心霊学研究所

(期間限定)悠々塾問題特設掲示板

悠々塾問題専用の期間限定特設掲示板。過去ログ(その6)です。

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1140 15 Y.O.さんへ
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月19日 (水) 22時28分27秒

 15 Y.O.さん、はじめまして。と言っても、もうさよならになってしまいますが。。
あなたはとても新鮮で正確な視点でものごとを見ていらっしゃいますね。どうかそのような心をいつまでも大切になさって下さい。
15 Y.O.さんwrote:
|興味を持ってまだ日の浅い私など、興味津々ですし、
|現代のスピリチュアリズムがかかえる問題の根幹にさえ
|関わっているように感じられます。
まさにその通りだと思います。今回悠々塾を指導する霊団がさまざまなメッセージを投入してきたのは、日本のスピリチュアリストの実態に一石を投ずるためであると僕は解釈しています。霊団は言っています、「ここ(掲示板)で行われたことは、やがて世界中で行われることのヒナガタのようなものである」と。
 今、人類はかつてない程の大転換期にさしかかっています。スピリチュアリストに限らず、これから私たちは常に選択を迫られることになるでしょう。正か邪か、美か醜か、どちらかを選ばされる選択です。心を「自己欲」「執着」「プライド」などから解放させておかないと、正確な判断が難しくなるでしょう。僕はスピリチュアリズムをはじめ日本に降ろされている神示等、幅広く霊的真理を探究している者ですが、悠々塾発行の「地上人類の歩み」という本も、是非お暇があったら読んでみて下さい。きっと目からうろこが落ちると思います。

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1139 正男爺に
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月19日 (水) 19時27分59秒

正男爺さんへ、

あなたにメールを送りましたが、送信できませんでした。
偽のメールアドレスでした。
まさかそこまでとは思っていなかった私は、「甘い!」ですか?
「ついうっかりして間違えました」、とはもう言いませんね。万一そうであるならば、今度はそのままにしておかないで、ちゃんと訂正してくださいよ。大したことではありませんが、そこにはたらく心・動機の意味は大きいとあなたも知っていますね。シルバーバーチを熟読していることをひけらかしたいあなたですから。
しかし、この掲示板で浮き彫りにされていることは、まさにこういうことなのです。
「霊的真理」を知って、それでどうするのか、ということなのです。
「霊的真理」を学んで、それで人間として何をどう言い、どう行動していくのか、です。
あなたの場合はどうなのでしょう。

しかしそこまでのことをしてしまう、あなたの心は今、どんな状態なのでしょう。

もちろんメールアドレスだけでなく、あなたが書いたことはほとんどが嘘ですね。
あなたは、悠々塾のことなど実際には何も知らない。
霊能者の端くれか、受信能力があるのかは知りませんが、嘘もいい加減にしなさい。
ここまで来ると、自分の姿が醜く、自分でも見苦しいのではありませんか。
表の顔はすっきりと見せていても、その裏ではどんな顔をしているのでしょう。
(言い訳、お惚け、予防線、そしてするっと身を翻して、自分の立場を確保する。)
あなたは私をよく知ってはいない。あなたが当て推量で書いていることが、当事者の私たちにはわかるのですよ。下手な占い師の手法ですね。
あなたのような人と知り合った覚えはないし、だいたい霊能者なんて、悠々塾には来ない。私たちも働きのひとつとして霊界通信を受信しているが、私たちのことを「霊能者」というイメージで思っている人はいないと言っていいくらいです。そんな雰囲気のところではない。

そして、私たちは「多くの人を救った」、などとも言っていない。
(これは高橋さんにも伝えなければと思いながら、後回しになっていたことだ。)
もちろん、救いを求めている人を救って差し上げたい、とは思う。
そして、「救われた」と言ってくださる人もいる。
しかし、私たちのできたことは、せいぜい何がしかの喜びをその人にもたらせたことに過ぎないと思っている。それはあるときは、病の治癒であり、和解であり、ねぎらいであり、希望であり、人生の課題に向き合う勇気であったりもする。その数は高橋さんの言うように、何千人になっているかもしれない。しかし、私たちは、自分達が多くの人を「救って」きたなどとは思ってもいないし、口にしてもいない。
それは私たちのことを「よく知っている」人なら、誰でもが分かってくれているはずだ。
私たちは、あなたの言うような、そういう類の人間ではないのだ。
それに、メッセージに対する信頼は圧倒的だ。そこに提示された自分の課題に沿いきれない人は少なくないにしても、あなたのように言う人はほんの数人で、その人たちのことを私たちも覚えている。あなたは私のことを知らない。

私はよく悠々塾に繋がる人たちに言う。
「僕はそんなことのないようにするつもりやけど、もしも傲慢になっていたり、自分だけが正しいと思い込みかけたら、僕のためやと思って遠慮せんと言うてよ。人間は弱いところがあるもんやから」、と。
そして、私の周りの人たちは、そのときにはきっとそうしてくれるだろう。
そんな、人間としての信頼で結ばれている。
だから、信者だとか教祖だとか言って、決め付けたがっているあなた方の言葉はとても空しいものだった。一度来ればすぐに分かることを、自分達が思いたいように、誹謗中傷しやすいように、勝手に決め付けていたあなた方の言葉には事実も真実もありはしなかった。ただあなた方の心をおぞましくは感じてしまったが。

通信の受信も、自ら求めたものではない。自分がこんなことをするようになるなんて、思ってもいなかったし、願うどころの話ではなかった。
だから、堀江が通信を受け始めたとき、最も疑い、抵抗したのは私だった。
検証も厳しさを極めた。それは霊媒である堀江にも向けられ、普段の生活の中でも「自分なり」の何かが見えれば、徹底的に正した。
あなた方の言うように、いや、あなた方のように、デタラメでも、いい加減でもない中で、この働きを続けてきたのだ。
こんなことを言ってもあなた方には何も通じないのだろうが。

話は変わるが、「霊に聞け」「霊が教えてくれるだろう」などとばかり言う人がいる。
私たちを導く霊団は、ドラえもんの四次元ポケットではない。
私たちがねだる物を自由に何でも取り出せるわけではない。メッセージをいくら読んでも分からない人がいるようだから、改めて言っておく。
霊団は私たちを、のび太君のように甘やかしてくれないのだ。私たちもそれを望んではいない。のび太君は優しいからまだいいけれど、スネ夫やジャイアンの欠点ばかり掻き集めたようなキャラクターが、こともあろうスピリチュアリズムを掲げるこのHPを闊歩しているとは。
Mr.or Mrs.しろ。 あなたはもっと分かっている人なのに。

話を戻そう。
正男爺さん。
あなたは情けない嘘つき。自分を守るため、自分を肯定するために。
しかし、嘘と虚栄にまみれたあなたの投稿からも、幾つかの真実は読み取れる。

・まず、静岡県からの発信であること。
・有希さんに対して、私が「本当のことを言わねばならない」と伝えたことが、よほど気になっていること。
・スピリチュアリズムに誇りを感じていること。
・シルバーバーチを熟読していること。
・霊能力が自分にはあると言いたいこと。
・霊格が、高い低いにこだわりが強いこと。人を比べたがること。
・「ある女」についてすぐに思い当たること。
・あなたの思う「ある女」の出している「ニューズレター」なるものを愛読し、大きく評価していること。
・しかも、あなたの思う「ある女」と私とが電話で話したことがあることを知っているかのようだ。
(有希さんは、宮崎さんに「飯沼が、心の道場に、K氏のことで電話をしたことがあった。その電話の話を、悠々塾の機関紙に「霊界通信」として掲載した。道場の主宰者は悠々塾は低級霊に操られている。低級霊でも立派なことは言う。活動を止めるように」、と言っていた、とメールで伝えたのだった。私が電話をしたのは事実だが、K氏がほかでもトラブルを起こしていることを聞いて、そんなことがあるのかどうかを尋ねたのだった。ある霊能者集団と間違えて聞いた、という話には納得がいかない。しかし、私はそう言われたにしても、そのことをとやかく言っているのではない。快く思っていない相手のことを、ついそんな風に言ってしまうこともあるだろう。しかし、ここまで来て、霊的真理について意見を交わしているここで、曖昧にしてはならない、と言っているのだ。言い訳に嘘を用いてはいけない。私はもっともっと、真実について検証してきた。真実を語るならば、そこに人間の都合や保身のための嘘が入り込んではならない、と思っている。
有希さんのメールが公開されれば一目瞭然だろう。
だが、意趣返し、などをする気などさらさらない。
それとは別に、しろさんのことで引っかかっていることがあるのだ。しろさんの投稿は愛知県から発信されているという話を聞いた。シルバーバーチ教ともいえる熱烈な信奉者。シャープな論理展開。 しかも、それなりの立場。ペーパーバーチ氏や、有希さんとの親近感。Mr.なのか、Mrs.なのか。いずれにしても、まっすぐな人だ。
K氏のことにしてもそうだが、もしも中傷や意趣返しをしようと思うのなら、もっと前から人に言い触らしているだろう。しかし、悠々塾の人でさえ、ほとんどは事実すら知らない。ここでこう言うのは、もう明らかにすべきときが来たと判断したから。)

再び話を戻す。

・正男爺は、メッセージについてかなりのこだわりをもっている。

・それなのに、私のことは正直だとか、よくやっている、とかとも言っている。
もちろん大枠では否定しているが。
・あなたの言うことはなぜか、有希さんが今まで言ってきたことと重なっている。
(余談だが、不思議なことに彼女は、悠々塾の掲示板に掲載したK氏へのメッセージを読んで、2月26日に「厳しいけれどその通りですね。」と言うメールを私に送っている。ペーパーバーチ氏があれだけ口を極めて非難したものを。なぜ、彼に説明しなかったのだろうか。もちろん、彼女への2通のメッセージを送った後の話だ。)

・ペーパーバーチ氏に対してかなりの親近感を持ちながら、彼がまとめて書き込みをしたことには苦言を呈している。私の長い手紙の後、しばらくの間彼はペーパーを名乗っては投稿しなかった。(その期間に主に表面に出ていたのは有希さんだった。)
そのことに、正男爺は引っかかっているのか。

