光のシャワーさんの投稿。たぶん、パソコンの入力方法の関係で「一塊」
になってしまったと思いますので、分けて書いてみました。
内容に関しては、おっしゃる通りだと思います。
ただ、「カルマ」という言葉(概念)は、仏教のものだと思うのでですが、
「シルバーバーチの霊訓」の中に、「カルマ」という言葉が出てきましたっけ。
手近にあるコピーには、「カルマ」という言葉は出てきませんが、どうでしょうか?
なにか「カルマ」という言葉を使うと、「我々はすべて、業を背負っている」という
重たいイメージになって、暗くなり、きりこさんが言われるような「大きな安心感」
が無くなってしまって、「シルバーバーチの霊訓」の持つ温かさや大らかさが
伝わってこないように思います。
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霊訓8に、あなたが生命を与えたのではありません、ですから勝手に奪うことは許されません、
生命は神のものです、とあります。そのように行動できずに、殺人を犯した場合、
自らの選択ゆえに責任が生じます。その責任は当事者が負うので、
私ごときがなにかにいいおよぶ状況ではないのかもしれません。
自爆殉教者がなくなったあとにも、心が開けないとしたら、テロリストや、
自爆者の集う境界で、更なる自爆への支援を行うことにもなりかねません。
スピリチュアリストの会まであるそうですから。
何の用意もなく霊界に来るものを導くのに、いかに苦労するかと、シルバーバーチは、
何度も繰り返して霊訓の中でのべておられますね。巻き添えでなくなった人も、
もし、殺したり殺されるだけのカルマがあったとしてもなかったとしてもです。
このごろは 殺さずにおわらせる、殺されずに終わらせる、ようにしていかなくてはならない、
という観点から私は霊訓を学んでいます。でなければ、人類の霊的向上は望めないと思うからです。
神は人の犯した悪の中からでも良いものを生かそうとしてくれている(自己を癒す道 ホワイトイーグル
)、つまりは、人殺しをしても、動機が純粋だとか、なんとか。
悲しみは、人を鍛錬します。
しかし、家族のなくなった場合、それがいかに悲しいことか。
以前 大天使という人が、亡くなった子供さんは天に召されて幸せになっているというような
記述をしていました。その発言はご記憶とおもいます。
自爆テロや殉教は、憎しみの再生産にしかなりません。
悲しみは、確かに人を強くはしますが、しかし、違うやり方で人は、悲しみを知り、
それに打ち勝っていくべきではないでしょうか。
たとえば 動物や人の命を救い損ねて悲しいとか。
あなたは私という観点に立つと、何でそれがあなたで私ではないのか、
ということになるといいます。人みな仲間だからです。この世からの平和に満ちた旅立ちと、
突然の旅立ちは公式は同じでも、出る答がずいぶん違います。
肉体から抜け出でる事象は同じでも状況も心持も全く違うのではないですかね。
以上書いてみました。 ペーパーバーチさんから知足さんと議論なさい、
とお勧めあって書いてみましたが、何か見当はずれみたいになってしまいました。
知足さん、ペーパーバーチさん、遅れてすみません。
ライトセーバーさん、知足さんにたいしてのように私にもご意見ください。
(光のシャワー)
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