らふぃえるさん、再びどうも。
|逆に、その思想を持つものの中に霊格の高いものがおれば、その思想には相当に
|霊的真理が含まれていると、よほど何か別の思想の影響がその人に見られない限
|り、みなせるはずです。
こういうのを詭弁と言います。そのようには“看做せません”。先日ご紹介させていただいた、カール・セーガンの最後の著書『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』に「トンデモ話検出キット」として、様々な主張の妥当性を検討するためのチェックリストが挙げられています。上記のらふぃえるさんの主張は、その中の〈相関と因果関係の混同〉に引っかかります。
〈相関と因果関係の混同〉
例:調査から明らかなように、大学卒業者には、それ以下の教育しか受けてい
ない層にくらべて同性愛者が多い。したがって、教育は人をゲイにする。
例:アンデス山系の地震は、天王星の最接近と相関がある。したがって、天王
星が最接近するとアンデス山系に地震が起こる。
(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』より)
例:仏教を信じている人に霊格の高い人がいれば、仏教には多くの霊的真理が含まれている。
……引用した例とまったく同じ論理展開ですね。こうやって並べてみれば、このような論理展開がどこで破綻しているのかお分かりいただけると思います。
(他にも「〈証拠隠し〉真理の半面しか語らない」というのもあります。前にも書きましたが、唯物論者にも他のあらゆる宗教にも立派な人はいるわけですから、仏教徒に立派な人がいることは仏教に霊的真理が含まれている証拠にはなりません)
とは言え、僕だって何も「仏教には見るべきものなど何もない」などと主張するつもりはありません。ただ、それは程度の問題で、僅かばかりの霊的真理を拾い上げるために残飯の山をあさるのは非効率であるということです。
もちろん純粋に霊的真理を求めたいのではなく、学問的興味・知的好奇心から、仏教(その他の宗教)に含まれる霊的真理を漁ってみたいというなら、それはそれなりに有益だと思いますし、とても面白そうなことでもありますから、ぜひやってみれば良いとは思います。僕も聖書やら各種仏教聖典やらシュタイナーやら神智学やらいくつかの新興宗教やらを勉強してみたことはありますから。ただ、そういう勉強は、教養にはなっても、霊的真理を知るための役には立たなかったと、僕は感じています。どちらかと言えば、仏教なんかより科学の勉強でもしたほうが良いと信じます。
(正直に白状すれば、シュタイナーの本は何度読んでもさっぱりわけが分かりませんでした。勉強したリストに加えてはいけないかも(^_^;ゞ)
|>か?(キリスト教徒にも立派な人はいますが、それはキリスト教徒として立派なのでは
|>なくて人間として立派なのだ……という内容)
|
|該当する箇所を教えていただければ幸いです。霊訓の何巻の何ページがお教えください。
これは驚きました。あなたはスピリチュアリズムに欠けている部分を仏教を学ぶことで補えると考えているのではなかったのですか? そのように考える人が……いや、考えるだけでなくご丁寧にスピリチュアリズムの掲示板にしゃしゃり出て公言までする人が、なぜこんなシルバーバーチの霊訓の中でも有名な言葉(何冊かの霊言集で重複して紹介されている)さえ知らないのでしょうか? その程度の見識しか無い人が、知りもしないものに何が欠けているのかなど、どうして分かると思えるのでしょう?
ま、ともかくその種の霊言の一つをご紹介しておきましょう。(実は僕が考えていたのは別の箇所だったんですが、とりあえず見つかったところを(^^;)
――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリ
スチャンも無数にいると思うのですが……
そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメ
なクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるという
ことを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありませ
ん。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもと
に殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、
魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。
(『シルバーバーチは語る』九章 キリスト教のどこが間違っているのか)
|もちろん、歴史上の仏陀の死後数百年も経ってから、法華経や涅槃経は書かれて
|いるので、それを仏陀が書いたというのは、歴史的な視点から見ればあなたのお
|っしゃるとおりでしょう。
|しかし、もしその視点に立つのであれば、シルバーバーチの霊訓も、シルバーバ
|ーチが説いたものではなく、モーリス・バーバネルが説いたもの(あなたの言葉
|を借りれば「でっちあげ」)ということになります。
|一方にのみ歴史的視点から教理上の視点をでっちあげと論じ、他方を否定しない
|のであれば、甚だアンフェアなものと思いますが、いかがでしょうか?
