沿って考えられているので、メッセージの出所の真偽を大切にしていらっしゃるようですし、もちろん私もその点は重要だと思っています。でも、私個人としては当初は高級霊でなくても構わないし、当たる当たらないというのもそれほど問題にはしていませんでした。ですから、私に当てたメッセージは当たっていませでした、と私が書いても、「時にはそういうこともあります」と一笑に伏して下さってもよかったのです。他の方はどうかわかりませんが、私はそれでもよかったのです。その方がそちらに対して懐の大きさを感じ、信頼感も強まったと思います。しかし、そうはされずに、逆のことをされました。

ただ、以下のことに対する疑問だけはどうしても拭い去ることができないので、ぜひ答えて頂きたいと思います。今回のメッセージを掲載するにあたっては名前を入れてもらってもいいとお返事しましたし、そして、「全てはそちらの良識にお任せします。」と一言付け加えましたが、そちらの良識とはそういうことだったわけですね。そうしたことも全部含めて、私には悠々塾の方たちに質問する権利があると判断しましたので、質問させていただきます。

? 最初、私にメッセージを送ってきたのはなぜでしょうか。私が更に喜びを感じるようにるため・・・ですか。
? 私宛の3通目のメッセージを公開した目的は何なのでしょう。飯沼さんは私がメッセージを全面否定したか
  らだと言われました。そこで私は「ご自分の保身のためですか? 霊団が正統だと証明するためですか?」
  と伺ったところ、明確な答えは得られませんでした。そこで、あえてもう一度公の場で伺います。メッセー
  ジを公開した目的は何なのでしょうか?
  堀江さんのお話から、飯沼さんが最初にメッセージに対して疑問を持ったとありました。それがメッセージを受  け続けている間に確信に変わったと言うことですよね。確信したことであるから正しいと思い続けていらっしゃ  るのでしょうか。
? 個人に下ろされたメッセージをなぜ公開するのでしょう。これもはっきりとしたお返事を頂いていません。
  私は「問題はあなた方がメッセージを公にしているということです。メッセンジャーは背後の霊と個人の間
  に立つだけの媒介の仕事なのが、なぜ公にするのかということです。それも、本人の承諾を得ずにです。
  シルバーバーチも交霊会では個人向けにかなり話していると聞いています。でも、個人のことはあくまでも
  個人のものですから、機関紙にはもちろん、霊訓の中にはほとんど登場させていません。これはメッセージ
  を受けて、それを管理する側としての当然の配慮でしょう。」他いろいろとあなたに書きました。
  そればかりか、プライベートなことをなぜ公開するのでしょう。これはT子さんの家庭の事情のことです。
  あの内容はご本人の承諾を得てのことでしょうか。もし私なら、頼まれても掲載できるような内容ではあり
  ません。良心が痛むし、載せれば誰よりも本人が傷つくのではないかと危惧するからです。もし私がT子さ
  んの立場であのような内容を公に載せられたら、相当傷つきます。それを踏まえた上であえて掲載したという
  ことなのでしょうか。
? これはメッセージに関することではありませんが、メールでは収入について私の勝手な憶測を述べました。
  それも掲載させていただきます。
  「飯沼さんと堀江さんはお仕事はどうされているのでしょう。まさか、会費などでまかなってはいらっしゃ
  らないとは思いますが。もし、自分の生活は自分でまかなっている上でこうした活動をされているのなら、
  本当にすばらしいと思います。」と書きました。
  私は、「自分たちはきちんと仕事をして生活しています。」という簡単な答えを頂けるものとばかり思って
  いましたが・・・このことは別段詮索するつもりは全くなかったのですが、飯沼さんはこのことに対して怒
  りを露わにされました。なぜでしょう。かえって疑問になってしまいました。ただし、これには無理して答
  えていただかなくても結構です。それこそプライベートなことですから。ただし、いくら動機が純粋でも、
  その後のことに関して、それを自己正当化するために「動機云々」を言う人はたくさんいるので、それであ
  えて書きました。

悠々塾からの明確なお返事を期待しております。

なお、もしどなたか、メッセージに対する私のコメントをお読みになりたい方がいらっしゃるなら、申し出ていただければその時は全文を掲示板に掲載いたします。できることなら、そうはしたくないのですが・・・