しかし、正男爺を名乗る人。
もうやめよう。
あなたが誰であれ、本当のあなたは今のようなことをしていていい人ではない。
シルバーバーチに学ぶどころか、ごくごく普通の人の道をも踏み外しているではないか。
自分の心をもう一度見つめてほしい。自分の陥ってしまっている世界を、自分が実際にしていることを、勇気をもって、しっかりと見てほしい。
カノンさんの言うように、私たちはシルバーバーチに学ぶ仲間じゃないか。
このまま転げ落ちていってしまってはならないと、あなたも思っているはずだ。
苦しいからこそ、今のあなたがあるのだろうが、ここで踏みとどまるのだ。
誰もあなたを責めはしない。否定もしない。
しかし、今のあなたを認めれば、あなたは道を見失ってしまう。
あなたは、やはり本当のことを言うべきだ。
言いにくい中で正直に言った勇気を、誰もが大きく評価するだろう。
それで埋め合わせもできるのだし、人としての道を身をもって示すことにもなる。

ここで断っておくが、私は「正男爺は××さんだ」などと断定しているのではない。
だから、「冤罪だ。濡れ衣だ」などと騒ぎ立てることは無用にしていただきたい。
あなた方の騒ぎ方は、大抵の場合、真実を覆い隠そうとする煙幕だ。
本人が告白すべきことであり、そうしないのであれば、それぞれに検証し、意見を交わし、さらに検証し、真実を見極めればいいことだ。

しかし、事実はスピリチュアリズムを大事に思い、「部外者は口をはさむな」とまで言う人が、天に唾する大嘘を吐き、人を欺き、陥れようとしたということだ。
このような不届きなものを輩出しないためにも、私は「偽名。匿名」をやめることを提案してきた。情けない話だが、こんな輩はほかにもいるのかもしれない。あなた方に人の霊性をとやかく言う資格のないことを、まず知りなさい。

「手が汚れているからこそ、スピリチュアリズムに学ぼう」、と私は言った。
しかし、自らの汚い心と汚い手で、スピリチュアリズムを穢してはならない。
猛省を促す。

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1138 やはりなんか変
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月19日 (水) 19時24分15秒

なんか変、だと私も思います。

9月14日、1086の有希さんの投稿に
「実は今朝、心の道場さんの方に謝罪の電話をしました。必要以上の説明をすれば余分なご迷惑をおかけすることになるので、ただ謝罪の言葉のみ伝えました。そのとき、「何があったかは知りませんが、これからも頑張ってください」と言ってくださいました。ということは、心の道場さんはこの掲示板の一連のことを全くご存知ないのではないかと思いました。・・・・・・・」

とあります。
事情を説明もせずに、「ただ謝罪の言葉だけを伝えただけ」と言うのもいかにも不自然な話です。それで謝罪する方の気がすむのかな、と思います。(有希さんの話が事実であれば、道場の人に濡れ衣を着せつづけていたのですから)

しかし、もっと不自然なことがあります。
ペーパーバーチさんの日記に、1年ぶりで心の道場さんに?をした。(謝罪と注文)
道場の人は「有希さんからも聞きましたが、どちらが正しいかは読んでいる人が判断するでしょう」と仰ったそうです。
そして、ペーパーさんも「道場の人は、ここでのやり取りを知らないんじゃないか」と言っています。(この項は、さっき更新されていました。再掲載を要請します)

これはやはり、変です。道場の人が悠々塾のことをどうこう言ったという問題ではなく、その裏に何かあるのではないか、と感じます。
それはもしかしたら、Mr.しろさんとも関係しているのかもしれません。
もしも、しろさんが、道場の主宰者なら、それは「Mrs.しろ」にならなくてはなりません。最初から、欺きがあったことになります。
しかもペーパーさんは、別の件で私が「牛若丸」を名乗ったことを「卑劣で信用できない」と、ハンドルネームのままで非難を繰り返しました。重いカバンを持った「たけうち」さんに何か意味があるのでしょうか。
「しろ」さんに対してはどうなのでしょう。
(ペーパーさんが実名を明かさない根拠めかしていたTor氏との件は、先方が反省しているそうです。当たり前ですが)

しろさんと、心の道場さんが全くの無関係ならば、道場さんには大変に申し訳のない話です。しかし、この国のスピリチュアリズムのあり方をめぐる話の中での事として、きっとお許しいただけるでしょう。
「霊的真理」について厳しく意見を交わす場において、無責任な偽名などもってのほか、・・と言ってくださるものと思います。

否定のための「検証」、「発言」ではなく、自らの信条に基づき、あくまでも「真実」を求め合う共通の姿勢がなければ、議論は空しいものになります。かみ合わないのは当然でしょう。
今からでも遅くはありません。
これまでの自分の発言に責任をもたせるためにも、主な発言者は名を名乗るべきです。もちろん、軽く感想を述べる方は、ハンドルネームのままで何の問題もないでしょう。主な発言者が、それを悪用しないのであれば。

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1137 へんだ!
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月19日 (水) 13時36分52秒

 15 Y.O.さんのご意見に賛成です。
 それにしてもへんですね。正男爺さん、しろさん、あなた達の正体はいったい誰なのですか?どうも不自然ですね。??。何かが明らかになってはまずいような、早く終わったことにしてしまいたいような、そんな雰囲気が感じられます。

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1136 検証について
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月19日 (水) 11時22分25秒

「検証」に対する私たちの見解は、すでにくり返し表明しています。
「全体を総合的に」「霊的真理に照らして」というふたつです。

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1135 閉鎖は残念です
名前: 15 Y.O.  投稿日: 2001年09月19日 (水) 10時51分37秒

「もうわかったでしょ」なんて高飛車な言い方せずに、言いたいことを言い尽くすまで続けさせてあげればいいのに。

だって、管理人さんの提案したような「人間の都合による実験」が、勃興期において、うまくいかない例はたくさんあったことは御存知ですよね。例えば十字通信の多くの失敗しかり、他界したスピリチュアリストの呼び出し失敗しかり、霊媒の物理実験の失敗しかりです。そして、科学者たちからそれら一度の失敗だけをあげつらわれて、詐欺師呼ばわりの対象とされてしまった多くの霊媒がいたことも。そして、高級な通信や霊的な物理現象が、霊界側のとてつもない苦労の末に可能であるということも。そして、そして、それでも徹底して実験していった大科学者たちのおかげで、今の私たちが多くの資料を目にすることができるということも。(って、最近聞きかじったばかりのことを知ったかぶりして恐縮ですが)
それを当然知っているはずの管理人さんが重い鞄を抱えて「どうです、すばらしい提案でしょ。」なんて、鞄の重さにひいひい言いながらも、ほくそ笑んでいるなんて、なんておめでたいのだろうと思ってしまいます。

そんな無意味な検証とやらで独りよがりな決着をつけようとするよりも、前言撤回をして徹底して討論させる懐の深さ(が、ご自慢なんでしょ?)を示してみてはいかがでしょう。まあ、当事者の悠々塾がもういいというのなら別ですが。興味を持ってまだ日の浅い私など、興味津々ですし、現代のスピリチュアリズムがかかえる問題の根幹にさえ関わっているように感じられます。

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1134 それぞれがもう一度
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月19日 (水) 10時30分27秒

 確かにかみ合っていないとは言えると思います。かなり多くの発言をしている僕にも原因はあるかも知れません。しかし、一つお願いしてよろしいでしょうか。
 誰とは申しませんが、「偽名で言うだけ言ってドロン」や「言葉の揚げ足取り」、或いは聞くに絶えない言葉づかい、これらはいかがなものかと思います。正直言って、読んでいるうちに吐き気をもよおしたり、ヤクザのイメージが浮かんで来てしまうものさえありました。こういう言葉を使う人が、ほんとにシルバーバーチを読んでるの?・・・と本当に不思議に感じました。僕も決して言葉づかいが良いとは言えませんが、お互い気をつけましょう。そして、どういう動機で、今、自分がキーボードを叩いているのかを、もう一度点検してみましょう。

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1133 あと2日弱
名前: 有希  投稿日: 2001年09月19日 (水) 02時11分13秒

小川さんの感想を読ませて頂いて、それに続いて私も書かせて頂くことにしました。
今まで掲示板上での議論は何度も目にしてきましたが、いつも同じ部分で引っかかっていました。

小川さんが、
> それぞれがそれぞれの論理の中にあり、噛み合っていない、という印象を持ちました。

と書いてくださいましたが、私がいつも引っかかってきたのもこの部分です。
ほとんどの人が自分の意見だけを述べ、相手の欠点は取りあげても相手の意見とか内容は認めようとしないという部分です。
それが高じて内容から外れた言葉の揚げ足取りになったりして、どんどん論点がズレていってしまうことが多いように思います。
そして、自分の側からしか述べないからよけいに噛み合わなくなるのでしょう。
そうしたことが原因だと思いますが、敵味方のように分かれてしまって、分かり合うどころかどんどん溝が深まってしまいます。

私は、議論は何かを得るためにするものだと思っていました。
ところが現実は、逆の要素の方が強いように思います。これは好ましいことではありません。
憶測だけで話を進めたり、論点と関係のない部分で足の引っ張り合みたいなことは慎まねばならないと思うのです。
ここでのやりとりも最初は得るものがたくさんあったけれど、他で見られた議論と同じ経路をたどっているようです。

議論から得るものがなくなり、それどころかマイナス要素が出た今、掲示板を閉じる良い機会なのではないかと思い、先日提案してみました。
ペーパーバーチさんはその意図を汲んでくださったようで、20日に閉めると言われました。
ところが、その後、皆さんの感情は更に動き続け、更に憶測が飛び交い、更に好ましくない方向へ動いているように思います。
正男爺さんの発言も私を擁護してくださっているように見えますが、憶測の域を出ていないように思います。
そういうのはいくら擁護してくださる言葉であっても、これは相手の方に対する言葉の暴力が多分に含まれていますから、決していい気持ちはしません。

掲示板が閉まるまで、あと2日弱の時間があります。
できるだけ気持ちを後に引きずらないように、シルバーバーチの霊訓に惹かれている者どうしのよい終わり方をしたいものです。

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1132 感想
名前: 小川  投稿日: 2001年09月18日 (火) 22時47分28秒

