心霊学研究所
掲示板の過去ログ

スピリチュアリスト掲示板

発言番号(親記事の)3151-3200の過去ログです。
(メールアドレスは、スパムメール防止のため過去ログ収納時に削除しています)

過去ログの目次][心霊学研究所トップページ


3200 ペーパーバーチさん
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 06時33分26秒

どうも・・・
私の銘柄もご多分に漏れず、あれからストップ安を連発して、5倍が3.5倍になったところで利食いしました。

ハワイ島は、ランカウイ島に格下げとなりました。(涙)

ところで、私が今一番期待しているのは、4296です。
是非、検討して見てください。面白いですよ。

ちなみに、私が利食いした銘柄は、売った翌日、ストップ高しました・・・・
(落涙)

 


3199 絶対的評価?
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 05時33分39秒

よくわかりませんが、私自身が、自分の実践のなかで、一番役に立っている利他行為だと思っているのは、「国境無き医師団」への寄付行為です。

ここに緊急支援することは、例えば今、シエラレオネやコンゴに一万円寄付すれば、本当に、最低でも数人の命を救うことが出来ます。

 


3198 ペ-パーバーチさん
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月29日 (水) 00時42分45秒

ペーパーバーチさん

僕の発言に対する長文にわたるコメント、お忙しい中にありがとうございました。
3189、3190については、いま思考中なので、ちょっと待ってくださいね(^^;

ということで、最初に3194についてお答えさせていただきたく存じます。

まず、3146の僕のコメントですが、ペーパーバーチさんも読んでくださればわかると思いますが、「ムズカシイ論なり」のくだりは、もともと3145のあまりさんの発言を踏まえたものです。
きちんと、番号をつけずにいた僕が悪いのですが、もりふみさんに対してはもともともりふみさんがけなすだけの方とは思っていません。

かつ、サラさんに対しては、僕も3100で見逃せないと思ったことは批判してますよ。
3192でペーパーバーチさんがおっしゃっていることについてです。

そして、僕はもりふみさんとの議論でも述べていますが、相手に対して思いやりからではない批判はあまり有効性はないと思うんです。

ですから、愛について誤解していると、自分では思いません。
哀れなやつと思って、もうすこしご説明いただければ幸いです。

「ムズカシイ論」は、先に述べた通り、あまりさんに返した言葉だったのですが、ペーパーバーチさんはあまりさんに対してはお腹立ちにならないのですね。
僕自身ができているかは、おそらくペーパーバーチさんのおっしゃるとおり論理的におかしいところが多々あるのでしょう。
3189と3190についてのちほどお尋ねしますので、いろいろ論理について教えていただければ幸いです。

>こう言っては実も蓋もありませんが、あなたのこの発言に論理はありません。ここにあるのは、甘ったれたガキが屁理屈で大人をやり込めたつもりになっている姿です。この後にも、臓器だ骨髄だと、どちらがどうでも論旨に影響を与えない部分を突付いて絡んでいるようですね。これによってあなた自身が「何が問題になっているか」という論旨を理解できていないことを露呈しているんですが、自分では気付いていない様子、哀れでさえあります。

この箇所は、ペーパーバーチさんのお言葉とはいえ、全面的には承服しかねるものがあります。
3146の僕のコメントが、確かに特定しなかったためわかりずらいのは僕の落ち度でありますが、
3145の直後ですし、その言葉を引いてることからも、3145に対するコメントであると受け取っていただけると思っていましたし、そういう意図でした。
ですから、屁理屈で大人をやりこめて、というのは正直言って、納得いかないんですよね。
3145に対するコメントだと僕が限定していないとしても、同様にどこにももりふみさんに対するコメントだなんてことも書いていないわけですから、それをもりふみさんに対する意見だとして、そんなに批判されても承服しかねるとしか感想をもてません。
あと、僕がもりふみさんに対して、臓器か骨髄か、ということを言ったのは、人を批判するなら、最低限批判する箇所のコメントぐらいは再確認してからするべきではないか、という主旨からです。
論旨に関係ないとしても、その前提に大いに関係あると思うんですけど。
そうした、論旨の議論に入る前の、確認事項や礼儀を確かめることが、哀れむべき愚かさなんですか?

もちろん、ここはペーパーバーチさんの掲示板ですので、僕はそこに書き込ませいただいている身です。
この場で、多々素晴らしい出会いに恵まれたことには、そういう機会を設けてくださったペーパーバーチさんに感謝しなければならないと思っています。
しかし、お邪魔なようでしたら、いつでも撤退しますので、その旨はっきりとお申し付けください。

 


3197 天命庵
名前: ははぎく  投稿日: 2003年10月29日 (水) 00時23分08秒

奇跡的な神のシリーズで芹沢文学は完成するのですが、品格と誠の人と生涯と
作品すべて・・・これらは、まるごと、おやさまが天命庵で神の道を説くための準備だったのだと思います。

霊能者の多くは、地上に浮遊する未熟な霊が憑依しているし、霊の世界に入り込むと、変になる人がほとんどなので、霊に関してはあまり関わりたくないと思っていました。もし芹沢文学を読まなければ、天命庵もインチキに違いないと思って、絶対行くことはなかったでしょう。厳しい実証主義者の光治良先生の神のシリーズに出てくる、おやさまと大徳寺さんとは、いったい何者だろう?本物だろうか?

「年納めの お日を いただける お恵みを 頂戴いたしました ありがたいことです・・・」10年近く前の12月28日、家人に天命庵で録音してもらったテープから流れてきた第一声でした。一瞬にして辺りの空気が変わり霊々妙々な一言一言に神詰まり、光のような衝撃に打たれて身動きできなくなりました。それにしても、なんという優しい声なんだろう?これが天理教の教祖なのだろうか?おやさまは、いつでも、どこでも、このように、永遠に変わらない真理を説き続けておられたのだろうか・・・

大徳寺さんの霊媒としての役割は生まれる前から計画されていて、18歳で神がかりになり、自分の歌や踊りや講演で生計をたてながら、ひたすらおやさまのお話を取り次いでおられます。これって、シルバーバーチとバーバネルに似ていますよね。大徳寺さんも素晴らしい方です。本に書いてある以上に素晴らしい方です。そうでないと、神の教えを取り次ぐことができませんものね。毎年クリスマスの頃に、銀座の鳩居堂で書展が開かれるのですが、この時が大徳寺さんと握手のチャンス!初めて握手した時は、こんなに心のこもる、あたたかい握手は初めて・・・と天にものぼる気持ちで、この手の感触は次の年のクリスマスまで消えませんでした。。でも最近は握手はないのですヨ・・・

おやさまのお話も大徳寺さんの歌も、毎日聞き続けています。天命庵に行ったのは、10年間にたった4、5回ですが、これだけで私の全生涯を満たすのに充分なものをいただきました。きっと、いつまでも飽きることがないだろうと思います。永遠に、大徳寺さんの歌声と共にいたい気分です・・・

 


3196 もりふみさん
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月29日 (水) 00時12分38秒

もりふみさん

長文のお返事ありがとうございました。

> 条件節の方(上)の中身が事実関係とは違いますね。サラさんは、「サラが原因でしたら・・・」と仰っているのであって、あなたの仰るように「ペーパーバーチさんの気持ちを自分なりに解釈」したということを仰っているわけではありませんよね。まして、自覚的にしたのかしていないのかも分からないその「自分なりに解釈」したという架空の事実について「謝って」おられるのでもありません。だから上記条件節の中身は事実誤認に基づくあなたの創作です。したがってそこから導かれる下の帰結節(下)は「偽」であるなどというつもりはありませんが、すくなくとも論理的整合性は消失しているものと考えます。その論理的整合性を捨象して帰結節について述べるなら私の見解は次の通りです。

ここ、何回読んでもわからないので、真に申し訳ありませんが、ご説明くださるとありがたいです(^^;
「サラさんが原因でペーパーバーチさんが書き込みをしない」とサラさんが推測していたということは、この場合僕にはどうしても、「サラさんの書き込みが原因でペーパーバーチさんが気分を害して、ないし書き込む意欲を失って、最近書き込んでいない」とサラさんが思っていた、ということと同じにしか思えないんです。
だから、そういう風に書いたんですが、事実誤認になるんですかね?(^^;

その後にペーパーバーチさんが書き込まれた内容を見ますと、全面的にもりふみさんのおっしゃることが正しかったようですし、ペーパーバーチさんももりふみさんに最大の信頼を置かれているようですね。
ですから、もりふみさんは全然傲慢ではなく、僕が間違っていました。

>そうかもしれませんね、いや、きっとそうです、その通りなのです。でも「思いやりのある言い方」というのは「思いやり」を持てる場合にしか出来ないものです、すくなくとも私の場合は。例えば、隠れた「思いやり」や「優しさ」を分かってほしい、みたいなインチキは私にはとても言えないので、私のもの言いに「思いやり」のなさや「冷たさ」を感じられるのは当然といえば当然です、本人としては「思いやり」を持っているという意識はまったくないのですから。開き直っているように思われるかもしれませんが(実際に開き直りですね、これは)、「思いやり」がないことを自覚しているのですから仕方ないですね。したがって、

>>ご自分の心をのぞいて、大霊に恥じることなく、自分はサラさんに対して純粋に愛に満ちた心を持っていたと言えますか?

 >という問いに対しては、もちろんNOです。しかし、どうしてそんな突拍子もない問いの立て方をあなたがなさるのかが私にはまったく分かりません。私が「自分の心をのぞいて、大霊に恥じることなく、サラさんに対して純粋に愛に満ちた心を持っていた」のだと主張したことがあるならばあなたの問いの立て方は適切ですが、私はそんなことを申し上げたことはありません。言ってもいないことに基づいて不適切な問いを立てられても、戸惑いながらNOと言う以外に私に出来ることはありません。私としては、「気に食わなければほっとけばいいだけの話」とするよりは多少は前向きの要素があるかなという気分であって、決して「純粋に愛に満ちた心」から申し上げたわけではありませんから。


僕は、もりふみさんが「何かに気がついても、それを敢えて指摘せずに何も言わないでいることがいつも「優しさ」を意味するとは私は思いませんし、あなたが仰るように「気に食わなければほっとけばいいだけの話」とするよりは多少は前向きの要素があるかな、と。」とおっしゃっていたので、指摘しないことよりは「優しさ」を求めることを志向しているのかな、と思っていたんです。
全くの僕の誤解でした。

しかし、僕は、やはり人を批判するなら思いやりからするべきで、それができない時は、怒りや気に食わないといった感情からの場合であれば、黙ってる方が「優しさ」や寛容であると思うんですよ。
僕は、サラさんが間違ってると思ったときは、3100でもちゃんと批判してますよ。
「気に食わないならほっておけばいい」というのは、舌足らずでありました。
「間違っているなら批判すればいい。しかし、気に食わないといった理由で、愛もなくけなしてはいけないのではないか」と言いたかったんです。
僕は、愛もなく、思いやりも持たない心から批判しても、あまり前向きな効果は期待できないと考えています。

 >そうかもしれませんね、いや、きっとそうです、その通りなのです。でも「思いやりのある言い方」というのは「思いやり」を持てる場合にしか出来ないものです、すくなくとも私の場合は。例えば、隠れた「思いやり」や「優しさ」を分かってほしい、みたいなインチキは私にはとても言えないので、私のもの言いに「思いやり」のなさや「冷たさ」を感じられるのは当然といえば当然です、本人としては「思いやり」を持っているという意識はまったくないのですから。開き直っているように思われるかもしれませんが(実際に開き直りですね、これは)、「思いやり」がないことを自覚しているのですから仕方ないですね。

同じスピリチュアリズムの仲間、と僕にはおっしゃってくださいましたよね?
サラさんもそうなのではないでしょうか?
仲間だったら、思いやりや愛を持つんじゃないでしょうか?
それに、スピリチュアリズムって、愛を説く宗教と思っていたんですけど。
「思いやりを持てない相手」って、そんなにスパって言い切ってしまっていいんでしょうか。
もりふみさん自信が、他人から思いやりに値しない人と言われたらどんな気分がするでしょう。
もっとも、これらはもりふみさんには全く有効性のない言葉の群れかもしれません。

> というのはその通りです。しかし私は敢えて、なかば意図的に確認作業を怠ったのです。何故なら、登録か手術か(骨髄か臓器か)ということは、私の主旨である『donationに対する相対評価(「〜のぶんだけまし」)を下してしまっているあなたの意識に潜んだ「思い上がり」が仲間として残念である』の前にはまったく重要な要素ではありませんよ、ということを言外メッセージとしたかったからに他なりません(敢えてクエスチョンマークを付した所以です)。