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98)ppa4158.wbs.ne.jp


1030 堀江克子さまへ
名前: Mr.しろ  投稿日: 2001年09月07日 (金) 07時23分45秒

投稿文からあなたの誠実な人柄がよく伝わってきました。また悠々塾の人間関係がよいこともよく理解できました。しかし今ここで、問題となっていることが全てスピリチュアリズムから発生している点が十分にご理解いただいていないようです。皆さんがたの人間性とは別に、スピリチュアリズムという高い世界がからんできているために、問題となっているのです。あなたがスピリチュアリズムとは関係なく、あるいはシルバーバーチなどと言わずに自分なりの誠意をもって霊媒の役目を果たされるとしたなら、こうした問題は生じなかったはずです。ペーパーバーチさんが、「汚い手でスピリチュアリズムに触るな」と言った言葉の真意を、あなたは全く理解されていないようです。
あなたの投稿文から分かりましたことは、あなたがスピリチュアリズムを十分理解しない所で、善意から霊媒をされてきたということです。その意味であまり霊的な責を負うようなことはないと感じました。スピリチュアリズムにからむ問題に、スピリチュアリズムを十分理解されてないあなたと、これ以上お話しすることはできません。
 一方、飯沼さんは、スピリチュアリズムの何たるかも十分承知した上で、これまで意識的に霊界通信を手段としてきました。霊界通信が悪いということではなく、スピリチュアリズムを標榜してやる以上、それなりの認められるスピリチュアリズム的条件が必要となるということです。それが必要であることを知りながら、無視をするということになれば当然霊的な責任を負わなければならなくなります。動機への純粋さの責任も生じてくるでしょう。そのことを申し上げてきたのです。そしてそれはスピリチュアリズムを受け入れる者ならば当然のこととして理解されることなのです。「汚れた手でスピリチュアリズムに触るな」というペーパーバーチさんの言葉は、まさにこのことを指しているのです。
とは言いましても、私がすべきことはせいぜいあなたがたは間違っていますよということまでだと理解しています。間違ったことはおやめなさいということは言えてもそれ以上のことは、全て当人が霊的法則にそって審判されることなのです。私がどれだけ霊界通信の検証をすべきだと言っても、最終的には本人たちが決めることです。霊的真理から外れたことを続ければ、その責はいつか自分に帰ってくることになるでしょうから。本当は私としてのすべきことは、もう十分に果たしているものと思っています。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98)tyhs3DS03.aic.mesh.ad.jp


1029 宮崎護さん へ
名前: Mr.しろ  投稿日: 2001年09月07日 (金) 07時21分22秒

宮崎さんが良い意味で懐疑的精神をもっていらっしゃることは、これまでの投稿から存じております。しかし最初の懐疑が、どうしてスピリチュアリズム的な懐疑にまで至らなかったのでしょうか。今問題としていることがスピリチュアリズムがあればこそ生じていることの意味を十分理解していただいていないようです。ペーパーバーチさんが、「汚い手でスピリチュアリズムに触るな」といったことの真意を理解されていないようです。霊的真理に基づく霊的感性が必要とされているのです。シルバーバーチと内容を厳しく比較しそこから生じる霊的感性(直感)で判断すれば、また結果も違っていたものと思います。
サニワについてはありがとうございました。しかしスピリチュアリズムにおけるサニワは、一般的なものと違っていることがあることを知らなければなりません。なぜなら霊的真理という高い判断基準がある以上、そこでの判断も当然高次なものが要求されているからです。もしスワッファーが悠々塾での霊界通信のサニワをしたら、おそらくその大半はカットされたことでしょう。
ところで肝心な私からの質問への答えはどうなっているのでしょうか。無理をしてお答えしていただかなくとも結構ですが、もしその気があったらして下さい。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98)tyhs3DS03.aic.mesh.ad.jp


付録3 ある女性へのメッセージ
悠々塾の掲示板に投稿されたものです。参考のため過去ログに添付します。(ペーパーバーチ)

*0167 悠々塾 (飯沼&堀江) [兵庫] [01/09/06(木)-23:22]