最後とのことなので、感想を少しだけ述べさせて頂きにきました。
確かに、平行線は平行線でしたよね。とてもきれいに分かれていました。
それぞれがそれぞれの論理の中にあり、噛み合っていない、という印象を持ちました。本題からそれて、いくつか疑問に思います。正男爺さんの『実は、ワシはあんたらのことをよう知ってますねん。なかなかでけんことやと思うてる。そやけど、一生懸命間違ったことしてるということを考えたことおますか。救われたと思うてる人も、それはたくさんいましたやろ。そやけど、傷ついて去った人はもっとたくさんいてまっせ。それをあんたらに言うてないだけや。自我自賛し過ぎるから、自分たちの悪いとこが見えへんのや。』というご発言は、どなたかがおっしゃていた、「思わせぶり」というのには当てはまらないのでしょうか。
けして具体的な話ではないと思いますし、事実かどうかも分かりません。
味方同士?が礼賛しあうのも悪いとは言いませんが、あまり表現として好ましくないようなものについて、お互いに、それを指摘するような発言があまり見受けられないのが、とても不思議でした。
また、吉崎さんの『まぶしいほど光るこの言葉。掲示板を見ていた皆が、高橋氏がこの後、どんな猿芝居を演じるかだけに注目していたの、知ってたかい。そんな皆の視線に気がつかなかったのは3人だけだった。いやあー、下手な猿芝居、拝見させていただきまして、結構おもしろかった。ありがとう。』というご発言についてですが、私はまったくそんな風には見ていなかったのですが、本当にみなさん、そうだったのですか?
もしも、ただ悠々塾をこきおろしたい動機により出た発言であるとしたなら、
味方側のどなたかが、その動機の不純さを指摘してさしあげてはいかがですか?いえ、これは、『そんな皆の視線に気がつかなかったのは3人だけだった。』というのが事実であった場合の話です。
気付かなかったのは、私を含め、4人だけなのかもしれませんから。
表面的に見える勝負に惑わされることの無い自分でありたいと思います。
もちろん、私は悠々塾の関係者ではありません。
A少年についての記事についてはいかがなものかと思いますし、いくつかの掲示板に「その内容については悠々塾の掲示板をご覧下さい。」と唐突に書き残していくのも然りです。
検証に加わる事はできませんが、私の中で悠々塾さんを見るのには時間がもう少し必要です。私も、その辺は慎重でありたいですし、本当のことを言うと、私も多忙で、なかなか本を読めません。時間と距離にゆとりを持って、見させていただこうと思っています。

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1131 宮崎氏よ
名前: 吉崎 建  投稿日: 2001年09月18日 (火) 22時37分44秒

宮崎氏よ、自分の乏しい知性でよーく考えなさい。

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1130 汝邪推すること勿れ
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月18日 (火) 22時27分15秒

吉崎さん
あなたに釈明する気などありませんし、その必要があるとも思いませんが、私が悠々塾の存在を知ったのはつい1、2ヶ月ほど前、それもネットを通してです。悠々塾の定例会に出席したこともないし、飯沼さんたちに直接お会いしたこともありません。そういう意味では、私もまたネット上の情報だけで悠々塾についての「判断」を下すという愚を犯しているのかもしれません。

まあ私の一連の書き込みが猿芝居のレベルだったことは認めますが、「あたかも悠々塾にとって第三者であるかのような風を装う」芝居ではなかったことだけは確かです。だって本当に第三者なんだから。

それにしても吉崎さん、これ以上醜態をさらすのは止めませんか。あなた以外にも醜い姿を見せつけている人はこの掲示板には十分すぎるほどいるのだから。

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1129 吉崎さんに
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月18日 (火) 21時55分01秒

あなたは、ひょっとして高橋さんが、悠々塾の関係者であるとおっしゃるのですか?責任を持ってお答えなさい。

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1128 もう一言
名前: 吉崎 建  投稿日: 2001年09月18日 (火) 21時34分27秒

そうそう高橋氏にもう一言、言うのを忘れてた。
>私は悠々塾の関係者ではなく… (9/3)
まぶしいほど光るこの言葉。掲示板を見ていた皆が、高橋氏がこの後、どんな猿芝居を演じるかだけに注目していたの、知ってたかい。そんな皆の視線に気がつかなかったのは3人だけだった。いやあー、下手な猿芝居、拝見させていただきまして、結構おもしろかった。ありがとう。

飯沼氏にも一言の感想。自作自演の英雄劇を演じているうちに、事実とフィクションの区別がつかなくなり、英雄になりきってしまったな。そりゃー、妄想に浸り切ってしまえば、だれだって一生懸命さな。ヒットラーだって人類のためと思って一生懸命だった。真剣だったんだから。これを病気というの。この手の人間の共通傾向は、自分だけが正しく、自分に反対するものはすべて悪と考え、すぐにむきにになって立ち向かっていく。飯沼氏は、本当にいい教師だった。(ただし反面教師な!)これもまた感謝。

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1127 真実
名前: 祐造&さき  投稿日: 2001年09月18日 (火) 20時46分51秒

悠々塾につながる者のひとりとして、また最初に(今年一月有希さんの掲示板で)ペーパーバーチさんの悠々塾に対する「あんな…」という発言に質問した当事者として、この掲示板のやりとりをずっと読ませてもらってきました。

私(さき)が悠々塾に出会ったのは一昨年の夏、親しい人の病気がきっかけでした。その時までスピリチュアルヒーリングがどんなものかも、その言葉さえも知らず、ただ激痛に苦しむその人に付き添ってヒーリングの場に同席することになりました。その時まで、私は霊界・魂の永遠性なんて考えたこともなく、というよりむしろ、そんなことを信じている人はなんて愚かなのだろうと考えていた人間です。その私が、知らずに同席したヒーリングの場での光景、そして受信されたメッセージの確かさが、その人に与えた感動を目のあたりにし、そこから始まった約半年にわたるその人の癒しの過程を共有することになったのです。その経験を通して、私は「人間は霊的存在である」という否定できない事実を知り、実感しました。同時に自分たちの生活をかけて、ただひたすら相談者のために献身される飯沼さん、堀江さんの生き方も。私は自らの病をつうじて私を悠々塾につなげてくれたその人に心から感謝しています。(付け加えると、その人は癌で二度の手術をこえて元気にしておられます。昼夜を問わない癒しのかかわりは、ただその人のための、金銭抜きの働きでした)。悠々塾に対し、皆さんが何を言われようとも、私のなかに生きているその事実、真実は消えようがありません。その真実が歪められるのを黙って見るに耐えず、ひとこと書き込みをさせて頂きます。

ペーパーバーチさん、有希さん、通行人さん、Mrしろさん、TMHさん、皆さんのおっしゃりたいことは、「悠々塾の飯沼・堀江が受信する霊界通信はデタラメだ」ということにつきるのではないですか。霊界通信に関しては、最初にペーパーバーチさんと話した時に、それぞれが自分の理性と、心で判断すればいいと考えているというように申し上げたと思います。今も同じ考えです。それを必死になって、あれは低級霊のしわざだとか、潜在意識の反映だとか…、否定されようとされている。通信が本当にデタラメでとるに足らないものなら、なぜそんな通信に心動かされ、信頼をよせる者を相手に、ムキになって「汚い手で触るな!」などとおしゃるのでしょう。しかも私たちは、自分たちの通信こそが正しいとか、自分たちこそがスピリチュアリストだなどとは、一言もいってないのに、ですよ。まるで、皆さんの「信じて」おられるスピリチュアリズムを脅かすものででもあるように、必死になって「デタラメ」を訴えられている。なんのためですか。シルバーバーチの語った真理は、後の一介の「デタラメな通信」によって、揺らぐようなものなのですか?
有希さんには以前に悠々塾のホームページの内容はあえて地上的なテーマにしぼっているので…と、本をおすすめしましたね。読んで頂けたのでしょうか。読むまでも、読んでみようとも思われなかったですか。通行人さんも、Mrしろさんも、本当に検証が目的なら、まずホームページ以外の出版物を読んでみたいと思われませんでしたか? TMHさんは、霊的な知識も私たちがこの世で実践し、役立ててこそ――という点で、思いをともにしてくださったのではないのですか? 皆さんはこの痛みにあふれる地上界で、多くの人と、ともに学び、役立つことの喜びを共有していきたいとは思われないのでしょうか。
皆さんは悠々塾の実際について知ろうとなさいましたか?(通信には何が書いてあるか、定例会にはどんな人が来て、どんなことをしているのか御存知ですか?)ネットの世界だけで、悠々塾の全てを判断されようとする、できるとおっしゃるのは、あまりに独善的で、傲慢ではないですか? その世界から出るのが怖いのですか? スピリチュアリストというのはそんな方々なのですか?

私は今回、皆さんが悠々塾の「霊界通信」に、これほどまでにこだわり、強烈な抵抗を示されたことに、スピリチュアリストを自称する方々の(全てとは言いませんが)、「自分の信じるものが全て」という、硬直した、排他的な姿をあらためて見せてもらったと思っています。この間の公開のやりとりはコピーして、ネットに関わる余裕も時間もない多くの知人に読んでもらいたいと思っています。それはいずれ、この国のスピリチュアリズムを語る時の貴重なテキストになると確信します。(そのときには、名前をあげさせてもらった皆さんとも、手を取りあいたいものです。)  芝本さき

■最後に、正男爺さんへ
嘘がつけないタチといいながら、大嘘をつく、あなたは誰ですか?
卑怯です。スピリチュアリズムを口にするなら、御自分のなさったことの意味は分かっておられますでしょうね。

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1126 もりふみさんへ
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月18日 (火) 18時44分06秒

人に質問するとき、人と会話をするとき、あなたはもう少し言葉づかいに留意することが出来ないのですか?出直してらっしゃい。

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1125 「われが来たのは剣を投ぜんが為なり・・・」
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月18日 (火) 18時38分00秒

カノンさん
>なぜなら、その文章にシルバーバーチに匹敵する波動が感じられないからです。人を非難する文章など、私には読めないくらいのひどい波動でした。そこが、今回の論点だったのだと思います。<

人は自分の従来の固定観念に合わないものに触れたとき、必ず違和感を感じます。それは必然であり、悪いことでも何でもありません。「波動」というのは便利な言葉です。自分の心の「波動」がメッセージの「波動」と合わないとき、受け入れがたく感じるのはもっともなことです。しかしそれはメッセージの波動が「低い」ことを意味しません。その逆の場合もありえます。

もりふみさん
>そう言えば高橋さん、「落とし前」発言は、とうとう最後まで訂正されないままなんですね。

訂正の必要を感じませんので…。それよりも、なぜあなたがそのことにこだわるのかの方に興味があります。あ、別に答えていただかなくて結構ですよ。

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1124 1112/1113/1114は「メッセージ」?
名前: もりふみ  投稿日: 2001年09月18日 (火) 17時36分26秒

 ペーパーバーチさんとこざかしいところがそっくりだという栄誉ある評価を悠々塾から頂戴したもりふみです。ペーパーバーチさんを凌駕したという高評価を得られる光栄に浴するかもしれませんが(笑)、掲記三通の投稿について、敢えて下記の如く私の思うところを発表することをお許し下さい。

