心霊学研究所
掲示板の過去ログ

スピリチュアリスト掲示板

発言番号(親記事の)3201-3250の過去ログです。
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3250 リンク先を間違えました
名前: cerefica  投稿日: 2003年11月08日 (土) 08時26分53秒

リンク先を間違えました。
大変失礼致しました。

http://www.japan.msf.org/support/50yen.php

 


3249 国境なき医師団「1日50円キャンペーン」
名前: cerefica  投稿日: 2003年11月08日 (土) 08時24分18秒

以前きりこさんが、国境なき医師団に寄付するとよいという旨の事をおっしゃっていたのを思い出しまして、遅ればせながらそのサイトを拝見致しました。

すると現在、「1日50円キャンペーン」というのを発見しました。
これは大変素晴らしいアイディアですね!
どういうものかと言いますと、
毎月または3ヶ月毎に、指定の口座から「1日50円」分の額が国境なき医師団へ振り込まれるというものです。
この方法だと、金銭的に余裕がない方でもできますし、クレジットカードを持っていない方でもできます。(インターネット寄付だとクレジットカードが必要となります)
また、継続的に寄付を行えますし、わざわざ振込用紙を送ってもらう必要もないのです。

この素晴らしい寄付を是非、皆さんにもお薦めします。

http://www.japan.msf.org/support/form_50yen_k.pdf

 


3248 らふぃえるさん
名前: 光りのシャワー  投稿日: 2003年11月08日 (土) 03時30分07秒


はじめまして

私は、献体の申し込みをそばでみていたことがあります。申し込む人は
ものすごく意気込んでおり、事務員の人はものすごくあっさりと、
この用紙に記入してくださいといいました。 態度があまりに対比的なので覚えています。 
骨髄を2回も提供されたことに、私は尊敬の念を抱いております。このことは、人が神性を有している証だと私には思えます。この掲示板での議論を拝見して思うのですが らふぃえるさんなら、かなり恥ずかしそうに申し込まれたのではないでしょうか。 掲示板からは らふぃえるさんの少しウェットで、心の優しさや忍耐強よさや知性や品性がつたわってきますもの。 それらは私に欠けているものばかりです。

売り言葉に買い言葉の議論があってようやく口にされたのでした。本来私が、記入すべきではないのかもしれません。 知ってしまった以上 ただただ尊敬の意味でお伝えしたかったのです。

 


3247 らふぃえるさんへ
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年11月08日 (土) 00時48分33秒

またこうして掲示板にて、お元気そうなお声が聞けてうれしく思います!!

お気持ちは察するに余りありますが、ご自分の身に起こることはどんなことも神様からの「試練」という名のプレゼントだと思いましょう。それが、つらければつらいほど、神様からう〜んと(笑)見込まれている証拠なのですから、挑戦し甲斐があるというものです。

ご自分の間違いは素直にお認めになり、どんなときも誠意を込めて心より謝罪されるお姿は、必ずや周りの人達のこころ(良心)に響いているはずです。

今回のこの、明るくさわやかな(いろいろあったにもかかわらず)、それでいて皆さんへの思いやりも忘れていないコメントに、あなたのおもいっきしの優しさも感じました。

らふぃえるさん、ありがとうございます!!!

追申:もりふみさん、はじめまして、きっちょむと申します。もりふみさんには僭越ながら、百を越える批判の名言集の中から(どれにしょうか迷ったのですが)、やはり最初の3個を心をこめて送らせていただきたいと存じます。謝、謝!!