 自らをスピリチュアリストと称する彼女が、もたらされた情報をどう受けとめ、どう学びの材料としていくのか、は彼女の反応から誰の目にも分かるものであろう。そしてその情報に全く思い当たる節がなく、的外れなものであった時、それに対してどういう言葉を向けていくかによって、その人の心の位相が分かるのである。
 彼女が自らをスピリチュアリストと称するならば、まずは謙虚でなければならない。口先だけでなく。自分の姿を見るにあたっては真摯でなければならない。合理化、正当化、などはもってのほか。公正公平でなければならない
 ふたつのメッセージが彼女に示すのは、「もっと柔軟かつ広い目でもってあらゆる事と接するように」ということ。それが今までと今の彼女が学びを進めていく鍵となるのだ、ということ。そしてこれは彼女に対してだけでなく、「自称スピリチュアリスト」に向けられたものでもある。
 彼女に対してもたらされたメッセージにどこか不純なものがあったろうか。訳の分からぬ戯言が並んでいるのだろうか。
 今の彼女を認めたうえで、彼女がさらなる喜びに近づき、より貢献できることを願っての導きの言葉とは認めないのであろうか。
 善意、正直、素直、思いやりという心を動機とする言葉を悪意、偽り、作りごと、混乱と受けとり、そう表現してしまうのはなぜか。そこに彼女の見せたくない動機があるからにほかならない。しかしそれは彼女の苦しさであり、寂しさであり、悲しさである、と理解すべきである。「見せたくない動機」のその奥には、「本当はこうありたい」という輝きへの強い欲求があるのだから。

○自分のなかにある強烈な「自己肯定」を彼女ははっきりと自覚しているはずである。周囲に対しては評価を求めてしまう自分がいる。自分以上に「力」を持つ者に対しては違和感を持つ。特に自分にない力に対しては妬みを伴って。
 自分の立場を悪くするようなことは絶対に避けたい。否定や批判は嫌だ。ほめられたい。

 これらの「かげり」は誰でも抱いたことのある感情だと言ってしまえばそれまでのこと。しかし、言動の動機にいつもこれらが混じっていることを分かりながら、全く自分はそうではないと振る舞う、さらにはその自分を見つめよう、あるいはそこから変わっていこうという意識ではなく、むしろ、それを正当化するところに問題があるのだ。そのことが人を傷つけ、汚し、おとしめていることが分からぬはずはない。

○そこまでの強い自己肯定を持つに至るには必ず理由がある。彼女の場合ももちろんそうである。
 彼女は「よく頑張る子」だった。いわゆる「良い子」だった。父親が好き、母親が好き、だから自分のことも好きになってほしい、「良い子」ならもっと好きになってもらえる。もっとほめてもらえる。二人は喜ぶ。自分も嬉しい。
 だが、父親も母親も「よくできる人」だった。特に父親には彼女の頑張りは当たり前のことだった。自分もそうしてきたのだし、誰でもそうなのだから。ことさらにそのことで彼女をほめはしなかった。彼女は不満だった。こんなに自分は何事にも一生懸命なのに、どうしてそれを分かってくれないのか、認めてくれないのか。悲しかった、寂しくもあった。「自分はひとりだ」と強く感じた。
 「あんたはよくできている、よくやっている。だからそれでいいじゃない。私たちはそれをよく分かっているんだから」と母親に言われても、彼女は納得できなかった。足りなかったのだ。自分をもっと認めさせたかった。