 私は当初、「悠々塾」と署名のある投稿は「メッセージ」が主体であり(文頭の○マークがそのシルシであろう)、「飯沼&堀江」の署名がおふた方によるフツーの投稿だというおつもりだと思っていました(それでも何かヘンだなというところはありましたけれども)。でも、「悠々塾(飯沼&堀江)」という署名が出現したり、ないはずなのに○があったり、またその逆だったりで、一体この人たちは表現方法、何かを伝達するということに関して基準となる何かをお持ちなのだろうかと考えて混乱してしまいました。要するに整合性が欠落しているのです、表現・伝達の仕方という内容以前の事柄においてさえ(たしか、以前にもどこからどこまでが地の文でどこが「メッセージ」なのかが分からないという指摘もなされていたという記憶もありますが・・・)。

 掲記三通を拝読してますますそれがハッキリしました。やはり、悠々塾さん(或いはあなたがたの「霊団」)は混乱しているのだ、と。即ち、

 1112「ある女の物語」は「○つき」ですが、語り口がいかにも品がなくて下劣です。叡智とか気高さのかけらも感じられません。というよりもそれらの対極に位置する何の価値もない駄文です。さらに、「意志すること」を重視されるわりには、ここにこういう投稿をなさった「意志」がまったく分かりません(その「女」に言いたいことがあるなら、どうして直接言うということをしないのだろう)。この場にこういう投稿をするということの背景には、誰かへの薄汚い「意趣返し」以外に(もしあるなら)どんな「意志」があるのでしょう。

 1113は「ある男の物語」ということですが、これは同じ「物語」でも「○ナシ」ですから叡智や気高さが感じられないのは許容し得る(?)として、やはり、この掲示板を御覧になっている方々に対して何を伝えたいのかという「意志」や意図がまったく分かりません。一体何が言いたいのだろう。

 そして二通とも「物語」を標榜されていますが、そんな卑怯なことってありますか?どうして堂々と、これは我々がいま抱いている思いのすべて(或いは一部)を吐露したものである、或いは愚痴になりますが、読んでを下さい、と言えないのでしょうか?その方がよっぽどすがすがしいと思いますよ、ヘンに物語であるなどという小手先を使うよりは。さらに、これは余計なことかも知れませんが、これらの駄文は文学表現の一形式としての「物語」と言えるだけの要件を満たしていない(story tellingになっていない)以上、物語であるとは言ってはなりません。「物語」という概念を蹂躙することになるからです。あなたがたが、これは物語であると宣言したことによって、「物語」はおろか「愚痴」であるという地位すら失っているのです。私が駄文と断じる所以です。

 1114は「アラムさんへの回答に代えて」ですから、アラムさんに先立って内容について何かをコメントするのは憚られるので、いちおうの印象を述べるにとどめます。
 「○つき」で署名は「悠々塾」となっているわりには冗漫、冗長。その上、霊界通信にあるべき「凛」としたものが一切感じられません。いずれにしても、使われている「 big words 」はいかに立派でもポイントが伝わって来ないという意味で不愉快な文章であることは上記物語と同様です。


 これら三通の、読む者をして不快にさせる醜悪さはまさに悠々塾の混乱とどす黒い背景を如実にもの語っているようにしか私には思えません。悠々塾によって「真実を見きわめる目」を持った「貴重な人材」として高橋さんとともに認定(?)された宮崎さんのお言葉を借りれば「正邪、美醜は極めて明確」です。「貴重な人材」のお二人には、早いうちにそれに気づいて頂きたいと切望致します。

ps:そう言えば高橋さん、「落とし前」発言は、とうとう最後まで訂正され   ないままなんですね。

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1123 カノンさん、お久しぶりで〜す
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月18日 (火) 16時29分55秒

 カノンさんのご発言の中で、ちょっと違っているな、と感じる部分がありました。
|しかし、シルバーバーチ以上の霊ということに疑問
|を感じます。なぜならその文章にシルバーバーチに
|匹敵する波動が感じられないからです。人を非難する
|文章など、私には読めないくらいのひどい波動でした。
|そこが、今回の論点だったのだと思います。
とおっしゃっていますが、論点はそういうところではないと僕は思っています。
カノンさんには是非お伝えしたいことがあります。それは「霊界側の計画は進展している」ということ。もう一つは「霊界から現界への働きかけは多岐多様である」ということです。シルバーバーチは間違いなく本物の高級霊です。しかし、彼に固執してはいけないのです。このことをお話しし出すと長くなりますから止めておきますが、[1114]の「アラムさんへの回答に代えて」の中に適切な説明がありますので、その部分をもう一度注意深くお読みいただけたらと思います。(重複してしまいますことをお許し下さい)

■地上界の浄化の流れ
○霊界側の「計画」は人智を越えたものであるのはあなた方も御存知のことでしょう。それは人間に推し量ることができない、という意味だけを示すのではありません。人間の側の都合に合わせてのものではなく、まして人間の個人的な感情に合わせてのものでもない、ということです。どう思い、どう考えようとそれら全てを越えたところに「計画」があるのです。
霊界からの働きかけが盛んに始まった頃は、まず「受け入れられること」「その存在を認められること」が第一の目的でした。それが前提として定着しなければ、その後に続く働きかけは意味を成さなくなる、役立つことはないからです。そのために霊界側は、あなた方地上の人間に「合わせて」の働きかけをしたのです。霊界があることを、そしてそれがどういう仕組かを、そして霊界側の真の目的を、人間に分かりやすいように伝え、あるいは見せてきたのです。
未熟な霊たちからの紛らわしい「通信」や「霊言」ですら、幽界・暗黒界の存在を示すために容認致しました。地上界の浄化という計画がそうやすやすと遂行できるものではなく、時にはそれが阻まれそうになったことも知ってもらわねばなりませんでした。しかしそれは幽界・暗黒界からの働きかけのみならず、地上の人間の無知や不明のゆえんでもあることを、数々の通信は伝えてきました。自分たちが魂の進化の過程では、まだまだ低い段階にあることを知り、謙虚な心で神の御心に沿って生きるよう導きが続きました。「知ること」「知識を得ること」が人類の目醒めと変化の第一歩目だったのです。

○「知ったうえでどうするか」それはその人の意志に任されます。地上界の浄化はあくまでも人間の手によってなされるもの。知り得た知識を地上生活に反映させて生きようという意志なくしてはこの計画は遂行されません。霊的真理を知るだけ、語るだけでは変化も浄化ももたらされはしません。それに沿って生きる者がいて初めて、実践がなされたと言えるのです。
私どもはずっと伝えて参りました。「生きることは意志することだ」と。問題なのはどう意志するかです。知ったうえで何を目指して生きるかです。
知識を授ける段階は終わりました。優しく手を引いて「こちらですよ」と案内する段階が済んだのです。その時点で魂が目醒め、浄化に沿った働きにまい進し始めた者も少なからずおりました。しかし、人間の大半は自分たちの「今」にとどまる方を選んできました。今の暮らし、今の位置、今の状態、今の自分の気持…。本来ならば大きくその価値観が変わっていくはずなのに、その変化を自ら意志する者は少なかったのです。
あなた方も思い当たるでしょう。感動し、救いを見、喜びに満たされた「教え」に沿っては生きていない自分たちに。大いに共感しながらも、現実の自分の暮らし、生き方をそこに沿わせている者がいかに少ないか。
今のところ、霊的知識の使われ方は、霊界側の意図したものとは違っています。自分を大きく見せるため、自分を守り正当化するため、ごまかすため、つまり「自分のため」に使っている者が多いのです。人々への貢献どころか、自らのかげりを深めるために使っているのです。尤もらしい言い方で。これで地上界の浄化が進むのでしょうか。霊界側の目的は果たされるのでしょうか。

○地上界がやがて迎えるべき変化とは「価値観の大転換」を始まりとします。それまで人間が縛られ、あるいは基準としてきた価値観が変わるのです。(そのために数々の「通信」がもたらされたのです)。
新しい価値観とは何か。それは霊的真理を基準とするものです。「霊的真理」などという言葉は使わなくても結構です。人間が皆知っている「人はどうあるべきか」が全てなのですから。知っていながら「きれいごとだ」「理想にすぎない」と処理してしまっているもの、それらがもとになるのです。なぜならそれは、人間の感情を越えたものであり、それに基づいて生きるなら、地上界にかげりは生じないからです。人は互いに尊敬・尊重すべき、公平であるべき、人に優しく、人に親切に、助けあうこと、補い合うこと、…挙げればきりがありません。が、人間が皆「理想だ」としている心で生きた時、地上界は霊界と同様の世界となるのです。霊界はまさに喜びの世界であり、かげりはなく、あなた方が「理想」と思う心で生きる世界、それが現実の世界だからです。

○この新たな地上界を構築していくのは全て人間の意志です。霊界側の計画に沿って生きようとする者たちの意志によってなのです。霊界側は地上界の浄化に向けてその指針を提示します。もう手を引いて案内する段階ではなく、提示されたことに人間が沿っていくのです。しかし、これは言いなりになることではありません。「提示」するのは、人間の意志を尊重するからです。自分なりの感情を手放せず、それを守ろうとし、自分の都合でしか物事を見ない者は自らの意志によって、計画の進行・指針の提示に「沿わない」ことを選ぶでしょう。それでよろしいのです。自分が選んだことは自分で負うのですから。
人間への導きは絶えずなされています。地上界の浄化に沿った導きなのは当然です。そこでどうするのかはやはり本人次第です。たとえ何を選ぼうと、全ては神の喜びのなかなのですから、計画は休むことなく進行します。

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1122 正男爺さんへ
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月18日 (火) 15時59分18秒

斜め読みですが読ませて頂きました。あなたのメールアドレスも「masao」を使っていますから、御本名か、この投稿用に作ったものか、あるいは親しい人のアドレスを借りたものと思われます。
いずれにしてもあなたのような方を私たちは全く存じ上げません。(お名前からも、内容からも、その意地の悪さからも、まして霊能者の端くれなどと)。私(飯沼)のことを良く知っているというのは嘘です。静岡から発信されたようですが、目的は何ですか。あなたは本当は誰なのですか。
改めてコメントしますので、削除しないでください。

■カノンさんへ
私たちの霊団は「シルバーバーチ以上だ」などとは一度も伝えてきたことはありません。私たちも全く言っていません。私たちが感じている霊界もあなたと同じですが、それに加えて「偽りのない真実の世界」だということです。
いずれまた、改めて。

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1121 今まで読ませていただきまして、有り難うございました。
名前: カノン  投稿日: 2001年09月18日 (火) 12時53分56秒

「悠々塾」さんの掲示板を以前読ませていただいていた者です。その内容は、多岐にわたり、このように霊界通信をされている方もいらっしゃるのだと心強く思い、嬉しく思っていました。