相手を批判する時は、批判する相手の言葉の該当箇所をしっかりと読んで確認してから行うのが、最低限の誠意だと思うのですが、いかがでしょうか?
言外にもりふみさんがそうしたニュアンスを最初から含ませていたとしても、普通わからないと思うのですが。
確認作業をする程度の労力と誠意を省くのは、相手を批判するのであれば、礼を失した態度ではないかと思います。

> については、これはあなたの誤認です。私は充分に「議論の経緯」を念頭においていますし、それを踏まえた上で(但し、「経緯」というものの影響を受けないview pointから-したがって、「蒸し返し」でも何でもない-)言っているのですよ。私のポイントは、あなたがきりこさんと「手打ち」をしようがするまいが、「からまれて頭にきていたこともあり、売り言葉に買い言葉の中で、述べた言葉」であろうがなかろうが、あなたの思考の中にはdonationに対する相対評価をおこなう座標軸が形成されているという事実が残念であるということなのですから。人間というものは、(強制されてという特殊条件下でなく)自発的に文字にして何かを記述する為には思考というプロセスを経なければならないものであると同時に、アタマ(意識・思考)の中にない(なかった)ことは決して自発的に文字に記述することは出来ないものなのです。「売り言葉に買い言葉」であったというふうに矮小化したい気持は分かりますが、思考というプロセスを経て文字に記述されていることには変わりないわけですから、あなたのアタマの中には既に、「単なる寄付」よりも「体を張っているぶんだけ『まし』だ」とするような相対評価の為の座標軸が存在していると思わざるを得ないのです。そのことが、スピリチュアリズム仲間として残念であると私が感じたことです。また今日、実際に尊敬されるべきすばらしいdonationをなさっていることを教えて頂いたこととも併せれば、二重に残念であると思います。しかし残念に思うのは私の勝手であり、主観であります。いかなる者の主観も、あなたのdonation行為の崇高さを貶めたり、その価値を減じることは出来ないことは言うまでもありません。しかし同時に、いかなるdonorも他のどんなdonationやdonorに対しても自らのdonationとの比較において云々されることはあってはならないでしょう、それを私は「思い上がり」だと申し上げたわけです。

なるほど、議論の経緯をしっかりもりふみさんが踏まえていたのであれば、僕の事実誤認でした。
僕に無意識の思い上がりも、多々あると思いますので、そのことについて諫言をくださることはありがたく思います。
しかし、ご自分のことはあまり語られずに、サラさんや僕を思い上がってると言われても、ご自分はどうなのだろうという疑問を禁じえないので、もりふみさんについてもっといろいろ語っていただければ幸いです。
ともかく、僕をスピリチュアリズムの仲間と思ってくださっていることは、大変嬉しく思います。

ただ、これが傲慢と言われる所以かもしれませんが、僕は、寄付といいますか、何かの実践には、相対的尺度とかいうことではなくて、絶対的尺度で高低があると思うんです。
きりこさんは、あとで休日返上で実践に奔走していると教えてくださり、立派な方だとわかることができたのですが、当初は僕に対して実践についてさぞかし立派なものをしてるんでしょうね、と尋ねてきたのに、ご自分はというと法を守るとか寄付とかそういうことしか尋ねても答えてくださらなかったので、そんなことしかしていないのに人に対してからんだりするのは納得がいかないっていう気持ちが強くあったんです。
そうした中で言った言葉なので、そんなにそれが傲慢なのかなぁと正直言って腑に落ちないんですよね。
もりふみさんの期待に背いて理解力が乏しいので、真に申し訳ありませんが、もう少し敷衍していただけるとありがたいです。
僕は、骨髄移植を二回したことに、自負を持っています。
傲慢というのは、根拠もなく他人を見下したり、自分のことは棚にあげて人を批判することですよね。
僕の自負は、やはり傲慢なのでしょうか?

 >歯に衣を着せない言い方ばかりしてしまいましたが、らふぃえるさんには我が意を汲んで頂けるものと確信しているからこそです。何卒御容赦願いたく。

いえ、なかなか理解力が乏しくて申し訳ないのですが、なんとかもりふみさんの意を汲みたいと思いますので、上記の僕の質問にお答えくだされば幸いです。

 


3195 芹沢文学
名前: ははぎく  投稿日: 2003年10月29日 (水) 00時00分17秒

「もりふみさーーーん!!」思わず心の中で叫んでしまいました。まさかここに芹沢光治良を語る方がいらっしゃったとは!!なんという驚きと喜びでしょう!!

大江健三郎や遠藤周作が讃えても、本当に芹沢文学の真実を知っているのだろうか?その賞賛の文を読んでも、私には物足りません。芹沢文学には、もっともっと偉大で深い意味がこめられていて、言葉に尽くせないものがあると思
います。

芹沢光治良は、自分は信仰をもたない、神を知らないと言うのですが、これほどまで神を知り神と共に生きた人は、いないのではないかと思います。とても厳しい自助努力の人でしたが、振り返ると、いつも神に護られ導かれた人生でした。地上での人間的努力のあるところ、必ず神の祝福があるのですね。芹沢文学は、どんな時にも挫けることなく強く生きていく力、誠実な心で一所懸命生きる時に、いつも神がいてくださることを教えてくれます。

芹沢光治良の作品で最初に読んだのは『神の微笑』でした。友人が無理矢理貸してくれて、義理で読んだのですが、最初はなんだかピンとこなくて、どこがいいのだろう?と思いました。やっと読み終わると次を貸してくれるんです。いやだな〜小説は嫌いなのに、と思いつつ読み終わると、また次を貸してくれるんです。どうして?もういいのに。。。気がつくと、いつのまにか夢中に
なって、友人から借りずに、自分で全部二冊ずつ揃えて、とうとう『大自然
の夢』『天の調べ』まで。その後、手に入る作品全部を夢中で読みました。

神のシリーズは天の文学ですね。それ以前のすべては地の文学ですね。神のシリーズの中でも、最後の二冊は、魂はほとんど天に帰っているのですね。天と地を行き来して、これから昇りゆく天の情景、地に於いては今まで生きてきた懐かしい光景が雲間に見え隠れして、幻想的な不思議さを感じます。神のシリーズの本の箱が、とても美しいですね。

神のシリーズを読むと絶対『人間の運命』を読みたくなります。壮大さに圧倒されてしまいました。きっと人生に絶望した人を、たくさん救ってくれたと思います。

『教祖様』
>この作品では、ときどき作者(芹沢翁)自身が感想めいた慨嘆を入れるのですが、その的確で正直なところは、教団外部の手ならではでしょう。

そうなんですよね!!この感想めいた慨嘆が、あまりに素晴らしくて素晴らしくて、感激して、いつも手にして読み返していました。

それから『懺悔紀』。

たくさんの随筆も。

作品全部。

とても表現出来ないですが、こんな感じ・・・

  ・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜★・。・。☆

私が芹沢光治良を知ったのは、亡くなったすぐ後の頃でした。もう少し早ければ東中野に行って話が聞けたのに。友人が本を貸してくれるまで、芹沢光治良のせの字も知らなかったんですよ。

(ペーパーバーチさんの後で、自分の貧しい文に愕然!でも、これで、精一杯なんです。恥ずかしい。。)

 


3192 RE:3099 偽ブランド
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 22時56分00秒

サラさん、どうも。

居心地の良い殻に閉じこもっていれば気持ちを掻き乱される事もなく幸せなのかも知れません。が、それでは成長は望めません。

あなたはスピリチュアリズムとは関係ないものをスピリチュアリズムのバイブルと紹介しました。それは“嘘”ですよね。間違いだったと言ってくれることを期待していたんですが「訂正はいたしません」とのことなので、ハッキリと断言します。あなたは意図的に書いた嘘を訂正もしない“嘘吐き”です。嘘を許容することがあなたにとってグローバルな視点だとでも言うつもりでしょうか? 恥を知りなさい。

それが本当に良いものだと思われるなら、どんな内容で、どこが良いと思ったのか、それをご自分の言葉で語るべきです。その説明がなるほどと思えるものであれば、それがニューエイジであるというだけの理由で排除することなどありませんし(ニューエイジにも良いものはあります)、良いものが広まる手助けが出来れば、この掲示板の存在意義も高まるというものです。そのために嘘を書く必要はありません。あなたの言動は、偽ブランド業者が「良いものを売ってるんだ文句あるか」と開き直っているのと同じです。本当に良いものなら、偽のラベルを付ける必要はないはずです。正しいラベルで、正々堂々と勝負して下さい。

それから、もりふみさんの指摘は全て正しいと思いますし、サラさんにとってとても重要な内容が多く含まれているハズです。それこそ何十回も繰り返し熟読して、よぉくご自分の言動を振り返ってみることをオススメします。老婆心ながら。  Thank you !!(笑)

http://www.paperbirch.com/

 


3191 RE:3067 利食い失敗しました(^^;
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 22時53分30秒

きりこさん、どうも。

しばらく調子イイと思ってたら、先週暴落してしまいましたねぇ。僕も最近になって新興市場の急騰銘柄を買っていたので、かなりの被害を受けました。過去4カ月分の利益が4日で消えましたから(>_<)。まぁ、既にそれから少しずつ戻ってきているようなので、胸をなで下ろしている所です。

今年の春ごろからディフェンシブ銘柄ばかり持ってたのがナカナカ上がらない(それでも2割ぐらいは上がってましたが)のに業を煮やして乗り換えたら、今度は面白いように上がること上がること。気を良くしていた矢先だったので、急落に対応しきれなかったという……まだまだ下手くそでダメですね。

それでも今回身をもって学んだのは、暴落局面でも、ある程度内実が伴っている株なら逃げる時間が与えられるということでしょうかね。僕は未練たらしく半分持ち続けて失敗しましたが、何度か売るチャンスはあった気がします。

対して業績の裏づけも何もなく、期待感や値動きの良さに釣られて買われていたような株は、ストップ安比例配分で数日続落。僕はそちらは怪しいと感じた瞬間に売ってましたから、本当に助かったと思います(^^)。もしも売ってなかったらと思うとゾッとしますね。

で、基本的にPERが低めの株であれば、下がり始めても利が乗っているうちに売れるでしょうし、ストップするということはまだ上に上がるエネルギーがあるということなので、持ち続けるのが良いのではないかと思っています。仮に翌日ストップ安になってもプラマイゼロですし……。本当は高値から何%下がったら売るとか、そういうルールが作れると良いのでしょうけど。もう少し経験を積まないと、そこらへんの適正値は銘柄やその時の相場の雰囲気によっても違うでしょうし、難しいのかなと思ってます。

それにしても、「買値から半年で5倍」……凄いですね。僕のはまだ2倍。りそなとか長谷工とか買ってれば、今ごろ新車が買えてたんだろうけどなぁ(実は今日、車が修理工場入り……)

http://www.paperbirch.com/

 


3190 RE:2931 詭弁と「トンデモ話検出キット」
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 22時51分38秒

らふぃえるさん、再びどうも。

|逆に、その思想を持つものの中に霊格の高いものがおれば、その思想には相当に
|霊的真理が含まれていると、よほど何か別の思想の影響がその人に見られない限
|り、みなせるはずです。

こういうのを詭弁と言います。そのようには“看做せません”。先日ご紹介させていただいた、カール・セーガンの最後の著書『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』に「トンデモ話検出キット」として、様々な主張の妥当性を検討するためのチェックリストが挙げられています。上記のらふぃえるさんの主張は、その中の〈相関と因果関係の混同〉に引っかかります。

  〈相関と因果関係の混同〉
  例:調査から明らかなように、大学卒業者には、それ以下の教育しか受けてい
  ない層にくらべて同性愛者が多い。したがって、教育は人をゲイにする。
  例:アンデス山系の地震は、天王星の最接近と相関がある。したがって、天王
  星が最接近するとアンデス山系に地震が起こる。
  (『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』より)

例:仏教を信じている人に霊格の高い人がいれば、仏教には多くの霊的真理が含まれている。
……引用した例とまったく同じ論理展開ですね。こうやって並べてみれば、このような論理展開がどこで破綻しているのかお分かりいただけると思います。
(他にも「〈証拠隠し〉真理の半面しか語らない」というのもあります。前にも書きましたが、唯物論者にも他のあらゆる宗教にも立派な人はいるわけですから、仏教徒に立派な人がいることは仏教に霊的真理が含まれている証拠にはなりません)

とは言え、僕だって何も「仏教には見るべきものなど何もない」などと主張するつもりはありません。ただ、それは程度の問題で、僅かばかりの霊的真理を拾い上げるために残飯の山をあさるのは非効率であるということです。

もちろん純粋に霊的真理を求めたいのではなく、学問的興味・知的好奇心から、仏教(その他の宗教)に含まれる霊的真理を漁ってみたいというなら、それはそれなりに有益だと思いますし、とても面白そうなことでもありますから、ぜひやってみれば良いとは思います。僕も聖書やら各種仏教聖典やらシュタイナーやら神智学やらいくつかの新興宗教やらを勉強してみたことはありますから。ただ、そういう勉強は、教養にはなっても、霊的真理を知るための役には立たなかったと、僕は感じています。どちらかと言えば、仏教なんかより科学の勉強でもしたほうが良いと信じます。
(正直に白状すれば、シュタイナーの本は何度読んでもさっぱりわけが分かりませんでした。勉強したリストに加えてはいけないかも(^_^;ゞ)


|>か?(キリスト教徒にも立派な人はいますが、それはキリスト教徒として立派なのでは
|>なくて人間として立派なのだ……という内容)

|該当する箇所を教えていただければ幸いです。霊訓の何巻の何ページがお教えください。

これは驚きました。あなたはスピリチュアリズムに欠けている部分を仏教を学ぶことで補えると考えているのではなかったのですか? そのように考える人が……いや、考えるだけでなくご丁寧にスピリチュアリズムの掲示板にしゃしゃり出て公言までする人が、なぜこんなシルバーバーチの霊訓の中でも有名な言葉(何冊かの霊言集で重複して紹介されている)さえ知らないのでしょうか? その程度の見識しか無い人が、知りもしないものに何が欠けているのかなど、どうして分かると思えるのでしょう?