○彼女のなかで、やはり父親は「自分以上の人」だった。太刀打ちできないことを彼女は分かっていた。悔しかった。自分のことを思ってくれているはずの父親が、どうしてこうも自分のことを認めてくれないのか、と。その悔しさが父親と彼女との心の距離を広げることになっていった。
 子供は、両親からの全面的な受容、肯定を必ずあるもの、必ず与えられるもの、との前提で生まれ、成長していく。だから、あるはずのものがなかった時、味わう欠乏感や不足感はあなた方の想像以上なのである。自分が求めるものについてならば、なおさらそうなる。
 そして残念なことに、心の距離はそのまま埋まることはなかった。彼女にはその機会は与えられたのだ。病を得た父親に向けて、精一杯の心を尽くすこと、それが再び心の絆を結び直す機会だったのだ。苦しむ者、病む者に対し、人は思わず手を差し伸べてしまう。それがたとえ犬や猫であっても。まして自分の父親がその状況にあるならば、しかも死を間近に控えていることを彼女が知っているならば。それまでのわだかまりを飛び越えて、手を差し伸べたはずである。
 しかも、メッセージによって彼女には伝えてあったのだ。癒しの力についても、癒しの意味についても。その情報に対してそれまでは否定的であったとしても、その時、はっきりと分かるはずなのだ。「こういうことだったのか」と。そして実際は彼女はそれを思い知ったのである。だが、それを認めることはできなかった。
 迷わず手を差し伸べるはずの自分―――スピリチュアリストは、その時苦しい人が目の前にいれば手を差し伸べるのだから―――、思いやりも愛情も人一倍強いはずの自分。なのにそうはできなかった。父親への違和感、かつての悔しさ、許し難さが邪魔をして。そして、そうはしてやれなかった自分を、何より彼女は悔いたのだ。そういう自分が本当は情けなかったのだ。だからそういったさまざまな感情を抑え込むしかなかったのである。
 しかし、彼女は知っている。「死」が終わりでないことを。そうであるからこそ、父親の心は自分を見ている、と。ならば自分の心をたどり彼へ向けて思ってほしい。「自分はあなたにどうしても認められたかった。それは純粋な願いだった。けれどもそこで心を深くかげらせてしまった。それが今までの私の言動に表れていた。あなたを愛していながら、許すことができなかった。最後まであなたへの愛情を伝えることができなかった。私は愚かでした。そういう私を許してください。私は再びあなたと愛情で結ばれていることを喜びとします。心おきなく本来の霊界で学びを進めてください」

○父親の死は、彼女が自らの姿を見る機会を提供することになった。彼が「死」によって彼女にもたらすものは、彼女が課題を越えていくための手助けであった。至らなさや不十分さを思う機会に彼女ができることを願っての。そうできるかどうか、そうしようとするかどうか、は彼女に委ねられる。しかし彼は信じているのだ。「あの子はよくできる子だから大丈夫だ。良い子なのだから、必ずそうしてくれる」と。しかし、やわらかい言葉でほめる、などとはできなかった。自分もそうされて育ってはこなかったのだから。同じように頑張ってきた自分だからこそ、彼女の思いが本当はよく分かっていたのである。

○自分が見せまいとしてきただけでなく、自分で見るまいとしてきたのであるならば、それを見せられた時、人は大抵強く否定する。「全くそんなことはない」「思ったこともない」「昔はそうだったが今は違う」・・・。それは、それだけその人が実は苦しかったのであり、認めないことで自分の心を守ろうとするからである。
 私どもは「同意してもらうため」のメッセージを送ることはない。「いつか必ず気づく時があること」を前提にしてのものである。もしも地上で分からなくとも、霊界においては全てが明らかにある。それでよろしい。彼女がどう受け取ったとしても、彼女の「本当の心」は「本当のこと」を知っているのだから。  2001.9.5受信

 


付録2 Yさんへのメッセージ その2
悠々塾の掲示板に投稿されたものです。参考のため過去ログに添付します。(ペーパーバーチ)

*0166 悠々塾 (飯沼&堀江) [兵庫] [01/09/06(木)-23:03]

 Yさんからの否定的なメールを受けて「再度Yさんへのメッセージメッセージです。」                  2001.2.23

○あなたが言う「魂の成長」とは?
 あなた自身は、どういう自分でありたいと願うのか。どのように「成長」していくことを目指しているのか。
 あなたが自らの内に持つ「こうありたい」という願いをあなた自身は明確に意識できているのかどうか。
 私どもからのメッセージをあなたに送るにあたっては、「どの霊」などと身元を明かす必要はない。ただ、あなたの「魂の成長」を願い導く霊、指導霊、からのインスピレーションとだけ理解してもらえばよろしい。