ペーパーバーチさんの掲示板では、ほとんど二つに分かれて、平行線をたどることとなってしまいました。

私は、どちらでもないと思っています。悠々塾さんは、心を込めて、人のためになろうとし、真摯に霊界通信を伝えていらっしゃいます。
しかし、シルバーバーチ以上の霊ということに疑問を感じます。なぜなら、その文章にシルバーバーチに匹敵する波動が感じられないからです。人を非難する文章など、私には読めないくらいのひどい波動でした。そこが、今回の論点だったのだと思います。

多くの人は、霊界通信というだけで、特別なものだと思ってしまいます。霊からの言葉であるというだけで、そんなものかしらと思ってしまいます。・・・そこは、ある意味で想念の世界であり、不確実の世界でもあると思います。
死んで、霊になってからでないと本当のことは分からないと仰いますが、死んでも、自分の心と同じ段階にしかいけないので、とても狭い認識力だと思います。

霊になってさえも狭い認識力の私たちが、物質界にいてどれほどのことが分かるでしょうか。

私は、自分の分をわきまえることが大切だと、いつも思っています。自分の役割以上のことを望んだり、勘違いしたりすると、間違った方向にいきかねないと常に肝に銘じています。

私は、同じシルバーバーチを学ぶものどうし、手を取り合って、共に生きていきたいと思っています。一人一人の役割は違います。だからよいのだと思います。だからいろいろな人のお役に立てることができるのだと思います。
共に協調し、共に力を合わせ、共に補い合い、そして、それぞれが自分の役割を精一杯頑張っていく・・・それが私の望みです。

私が感じている霊界は、それぞれの個性があり、それぞれの役割があり、その個性を生かし、調和し、共に補い合い協力している、という感じなのです。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/1775/

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1120 長老の本音
名前: 正男爺  投稿日: 2001年09月18日 (火) 10時51分10秒

何がどう展開すんのかなあと、ハラハラドキドキしながら見てきたけど、高橋さんが「この掲示板を眺めながら様子を見守り続けている人たちにも一言。中立がいつでも正しいとは限らないのだよ。」って言うから出てきよりました。

最初は飯沼さんて素直で正直な人と思うてたけど、いや、正直過ぎるからやろか、どんどん墓穴掘りましたなあ。どんどん感情的になって、自分で自分のコントロールがきかんかんくなって、有希さんが自分の間違いや、って言うて謝ってるのに、まだ責めよりますもんなあ。執念深いというか、やんちゃ坊主がお菓子を買ってくれるまで駄々こねてるみたいなもんですな。有希さんは自分の非を認めて謝罪までしてるのに、あんたは自分の非を全然認めようとせん。それどころか、ちょっと弱みを握ったからといって食い下がろうとしてるのはヤクザのチンピラと大して変わりまへん。その執念深さが「意趣返し」と言われたあのメッセージによう出てます。それに、謝ってた内容は、大したことないやないですか。何をそんなに問題にしたいんや。自分たちが間違ったことしてないなら、何言われても、何を勘違いされても、ヘラヘラ笑ってたらよろしいがな。それが人間の器というものでっしゃろ。

それに、最後の二つのメッセージやけど、これにもあんたの執念深さがよう現れてますなあ。あの「ある男の物語」の人は、ほんのちょっとだけ悠々塾の批判をした人のことでっしゃろ。それに、「ある女の物語」もそうですわ。誰のことを言うてるかすぐにわかりましたわ。せやけど、その関係の人たちから見たら笑われまっせ。真理も何も知らん純な人たちならそのまま信じるやろけど、真理を知って己を知ってる人にはあの内容がまるっきりウソとは言わんやろけど、HPを読んだり電話で話したりして受け取った偏見のある印象にしか過ぎんてすぐわかりまっせ。自分にとって邪魔な存在というだけでああいうのを出してくるんやから、タチ悪いわ。やっぱ、執念深いなあ。ワシやったら、もっと肝腎な本人たちしか知らん事実を書きますわ。どっちにしても、飯沼さんが相当執念深い人だということが、これでようわかりました。

それと、なんで有希さんとある女のことが当たってへんか、あんたまだ気いつかんのか。有希さんもその女性も、あんたより霊格が上やから、どうやってあがいても、2人が今のあんたと同じレベルの霊格の時まではよう当たってたけど、今のことはどう逆立ちしたって当たりまへんで。しろさんと通行人さんのことも同じ理由で当たらへんやろ。ある男性のことは、まあまあ当たってますわな。宮崎さんも高橋さんもあんたより低いからよく見えるんですわ。何でそんなんがわかるかというと、ワシも霊能者の端くれやから、自分より高い霊格の人は見られへんというのがよくわかるんですわ。言うときますけど、今の時代で霊言が下ろせるとか、霊が見えるなんてことは大したことやないで。ワシなんか邪魔くそうてかなわん。悪いことは言わん。そんなの捨ててしまいなはれ。

もっと言いましょか。
飯沼さんたちは今まで一生懸命人を救ってきたと言うてるけど、それはワシも認める。実は、ワシはあんたらのことをよう知ってますねん。なかなかでけんことやと思うてる。そやけど、一生懸命間違ったことしてるということを考えたことおますか。救われたと思うてる人も、それはたくさんいましたやろ。そやけど、傷ついて去った人はもっとたくさんいてまっせ。それをあんたらに言うてないだけや。自我自賛し過ぎるから、自分たちの悪いとこが見えへんのや。

しろさんが言うてましたなあ。ワシはあれ読んだ時にすぐ、あっ、あそこの言葉や、ってわかりましたわ。そいで確認したら、あったあった。あれは名判断の一つですもんなあ。多分まだ見つけてない人が多いと思うから、教えときましょ。9巻の150ページや。みんな、しっかり読みなはれや。

検証に関しては、されて困るのはあんたらの方でっしゃろ。違いますか。ワシにはそう見えますわ。まず今までの一万枚のメッセージを検証しろなんて、よう言うわ。それより、ペーパーバーチさんが提案したこととか、アラムさんが調べてくれたやり方でやったらええ。もっとええのは、高橋さんと宮崎さんのメッセージを公開して、何がどう合ってたのかを書いてもらったほうが早いと違いますか。それとか、今まで当たったと言う人のメッセージを公開したらよろしいがな。宮崎さんも高橋さんも理屈は言うけど、結局飯沼さんの助けには何もなってないな。有希さんがメッセージは公開したんやから、高橋さんも公開したらどうや。そこまで擁護してるからにはメッセージを受けたことないとは言わせまへんで。もし受けていないのにあれだけのことを言ったのやったら、これほど無責任なことおまへんもんな。

それに、人の名前は間違えたらあきまへん。とくに「シルバーバーチ」と「ペーパーバーチ」の名前はよう似てるといっても、スピリチュアリズムを知ってる人なら間違えるはずおまへん。あ、そうか、高橋さんはスピリチュアリズムのことをよう知らないんでしたな。そやったら、これからはスピリチュアリスト同志の議論に口を挟むのはやめなはれ。それと、「霊的盲目」と言うてますけど、それは飯沼さんと高橋さんと宮崎さんのことや。「見えると言い張るところに、あなたの罪がある」ってな。

最初しろさんが検証のことを言い出した時は、あんたは必要ないて言うてたのに、みんなが必要ないって言い始めたら、やたら検証検証て言い始めたのは、コケにされたと思うてるからやろ。意地を張り過ぎるのは自分を惨めにするだけやで。変なプライドは捨てなはれ。それと、「検証に立ち会う責任がある」って言うてますけど、ネット上で起きたことはネット上で解決するもんや。もし実際に会ったら、検証だけでは済まんくなりまっせ。

飯沼さん、悪いことは言いまへん。いさぎよく引きなはれ。それはなんも恥ずかしいことでもなんでもないで。今の状態でい続けることのほうがもっと恥ずかしいで。あんたを偉大な人やと思うてる人が多いんやから、その期待を裏切らんようにもっと太っ腹のところを見せんかい。

しろさんと通行人さんの書き込みには、ワシはホンマに感動しましたわ。スピリチュアリズムはこうあるべきやったかって、腹にストーンと落ちましたわ。あんたらのメッセージには気色悪さは感じても、感動はせえへんもんなあ。

それと、ニューズレターはワシも読ませてもろてますけど、あれはよろしいなあ。人間の私情が入ってへんからピーンと霊界まで届くみたいやわ。あれを書いてる人は相当頭がええし、霊核が相当高いんやろなあ。どうやったって、あんたらが追い越せる人やありまへんな。こんなこと書いたら、またしてもあちらに対する競争心と嫉妬が大きくなるやろから、これぐらいにしときます。

おっと、調子に乗って本音を書き過ぎましたわ。飯沼さん、相当煮えたぎってますな。言い過ぎてすんまへん。せやけど、ワシは嘘がつけんタチやから仕方ない。ワシが今あんたの目の前にいたら、ワシは刺されてるかもしれまへんな。

そやそや、最後にペーパーバーチさんにも一言いわせてもらいます。マトコメはやめなはれ。忙しいのはわかるけど、たくさん書かんでもええから、マメに書きなはれ。掲示板は書くタイミングを逃すと価値はありまへんで。せやけど今回は大人になりましたなあ。あんたも前は飯沼さんと同じようにやんちゃ坊主やったけど、今回は大人でした。

ワシのにレスしてくれても、ワシはもう出てきまへんから、うまく心に治めてくれなはれ。
ほなここで退散しますわ。

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1119 宮崎さんへ
名前: 有希  投稿日: 2001年09月18日 (火) 10時04分23秒

宮崎さん wrote:
> 今は反発を感じようとも、心のどこかにメッセージの内容を置いておいて欲しいのです。

反発ではなく、違和感です。
メッセージに関しては、宮崎さんがそこまでおっしゃってくださるのですから、心に留めて置きます。

> 僕はあなたが真のヒーラーとして、世の中に大きく貢献して行かれることを願っています。

ありがとうございます。
徐々にですけど、その準備もしようかと思ってはいます。
必要な時期に、必要なだけ導かれるでしょうから、背後の計らいにお任せしようと思っています。

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1118 掲示板閉鎖に当たって
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年09月17日 (月) 23時31分11秒

いろんな意味で、とても勉強になったと思います。
毎日、ここを見るのが楽しみでした。
ペーパーバーチさん、皆さん、ありがとうございました。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

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1117 過去ログの精読を
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月17日 (月) 21時30分23秒