ま、ともかくその種の霊言の一つをご紹介しておきましょう。(実は僕が考えていたのは別の箇所だったんですが、とりあえず見つかったところを(^^;)


  ――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリ
  スチャンも無数にいると思うのですが……
  
   そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメ
  なクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるという
  ことを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありませ
  ん。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもと
  に殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、
  魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。
  (『シルバーバーチは語る』九章 キリスト教のどこが間違っているのか)


|もちろん、歴史上の仏陀の死後数百年も経ってから、法華経や涅槃経は書かれて
|いるので、それを仏陀が書いたというのは、歴史的な視点から見ればあなたのお
|っしゃるとおりでしょう。
|しかし、もしその視点に立つのであれば、シルバーバーチの霊訓も、シルバーバ
|ーチが説いたものではなく、モーリス・バーバネルが説いたもの(あなたの言葉
|を借りれば「でっちあげ」)ということになります。
|一方にのみ歴史的視点から教理上の視点をでっちあげと論じ、他方を否定しない
|のであれば、甚だアンフェアなものと思いますが、いかがでしょうか?

あまりにも非論理的なので呆然としてしまいます。もういちど頭を冷やして考え直してみてください。歴史的な視点と教理的な視点を混同しているのは、あなた自身です。

僕は「法華経(などの大乗の教え)こそ真の釈迦の教えで、小乗の教えは方便である」という主張を否定したのであって、その教えの内容の良し悪しについては一言も言っていませんし、何百年も経ってから「本当はこういうことが言いたかった」などという(偽りの)主張をする大乗仏教の立場と、初めから「霊が語っている」とする(昔の著名な賢人の言葉と偽っているわけではない)シルバーバーチとではまったく別の話です。片方は(実質別物の教えであるにも関らず)釈迦という著名人のブランドに乗っかろうとし、片方は(野蛮な民族と思われていた)インディアンとして、むしろ偏見を背負ったところから言葉の輝きのみで勝負しようとした……これを同列に考えられるとは、あなたは本当に言葉の表面的な所だけしか見えない、本質を考えられない人ですね。

まぁ、歴史上の視点では僕の言ったとおりだそうなので(^^;それで良いとして、教理上はどうかといえば……阿含経などいくつかの原始仏典と法華経などの大乗経典を比較すれば、釈迦が語った哲学と大乗仏教は全くの別物であることは明らかです。語るに落ちたな、と思ったのは僕だけではないことでしょう。


|それに、キリスト教が大乗仏教に影響を与えたとは、資料的な裏づけがなければ
|絶対に言えないはずです。
|大乗仏教は、仏教内部で部派仏教に対する内発的な批判運動から起こったと見る
|のが通説なのですから。

ふむ、使徒トマスが云々なんて僕は一言も書いた記憶がないんですが……。あんなのは当然伝説であるとしても、当時既にシルクロードを通じて交易はあったわけで、何百年もキリスト教が伝わらなかったと考える方が難しいと思いますけどね。まぁ、キリスト教云々は事のついでに出しただけの話ですし、資料を出せと言われても難儀なことなんで、それは違うとおっしゃるならそれはそれで結構です。

僕の論点の中心は飽くまでも「大乗仏教と釈迦の教えは別物」ということですから、僕としてはキリスト教云々ではなく“らふぃえるさんのおっしゃる「仏教内部で部派仏教に対する内発的な批判運動から」過去とは違う新しい教えが創られたのであって、その内容はもともと釈迦が説いていたものとは全く別物であった”と言い換えても良いわけです。もちろん霊界からの影響力も働いていたことでしょうし、様々な理由が複合的に組み合わさって、ああいう教えが出来上がったのでしょう。


|思想的にも、空の概念を強調し、全ての人が悟りを得ることができるという大乗
|仏教の思想は、あまりキリスト教とは関係なさそうに思えます。

思想的にも、ある超常的な存在に帰依することで救われるとする大乗仏教の思想は、キリスト教とまったく同じに思えます。というか、空の概念とか悟りなんて、ほとんどの仏教徒は意識もしてないんじゃないかと思いますが……。(要するに仏教のイデアではないと思うわけです)

らふぃえるさんのように表層的な所を突付き回せば、釈迦の教えとの連続性を強弁する事は可能でしょうが、それを言ったらユダヤ教−キリスト教−イスラム教だって連続性はあるわけですし、冷静に比較すれば、やはり元々の釈迦の教えと大乗仏教は別物というのは、議論の余地がない事実であると思います。

もちろん「法華経とは霊界で考えが変わった釈迦の霊言なのだ」と書かれているなら話は別ですし、「釈迦の教えには飽き足らなくなって出てきた新しい教えである」と言うなら賛成も出来ましょうが、「これこそ釈迦の真意である(小乗仏教は物のたとえ)」などという主張には、それはやっぱり嘘でしょう?と言わざるを得ません。

(念のため補足的に言っておきますと、僕は大乗仏教の発生には、釈迦の霊ではなく、現在スピリチュアリズムにかかわっているのと同じ霊団……つまりイエス配下の霊団が関わっていたのではないかと思っています。が、もちろん根拠はありません(^^))


|僕が、このように大乗仏教を擁護する論陣を張るのは、何も単なる身びいきからで
|はありません。
|大乗仏教の持つ霊的価値を正しく評価し、活かすことがスピリチュアリズムの発展
|にとって大きなプラスになると考えるからです。

シルバーバーチの霊訓一つろくに読んでいない人が「スピリチュアリズムの発展」にとって何がプラスになるかなど判断できるとは思いません。今までにも何らかのすばらしい霊的教え(と本人が思い込んでいるもの)を携えて、これを取り入れることでスピリチュアリズムはさらに進歩する、だのという主張をする人間が何人も現れました。一人の例外もなく、スピリチュアリズムのスの字も理解できていない連中ばかりでした。

間違いの指摘は簡単です。特に僕が書いている程度の文章など、見る人が見ればいくらでも粗を見つけられることでしょう。しかし、何が欠けいる、何が語られていないという指摘をするには、もっと慎重さが必要なハズです。その程度のことも分からず、せいぜい何冊かの本と、しばらく掲示板の様子を見ただけの知識で、コレコレを加えることが重要だなどと演説出来る人間には、それこそ何か(謙虚さ?慎重さ?(^^;)が欠けているのではないかと思います。(もっと深く学んだ上でこの程度の認識だとしたら、もっと驚いてしまいますが(^^;)


|自分の衣の衿に宝玉が着いてる人がそれに気づかず長年他国をさまよい宝を捜
|し求めるという話です。
|日本のスピリチュアリズムは「衣裏繋珠」を忘れがちのように、僕には思われ
|ます。

スピリチュアリズムという宝玉に気付かずに仏教という国を捜し求めているのではありませんか?


だいぶ端折って書きましたが、それでも随分長くなってしまったので、まぁ、この辺で。

http://www.paperbirch.com/

 


3189 RE:2919 胡散臭さを感じるセンス
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 22時48分51秒

らふぃえるさん、どうも。大変遅くなりまして、今更という感じもする今日この頃ではありますが(^^;、一応コメントさせていただきます。

さて、まずはタデウス・ゴラスについて、ですね。

|あまりにも暴力とストレスの溢れたアメリカの読者層を主に念頭においているわ
|けですから、とりあえず自己肯定感を強く打ち出して、愛の大切さを説いたので
|はないかと思います。

百歩譲って「とりあえず」ということであれば、そこから先のステップがあることを示唆されていなければおかしいのですが、あの本のなかにはそのようなことは一言も書かれていません。それどころか、その先にあるべきもっとも大切な霊性進化の手段を完全否定していますよね。

また、LSDの使用に関しても、ニューエイジの世界では大麻やLSDにはほとんど害は無い(タバコより安全である)などという言説がまかり通っていますが、これらは一生涯後遺症が残る可能性がある「麻薬」であり、それらが手に入れやすい「アメリカの読者層を主に念頭において」書かれたものと考えれば、その危険性は日本でのそれを遥かに上回ると言うべきでしょう。何某かの良いところが皆無であるとは言いませんが、そのような危険性に目を瞑ってまで存在意義を認めてやるほどの価値があるとは思いません。


|いきなり霊的な真実を知らない人に、困難なトレーニングを言っても実践不可能
|でしょうし、初心者や自他に絶望している人間にわかりやすく易しい道を説くの
|もそれなりに意義のあることではないでしょうか。

あの本に書いてある方法で霊性向上しようとする事こそ「実践不可能」だと思いますし、確かに「わかりやすく易しい」内容と言えなくもないでしょうが、いくら分かりやすくても肝心の書かれている内容が間違っていたら意味がありません。

だいいち、分かりやすさ、実践の易しさでもシルバーバーチが遥かに上でしょう。「他人のために自らを役立てることをする」これほど簡単に始められることはありません(同時にこれほど奥が深く、多様で、実践の質を上げるのが難しいこともないのですが)。タデウス・ゴラスの本みたいに漠然と、愛が云々、スペース状態が云々、と言われても、僕にはまったくワケが分かりません(果たして分かる人がいるんでしょうか?)


|仏教では、教相判釈といって、どんな他人の思想や意見にもそれなりの段階的
|な真実は含まれていると考え、さまざまな意見についてその程度の高さや低さ
|を評価した体系づくりをさまざまなお坊さんが行ったといいます(空海の十住
|心論など)。

教相判釈《きょうそうはんじゃく》は元々宗派のではなく経典の分類だと思いますし、空海の十住心論《じゅうじゅうしんろん》は、結局他の宗派は密教よりレベルが下で救われないと言っているようなものなので(空海は若いときにも道教・儒教・仏教の優劣を論じていますよね)、キリスト教が他宗を異端と切り捨てると言っても、「あれはダメだ」と切り捨てるか「あんなのは低レベルだ」と貶めるかの違いで、特に仏教が素晴らしい論拠になるとは感じられません。キリスト教だって経典の優劣はやっているわけですし。


|僕としては、これはスピリチュアリズムだから良い、あれはニューエイジだから
|だめ、というような態度よりかは、これこれの思想の中にはこういう良い発想も

少なくとも僕は「スピリチュアリズムだから良い」とか「ニューエイジだからだめ」などという粗雑な決め付けをしているつもりはありませんし、スピリチュアリズムにも駄目なものがあることや、ニューエイジと呼ばれているものの中にも良いものがあることも何度も書いてきましたし、ニューエイジ的なものの“何が”“どのように”駄目なのかということも、嫌になるぐらい何度も書いています。過去の宗教にもそれぞれの時代・地域性に合わせた霊的真理が含まれており、レベルの違いはあるにせよ、それぞれに霊的世界からの働きかけが存在していること。いかがわしい新興宗教にさえ、それぞれに必要としている人がいるから存在するのであって、それぞれに存在意義はあるのだということも言ってきました。