 霊的な世界に確かにつがっていると感じるのであれば、おそらくあなたは何の不安も恐れも持たずに日々を暮らし、人と関わることができるのでしょう。全て喜びのなかで。自分に与えられている「人を癒す力」を機会あるごとに惜しみなく注ぎ、人に喜びをもたらしてくれているのでしょう。
 さまざまな悩み、あらゆる恐れや不安を抱いている人々に対しては、「何も心配することはない、全て導きのなかにある。力を尽くし、心を尽くして精一杯のことをしたならば、必ず「ふさわしく」導かれる」と伝え、「安心」や「希望」をもたらすことができているのでしょう。
 あなた自身は日々生ずるさまざまな出来事に心をかげらすことなく、いつも心晴れやかでいてくれるのでしょう。

――――これが、あなたが霊的世界とつながり、日々を喜びのなかで生きるならば、見せてくれている姿のはずです。
 しかし、残念なことに、地上に生きるほとんど全ての者は、喜びの心のみで満たされてはいません。いつも些細なことで心を揺らしたり、心をかげらせてしまいます。しかし、霊的な世界に貫かれる「全ては喜び」を実感しているならば(実感しているからこそ)、いつでもそこに心とらわれることなく、次へと進んでいけるとも言えます。
 あなたは今の自分のあり方、自分の心の状態、「今の自分」を見た時、「これが本当の自分、本来の自分だ」と断言できますか。「今を喜ぶことができていること」と「本来の自分として生きていること」は違います。本来の自分とは「あなたが持つ心の力(エネルギー)をそのまま「全て」発揮してこそ」のあなたです。
 人に対する優しい心、人に向ける思いやり、人をいたわる心、それらを人に注ぎつつ人と関わっているとは思いますが。が、まだまだ力はあるのです。それは、今のあなたが不十分という意味ではありません。あなた自身の気づいていない力がまだまだ表に出ずにある、ということです。
 それが引き出されていくきっかけとなるのが迷い猫を癒したところにあったのです。「相手を思う心」が「癒しの力」と直結することを実感していくきっかけです。それを分かってもらうための、そしてあなたが、内に宿した力をさらに発揮していくための、きっかけとしてもらうメッセージだったのです。

○霊的世界につながる道筋は「ひとつ」ではない。自分が「これ」と思うものだけが「ただひとつのもの」ではない。あらゆるつながり方があるということは、あなた自身の許容範囲、受容の通路を広くするうえで理解し受け入れていかねばならないところ。それはすなわち、自分が好むと好まざるとにかかわらず、「関わる人」全てにエネルギーを(喜びを)もたらすことに反映されるのだから。

○あなたが「過去のこと」としている「心の姿」(「寂しかった自分」、「分かってもらえないと思っていた自分」)について伝えたことについて。
 あなたが「今を喜べていること」「今が満たされていること」はよく分かります。それまで知らなかった世界に触れたところから、「喜び」が始まったのでしょうから。それによって「それまでのあなた」が変わり、思い方も考え方も、人との関わり方も変わっていったのでしょうから。――――しかし、何度も伝えたようにあなたが本当の意味で満たされていくのは、あなたのなかのまだ表に出ていない力を発揮しながらのことです。それは、それまでの自分とは違う自分が現れ始めることでもあり、あなたの「心」がさらに開かれていくことでもあるのです。そこで味わうことのできる「喜び」は、まだあなたの知らないものです。
 その喜びをぜひ手にして頂きたい。そしてその「喜び」は、「自分が嬉しかった、という喜び」ではなく、「人と共有できる喜び、であり、人にもたらす喜び」でもあります。
 それらの世界が広がった時、改めてあなたは思うでしょう。それまで自分はこういう幸せを味わったことはなかった、と。こんなふうにまで人と分かり合えるとは思っていなかった、と。
その時になって、これらのメッセージの意味も分かってもらえることでしょう。
*** 
 以上のメッセージを再び送らせて頂きます。Yさんに「無理に分からせよう」などとは全く思っておりませんので御気分を害されませんように。あくまでも「情報のひとつ」としてお受けとめください。
 いずれにしても、これからもよろしくお願い致します。 (飯沼・堀江)

 


付録1 Yさんへのメッセージ その1
1031で言及される、悠々塾の掲示板に投稿されたものです。参考のため過去ログに添付します。(ペーパーバーチ)