 正邪、美醜は極めて明確です。僕も「過去ログを公正な態度で精読する」ことをお勧め致します。よほどの霊的盲目でない限り、悠々塾の正当性は(それが分からなくとも誠実さまでは)、誰にでも分かるはずです。
■ペーパーバーチさんへの御礼とお願いです
 今回このような場を設けて下さり有り難うございました。掲示板の但し書きには正直不快感を覚えましたが、さまざまな意見を目にしながら、多くの人達に考える機会を提供して下さったことに感謝いたします。
 次にお願いですが、あなたが今後もスピリチュアリストとしてHPを運営して行かれるのなら、今までのようなゲスな雰囲気、中傷的な雰囲気について、それらを改善されるべくご一考下さい。
■有希さんへ
 僕は個人的には、あなたはいつか分かってくれる人だと信じています。僕は悠々塾の通信が本物であることを、別のルートを通して知っています。でもあなたは否定されるのですよね。メッセージの内容をご本人が強く否定される限り、それはそれとして謙虚に受け止めなければならないと思います。しかし、あなたとペーパーバーチさんの、この掲示板への投稿をじっくり読んでいると、逆にメッセージの的確さが第三者に伝わってきてしまいます。ですから、今は反発を感じようとも、心のどこかにメッセージの内容を置いておいて欲しいのです。
 僕はあなたが真のヒーラーとして、世の中に大きく貢献して行かれることを願っています。
■高橋さんへ
 あなたのしっかりとした視力と、投稿にあたっての動機に敬服いたします。人は神の分けみ魂をいただいている以上、誰にでも良心があり、善悪を瞬時に見分けるモニターが備わっています。したがって謙虚さと素直ささえあれば、人は間違った道を長きにわたって歩むことはないはずなのです。しかしながら、自分の欲、感情、プライドなどのかげりに阻まれ、そのモニターの声が聞こえなくなっている人たちがいます。彼らは自らの頭で作り出す理屈によって、さらに本当の自分を欺くことになります。そういう人が多い中で、あなたは実にしっかりとした視力で、真偽を見分け、この掲示板を静かに見守っている多くの人達に指標を示して下さいました。
 これからはあらゆるラベルを越えて、真実を求める者が手を結んで行かなければならないと思います。いつかお暇があったらメールをください。お待ちしております。

あっ、、最後に、□吉崎建さんに
 吉崎さん、ありがとね。お互いがんばろうね。バイバイ(^_^)/~

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1116 吉崎さんへ
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月17日 (月) 21時11分59秒

>>啓示が新しい形を取って訪れたとき、古い形に … 伝統的固執主義者でしょう。
>これはまさに悠々塾のメッセージが、新しい形を取って訪れた啓示であるかのごとく言っていることだよね。<

その通りです。

宮崎さんと並べてあなたに批判されたことは私にとって勲章です。

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1115 最後に二人の人物評
名前: 吉崎 建  投稿日: 2001年09月17日 (月) 20時34分39秒

この掲示板を見ていて感じたこと。宮崎護氏について。もりふみ氏が的確に述べたように、宮崎氏の投稿は、いつも議論の前提となる基本さえも踏んでいないということ、論理性のなさが際立っているーということ。自分がただ議論の仲間に入り込みたいだけで、馬鹿げたひっかけだけの投稿をしていて、見るたびに気分を害する。もっと知性的な手順を踏まなくっちゃダメ。自分のことを、宮崎はどこにも偏よらず、などとかっこういいことを言っているけれど、知性の乏しさ、論理性の乏しさゆえ、ひどい偏見を正論と思い込んでいることは回りから丸見え。宮崎氏が言っていることは、感性の鈍さから出た、悠々塾の霊界通信は高級霊だとの自分の思い込みだけ。自分の思い込みを正しいと自分自身で空しく言っているだけのこと。もっと知性と論理性と感性を磨くべきだな。

高橋氏について。高橋氏は自分の初めての投稿(9/3)もう一度見返すべし。
>悠々塾を通して与えられている一連のメッセージは、非常に純粋で高度のものだと思います
 まあ世の中には、下手物好きもいることだから高橋氏が、何が気に入ろうが自由だけどね。
>皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものとの直接の関わりもありません
 なるほど、高橋氏は、第3者としての客観的な意見を言っているという訳だ。しかるにだ、同じ投稿で、
>悠々塾は日本の良質なスピリチュアリズムの流れを現在進行形で受け継いでいるグループだと思っています
 と結論づけているんだよな。
>啓示が新しい形を取って訪れたとき、古い形に … 伝統的固執主義者でしょう。
 これはまさに悠々塾のメッセージが、新しい形を取って訪れた啓示であるかのごとく言っていることだよね。
 スピリチュアリズムと関わりのない人間が、スピリチュアリズムの流れを受け継いでいるというような、スピリチュアリズムの一番核心に関わる大それた問題について、ホントーに見事に判断できるものなのかな? そうした重要な問題に、どんな根拠があって判断を下したのだろうね。 高橋氏は、悠々塾の啓示は、スピリチュアリズムの高級霊の霊界通信より優れている、あるいはそれに代わる新しい啓示だという意味のことを言っているが、これ誰も首をかしげてしまうよねー。皆、当然高橋氏の明晰な説明を聞きたがっていると思うよ。まして高橋氏のように>皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものと関わりがない、とする人間が、どのような根拠からあんな重大な結論を導き出したのか興味しんしんだな。どんな説明をするのか待っているんじゃないのかなー。
オウム(オウム真理教じゃなく鳥のオウム)みたいに検証、検証などと、のたまっているより、自分の頭の中を検証するほうが先じゃないのかと思うけど。

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1114 アラムさんへの回答に代えて
名前: 悠々塾  投稿日: 2001年09月17日 (月) 19時39分17秒

地上界の浄化の流れ

○霊界側の「計画」は人智を越えたものであるのはあなた方も御存知のことでしょう。それは人間に推し量ることができない、という意味だけを示すのではありません。人間の側の都合に合わせてのものではなく、まして人間の個人的な感情に合わせてのものでもない、ということです。どう思い、どう考えようとそれら全てを越えたところに「計画」があるのです。
霊界からの働きかけが盛んに始まった頃は、まず「受け入れられること」「その存在を認められること」が第一の目的でした。それが前提として定着しなければ、その後に続く働きかけは意味を成さなくなる、役立つことはないからです。そのために霊界側は、あなた方地上の人間に「合わせて」の働きかけをしたのです。霊界があることを、そしてそれがどういう仕組かを、そして霊界側の真の目的を、人間に分かりやすいように伝え、あるいは見せてきたのです。
未熟な霊たちからの紛らわしい「通信」や「霊言」ですら、幽界・暗黒界の存在を示すために容認致しました。地上界の浄化という計画がそうやすやすと遂行できるものではなく、時にはそれが阻まれそうになったことも知ってもらわねばなりませんでした。しかしそれは幽界・暗黒界からの働きかけのみならず、地上の人間の無知や不明のゆえんでもあることを、数々の通信は伝えてきました。自分たちが魂の進化の過程では、まだまだ低い段階にあることを知り、謙虚な心で神の御心に沿って生きるよう導きが続きました。「知ること」「知識を得ること」が人類の目醒めと変化の第一歩目だったのです。

○「知ったうえでどうするか」それはその人の意志に任されます。地上界の浄化はあくまでも人間の手によってなされるもの。知り得た知識を地上生活に反映させて生きようという意志なくしてはこの計画は遂行されません。霊的真理を知るだけ、語るだけでは変化も浄化ももたらされはしません。それに沿って生きる者がいて初めて、実践がなされたと言えるのです。
私どもはずっと伝えて参りました。「生きることは意志することだ」と。問題なのはどう意志するかです。知ったうえで何を目指して生きるかです。
知識を授ける段階は終わりました。優しく手を引いて「こちらですよ」と案内する段階が済んだのです。その時点で魂が目醒め、浄化に沿った働きにまい進し始めた者も少なからずおりました。しかし、人間の大半は自分たちの「今」にとどまる方を選んできました。今の暮らし、今の位置、今の状態、今の自分の気持…。本来ならば大きくその価値観が変わっていくはずなのに、その変化を自ら意志する者は少なかったのです。
あなた方も思い当たるでしょう。感動し、救いを見、喜びに満たされた「教え」に沿っては生きていない自分たちに。大いに共感しながらも、現実の自分の暮らし、生き方をそこに沿わせている者がいかに少ないか。
今のところ、霊的知識の使われ方は、霊界側の意図したものとは違っています。自分を大きく見せるため、自分を守り正当化するため、ごまかすため、つまり「自分のため」に使っている者が多いのです。人々への貢献どころか、自らのかげりを深めるために使っているのです。尤もらしい言い方で。これで地上界の浄化が進むのでしょうか。霊界側の目的は果たされるのでしょうか。

○地上界がやがて迎えるべき変化とは「価値観の大転換」を始まりとします。それまで人間が縛られ、あるいは基準としてきた価値観が変わるのです。(そのために数々の「通信」がもたらされたのです)。
新しい価値観とは何か。それは霊的真理を基準とするものです。「霊的真理」などという言葉は使わなくても結構です。人間が皆知っている「人はどうあるべきか」が全てなのですから。知っていながら「きれいごとだ」「理想にすぎない」と処理してしまっているもの、それらがもとになるのです。なぜならそれは、人間の感情を越えたものであり、それに基づいて生きるなら、地上界にかげりは生じないからです。人は互いに尊敬・尊重すべき、公平であるべき、人に優しく、人に親切に、助けあうこと、補い合うこと、…挙げればきりがありません。が、人間が皆「理想だ」としている心で生きた時、地上界は霊界と同様の世界となるのです。霊界はまさに喜びの世界であり、かげりはなく、あなた方が「理想」と思う心で生きる世界、それが現実の世界だからです。
 
○この新たな地上界を構築していくのは全て人間の意志です。霊界側の計画に沿って生きようとする者たちの意志によってなのです。霊界側は地上界の浄化に向けてその指針を提示します。もう手を引いて案内する段階ではなく、提示されたことに人間が沿っていくのです。しかし、これは言いなりになることではありません。「提示」するのは、人間の意志を尊重するからです。自分なりの感情を手放せず、それを守ろうとし、自分の都合でしか物事を見ない者は自らの意志によって、計画の進行・指針の提示に「沿わない」ことを選ぶでしょう。それでよろしいのです。自分が選んだことは自分で負うのですから。
人間への導きは絶えずなされています。地上界の浄化に沿った導きなのは当然です。そこでどうするのかはやはり本人次第です。たとえ何を選ぼうと、全ては神の喜びのなかなのですから、計画は休むことなく進行します。