そして、それは決して僕だけではなく、ほとんどのスピリチュアリストはその程度の認識には至っているハズの初歩的な知識に過ぎません。なぜなら、有史以来途切れることなく霊界が人類に働きかけてきた事を考えれば、スピリチュアリズムだけが唯一絶対の真理であるなどということが言えるはずがないからです。

ただし、同時にそれら(仏教やキリスト教など)の古い教えは、大多数の現代人にとっては到底信じることなど不可能な、言ってみれば賞味期限の切れた教えでしかありません。「古くたって食べ物だ」「食べられる部分はある」と仰るのには同意しますし、臭いをかぎながら選べば食べられる部分もあることを認めるに吝かではありません(^^;。しかし僕なら「これは大体大丈夫だ」とか「こっちは完全に腐ってる」なんて苦労して残飯をランク分けするより(だいぶイジワルな見方ですが、教相判釈って要するにそういうことですよね? あまり建設的には思えませんケド)安心して食べられる出来立ての料理を食べたいと思います。


|ニューエイジが必ずしも現実との葛藤に乏しいとは思えません。

それはニューエイジだっていろいろありますから。中には良いものもあるというのは以前から繰り返し言っている通りです。ただ、その良いものの中にタデウス・ゴラスの本は入らない(論外)と思いますが。


|これらを否定ないし無関心である人が大半の現代の状況を思う時、あまりニュー
|エイジを否定してかかるのは有益ではないのではないかと思う次第であります。

それらに否定的な人は、ニューエイジというものが胡散臭いものであると思っている人が大半でしょう。また当サイトでは、世の多くのニューエイジ的なものを“胡散臭い”と分かる程度の、健全な判断力(センスと言っても良いでしょう)と理性を持っている人を対象にしています。
「精神世界なんてみんな胡散臭いと思っていたけど、霊を信じる人の中にもああいうのの胡散臭さを分かる人もいるのか!」
そう思ってくれる人にこそシルバーバーチを知ってもらいたいと思っているわけです。

ニューエイジに好意的な言説に興味を引かれるような人、センスの無い人は、当サイトの読者にはいりません。それこそ、それぞれに存在意義があってニューエイジも存在しているわけですから、どうぞその手のサイトに行ってください。そんなのは掃いて捨てるほどあります。ここは数少ないスピリチュアリズムのサイトなんですから、よそでは聞かれない「なぜニューエイジはダメなのか」ということをこそ啓蒙すべきであって、擁護するなど百害あって一理程度あるかどうかであると思っています。もちろん異論はあるでしょうが、そういう人はご自分でそういうサイトを作れば良いので、僕がやるつもりはありません。


……さて、どうも書いても書いてもキリが無い感じがしてきましたので、こちらはこの程度で簡単に済ませて、#2931へのコメントに移ります。

http://www.paperbirch.com/

 


3188 らふぃえるさんへ
名前: もりふみ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 19時03分09秒

 らふぃえるさん、こんにちは。

 まず事実関係から。

>サラさんが勝手にペーパーバーチさんの気持ちを自分なりに解釈してごめんなさいと謝っていたことが傲慢というのであれば、
>同じく勝手にペーパーバーチさんの気持ちを自分で解釈して断言しているもりふみさんも「傲慢」になるのではないかと思います。

 条件節の方(上)の中身が事実関係とは違いますね。サラさんは、「サラが原因でしたら・・・」と仰っているのであって、あなたの仰るように「ペーパーバーチさんの気持ちを自分なりに解釈」したということを仰っているわけではありませんよね。まして、自覚的にしたのかしていないのかも分からないその「自分なりに解釈」したという架空の事実について「謝って」おられるのでもありません。だから上記条件節の中身は事実誤認に基づくあなたの創作です。したがってそこから導かれる下の帰結節(下)は「偽」であるなどというつもりはありませんが、すくなくとも論理的整合性は消失しているものと考えます。その論理的整合性を捨象して帰結節について述べるなら私の見解は次の通りです。

 書き込み者の誰かが「原因」で当の掲示板運営者が書き込みを控えるということはないと(当事者に「確かめもせず」「頼まれもしないのに」)断言することがあなたの仰る「傲慢」にあたるのなら、そうです、私は「傲慢」そのものです。しかし私自身は、そう断言することが「傲慢」にあたるとはまったく思っていないのです、これについては残念ながら「見解の相違」というヤツだとしか言えませんね。「確かめもせず」については、当の御本人は、当該運営にあたっては独裁的恣意性を高らかに掲げるという(失礼ながら)専制君主(笑)であることは先刻御承知でしょう、そんなペーパーバーチさんに「最近、書き込みが少ない」のは「〜の原因」ですかと確認しようとすることは、そのこと自体が運営の基本原則である「恣意性」への疑念表明でもあり、冒涜行為にも等しいと私は思いますので、「確かめも」しないことはむしろ謙虚でさえある(笑。但し半分本気)と考えますが如何でしょうか。そしてくどいようですが、私のサラさんへの指摘は、『自らが「原因」だとしたら』という発想そのものに傲慢さが潜んでいますよということであり、それに気づこうよ、というのが意図するところであったわけですから、どう考えても私には自らが「傲慢」だとは思えないのですが・・・。

>だったら、もう少し思いやりのある言い方をしてもいいんじゃないですか?
>なんとも相手を嘲弄するような冷たさを感じて、そんな言い方をしなくてもいいのになぁと思いました。

 そうかもしれませんね、いや、きっとそうです、その通りなのです。でも「思いやりのある言い方」というのは「思いやり」を持てる場合にしか出来ないものです、すくなくとも私の場合は。例えば、隠れた「思いやり」や「優しさ」を分かってほしい、みたいなインチキは私にはとても言えないので、私のもの言いに「思いやり」のなさや「冷たさ」を感じられるのは当然といえば当然です、本人としては「思いやり」を持っているという意識はまったくないのですから。開き直っているように思われるかもしれませんが(実際に開き直りですね、これは)、「思いやり」がないことを自覚しているのですから仕方ないですね。したがって、

>ご自分の心をのぞいて、大霊に恥じることなく、自分はサラさんに対して純粋に愛に満ちた心を持っていたと言えますか?

 という問いに対しては、もちろんNOです。しかし、どうしてそんな突拍子もない問いの立て方をあなたがなさるのかが私にはまったく分かりません。私が「自分の心をのぞいて、大霊に恥じることなく、サラさんに対して純粋に愛に満ちた心を持っていた」のだと主張したことがあるならばあなたの問いの立て方は適切ですが、私はそんなことを申し上げたことはありません。言ってもいないことに基づいて不適切な問いを立てられても、戸惑いながらNOと言う以外に私に出来ることはありません。私としては、「気に食わなければほっとけばいいだけの話」とするよりは多少は前向きの要素があるかなという気分であって、決して「純粋に愛に満ちた心」から申し上げたわけではありませんから。

>まず、誤解のないように言っておきますが、僕は登録ではなく、実際に二回移植の手術をしました。かつ、臓器ではなくて、骨髄です。

 そうですか、骨髄移植のdonorを二度もなさったのですね。すばらしい。なかなか出来ることではないですし、そういうdonationをなさったことには素直に敬意を表したいと思います。御苦労さまでした。

>まず、僕の言っていた内容について、不確かな把握しか持たず不正確なままで、

 というのはその通りです。しかし私は敢えて、なかば意図的に確認作業を怠ったのです。何故なら、登録か手術か(骨髄か臓器か)ということは、私の主旨である『donationに対する相対評価(「〜のぶんだけまし」)を下してしまっているあなたの意識に潜んだ「思い上がり」が仲間として残念である』の前にはまったく重要な要素ではありませんよ、ということを言外メッセージとしたかったからに他なりません(敢えてクエスチョンマークを付した所以です)。

>しかも議論の経緯を無視して、

 については、これはあなたの誤認です。私は充分に「議論の経緯」を念頭においていますし、それを踏まえた上で(但し、「経緯」というものの影響を受けないview pointから-したがって、「蒸し返し」でも何でもない-)言っているのですよ。私のポイントは、あなたがきりこさんと「手打ち」をしようがするまいが、「からまれて頭にきていたこともあり、売り言葉に買い言葉の中で、述べた言葉」であろうがなかろうが、あなたの思考の中にはdonationに対する相対評価をおこなう座標軸が形成されているという事実が残念であるということなのですから。人間というものは、(強制されてという特殊条件下でなく)自発的に文字にして何かを記述する為には思考というプロセスを経なければならないものであると同時に、アタマ(意識・思考)の中にない(なかった)ことは決して自発的に文字に記述することは出来ないものなのです。「売り言葉に買い言葉」であったというふうに矮小化したい気持は分かりますが、思考というプロセスを経て文字に記述されていることには変わりないわけですから、あなたのアタマの中には既に、「単なる寄付」よりも「体を張っているぶんだけ『まし』だ」とするような相対評価の為の座標軸が存在していると思わざるを得ないのです。そのことが、スピリチュアリズム仲間として残念であると私が感じたことです。また今日、実際に尊敬されるべきすばらしいdonationをなさっていることを教えて頂いたこととも併せれば、二重に残念であると思います。しかし残念に思うのは私の勝手であり、主観であります。いかなる者の主観も、あなたのdonation行為の崇高さを貶めたり、その価値を減じることは出来ないことは言うまでもありません。しかし同時に、いかなるdonorも他のどんなdonationやdonorに対しても自らのdonationとの比較において云々されることはあってはならないでしょう、それを私は「思い上がり」だと申し上げたわけです。

 歯に衣を着せない言い方ばかりしてしまいましたが、らふぃえるさんには我が意を汲んで頂けるものと確信しているからこそです。何卒御容赦願いたく。

 


3187 議論について:私自身への反省を込めて
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 15時34分30秒

【ポイント】
(1)?異質なものを受け入れない、?感覚でコミュニケーションを図るという日本社会の特徴が私自身及び本掲示版にもあるのではないか、また、このことをよく考えていくことが「悪い意味でのニューエイジ的考え」に陥らないために必要ではないかという問題提起
(2)感情に走らず、冷静・客観的に議論することが大事

【本文】
以前にも書いたことと重なるのですが(>3154)、別の視点から、私自身への諫めもあり、申し上げたいと思います。

これは日本社会の次の特徴と重なることですが、
(1)同質性を重視し、異質なものを排除しようとする傾向
(2)その同質社会のコミュニケーションとして、感覚を重視し、理論を重視しない傾向

この2つの特徴は、私自身にもあり、またこの掲示板でも見え隠れする感じがしますので、本掲示版で活発に多くの投稿が行われているこの機会をとらえ、私自身への反省の意味も込めて、申し上げたいと思います。

(1)についてですが、スピリチュアリズムは「自由検討の精神」があることが特徴ですし、これがあるからこそ、既存の宗教にあきたらない人たちがこのスピリチュアリズムに魅力を感じるのだと思います。異質なもの(異質な考え、スタイル)を排除せず、その中からいいものがあれば、これを評価し吸収していく。悪いと思えばこれに理論・理性で批判していくという精神こそスピリチュアリズムが生きた思想・開かれた宗教として存続するために必要なものだと思います。(←私にもこのような傾向がありますので、そうならないよう意識的に気をつけています)

(2)異質なものを排除した同質社会では感覚でコミュニケーションをとることは可能だし、その方が人間関係も円滑に動くということはありあます。しかし、異質なものも受け入れ、その中からいいものは吸収していこうとすると、どうしても感覚でなく理論による議論が必要になると思います。ここで言う理論とは別に難しい理論ではなく、好き嫌いなどの感覚でとらえず、自分の心の動き、考えについて少し突っ込んで考えてみるという態度で十分だと思います。

上に述べたような態度は、「健全なる懐疑精神」にもつながるものですし、「トンデモ的な考え」、「悪い意味でのニューエイジ的考え」を防ぐためにも必要なことだと思います。

なお、このような議論は日本人は苦手とよく言われますが、一つには上で述べたように、感覚でなく理論(理屈)で考える習慣が少ないことの他に、議論をすると感情的になることがあると思います。議論は議論ですので、感情に走らず冷静・客観的に議論していくことが大事だと思います(←私にとって、反省しなければならないことが多々あります)

 


3186 らふぃえるさんに同感です。
名前: あゆ  投稿日: 2003年10月28日 (火) 15時04分42秒

いつも感心いたします。
らふぃえるさんの冷静で正確な分析力と、相手の方にそして閲覧者に理解しやすいように、愛を持ってお話してくださる姿勢は感服いたします。

シルバーバーチの教えを実行されていると思います。
議論の奥底に包み込むような器の大きい愛を感じます。

http://www.tensmile.jp

 


3185 もりふみさんへ
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月28日 (火) 10時12分41秒