*0165 悠々塾 (飯沼&堀江) [兵庫] [01/09/06(木)-22:59]

 これから掲載するものはスピリチュアリズムを自称するYさんへのメールとメッセージです。これに対する彼女のコメントは、ある掲示板
(http://paperbirch.com/sp-bbs/type-a.cgi No.999)
にあります。
 参考資料としてここに掲載することは御本人の承諾を得ています。「名前も載せていい」とのことでしたが、ここでは名前は伏せておきます。

 悠々塾より 2001.2.21

「悠々塾」の飯沼・堀江と申します。Yさんのホームページの「一人言」を読ませて頂いて感じるところ(インスピレーション)がありました。こういう場合それに従うことにしています。
「Yさんにメッセージの受信を」というインスピレーションでしたので、そのようにさせて頂きます。
ご迷惑かもしれませんが一通りお読みください。
私たちとしてはYさんの掲示板に投稿したいのですが、個人向けのメッセージを投稿することについては違和感をお持ちのようでしたので、まずはメールでお伺いします。

*** *** ***

○「見えない世界」に興味を抱き、あるいはそこに惹かれるものを感じ、あるいは喜びを見出す。今の自分(今までの自分)は、どこかまだ本当の自分と重なっていない、と感じている。自分のことを「本当に」分かってくれる者がいないと思っている。まだ知らない「何か」を確かめることができるような気がする。
 ――――これらのことにあなたは自分の姿を重ねるのではないでしょうか。「何か」を感じる自分や、「何か」を分かっていく自分があっても、その喜びを共有できる人たちが長い間見つからなかったのではないでしょうか。
「多くの人とつながっていくこと」は、現代は容易にできます。しかし、深い共感や分かり合える喜びはなかなか手にできるものではありません。それを人一倍寂しく思ってはいなかったでしょうか。
 霊的真理を学んでいくことは、あらゆる地上的なこと、あらゆる自分なりの感情を越えて、確かに自分を守り導き、全てを受け入れてくれる存在を確信し、そのことによって、自らの人生を見る眼差しが変わるところから始まります。
そして、その確信を、共に地上に生きる「人の心」のなかにも見出せた時、人は人と共に生きることを喜びとできるのです。信頼も、尊敬も、共感も、それらのなかに含まれます。

○あなたがたくさんの知識を得ながらも、どこか自信を持てずにいたのは、本来つながっていくべき「喜び」に、まだ触れられずにいたからでした。
 しかし今回あなたがひとつの「いのち」と関わり、その「いのち」を癒したことが、あなたには大きな転機をもたらすことになった、それに気づいているでしょうか。
たとえそれが小さな「いのち」であれ、人間であれ、その「いのち」に対して、ひたすら優しい心を注ぎ込むこと、それがその「いのち」の灯を再び燃え上がらせたのです。あなたの「心」が「祈り」が「願い」がその「命」に通じたのです。ただ手を触れ、さすっただけではなかったのです。その「いのち」に向けて、あなたの「心」を通じて「癒し」のエネルギーが注ぎ込まれたのです。相手を、「いのち」を思いやる心を高めたことで、その通路が広がったのです。病を癒すほどに。
この先あなたが関わるたくさんの人々、今まわりにいるたくさんの人々に対して、同じような「思いやり」「優しさ」の心をぜひ向けて頂きたい。もちろん「今までもそうしてきたつもりだった」と思われるでしょう。しかし、同じようでも違うのです。「通ずるのだ」(分かってもらえるのだ)という確信・実感を持った後では。
 実際の肉体的な病を持たない人でもきっとその人の「心」が安らいだり、元気が出たりするでしょう。何かの痛みを訴える人には躊躇なく触れてあげてください。願いを込めて。もしも一度では変化がなくとも、がっかりせず、また試みてください。「その思い」が大事なのですから。

○今回実感できた喜び、癒しのエネルギーということ、それらを役立てていこうという意志を自分のなかで強く持って頂きたい。癒しの力とはその人の意欲や思いによってさらに強くなり、変化するものなのです。癒しもまたスピリチュアリズムの実践のひとつ。それを経験していく喜びが新たにもたらされたのです。
以上です。

 


過去ログの目次心霊学研究所トップページ