 


3246 ヨシさんへ
名前: アラム  投稿日: 2003年11月08日 (土) 00時01分32秒

ヨシさん、はじめまして。

「シルバーバーチの霊訓」と『霊訓』は基本的な思想では同じことを説いています。

しかし、「シルバーバーチの霊訓」はスピリチュアリズムを大自然の摂理を示す知識として説いていますが、モーゼスの受信した『霊訓』のインペレーターの霊団は宗教としてのスピリチュアリズムを説いています。

ですから、私はスピリチュアリズムの宗教としての教えを知るには『霊訓』をと述べました。

『霊訓 完訳 上』(心の道場 発行)の八節、
『霊訓 完訳 下』(心の道場 発行)の十九節
がその中心的内容の部分に当たります。

「魂の健全なる在り方を示す宗教は二つの側面をもつ。
 一つは神へ向かう側面であり、今一つは同胞へ向けての側面である」
(霊訓 上 P95)

「われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗 教ではない。
 身体の宗教でもあり魂の宗教でもある」
(霊訓 下 P40)
「われらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である」
(霊訓 下 P41)


祈りについてはシルバーバーチは「何とぞ 私を大霊と人々のために役立たせ給え」という一言の具体例を示していますが、後は多くのシルバーバーチの祈りを参考にして各人でということでしょう。

瞑想ではニューエイジの方が詳しいようですが、スピリチュアリズムの中でもニューエイジに最も近い「ホワイト・イーグルの霊示」が幾つかの参考例を示しています。
『秘儀への道』(桑原啓善 訳 でくのぼう出版) 第二部 静寂の声 参照

『背後霊の不思議』 テスター 著( 近藤千雄 訳  潮文社)の二章、三章も参考になります。

以前には 脇 長生さんの精神統一に関する著作もあったらしいのですが、現在は入手できないようです。

 


3245 もりふみさん
名前: きりこ  投稿日: 2003年11月07日 (金) 23時43分44秒

一見厳しそうな意見でありながら、愛情とユーモアを文全体から感じ取れます。
本当に、素晴らしい。

ところで、もりふみさんが列記した「足がクサイ」とか、「ボーナスが少ない」とか、「私のこと云々」とか、私が奥さんに言われたことを聞いていたんじゃないかあ?

と、

おもいました・・・・・・・

 


3244 らふぃえるさん、どうも
名前: もりふみ  投稿日: 2003年11月07日 (金) 21時41分04秒

らふぃえるさん、こんにちは、どうも。

>他人を傲慢と言って批判することに、どれだけの意味があり、実のある議論があるか疑問なんです。

そうですか、疑問ですか。私は大いに意味も実もあると思いますよ。何故なら、批判された本人が、その批判を受け入れる受け入れないは別にして、そういう視点もあるということに気がつく契機になるわけですから。だいたいあなたは、批判、批判と言ってそれこそヒトを批判しますが、私が批判的に指摘したのはあなたの「・・・よりもまし」という発想であって、あなたの全人格を否定したり攻撃したりしたのではありませんよ、どうしてそれほどウエットな反応をされるのか私は不思議で仕方ありません。

>まだしも、善行や実践について競い合うのは、古代ギリシャ的な卓越性を競い合うアゴーンの理念から見て望ましい部分もあると思うんですが、他人に対して傲慢という人がいると、そういう本人はどうなんだ?って僕は誰に対しても思ってしまうんです。

「古代ギリシャ的な」「アゴーンの理念」とはどういう理念なのかを私は浅学にして知りませんが、「善行や実践について競い合う」ことが望ましいとするような理念なら、どうせまともな理念ではないでしょうね。すくなくとも私は、そのような善行のオリンピックを奨励するかの如き理念に与しようとは思いません。まぁそれは好しとして、「望ましい部分もあると思うんですが、」までの前段に続いて、どうして「他人に対して傲慢という人がいると、そういう本人はどうなんだ?って僕は誰に対しても思ってしまうんです。」という後段が導かれるのか、その論理性のなさは気になります。こういうところが、上に述べたあなたのウエットな反応と相俟って『理屈っぽいけれど論理的ではない』とペーパーバーチさんがいみじくも評したような(ウマいことを言うものだなぁと感心してしまいましたが)印象を読む者に与えるのだと思いますよ。