もりふみさん

本のご紹介ありがとうございます。
そのうち暇があれば読んでみたいと思います。


>しかし私は、そういう視点を持つ私のような者もいるということに当人に気づいてもらえる契機になるやも知れぬという意図からですので、その段、御了解願います。何かに気がついても、それを敢えて指摘せずに何も言わないでいることがいつも「優しさ」を意味するとは私は思いませんし、あなたが仰るように「気に食わなければほっとけばいいだけの話」とするよりは多少は前向きの要素があるかな、と。

うーん、当人に気づいてもらえる契機にねぇ・・・(^^;
だったら、もう少し思いやりのある言い方をしてもいいんじゃないですか?
何事も、言葉の言い回しも大きいと思いますから。
僕も、もりふみさんがサラさんに対してコメントしていることをほっといても良かったんですけど、少々気になったことがあったんで、敢えて僕なりの意見を書いたのですが、補足の必要があるようです。
お気に障らないことを願います。

まず、サラさんが勝手にペーパーバーチさんの気持ちを自分なりに解釈してごめんなさいと謝っていたことが傲慢というのであれば、同じく勝手にペーパーバーチさんの気持ちを自分で解釈して断言しているもりふみさんも「傲慢」になるのではないかと思います。
僕も、サラさんが原因でペーパーバーチさんが書き込みをしなくなったとは思いませんので、その点ではもりふみさんと同じ考えを持っていました。
しかしながら、それはあくまで第三者の推測に過ぎないのであり、たとえそれが結果として正しい推理であったとしても、本人に確かめもせず、かつ本人に頼まれもしないのに他人を傲慢だというのはいかがなものかと思います。
また、3139の末尾の「サラさん、お気にさわったとしたらごめんなさい(笑)! Thank you!!」という文章に、なんとも相手を嘲弄するような冷たさを感じて、そんな言い方をしなくてもいいのになぁと思いました。
これも僕の感じ方に過ぎないのですから、勝手にもりふみさんの思いやりに満ちた文章を、悪く受け取っていただけかもしれません。
ただし、相手の口癖を真似して使うと、世間一般の受け取り方だと、よほど注意しないと嘲弄とも受け取られかねませんよね?
同じスピリチュアリスト仲間として、いかがなものかと思ったんです。

たしかに、気に食わなければほっとく、というのは必ずしも優しさとは言えません。
相手のことを思って、注意することはそれ以上の愛であると言えると思います。
しかし、その場合は、自分自身の心中を繰り返し吟味して、よほど謙虚に、かつ相手に対して言い回しを注意してから、相手を叱ってはじめて、ほっておくよりも愛があると言えるでしょう。
もりふみさん、ご自分の心をのぞいて、大霊に恥じることなく、自分はサラさんに対して純粋に愛に満ちた心を持っていたと言えますか?
もし言えるのであれば、僕の感想は的外れなものだったのであり、そのことについて自分が間違っていたことを認めたいと思います。

>そう言えば「らふぃえる」さん、以前のあなたときりこさんのdonationに関するやり取りの中で(タイミングがズレて申し訳ありません、海外公演が多いものですから)、あなたが登録(でしたか?)している臓器提供云々のボランティアが、きりこさんが実践している「単なる寄付」よりも「体を張っているだけ『まし』」だという主旨の御発言をなさっていたように記憶するのですが、donationとは本来、当人が自発的に出来る範囲のことを行なうものであって、何かが何かより『まし』という相対評価の対象になるようなものではありません。この御発言には、同じスピリチュアリズム仲間として、かなり残念な思いを抱かざるを得ませんでした。もし私がdoneeの立場で肝臓なり心臓なりの提供を受けることになっているとしたら、そのような思い上がった意識を持つdonorからの提供を受けることには躊躇するかもしれません(現実にdonorの意識を確認するというプロセスはどこ>の医療現場にもないでしょうが)。

まず、誤解のないように言っておきますが、僕は登録ではなく、実際に二回移植の手術をしました。
かつ、臓器ではなくて、骨髄です。

また、あの時の議論は、きりこさんとはもうお互いにきちんと手打ちをしたので、蒸し返したくないのですが(きりこさんがもし読まれていたら、これはもりふみさんへの説明のためであり、決して議論を蒸し返すものではないことをどうかご了承ください)、
最初にきりこさんが僕に対してからんで実践について尋ねてきたのに(このことはペーパーバーチさんの仲裁もあって、きりこさん自身男らしく潔く自らの非をのちに認めてくださいました。そのことに改めてこの場を借りて御礼申し上げます)、
僕が尋ねても最初のうち、きりこさんが法を守ることや寄付をすることだとか、僕でもしているようなごく当たり前のことしかおっしゃってくださらなかったので、少々僕もからまれて頭にきていたこともあり、売り言葉に買い言葉の中で、述べた言葉です。

まず、僕の言っていた内容について、不確かな把握しか持たず不正確なままで、しかも議論の経緯を無視して、「思いあがった意識」だとおっしゃるもりふみさん御自身の方がよほど「思いあがった意識」だと、僕には思われるのですが、いかがでしょうか?
3139においてサラさんに対し、もりふみさんは「モノゴトを自分でよく考えるという基本(シルバーバーチも何度も繰り返しているように)をおろそかにしている」とおっしゃっていましたが、不正確な認識と言葉が使われた文脈をおろそかにして他人を批判するもりふみさんの姿勢もよほど、物事を自分でよく考えると言う基本を踏まえていないと思います。

まず上記の点について、もりふみさんのお返事をいただいてから、ボランティアの価値について僕の意見を述べたいと思います。

 


3184 もりふみさんへ
名前: 真実  投稿日: 2003年10月28日 (火) 03時05分38秒

神々の微笑から8巻の中で
旧友、三菱銀行頭取中谷氏のことや
故郷から、親戚だと名乗ってきた田舎者(同名の芹沢という)
などの事は、事実と一致しています。

芹沢という青年は、中谷さんのお世話になり
三菱銀行に就職、最後には関連会社の
DHCカードの社長までになりました。
http://www.dccard.co.jp/index.shtml
(ここの前社長です)

あの内容は、紛れなく事実だと確信しています。

 


3183 ガーデナーさんへ感謝を込めて
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年10月27日 (月) 22時47分55秒

その節は、しっかり確認もせず、お名前を間違えまして、大変失礼をいたしました。どうか、お許し下さい。

今回は、貴重なご意見をありがとうございました。ガーデナーさんとは、現在のところ、登山の仕方も、目指す頂上の様子も、まるで違っているようですね。でも、少なくとも、ここ「心霊学研究所」という場所において(それが登山ルート名なのか、休憩のための山小屋を指すのかはわかりませんが 笑)、こうしてお会いできたことを神様に感謝いたします。

ペーパーバーチさんをリーダーとして、ガーデナーさんをはじめ、その他多くの素晴らしいメンバーの方々と、しばしの登山活動をご一緒できますことを誇りに思います。

ガーデナーさんには、お名前を間違えましたことも何かのご縁と思っております。スピリチュアリズムを知って(まるもさんと同じで)未だ半年弱の、超若葉マークの若輩者です。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 


3182 もりふみさん
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月27日 (月) 21時53分27秒

いつもながら、素晴らしい洞察力に基づいた貴重なご意見、感謝・感服いたします。
今後ともよろしくお願いします。

本については、わたしも非常に興味が涌いてきました。是非読んで見ようと思います。探してみます。

 


3181 きっちょむさんへ
名前: まるも  投稿日: 2003年10月27日 (月) 20時37分00秒

きっちょむさん、お返事どうもです。

>快晴の時の山はこういうものですよ、という素晴らしいガイドブック

覚えやすく、解りやすい喩えだと感じました。僕もこれからこういう言葉を自分の引き出しにためていきたいです。(あぁ、今時間がなかなか作れないのが悔しいです。。 もうすぐ暇になるので色々と一気に読みたいと考えてます!

そして、助言ありがとうございました。「健全なる懐疑精神」、ですね。大切ですよね。僕も「ここがヘンだよシルバーバーチ」などと思ったら、すぐに投稿してみたいと思います!

こちらこそ今後ともよろしくです^^

 


3180 作家・芹沢光治良とスピリチュアリズム
名前: もりふみ  投稿日: 2003年10月27日 (月) 15時56分37秒

 ペーパーバーチさん、みなさん、こんにちは。そして「ははぎく」さん、御無沙汰です。

 ちょっと唐突ですが、一ヶ月ほど前の『AERA』(9月29日号)に作家・芹沢光治良の特集記事が掲載されました。

 百歳を目前にして大往生されてから十年経ちますし、この文豪の作品がいまの若い世代にどの程度知られているか、はなはだ疑問ではあります(注:私自身は『若い世代』に属さないワケでは決してないのですが、残念ながら、芹沢光治良と言えば自然に『巴里に死す』や大河小説『人間の運命』が思い浮かぶ世代なので、『おっそろしく若い世代』には属さないかもしれません)。しかしながら、私自身がスピリチュアリズムに辿り着く遠因ともキッカケともなったのが、この老作家の晩年の連作(実質的に執筆を停止されていた数年間の後、九十歳を迎えてから突如として毎年一冊づつのペースで、あたかも神の意思に突き動かされたように執筆された作品群 ――『神の微笑』から絶筆となった『天の調べ』までの八冊 ――、 私は出版される度に書店に走ったものです)でもあったことから、芹沢翁その人とその作品、そして、翁とは切っても切れない縁の「中山みき」(天理教教祖としてのではなく、日本の「モーリス・バーバネル」としての)などについて、スピリチュアリズムとの関連に於いて考えてみることは決して意義のないことではない、いや、むしろ、スピリチュアリズムに触れた者の側からは、スピリチュアリズムの真髄を執筆活動まるごとにおいて実践されたという意味で芹沢翁を評価する視点はあって然るべきかとさえ私は思うのですが、ペーパーバーチさん、みなさん、如何でしょうか?

 上記の連作とともにハズせないのが、『教祖様(おやさま)』という、翁が約十年間を費やして執筆した「中山みき」伝です(翁とも親交のあった大江健三郎が戦後日本文学の最高傑作として講演会で紹介しているようです)。「神が下りる」とか「神懸り」とはよく言いますが、こういうことなのかということがよく分かりますし、何よりも、本来の「信仰」とはかくも壮絶なものであったか、宗教教団、教義、教説というものが如何に愚かな経緯をたどって成立し、如何に本来の「信仰」のあり方を離れていくものであるかということが「みき」を描くことによって浮き彫りにされていて、とてもすばらしい作品です(天理教団内部の人が書いた教祖伝もあるのでしょうが、やはり読もうという気にはなりませんね)。「宗教・信仰」論を本質的なところから掘り下げようとするなら、「らふぃえる」さんや「ヨシ」さんには、是非とも御一読をおすすめします。この作品では、ときどき作者(芹沢翁)自身が感想めいた慨嘆を入れるのですが、その的確で正直なところは、教団外部の手ならではでしょう。なかでも、神の真意をいつまでも汲み取れない周囲(側近者)に囲まれた「みき」の悲しみはナザレの大工の子の悲しみと同一の種類のものであったであろうという作者の慨嘆は、スピリチュアリズムを知ったいまにしてはじめて私も共有することが出来るものです。そう言えば、「先案じはしたらあかんで」という「みき」の言葉は、私自身が福音書の中でもっとも好きな一節でもある「明日のことを思い患うこと勿れ」と同義でもありますし、また、心配や恐れを抱くことが如何に無益であるかを繰り返し語るシルバーバーチの言葉そのものでもあります(ちなみに、「みき」に神懸りがあったのは、ハイズビル事件の十年前の1938年<天保9年>の由)。

 ほんのちょっとしか調べていないのですが、残念ながらスピリチュアリズムとの関連において芹沢翁に触れている人や書物は見当たりません(その副産物として、こんなに親切ですばらしいサイトを発見しました。http://www.hi-ho.ne.jp/kstudio/kojiro/index.htm)。ということは、この場で私がこうして芹沢光治良についてナニガシかを語ることが即ち、スピリチュアリズムとのリンケージという意味では、おそらく本邦初となるかも知れません(笑)(だからどうした?)。いえ、本当はそうではありませんでした。私の記憶が正しければ、たしか「ははぎく」さんが、以前この掲示板で、さらっと「芹沢文学が・・・」と触れていらっしゃったのが、文豪と「スピリチュアリズム」を結びつけられた最初だったかも知れません。「ははぎく」さんが上記の発言をなさったときに、「あぁ、例の『神の〜』シリーズの連作を念頭におかれてのことだろうな」とピンときてそれをこの場で確認しようと思ったのですが、たしかアイドルとしての海外公演の準備やら何やらで(ウソつけっ!)タイミングを逸してしまっていたのです。「ははぎく」さん、『AERA』は既にお読みですか?同誌によると、『神の〜』シリーズは来年二月頃から新潮で文庫化されるそうです。