あまりにも非論理的なので呆然としてしまいます。もういちど頭を冷やして考え直してみてください。歴史的な視点と教理的な視点を混同しているのは、あなた自身です。
僕は「法華経(などの大乗の教え)こそ真の釈迦の教えで、小乗の教えは方便である」という主張を否定したのであって、その教えの内容の良し悪しについては一言も言っていませんし、何百年も経ってから「本当はこういうことが言いたかった」などという(偽りの)主張をする大乗仏教の立場と、初めから「霊が語っている」とする(昔の著名な賢人の言葉と偽っているわけではない)シルバーバーチとではまったく別の話です。片方は(実質別物の教えであるにも関らず)釈迦という著名人のブランドに乗っかろうとし、片方は(野蛮な民族と思われていた)インディアンとして、むしろ偏見を背負ったところから言葉の輝きのみで勝負しようとした……これを同列に考えられるとは、あなたは本当に言葉の表面的な所だけしか見えない、本質を考えられない人ですね。
まぁ、歴史上の視点では僕の言ったとおりだそうなので(^^;それで良いとして、教理上はどうかといえば……阿含経などいくつかの原始仏典と法華経などの大乗経典を比較すれば、釈迦が語った哲学と大乗仏教は全くの別物であることは明らかです。語るに落ちたな、と思ったのは僕だけではないことでしょう。
|それに、キリスト教が大乗仏教に影響を与えたとは、資料的な裏づけがなければ
|絶対に言えないはずです。
|大乗仏教は、仏教内部で部派仏教に対する内発的な批判運動から起こったと見る
|のが通説なのですから。
ふむ、使徒トマスが云々なんて僕は一言も書いた記憶がないんですが……。あんなのは当然伝説であるとしても、当時既にシルクロードを通じて交易はあったわけで、何百年もキリスト教が伝わらなかったと考える方が難しいと思いますけどね。まぁ、キリスト教云々は事のついでに出しただけの話ですし、資料を出せと言われても難儀なことなんで、それは違うとおっしゃるならそれはそれで結構です。
僕の論点の中心は飽くまでも「大乗仏教と釈迦の教えは別物」ということですから、僕としてはキリスト教云々ではなく“らふぃえるさんのおっしゃる「仏教内部で部派仏教に対する内発的な批判運動から」過去とは違う新しい教えが創られたのであって、その内容はもともと釈迦が説いていたものとは全く別物であった”と言い換えても良いわけです。もちろん霊界からの影響力も働いていたことでしょうし、様々な理由が複合的に組み合わさって、ああいう教えが出来上がったのでしょう。
|思想的にも、空の概念を強調し、全ての人が悟りを得ることができるという大乗
|仏教の思想は、あまりキリスト教とは関係なさそうに思えます。
思想的にも、ある超常的な存在に帰依することで救われるとする大乗仏教の思想は、キリスト教とまったく同じに思えます。というか、空の概念とか悟りなんて、ほとんどの仏教徒は意識もしてないんじゃないかと思いますが……。(要するに仏教のイデアではないと思うわけです)
らふぃえるさんのように表層的な所を突付き回せば、釈迦の教えとの連続性を強弁する事は可能でしょうが、それを言ったらユダヤ教−キリスト教−イスラム教だって連続性はあるわけですし、冷静に比較すれば、やはり元々の釈迦の教えと大乗仏教は別物というのは、議論の余地がない事実であると思います。
もちろん「法華経とは霊界で考えが変わった釈迦の霊言なのだ」と書かれているなら話は別ですし、「釈迦の教えには飽き足らなくなって出てきた新しい教えである」と言うなら賛成も出来ましょうが、「これこそ釈迦の真意である(小乗仏教は物のたとえ)」などという主張には、それはやっぱり嘘でしょう?と言わざるを得ません。
(念のため補足的に言っておきますと、僕は大乗仏教の発生には、釈迦の霊ではなく、現在スピリチュアリズムにかかわっているのと同じ霊団……つまりイエス配下の霊団が関わっていたのではないかと思っています。が、もちろん根拠はありません(^^))
|僕が、このように大乗仏教を擁護する論陣を張るのは、何も単なる身びいきからで
|はありません。
|大乗仏教の持つ霊的価値を正しく評価し、活かすことがスピリチュアリズムの発展
|にとって大きなプラスになると考えるからです。
シルバーバーチの霊訓一つろくに読んでいない人が「スピリチュアリズムの発展」にとって何がプラスになるかなど判断できるとは思いません。今までにも何らかのすばらしい霊的教え(と本人が思い込んでいるもの)を携えて、これを取り入れることでスピリチュアリズムはさらに進歩する、だのという主張をする人間が何人も現れました。一人の例外もなく、スピリチュアリズムのスの字も理解できていない連中ばかりでした。
間違いの指摘は簡単です。特に僕が書いている程度の文章など、見る人が見ればいくらでも粗を見つけられることでしょう。しかし、何が欠けいる、何が語られていないという指摘をするには、もっと慎重さが必要なハズです。その程度のことも分からず、せいぜい何冊かの本と、しばらく掲示板の様子を見ただけの知識で、コレコレを加えることが重要だなどと演説出来る人間には、それこそ何か(謙虚さ?慎重さ?(^^;)が欠けているのではないかと思います。(もっと深く学んだ上でこの程度の認識だとしたら、もっと驚いてしまいますが(^^;)
|自分の衣の衿に宝玉が着いてる人がそれに気づかず長年他国をさまよい宝を捜
|し求めるという話です。
|日本のスピリチュアリズムは「衣裏繋珠」を忘れがちのように、僕には思われ
|ます。
スピリチュアリズムという宝玉に気付かずに仏教という国を捜し求めているのではありませんか?
だいぶ端折って書きましたが、それでも随分長くなってしまったので、まぁ、この辺で。
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