○私どもの霊団は「受け入れられること」を目的としてはいません。あくまでも指針を提示することを目的とします。認められるための「当てもの」をする必要など全くありませんし、問題とするところはあなた方の些末な個人的要素や項目ではありません。
今回の一連のやりとりは、わたしどもにとって何の傷も受けるようなものではありません。むしろ、かげりを隠していた者にとってはそこに光が当たり、それを人目にさらすことになったと言えましょう。
受信者たちにとってはこの先の働きのためにも、いい学びの機会となりました。飯沼は見せられ続ける「かげり」(論理も誠意も真実も通用しないほどの)に対し、心かげらせることなく対応し、道を示す機会でした。堀江は、いかなる否定・批判・中傷にも動ぜず伝えるべきことを受信し続ける機会となりました。ここまでの深い「かげり」に関わることは、この二人にとってさらに「働きへの力」を備えさせることに役立ちました。二人ともがそれを分かったうえでの関わりでした。
また、彼らにとっては「真実を見きわめる目」を持った者(宮崎氏、高橋氏ら)との信頼と尊敬の絆が結ばれたことは、喜び以外の何ものでもなく、共に働く者どうしとして、この先も手を携えて歩むことになりましょう。私どもの真意を汲み取り、公平公正な目を失うことなく、通信を、二人を見、さらに自分たちの学びの機会ともしてくださったことに対し、私ども霊団もそれを喜びと致しております。「貴重な人材」がこの二人につながってくださったことに感謝致します。
宮崎氏は「全体を的確に把握し、その対応は柔軟である」という秀でた力を持っておられます。しかし、その柔軟さが迎合あるいは甘さにつながらぬよう、それを越えて「さらにひとつ大きなところから包み導く力」としていって頂きたい。あなたの人間への眼差しの温かさは、多くの人の心に寄り添い導く者としてふさわしいものなのです。
高橋氏は、切れのある論理性とそこから展開されていく結論への道筋には確固たる力があり、それは揺れを感じさせないが故に人々の確信と信頼を得るでしょう。この先その「確固たる力」が、それを受ける者への圧迫感・圧力感とならないよう。真剣さと真面目さとに加えて、柔軟性(遊び心と受け取って頂きたい)を備えることで、あなたの人を率いる力は幅を広げていくでしょう。

○今回のやりとりは単に、私どもの霊団・送られる通信・受信者を攻撃・否定・嘲笑するものだった、というものではありません。地上界の浄化を押し進めようとする霊団、それを阻もうとする霊団、そしてそれぞれに共鳴する地上の人間、それらの者たちのやりとりの過程で、本物・本当のことが見る者(読む者)の目には明らかになった、ということです。光とかげりとはその本質をあらわにするのです。互いにふれ合うことにより、光は光であることが、かげりはかげりであることがはっきりと分かるのです。
そして、この先、いかなる否定や妨害があっても地上界の浄化は進行し、それに沿って生きる者と沿わずにとどまる者とは二分していく、ということも見えてきたでしょう。かげりを深めそれを露呈したそれぞれの者がこの先、何を選んでいくかは彼ら次第です。これは霊界側から見れば、この先の「地上界の浄化」のひな型であったといえましょう。このようなことは、いずれ地上のあちこちで、そして全体で起こることです。何かの出来事をきっかけに、浄化の流れに沿って進む者と、それに沿わずとどまる、あるいは逆行する者とに人々ははっきりと分かれるでしょう。

直接には参加しなかったものの、このやりとりを見守ったあなた方に一言付け加えます。
「今の自分、今までの自分にとどまろうとすること、守ろうとすることは、今回の地上界の浄化に沿って生きることに逆行すること。つまりは浄化の波にさらされることになります。人は何を目指し、どう生きるべきか、私どもはそれを提示し続けます。霊界側の計画、浄化のプログラムに沿って生きること、それを是非意志して頂きたい。計画を遂行するのはあなた方ひとりひとりです。」

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1113 ある男の物語
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月17日 (月) 19時35分40秒

唐突ですが「ある男の物語」をお読みください。

男はいつもそうだった。何か事が起こった時、大事なところ、最も肝心なことを正面から見ることができない。怖いのだ。自分の選択が誤っているのではないかと思うと。だからきっぱりと「こうだ」と意志を定めるよりも、ああも言える、こうかもしれない、として、誰かがはっきりとした結論を出すか、裁定が下るか、あるいは大勢が判明するのを待つのである。
さまざまな角度から考えているかのように見せながら、彼はずっと測っているのだ。どちらが自分にとって「いい」のか。だからいつもどっちつかずの中途半端であるように思われてしまう。それは、彼自身、自分のどうしようもないところとして知っているのだ。いくらたくさんの知識を得ても、それが役立つのは焦点を散らすために可能性をたくさん提供するためだけであって、導かれるべき結論に到達するためではなかった。
彼はいつも何かを引き比べ、選びながら生きてくるほかなかったのである。

なぜか彼はいつも比較の対象にされてきた。引き合いに出されることが多かった。何の関係もない場面で、「なんで自分のことがそこで言われなければならないのか」と思うことが何度もあった。結果的に、比較において彼が劣っている、足りない、力不足と評されることになり、(何の関係もない彼なのに、彼は)深く傷ついた。「頼まれもしないのに話題に出すな」と言ってやりたかった。しかし、それを言うのははばかられた。言えば負け惜しみを言っているように思われてしまう。だから、何を言われようと自分は平気、というスタンスを保ってきた。
しかしいつまでたっても彼は「手ごたえ」を実感できない。それは「揺るがぬ確かなもの」「強烈な輝きを放つ真実」に触れた時の喜びを知らない、ということである。だが、彼はそれを求めているのだ。その実感が欲しくて、そこにあるかもしれないと思える所を探し回っているのだ。
だから彼はずっと安心できない。探しているものに行き当たらないのだから。そして、比較されることを避けようとして自分なりの路線を作ろうとしてしまう。それまで得たもののなかから、当り障りのなさそうなものを用意して。
彼ほど「真理・真実」によって救われる者はいない。けれども彼は彼なりに「築いてきた自分」がいる。築いてきた知識は手放し難いもの。それが今までの彼を守ってきたのだから。それにしがみつきさえしなければ、彼は求めている実感を手にできるに違いない。
本来の彼は自由な心――発想・着想のユニークさ――を持つ者であり、新たにもたらされるものを受け入れていく柔軟さを持つ者であるのだ。今はまだ「自分が積み重ねたもの」に縛られてはいるが、彼自身の内なる欲求は必ずやそれを越えて「本物」に触れていく方を彼に選ばせるであろう。

彼がここまで「自らが築き上げてきたもの、積み重ねてきたもの」から自由になれず、「比較」によって心かげらせる経験を重ねてきたのは彼のカルマのゆえんである。
かつての人生で彼はその頃「真理真実」と評され定着していたものを、ひたすら一途に学んだ。彼にとっては学ぶことそのものが喜びだったのだ。知る喜びは彼の心を解放へ向かわせてくれるはずのものだった。そして教義に従い、それを自分の人生に重ねて生きようとしていた。そんな矢先だった。「新しい教え」を耳にしたのは。彼は自分のなかの何かが感応しているのを自覚した。しかし、その「教え」は今までの彼の学びとこの先の人生を否定し、無意味なものにしてしまうものだった。
直観的に彼には分かったのだ。そこに「真理・真実」がある、と。それまでのあらゆるものの基準を一変させるほどの「真理と真実」がそこにはあるのだ、と。
しかしそこで彼は躊躇した。今、ほとんどの者が否定し、受け入れまいとしているこの「新しい教え」に自分も沿っていいものだろうかと。これまでの自分の一切を否定し、新しく一から学ぶ勇気は彼にはなかった。自分を手放してしまうのが嫌だった。どちらを選ぶか。求めていた「真理・真実」か、自分が積んだ知識か。量りにかけるまでもないことを、彼は量ったのである。量るべきでない両者を量ったのである。
結果、彼は「新しい教え」に沿うことはなかった。迫害や抑圧に手を染めこそしなかったが、制止や反対も表明しなかった。
それ以降の彼にとって、もはや学ぶことは空疎なものとなった。「本物」に触れてしまったあとで見る不自由な教義には、何の輝きもない。むしろその歪みが手にとるように分かる。しかし、引き返せず、改めることもできない。彼は「自分の知識」を守ることと引き換えに「喜びのなかで学び、真理にふれ、それを実践して生きることの幸せ」を自ら遠ざけたのだ。

今回の人生で彼は飽くことなく求めるはずである。「本質・本物」を。しかし、カルマにより、それに触れてもなかなかそこに近づこうとはしないであろう。ただ、いずれは分かるのだ。なにが本物か、は。それは彼の魂の欲求であり、意志なのだから。
意味のない比較に心をかげらせた経験は、彼のなかに何があっても揺るがない確信が生じた時、癒されていくだろう。比べようのない確かなものを手にする喜びは、たとえ何によっても消されることはないのだから。
そうして初めて彼は彼として「自由」を実感できる。中途半端で不安定な気持などもうそこにはない。それまで積み重ねてきた知識は形を変えて彼の力となろう。比較において優位に立ったり、自分なりの路線を打ち出すために使うのでなく、「客観的な判断の材料」として彼のなかで役立っていくのである。

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1112 ある女の物語
名前: 飯沼&堀江  投稿日: 2001年09月17日 (月) 19時32分01秒

以下に綴られるのは、まだここ(掲示板上)に自らの「姿」を現していない女の物語です。読んだ本人が自分のことだと気づくのに長い時間はいりません。そこから彼女が自分の心の姿に目を向けられるのかどうか…。もしそうできたなら、きっと真実を語る口、あるいは自らの至らなさ・誤りを認める口を以ってここに登場してくれるでしょう。今はまだ、黙って読んでいるにすぎない者であっても。

○「私にとって結婚は幸せなものではなかった。一方的に圧迫を受けながらがまんする日々の連続だった。耐えることに慣れてしまえば自分の心はコントロールできるはず。でも、それにも限界がある。私は救いを求め続けていた。」 そんな時、彼女が出会った「言葉」があった。それが彼女の心に染み入り、心に安らぎをもたらしてくれた。彼女は初めて希望を見出したかのように思えたのだ。
喜びによってつながったものを人は自らの宝だと思う。大切にし、磨き上げ、自分の心の拠り所としていく。