 それから「らふぃえる」さん、御意見ありがとうございます。仰るように「そこまで言わなくても」という気分はよく分かります(「世間的」にはそれが当たり前か)。しかし私は、そういう視点を持つ私のような者もいるということに当人に気づいてもらえる契機になるやも知れぬという意図からですので、その段、御了解願います。何かに気がついても、それを敢えて指摘せずに何も言わないでいることがいつも「優しさ」を意味するとは私は思いませんし、あなたが仰るように「気に食わなければほっとけばいいだけの話」とするよりは多少は前向きの要素があるかな、と。

 そう言えば「らふぃえる」さん、以前のあなたときりこさんのdonationに関するやり取りの中で(タイミングがズレて申し訳ありません、海外公演が多いものですから)、あなたが登録(でしたか?)している臓器提供云々のボランティアが、きりこさんが実践している「単なる寄付」よりも「体を張っているだけ『まし』」だという主旨の御発言をなさっていたように記憶するのですが、donationとは本来、当人が自発的に出来る範囲のことを行なうものであって、何かが何かより『まし』という相対評価の対象になるようなものではありません。この御発言には、同じスピリチュアリズム仲間として、かなり残念な思いを抱かざるを得ませんでした。もし私がdoneeの立場で肝臓なり心臓なりの提供を受けることになっているとしたら、そのような思い上がった意識を持つdonorからの提供を受けることには躊躇するかもしれません(現実にdonorの意識を確認するというプロセスはどこの医療現場にもないでしょうが)。

 


3179 きっちょむさん ははぎくさん みなさんへ
名前: 空句  投稿日: 2003年10月27日 (月) 07時38分44秒

★きっちょむさん カノンさんの日記をまた紹介してくださってありがとうございます。 たくさんある日記の中でも、今の私の心境にぴったりあてはまる日記をここに書き移してくださってとても嬉しいです。

ちょうど今、あるグループから新しいグループに移りたいと思っている時期です。
そのグループは、死別の悲しみや喪失感から生きる意味を問い、死は終わりではなく先立った人と再会できることを信じ前向きに生きていこうと励ましあう素晴らしいグループですが、今私が求めていることとは違ってきているな、と感じてきました。また、死別体験者という枠を超えたいです。

今は、この掲示板で出会ったファニーズさんのような生き方をしたいです。すぐ自分の側にある実生活、実社会において、心をこめて、でがんがん進みたいです。

それから私のHNは「くうく」と読みます。

★ははぎくさんの[3175]を読むと、私が最近感じていること、それをうまく文章にして分かりやすく書いて下さって、読んでいて何かほっと安心でき、とても嬉しいです。ありがとうございます。

「誰でも霊・ひと=霊としての生き方」は文章がたくさんあって、私はまだ一部しか読んでいません。 読むと痛い所をつかれ自分が恥ずかしくなりますが、本当にそのとおりだな、と思います。

ははぎくさんのおっしゃる
>人は皆繋がっていることを確信する毎日でした。守護霊さまの声って、どの人も、いつも聞いている、自分の内から聞こえてくる良心の囁き、心を静かにすると、聞くことができるものだと、これも確信です。

そのとおりだと思います。内なる声はこちらから願わなくても、必要な時に聞こえきてくれます。そしてその声に感謝いっぱいで嬉し涙が出る事もあります。出会う人がいろんなところで繋がっていて、出会った人に対し、いろいろ心の中で迷っても結局みんなに「ありがとうございます」になっています。

★みなさんへ

ははぎくさんの[3147]を読んで
>こちらにいらっしゃる皆様は、カノンさんとkimiさんをご存知の方が多いと思います。私も、このお二人が大好きです!シルバーバーチ関係で、私が心から信頼納得しているのは、ペーパーバーチさんとカノンさんとkimiさんのHPなんですよ。

そうだったのですか、私は ファニーズさんが紹介してくださって初めて知ったので、数カ月前までの過去ログしか読んでなく、よく知らずに発言して申し訳ありませんでした。ごめんなさい。
ペーパーバチさんのHP同様、、KimiさんのHP(カノンさんの日記も)も読み進めていきたいと思います、どうかよろしくお願いします。

 


3178 すみません
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月27日 (月) 00時40分18秒

(↓)すみません。タイトルの知足さんは、省いて下さい。ペーパーバーチさんに怒られてしまうなーー。

 


3177 ガーデナーさん、知足さん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月27日 (月) 00時38分27秒

ガーデナーさん、こちらこそ大変すみません。お時間のあるときでいいですから、可能な範囲で結構です。決して急いでいません。

ガーデナーさんのHPは以前も何回か見させていただいています。すてきなHPですね。雰囲気としては、分かるんですが、やはり質疑応答とした方が、ヒーリングに関するキチンとした理解ができると思っていますので(私のみならず、参加者皆さんのためにもいいと思います)、よろしければお願いします(だけど、くれぐれも決してご無理はしないで下さいね)

それから、こんなこと言っておいて、非常に心苦しいのですが、追加質問です。すみません。m(__)m  m(__)m  m(__)m

・ヒーリングを行っても、すぐに直る人、時間がかかる人、あるいは直らない人がいらっしゃると思いますが、そうでしょうか。(私としては個々人の持つカルマによって、そのような違いがどうしても出てくると思っています)

・ヒーリングを実践していて、いろいろと悩まれること、ご苦労されることがあると思うのですが、(本当に可能な範囲で結構ですので)具体的にどのようなことがありますか。

まことに、まことに申し訳ありません。

 


3176 ヨシさんへ
名前: ガーデナー  投稿日: 2003年10月27日 (月) 00時16分22秒

少し時間ください。
文章にする能力ありません。
自分のHPの独り言の中に時々UPしてますので、ご面倒で
なければ覗いてやってください。

とにかく私にとって神は畏れ多い力ですので、私のような人間
には語り尽せないんです。今も指が止まってしまいます。

http://www1.ocn.ne.jp/~healing/

 


3175 思うこと、いろいろ
名前: ははぎく  投稿日: 2003年10月26日 (日) 23時53分50秒

>きっちょむさん

大好き!なんて言ってくださって、もう嬉しくて嬉しくてたまりません。私も、きっちょむさんが大好きですよ!!

今、ずっとカノンさんの日記を読み進めておられるのですね。カノンさんは、いつも共に魂の向上を目指して頑張りましょうね、とおっしゃっていましたよ。きっちょむさんが引用してくださいましたが、本当に神は身近にあり感じるもの、まず日常を大切にして一番身近な人を愛することだと、つくづく思います。

カノンさんが毎朝守護霊さまからの通信を書いてくださっていた頃、その日の日記を開くと、その時私が考えていたことや疑問への答、私の心に合わせた戒めや励ましが書かれていて、どうしてカノンさんの守護霊さまが私に答えてくださるんだろう?と驚いたことが何度もありました。でも、それは、実は私の守護霊さまからのメッセージでもあったんですね。人は皆繋がっていることを確信する毎日でした。守護霊さまの声って、どの人も、いつも聞いている、自分の内から聞こえてくる良心の囁き、心を静かにすると、聞くことができるものだと、これも確信です。

掲示板では、自分の心の中を隠すことなく、さらけ出して、殻を見つけて浄化していました。厳しかったけど面白かったですよ。カノンさんの書き込みは、絶対に、どんな時も乱れない安定した波動を感じました。kimiさんは、もの凄く強い霊的な力がありました。掲示板閉鎖の直前の頃は、kimiさんの書き込みが、いつのまにか霊界通信に変わり、素晴らしい真理が煌いていて、何度もくり返し読んだものでした。

>きりこさん

嬉しいお言葉、とても幸せです!!面白く素敵な経験がおありなんですね。私は、お見合いして、すぐ結婚しましたので、燃えるような恋愛をしてみたかったなぁ・・・ちょっと後悔・・・それから、きりこさんは、時々ずいぶん難しい内容の書き込みをされて、私には分からないことが多いのですが、私はきりこさんが大好き!なので楽しみに読んでいますよ!今日新聞に拉致被害者の曽我さんの記事が載っていましたね。曽我さんは、すごく情に訴えるものがある方で、いつも泣けてしかたがありません。他の被害者の方々は、それほどでもないのですが。

私は、大好きな人がいっぱいいます。本当に大好きなんですよ。議論が出来なくて、感情のままの書き込みですみません。

昨日ふと、ニューエイジというのは、人を外のものに依存させ、霊としての成長を妨げるものではないだろうか?と、自分なりの答が出たのですが・・・

人は、不思議な現象や奇跡などを見たくなったり、自分の願望を実現させたいと思ったり、光輝く世界に憧れたりすることがありますよね。こんな時、大霊につながる、すべての力を持つ自分自身を忘れ、地上での普通の努力も忘れて、他のものに頼ってしまいたくなる時があります。

依存は必要ありませんね。いずれ肉体は終わりの時を迎え、霊としての時間が
待っています。不自由な肉体をまとい、様々な物質的条件の中で生きる。それが一番霊の自分にとって、必要な経験を出来ると考えて、自分自身が選び生まれてきたのですものね。何かに依存し経験を回避しても真の成長は出来ないと、本来の私は知っています。外へ求めなくとも、必要なものは、すべて私の中にあるのですものね。

 


3174 ガーデナーさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月26日 (日) 23時39分16秒

ガーデナーさん、こんばんは。

ガーデナーさんの投稿があったので、よろしけらば質問したいのですが、ガーデナーさんは祈りによるヒーリングをされていると伺っています。質問ですが、

・患者さんに事前に説明して、祈るということだと理解していますが、具体的にはどのようにされているのですか。

・そのような能力はどのようにして見つけ、開発したのでしょうか。

・その能力を維持するために日頃、気を付けていることはありますか。(精神面の精進。道具意識の維持など)

・その能力、あるいはエネルギーはどこから来ているとお考えですか。

・その能力とスピリチュアリズムとの関係をどのように考えていますか。

・その他、ガーデナーさんがお考えのこと。

いろいろ質問してすみませんが、お答えできる範囲で結構ですので、お教えいただければ幸いです。

 


3173 お山の大将
名前: ガーデナー  投稿日: 2003年10月26日 (日) 23時17分48秒

私はカノンさんのHPは見てないから、そのグループからは
外れてるようでホッとした気がしました。

霊性の向上は望んでますが、手取り足取りされて励まされたら
私は依存してしまいますから別の道行きます。

山に登るなら一人で登ります。途中で出会う人がいたなら、挨拶して
別れるか、話が合ってここから一緒に登ろうかってことになるかも
分からないです。

私には頂上はないんです。永遠無限に広がってると思ってます。山を
逆さにした感じです。

内なる神なんて言い出したら、私のような人間は有頂天になって走り
出します。自己愛(自己中)の塊になってしまいそうなので、気持ちを
お人にお人に向けさせて頂いてます。

 


3172 空句さん、まるもさんへ
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年10月26日 (日) 16時11分42秒

空句さん、まるもさん、お返事ありがとうございました!! とってもうれしかったです!!

すぐに調子に乗ってしまうところが私の悪い癖なのですが(スミマセン)、最後の”快晴の時の山は〜”のところが素晴らしかったので、ちょっと長いのですが、「カノンさんの日記」をもうひとつ紹介させてください。


『何故かこのHPに興味を持たれ、私たちと共に霊的真理を実践していかれようと思われた皆様のためにも、あなた(カノンさん)は、毅然とした言動をとらなくてはならないのです。

いっている意味が分かりますか?

すべての人は、神という究極を目指しているのです。
そこに至る道はいろいろとあります。

一つの大きな山を想像してください。頂上を目指していくつもの道があるのです。
頂上をしっかりとみつめていないと、横道に入ってしまうかも知れません。登るのに疲れて、下りたくなるかも知れません。だからこそ、仲間と共に登っていくのです。共に助け合い、共に支え合い、手を取り合って、頂上をしっかり見据えていくのです。

このHPに集まってくださった方々は、一つのグループです。そのグループで登り道を作っていき、後から登ってくるグループの助けとなるのです。

そのようなグループがたくさんあるのです。そして、あなた(カノンさん)の役割は、そのグループをまとめ、ひたすら頂上を見つめていくことです。

他のグループもたくさん登ってきています。共に声を掛け合い、励まし合い、頂上で会おうねと、互いを応援し合います。しかし、そこのメンバーは、足が速い人ばかりかも知れません。重い荷物も軽々とさっと登れる人たちばかりかも知れません。

それぞれのグループは、同じような登り方の人たちが集まっているのです。

互いのグループを認め合い、尊重し合っていくことが大切なのです。

もちろん途中でグループを変えることもあるでしょう。体力がついてきて、物足りなくなるかも知れません。他のグループに魅力を感じて移ることもあるでしょう。それは、その人の自由です。

しかし、あなた(カノンさん)は、一つのグループを守る役目があります。
いつでも淡々と登り続けていくことが役目なのです。決して頂上から目を離すことなく、しっかりと見つめながら・・・・

私たちのグループは、自己浄化により心の殻を溶かし、すべての人の内奥に存在する神の愛を見つめていくグループです。

そこには「依存」はまったくありません。あるのは「愛と調和」だけです。



心に殻を作れば、周りに霧や雲ができて頂上は見えなくなってしまいます。前にある小さな小山を頂上と思って、そこに安堵してしまうかもしれません。

私たちは、霊訓という、快晴の時の山はこういうものですよ、という素晴らしいガイドブックを持っています。
その霊訓を指針として、互いに支え合い、励まし合って、登り続けていきましょう。』


ありがとうございました!!

ところで、空句さん、お名前はどのようにお読みすればいいのでしょうか?

そして、まるもさん、影響されやすい性格を心配されていらっしゃるようですが、常に「健全なる懐疑精神」を忘れず、互いに切磋琢磨し合っていきましょう。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 


3171 きっちょむさんへ
名前: まるも  投稿日: 2003年10月26日 (日) 11時19分43秒

きっちょむさんレスをありがとうございます^^

>おかげで今は生活は非常にシンプルになり、おだやかな毎日を送っています。

実際僕もこうなっているんです。これまで求めていたものがやっと
手に入ったという感じで、スピリチュアリズムを知った困難さより
も、心地よさの方がずっと多いです。近藤千雄氏が「人生は本当の
自分を探すスピリチュアルな旅」(旧・人生は霊的巡礼の旅)の中
で書いていますが、恩師の間部詮敦氏の言葉で
「スピリチュアリズムを知ることは前売り券を買ったようなものですよ」
というのがあって、近藤氏も「焦らず、悠然と達観しながら、冷静に
地上生活をエンジョイできるということであろう」
と解説してるんですが、僕もそういう明るい面の方がとても大きいです^^
カルマを前向きに捉える、という価値観も初めてのものですし。

ただ、下にも不安点を書きましたが、
僕は影響を受けやすいところがあるんですよね^^;
自分以外のスピリチュアリストと初めて交流してみて、何気なく気づい
てしまった部分があります。
ずっと不安で答え探しをし続けながら生きてきて、何年にも渡って信望
したものに醒めて・・・っていう経験を思い出してしまって(汗
それを凌駕するだけの言葉は既に自分にも本にも用意されていて、あと
は繰り返し読んで自分に染み込ませることが大切だと思うのですが、
とにかく今はこういうやりとりに凄く関心があります。
きっちょむさんに素敵な意見だと言われてとても嬉しかったです。
カノンさんの言葉もありがとうでした!
前から興味があったので、今度じっくり読んでみますね^^

 


3170 もりふみさん、あまりさん、サラさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月26日 (日) 10時56分25秒

サラさんに関するもりふみさんとあまりさんの投稿について(>3139、>3145)、私の考えを述べたいと思います。特定の人に関することをその方の了解も得ないで云々することは気が引けますが、既に掲示板で問題提起されたこともあり、書かさせていただきます。サラさんには申し訳ありませんが、ご了承お願いします。

(1)まずこの掲示板にはいろいろな人がいていいと思うし、いるべきだと思います。そのような中で自由闊達に議論してこそ、建設的な、未来試行的な議論ができると思っています。確かに、以前あったような著作権にからんでイチャモンをつけたり、自分が教祖になったかのような書きぶりをする人は排除せざるを得ないと思いますが、そうでなければなるべくいろいろな考えを持っている人を参加させるべきだと考えます。
要は、お互いが建設的に、前向きに議論して切磋琢磨していけばいいんですから。

(2)私はこの掲示板以外にも、他の掲示板に参加していますが、この掲示板の質を考えると非常に優等生の掲示板ですね。いわば超一流高校というところでしょうか。そこに茶髪で、ピアスをし、外国なまりの日本語を話す女子高生が突然来たという感じはします(サラさん、すみません)。

(3)サラさんが書かれた投稿に関し、私は手厳しく批判したことがあります(宇宙人にあった、UFOに乗ったということに関して)。それに対して、サラさんは回答したのですが、その文面を見たとき、この人はこの人なりに、私の指摘を受けて一生懸命考えたな、と私は感じました(私の言い方に傲慢な感じをもたれるかもしれませんが、謝ります)。内容的には、はっきり言って満足の行くものではありませんでしたが、サラさんが素直に受け取って、考えてくれたことに私は前向きな姿勢を感じたのです。

(4)もりふみさんが指摘したような「傲慢さ」がサラさんにあるかどうかは私は分かりません。しかし、少なくとも悪意がはっきりと感じられない限りは、善意に解釈したいと私は思っています。

(5)サラさんに申し上げたいのですが、もりふみさんも指摘されていますが、確かに一人よがりで書いているとの印象を私も受けますので、人に分かりやすい文章を書くよう努力していただきたいと思います。これは非常に大事な指摘です。そうでないと議論ができませんから。

(5)それから、あまりさんに申し上げたいのですが、人に対し意見があれば、当人に直接、具体的理由を付して言っていただきたいと思います。これはこのような掲示板における最低限のルールだと思います。

最後に、私自身たいした人間でないのに、偉そうなことを書いて大変申し訳ありませんでした。

 


3169 きっちょむさん ありがとうございます
名前: 空句  投稿日: 2003年10月26日 (日) 07時10分48秒

カノンさんの日記を紹介してくださってありがとうございます。

本当にそうなんです。
自分のすぐ側にある、日常生活の身近な存在をついつい見過ごして、おろそかにしてしまう私です。

ファニーズさんが話された「私も心をこめて実生活、実社会でがんがん進みます。」がより理解できました。

 


3168 まるもさんへ
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 23時05分10秒

まるもさんの意見に賛同いたします。

わたしもスピリチュアリズムに出会って以来、それまでのものが、色褪せたというより、完全にぶっ飛んで(!)しまいました(笑)。部屋にあふれかえっていた精神世界関係の本は、ほとんど処分してしまいました(頭の中のいらない知識も一緒に!)。おかげで今は生活は非常にシンプルになり、おだやかな毎日を送っています。


カノンさんの日記より

「日々の普通の生活の中にこそ大切なものが含まれているのです。日々の生活を疎かにしてはいけません。
日々の生活そのものから神を感じとっていくのです。神はすべてのものに存在します。日常のあちこちに、ほんの些細なことに、・・・日常を大切にしなさい。
親に、夫に、子供に、地域社会に、友人に・・・神を感じるのです。すべての中に神を感じ、感謝するのです。
神は、遠くにあって祈るものではありません。あなたのすぐ身近にあり、感じるものなのです。」

まるもさん、素敵な意見をありがとうございました!!

 


3167 ヨシさん、どうも
名前: まるも  投稿日: 2003年10月25日 (土) 22時14分29秒

>その結果や思考過程をこの掲示板でご紹介していただければ幸いです。

お返事どうも!はい。そのつもりではあります^^;
僕はスピリチュアリズムに出会って半年弱ですし、まだ(上手い言い方
が解りませんが)夢から醒めていないのかななんて正直思いました。
ヨシさんの投稿を読んで、0か100かで考えていたような自分も
偏っているなと。夢から醒めていないような部分はあるぞと。
まあ基本線は変わってないですが・・

下にも書きましたが、
実は他のもの(今はニューエイジ的なものとだけ言っておきます)に
触れた経験からなんですが、「組織がいけない」「御利益を求めると
頭おかしくなる」また、「異論がなぜいけない?」などと思っている頃に
丁度、劇的にシルバーバーチに出会ったといういきさつなんです。
シルバーバーチの言う「条件が整った」という事なんだと思いますが。
守護霊さんが働いてくれたんだなぁ、なんて。。

僕みたいのもアリだと勝手に思ってるんで、勝手に投稿させて貰います^^

 


3166 ははぎくさん
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 21時30分13秒

お久しぶりです。

なんか、書きこみ見て、すごくホッとしたというか、嬉しい感情が涌きでてきました。

今後とも、よろしくお願いしますね。

 


3165 まるもさん、らふぃえるさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 21時27分37秒

まるもさん、始めまして。

>他にユング心理学やニューエイジなどと
いう文字が散見されますが、そういった周辺知識?がどうしてそんなに
必要だと思うのかが僕には良く分からないのですが

○まるもさんのおっしゃる周辺知識が必要不可欠とは私も思いませんし、押しつける気も毛頭ありません。
個人的な関心の分野に入ると思います。私個人としては、19世紀はじめに霊媒現象が起こって、それに科学者が厳密な検証をして、霊的世界の存在を実証したように、現在の科学がスピリチュアリズムに近い考えを持っていると知ることが、スピリチュアリズムへの信頼、信仰を深めるという観点から関心を持っています。
ニューエイジについては、スピリチュアリズムとの比較でスピリチュアリズムの意義・位置づけを知りたいという気持ちがあります(他の方々は、その方達の関心、動機があると思います)

○この分野に、ご関心がなければそれはそれで一向にかまわないと思います。スピリチュアリズムはらふぃえるさんがおっしゃるように(投稿3102)、「自由検討の精神」があることが特徴ですので、まるもさんなりの探求をしていただきたいし、その結果や思考過程をこの掲示板でご紹介していただければ幸いです。

らふぃえるさん

ご賛同ありがとうございます。

 


3164 3154の「投稿者の心構え」、賛成です。
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月25日 (土) 21時21分36秒

ヨシさん

>3154

ヨシさんのおっしゃる「投稿者の心構え」、賛成です。
シルバーバーチ等の霊訓を吟味するためにも、論理や批判精神や理性は必要と思います。
鵜呑みにして思考停止することは、それこそシルバーバーチの教えに反することでしょう。
自由検討の精神こそ、スピリチュアリズムにとって最も肝要と思います。
論理や知識を大切にしない場合は、人間は反省を失って、善意に満ち溢れていても判断を誤ってとんでもない過誤に陥りやすいと思います。

 


3163 ヨシさんへ
名前: まるも  投稿日: 2003年10月25日 (土) 20時44分50秒

>○どうも、この掲示板では論理、知識を重視されない方が多いような
>気がします。

とありますが、スピリチュアリズムを知ってからというもの、他のもの
が色褪せてしまって、例えばこれから仏教書などを読んだり語ったり
する気にならないんですよね。他にユング心理学やニューエイジなどと
いう文字が散見されますが、そういった周辺知識?がどうしてそんなに
必要だと思うのかが僕には良く分からないのですが。
既に自分にある知識を語ることはあっても、じっくり読んでみること
はもう無いような気がします。

僕は物理的な霊媒の記録がなによりも説得力がありましたし、また、
頭に第一に「御利益など無い」というのがありまして、そう考えて
いれば決しておかしくならないだろうって思っているんですよね。
他に組織化しない、押しつけない、など色々ありますが、肝心要の
奉仕作業一つとっても実践はとても難しく、それだけで頭がいっぱい
だというのが現実という感じですね。

これこれこういうシチュエーションで、こういう奉仕をしたのだが、
果たして本当にあの人の霊性は高まっただろうか?っていう、そうい
う大切な部分ほど、論理、知識の枠から外れるような気が。。。
・・・うーん、まあこんなことヨシさんも充分承知ですよね。。
頭の善し悪しとか、趣味の問題・・なんでしょうか?^^;

 


3162 きりこさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 19時54分50秒

ハハハ、肩のコリがとれました。

科学と宗教いう点では、物理学だけでなく心理学、特にユング心理学などはかなりスピリチュアリズム、仏教などの考えに近づいていると思っています。
これについても、機会があればお話したいと思っています。

 


3161 仏教について
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 19時41分01秒

みなさん、よく学習していらっしゃるようで、感服しています。

私は、基本的に仏教的思想が好きです。
仏教の根幹の1つは、「無」の思想ですよね。
わたしも、チベット密教の聖典(カーギュ派ですが)を読んだときも感じたのですが、仏教の「無」や「空」というのは、決して「虚無」ではないですよね?
仏教の「無」や「空」は、実は無限大のエネルギーを秘めているものであると理解しています。(私は・・・)