一方で彼女は自分がもっと多くを知ることで自分の居場所を確保できるように思ってしまったのだ。何か特別なものを手にしている自分、しかもそれは他の者たちと一線を画するようなもの。そこでは彼女が「救い」を感じた時の喜びは次第に歪んでいったとも言える。しかし彼女自身はそれに意識が向かわなかった。自分では「学びを重ねる喜び」のなかに身を置く幸せ、とばかり思っていたのだし、自分が救われ、喜びを感じたものを、もっと他の人にも伝えたい、広めたいとも思っていた。その思い自体は彼女の正直な気持にほかならなかった。しかし、半面危うさをはらんでいることなど彼女には思いも寄らないことだった。
自分が救われ、喜びを見出したものを信奉すると、それが本物であれば、それしか目に入らなくなる。それだけが絶対のもの、としか思えなくなる。「本物」を知ることで、より心が解放されていくはずなのに、彼女の心は逆の方向へと向かってしまったのだ。自分のなかに生じている矛盾に、彼女は気づいてはいない。

○思い返せば自分は「真正直に生きてきた」と彼女は思う。正直であるが故に損な目に遭い、傷ついたり、偽られもした。でも自分は常に「心の純潔さ」を失いたくなかったのだ、と。自分のまっすぐさに自信があったのだ。そして人は皆、そうあるべき、と思ってもきた。だから、まわりからは融通のきかない人だと思われたり、堅い、と見られたりもした。「でも私はそんな視線や受け取られ方にひるんだりはしない。私は間違ってはいないし、正しい心で生きている。誰にもひけ目を感じることなどない。」 その自信を裏付けてくれている、と彼女が思うのが「救い」を見出した数々の「言葉」である。自分はその言葉に沿って生きている、と彼女は自負している。その自負が生んだ狭量さと潤いのなさに気づいてはいない。学びを重ねることは、より厳格に自分たちを律していくことだとしか思えていない。そして、他の人々にもそれを求めてしまう。それ以外は違っている、として認められない。
救われることで手にしたはずの「心の自由」は、本当は彼女を豊潤な心に向かわせてくれるはずだった。しかし、彼女はあらゆるものを自分に、あるいは拠り所とするものに集約してしまったのだ。「絶対視」がある限り、制約されたなかでしか人生を生きられないこと、その窮屈さに彼女が気づけば「拠り所とするもの」をもっと違う目で捉えることもできよう。いつしか彼女は、自分が圧迫する側の者になってしまっていることに気づいてはいない。
愛と真実を謳うその言葉に沿って生きているならば、彼女は愛情を交し合う喜びにあふれ、さらに周囲へ向ける眼差しにその喜びが満ちているだろう。

彼女はいまだに分かってはいないのだ。愛と真実に生きる、ということが。文字を追い、それを記憶にとどめ、知識としての分量を増やすだけでは決して知ることはできない。真に敬虔な者とは、頭のなかで言葉だけで「教え」を操るのではなく、「教え」にかなった喜びを日々の暮らしに反映させようとする者のことである。彼女はもう気づかねばならない。愛と真理に生きようとし、しかもそれを人々に伝えていこうとするならば。今の自分の心が、いかに「こわばったもの」「潤いのないもの」となっているか。自分の言葉、自分の主張にそれが表れていることを。
人は誰しも喜びを求めて生きる。その喜びとは地上的なもの(肉体的なもの)から霊的なものに至るまで幅広い。肉体を持って地上に生きる者ならば、神から授かった心と肉体の全てを喜びで満たしてこそ、健やかなのである。本当の意味で「崇高な教え」なら、人々が共鳴できる喜びが必ずそこに含まれている。彼女自身から発せられるものには決定的にそれが欠けている。それでは人は救われず、心動かされず、もちろん「広まる」こともない。彼女の思いに叶った成果がないのはそのためなのだ。人々が悪いのでも、人々に聞く耳がないのでもない。

○気の毒なほど彼女は寂しい。こころ満たされる、といことを知らないのだから。自分のしていることへの自負心は人一倍強くとも、それによって彼女の人生が潤いと喜びに満ちているかというとそうではないからだ。
あらゆるとらわれから自身を解放し、真の自由をもたらしてくれるのが「霊的真理」である。それをもたらすのは唯ひとりではない。必要な時に必要なところへもたらされる。それに共鳴する者を通じて。自分が絶対と思うもの以外に「真実の力」を感じながら、それまでの自分の立場を固持するためにそれを認めないのは「本物」を恐れているから。自分だけのところに「本物」のラベルを置いておきたいから。
それこそが愚かなことであり、真理の広がりを阻むものなのである。ひとたび手にした「自分の立場・位置」は自分だけに意味があり、自分だけの喜びでしかない。
「獲得した膨大な知識は、あなたを縛るものになってしまっている。絶対のものと普遍的なものは違うのです。普遍的なものにつながったのならば、あなたはもっと柔軟に、そして柔らかな眼差しで、あらゆる物事を見ていけるでしょう。あなたが今回の人生で獲得すべき豊潤な心とは、そこから始まるのです。」

○彼女は自分のことだと分かっても、なかなか認めることはできないだろう。今まで自分が拠り所としてきたことを否定されるかのように受け取ってしまうだろうから。
「ほかのところで『本物』が出されるなんて嫌だ。」
「自分のところが最も『本物』を知っているのだ。」
「だから、どうしても認めたくない。認めるわけにはいかない。」
「そうやすやすと『本物』を手にできるわけがない。自分はここまで頑張ってきたのに、そんな力も能力も与えられてはいない。」
「くやしい。本当にふさわしいのは自分のような者なのに。」
「大して知りもしない者たちに、どうしてそんな力が与えられるのか。許せない。」
妬みも反感も、許し難さもくやしさも「自分はここまで一筋にやってきているのに」という自負心と、それが大きく認められてはいないことの裏返し。彼女のしてきたことに対して、霊界側からはすでに認められているというのに。
また「自分には与えられていないこと」をどうしても肯定・容認できないのは「自分もそうでありたいこと」の裏返し。望んでも得ることのできぬものもある、それを受け入れられずにいるのである。努力や精進の及ばぬもの、それを与えられている者への強烈な反感と嫉妬である。
 
○「自分のしている働き」だけを見て、その奥に隠れている動機や心の動き、くもりをないものにしてしまってはならない。学びや成長、進化向上を唱えるのであれば、自らの心の奥を点検する機会を持ち、その作業をしていかなければ。もうそれが全て済み、その必要はない、卒業した、という者ならば、地上で生きてはいないのだ。「自分の働き」に誇りを持つのであれば、それにふさわしい心で生きられよ。なされた仕事の数々は、大いに貢献したといえるのだから。

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1109 過去ログは残しておくように。
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月17日 (月) 07時10分23秒

霊的盲目。
この掲示板を見ていて、それ以外にいい言葉が思い浮かびません。
理屈を重ねて黒を白に言いくるめようとしているのか、それとも本当に見えないのか。

この掲示板で悠々塾を批判している人たちは、本当に悠々塾のHPを真剣に読んでみた上で発言しているのでしょうか。それとも、あらかじめ先入観を持って斜め読みしながら(あるいはまったく読みもしないで)「クリアに感じられない」とか「潜在意識のリーディングだ」とか言って自分の思考の枠組みに当てはめようとしただけなのでしょうか?

批判者たちもさすがに飯沼さんや堀江さんの、教えをひたむきに生きようとする誠実な姿勢までは否定できないようです。その上で、彼らの動機や働きを批判するのであれば、批判者には彼ら以上の誠実さと働きの大きさが要求されるのは自明ではないでしょうか。

ペーパーバーチさん、あなたはこの掲示板上で悠々塾以上のモラルをご自身が示したとお思いですか? 悠々塾が過去に行ったという何百何千もの人々の救済にまさる働きをあなた自身これまでになさったと堂々と主張できますか?

ペーパーバーチさんだけでなく、他にそう言える方がいますか?

先に「検証せよ」「検証せよ」と騒いでおきながら、悠々塾が検証に前向きな姿勢を見せると逃げてしまう。匿名の陰に隠れて面と向かってはとても言えないような中傷的な言葉を次から次へと浴びせる。もういいかげんにしなさいと言いたい。飯沼さんがあなた方のような卑怯者相手に辛抱強く道理を説いているのは、この国のスピリチュアリズムのためを思ってのことだということがまだ分からないのか。

この掲示板を眺めながら様子を見守り続けている人たちにも一言。
中立がいつでも正しいとは限らないのだよ。
私が学んでいる教えの中には、「正しい人が攻撃されているときに彼を助けようとしないのは学徒ではない」という教えがあるのだが、あなた方が崇め奉るシルバーバーチはそういうことは言っていないのかな?

今からあなた方にできる最良のことは、悠々塾のメッセージに公正な検証を加えて、それが「本物」だという確証を立てることだろう。もっとも、真に物の見える人は他者のお墨付きなど必要としないのだが。

建設的な確証作業に入る気がないのなら、私も、もうこの掲示板は閉鎖した方がいいと思います。ただし、過去ログを消したりはしないように。将来のために。
すでにいくつか消されている発言もあるようですが。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.01; Windows 98)itbs081n024.ppp.infoweb.ne.jp

1110 名前: ペーパーバーチ  投稿日:2001年09月17日 (月) 15時53分00秒
高橋さんのサイト(http://homepage1.nifty.com/pdo/)、拝見しました。KAZEさんちへのリンクがあるんですね。……友達の友達かぁ(^^;、あまり邪険にもできんなぁ……というわけで、誤解を招くといけませんので一つだけ。

この特設掲示板に移動してからは管理者権限による削除は一つもしていません。また「スピリチュアリスト掲示板」の時も、削除したときはその旨報告しています。後から「都合の悪い発言をこっそり削除していた」などと言われるようなヘマはしません(^^;。そもそもそんな都合の悪い発言なんて一つも見てませんし(^^)。
削除された発言があるとしたら、書き込んだ本人による削除でしょう。

なお、過去ログはもちろん、当サイトの過去ログのコーナーにて半永久的に公開し続けますので、ご安心下さい(八月分は既に公開済みです)。むしろ、自分の投稿は消して欲しいという要望があったとしても、その種の希望には聞く耳持ちませんので悪しからず。一度発言したことには責任を持っていただくのが当サイトの流儀です。(本人は削除したつもりの発言が、過去ログで復活して晒し者になってたりして(^^;)

……おっと、付け足しでもう一つ。我々は彼らが“救済”など出来ていないと言っているのですよ。

http://www.paperbirch.com/
1111 名前: ペーパーバーチ  投稿日:2001年09月17日 (月) 18時00分21秒
そういえば一個だけ削除してますわ。

悠々塾ともスピリチュアリズムとも関係のないホームページの宣伝が、ここだけじゃなく「スピリチュアリスト掲示板」「勉強会掲示板」の三カ所に同時に書き込まれていたのを、まとめて削除してます。まぁ、それだけですね、他にも忘れてなければ……ですけど(^^;ゞ。

http://www.paperbirch.com/


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