最新の量子力学や宇宙論でも、「真空のエネルギー」、「真空の相転移」、インフレーション理論、「無の揺らぎ」等々、最新の物理学は、数千年前に示した境涯に近づいてきている気がします。

最先端化学・科学は、急速に進歩していますが、いずれ、合致してくる日が来るかもしれませんね・・・・

我々の世代では無理かもしれないですが・・・・・・・

 


3160 ヨシさん(雑談です)
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 19時29分59秒

こんばんわ。
いつも、ごくろうさまです。
ヨシさんの書きこみで、思い出したことがありました・・・(涙)・・・

私も、以前、実を言うと学会の勤行に参加していた時期があります。
ただあし!!  ヨシさんとは状況が全く違いますが・・・・

私の場合は、真剣・深刻な悩みの末に、救いを求めて・・・というものではなく、
単に、お恥ずかしいですが、
学生時代、コンパで知り合った本当に可愛い女性がたまたま学会員で、誘われて行ったのがキッカケです。
別に、宗教的情熱もなにもあったわけではなく、たんに、色呆けして、ついていっただけでした・・・・(赤面・・・)

週に2回程度、半年以上行きましたが、動機が不純のため、私の場合はまったく霊験がありませんでした・・・・・・残念ながら・・・

だから、どうだということは無いんですが・・・(なので雑談です)
ヨシさんの書きこみをみて、あのときを思い出しました・・・懐かしい・・・

その後も、東京に帰ってからも、付き合いましたが、遠距離の壁は如何ともし難く、自然消滅しました・・・
良い思いでです・・
そういえば、一緒にラスベガス行ったなあ・・・・(涙)・・・・

 


3159 yumiさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 19時23分46秒

yumiさんどうもありがとうございます。

このように議論していくと、人それぞれということがよく分かります。当たり前のことですが、生まれつき人間は能力の点で不平等だし、その与えられた能力、環境の中で精一杯生きるしかないですね。

私には苦が一番いい原動力だし、(なかなかできませんが、シルバーバーチが言っているように)苦は仮面をかぶった友と思いたいし、私にとって嫌な人はそのチャンスを与えてくれる人だと思えるようになりたいです。

150人の祈りは違う方でした。確かめもせず、すみません。

 


3158 ヨシさん
名前: yumi  投稿日: 2003年10月25日 (土) 18時09分52秒

ヨシさんお返事ありがとうございます。

そうですね、捉え方の違いで私にとってはそんなに難しいと言う感覚はないんです。
私も現実に苦しい事が起って否応なしということがほとんどです。
偉そうな事をいうようですが、やり方、考え方違っても、辿り着く先は同じですね。(^o^)

モーゼスの場合は「これが絶対で全てだ」というものを持っていたので、それを変えることはかなり大変だっとと思います。でも「これだけが全てでは無いかもしれない」と思っていれば、簡単に変わります。

私は仏教をしていたときはそれが絶対だと思っていました。ニューエイジを知った時もそうでした。霊能者に師事していた時もそうでした。そう考えると絶対と思っている事も変わってゆくことが解りました。スピリチュアリズムを知った時は既に「これだけが全てでは無いかもしれない」と思っていました。もっともっと先があるのだからそれでいいと今は思っています。
もっとも違う視点から見れば皆繋がっていて、それでいいということなのだとは思いますが。

150人の祈りは私ではありませんでしたが、誰だったかはちと解りません。内容も憶えてなので何とも言い様がないですが・・・。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~y-h/

 


3157 yumiさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 17時10分50秒

yumiさん、ご丁寧な回答ありがとうございます。

○yumiさんと私の考えは根本的に違うということが分かって大変参考になりました。
考えが違うと分かるだけでも、議論する価値があると思います。

一言で言うと、yumiさんのような方法は、相当強い意志力がないとできないと言うことです。

>社会的な価値観といったものを気が付かないうちに刷り込まれています
○この刷り込みの存在は分かっていても、それを日常の内省、分析で変えていくのは尋常の意思力ではできないと思います。モーゼスも既存のキリスト教の刷り込みがあって、インペレーターからの自動書記現象が起こった後も、その思想を変えるため壮絶な内面の戦いがありました。

私の場合は、現実に苦しいことが起こって、否応なしに考えさせられ、変わっていくという方法です。この時、祈りも必要になっていきます。

○ところで、確かyumiさんだったと思うのですが、150人の祈りということを仰っていましてけれど、これはまた別の行為なんでしょうか?

たびたびの質問ですみません。

 


3156 サラさんへ
名前: yumi  投稿日: 2003年10月25日 (土) 16時30分25秒

>ガーデナーさん・フアニーズさん・yumiさんのHP見ました。

サラさんこんにちは。確認なのですが上記の書き込みはkimiさんの間違いではないでしょうか?

http://www5c.biglobe.ne.jp/~y-h/

 


3155 ヨシさんへ
名前: yumi  投稿日: 2003年10月25日 (土) 15時45分45秒

自己否定とはヨシさんのおっしゃっているように自分に価値がないと否定するようなことです。
人にもよると思いますが、私達は小さい頃から「これがいい人」だとか「こう生きるのが良い」「これが価値ある人」など、社会的な価値観といったものを気が付かないうちに刷り込まれています。その社会的な枠にあてはまらないと「腐ったみかん」などど言われたり「ダメなやつ」というレッテルを貼られたりします。そういう扱いを受けると枠に入れない人は自分をダメな人間だと思い込んでしまいます。逆に非難されない為に世間に合わせて生きようとします。結局「今の自分じゃダメだ」といつも思っているのです。それは人によってはとても辛い事ですしストレスを受ける事です。
人によってはぞれが強烈な自己否定につながります。

トラウマになっているものが何であるか、知る事はできます。ちゃんと答えは用意されていると思います。それは意識的に辿り着く事も可能ですし、インスピレーションとして受け取ることも可能です。その時の自分に合った方法で答えは来ると思います。

>○それとも、yumiさんの作業は、日常意識しているような感情・気持ちを論理的に分析していこうという作業なんでしょうか? こうなると祈りとは全く別のものになってしまうと思うのですが。

そうでうすね。分析と言う言葉の方が解かりやすいかもしれません。そのやり方が合わない人もいるとは思いますが「何でだろう」とやってみれば解ります。
若い時に(へへへっ!年くってます)自分ではその気も無いのに「ぶりっこだ」と言われた事が有ります。私はぶりっこが大嫌いだったので、そう言われたのはかなりショックでした。そうすると、「相手の見方がおかしい!」と言って終わりにする事もできますが、大抵は自分の内側に目を向けるのではないでしょうか。「どういうところがぶりっこに見えるのか」ということをやりますよね。そうすると口では「あんなもの!」と思っていても「可愛く見せたい」「異性にもてたい」と言うものを持っている自分に気がつきます。それでいいと思えばそのままですが、「自分の世間体から可愛い女性を良しとする世の中に合わせようとしている」「異性にもてる事を自分のステータスにしなくていい」「ぶりっこしなくても自分の相手に巡り会えるのだ」と思えばぶりっこはしなくなります。
私が言っているのはそういうことです。わたしは偉そうに言っていますが、皆結構あまり意識せずにやっています。私はそれが解ったので意識的にやっています。

出来ないと思えば出来ないです。
トラウマになっていることも上記と同じです。自分のことは自分が一番よく解っているのです。
その時の自分の答えは、自分自身が持てる範疇であれば自分でも解ります。でも範疇外のことであれば霊的領域から来るように思います。途中からインスピレーションということも有ります。

私は祈りということはあまり考えていないのです。
「何故?」という問いかけは自分にします。それは自分が神だと思っているからです。それが見方によっては祈りと言えない事はないと思います。
霊的世界からの援助は期待していません。そこに頼って生きるのは自分が違う方向にいっていまう気がします。でも結果的に多くの霊的援助は受けています。だからとても感謝しています。

>○3111で書いたような私の宗教的体験は、意識・理性では絶対にできないと、私は確信しています。

宗教というものを媒体として起った事だと私的には思えます。違う媒体(例えば祈りや自分の信ずる何か)でもあり得ると思います。
誤てる意識が矯正される瞬間、高い世界を垣間見る瞬間、魂は喜びに打ち震えます。魂が何を求めているのか解るように思います。
意識をそちらに向ければそこに辿り着く事は可能です。意識は道標のようなものだと思います。理性=神性だとすれば可能です。
でもここで言っている意識と・理性が世間的な常識ということであれば、出来ないと思います。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~y-h/

 


3154 投稿者の心構え
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 14時40分07秒

○これから、ペーパーバーチさんのニューエイジ論やらふぃえるさんとの仏教に関する議論があると思いますし、私はそれを心待ちにしていますが、その前に気になることがありますので、書かせていただきます。

○どうも、この掲示板では論理、知識を重視されない方が多いような気がします。もちろん。頭でっかちの知識だけで、実践もしないなどというのは論外ですが、論理、知識を軽視していいことでは決してないと思います。
また、文章を書くときは読む人が分かるように気を使うということはしなくてはならないし、反省もしなくてはいけないと思っています。

○心のエネルギーを使う、思考停止しない、内省する、健全なる懐疑精神を持つ----いろいろ表現はあるかもしれませんが、「考える」という面でも面倒がらずに、エネルギーを使うよう努力することは、トンデモ的な発想を防ぐ、悪い意味でのニューエイジ的思考に陥らないために必要不可欠のものと思います。

○それから、人を批判するときは、「当人に対して」キチンとどこが間違っている、おかしいと思うことを冷静、客観的に述べるべきだと思います。そこから、建設的な考え、発想が生まれてくると思うし、これがないとスピリチュアリスト掲示板の意味がなくなってしまいます。
また、感覚的に気に入らないからという理由で、批判することは、スピリチュアリストというより責任ある社会人としての基本的なルール違反だと思います。

○また、この掲示板のような公共の場での自分の発言には責任を持つことも大事なことだと思います。

ご意見があれば伺いたいと思います。

 


3153 ヨシさん、レスありがとうございます
名前: ハナリン  投稿日: 2003年10月25日 (土) 13時52分24秒

この掲示板は回転(?)が早いですね。
ヨシさんの言わんとしていることがよくわかります。

利他愛の定義は難しいですね。

スピリチュアリズムに目覚めた人なら、利他愛も世間の常識とはまた違ったものが求められますよね。

シルバーバーチもよく言っていますが、「無知を光に変えなさい」(つまり、死んだらおしまいだとか、病気は治らない、といった無知や常識を覆すこと)が基本ではないかと思うのです。

霊的真理に目覚めて、魂のことがわかれば、他の苦しんでいる魂をほおっておくことができないし、そうした社会通念をなんとか変えたいと思うはずです。

そうしたことに貢献できるようにがんばりたいですね。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


3152 ははぎくさんへ
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 07時46分13秒

ははぎくさん、大好きです(笑)!! うれしいなあ〜〜!!  もっと、もっと、kimiさんやカノンさんのこと、あるいは、ははぎくさんのご意見などお教えください。楽しみにしています。

 


3151 yumiさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 06時44分45秒

yumiさんどうもありがとうございます(>3148)。

○自己否定とはどういうことでしょうか? 自分が価値のない人間だからと否定するようなことを意味しているのでしょうか。

>自分がひっかかったことを「なんでだろう」とやってゆくと核心にたどりつきます
○これはかなり意識的・理性的な作業ですね。
私は霊界(あるいは自身の奥深く、無意識にある感情)に近づくためには
(1)むしろ日常の意識・理性を極力薄め、無意識(他の用語で言えば「空」の状態になって。あるいは単にリラックスして)の状態の方が近づきやすいと思っています。
(2)守護霊にお願いしたいと言うようなときは、こうはいきませんから意識的に訴えることになりますが、この場合は理性というよりは、感情に訴えるということになるのだと思います。

○自身の無意識の中にある感情、あるいはトラウマになっているようなことに、意識・理性でたどり着くことはほとんど(というか全く不可能)できないと思いますし、だからこそ西欧の心理学では無意識という概念を作り、催眠や睡眠中の夢を使って、そこにたどり着こうとしました(これは結構成功していると思っています)。

○3111で書いたような私の宗教的体験は、意識・理性では絶対にできないと、私は確信しています。

○それとも、yumiさんの作業は、日常意識しているような感情・気持ちを論理的に分析していこうという作業なんでしょうか? こうなると祈りとは全く別のものになってしまうと思うのですが。

 


過去ログの目次心霊学研究所トップページ