気になるその論理的整合性は暫時気にしないことにします。「他人に対して傲慢という人がいると、そういう本人はどうなんだ?」とあなたが思ってしまう点は、これもとてもウエットで子供っぽい反応だとしか言いようがありません。そもそも「批判された」ということであなたの頭はパニックになっているのかしらん、だからいつまでも冷静になれないのかなと感じます。まぁそれでも、「そういう本人はどうなんだ?」は私への直接的な問いに限りなく近いと思いますので、いちおう(馬鹿ばかしいけれど)答えておきますね、「はい、もちろん私にも傲慢で思い上がっているところはイヤになるほどたくさんあることは間違いありません」と。

自慢するわけではありませんが、我が人生は批判される為にあったかと思えるくらい私はひどい批判を何度も受けて来ていますし、近きも遠きも皆が批判の矢を私に向けて放ち続けていると言ってもいいでしょう。いまパッと思い浮かべただけでも私が受けた批判の言葉(罵詈雑言、難詰、批難の類を含む)は百を超えます。いわく、「ワガママだ」「ナマイキだ」「ゴーマンだ」「うだつが上がらない」「甘ったれだ」「ワキが甘い」「レータンだ」「ピータンだ」「ボーナスが少ない」「ボケナスだ」「優しくない」「出不精だ」「ズルい」「根性が曲がっている」「性根が腐っている」「ラクしようとしか考えていない」「ナマケモノだ」「アタマがおかしい」「愛がない」「愚かだ」「ホームレスの方がまだエラい」「足がクサい」「サイテー人間だ」「しつこい」「究極の開き直リストだ」「ワタシのことなんかどうでもいいと思ってるんでしょ」「頑固だ」「利己的だ」「いい加減だ」「ウソばっかりだ」「まだろっこしい」「目つきがワルい」「正気じゃない」「高飛車だ」「王手飛車取りだ」「礼儀も知らない」「都合の悪いことは聞こえない」「調子がよすぎる」「尊敬に値しない」「ケーベツに値する」「ケーサツを呼びたい」「サギだ」「行き当たりばったりだ」「脳細胞の絶対数が足りない」「ゴクつぶしだ」「卑怯だ」「ヒネクレ者だ」「インチキ野郎だ」「タワケだ」「ヒトの気持ちが分からない」「死んでも直らないほどバカだ」「言い訳を並べさせたら天下一品だ」「イビキがうるさい」「無能だ」「恥知らずだ」「間抜けだ」「正直じゃない」「その場しのぎばかりだ」「大局観がなさすぎる」「意気地なしだ」「ヒトの言うことを聞こうとしない耳だ」「素直じゃない」「動物以下だ」・・・・・・。

これらの中にはコドモの頃に受けた批判もありますが、やはりらふぃえるさんと同じように「そういう本人はどうなんだ?」と反応していたような記憶があります。オトナになってからは、(批判慣れのせいか?)多少余裕を持って「私のナニが、どんなトコロが、彼(彼女)をしてこう批判せしめているのであろうか」と考えることが出来るようになったと思います(それは必ずしも批判を甘受することを意味するものではありませんけれど)。

しかし、いいオトナがみんな「自分も傲慢だから、自分のことを棚に上げてヒトのことを傲慢だと言うことは出来ない」「自分も優しくなれないときもあるから、ヒトが『優しくない』ことを指摘するわけにはいかない」という立派な(?)考え方を持っているとしたら、社会は理想的な姿に近づくでしょうか?まるっきり逆ですよね、そんな御立派な価値観は人間同士が互いに成長していく糧(かて)を絶つようなものでしょう。そんなインチキ「いいヒト」的考え方が世の中にハビコッた日には、発展・進化していく為の芽を摘まれたインチキぬるま湯社会の一丁上がりですね(しかも確実に退化していくでしょうし)。私はそう思います。だから、あなたの子供じみた感じ方でもある「そういう本人はどうなんだ?」の背景には、そんなインチキ価値観があるような気がしてなりません。そんなものにいつまでも呪縛されていると、自らの窮屈な思いで自らを苦しめることになりはしないかと私は懸念します。ここでTMHさんの言葉を拝借すれば、そこから一歩『突き抜けて』ほしいと、スピリチュアリズム仲間として私は思います。

以上は今日思い立った内容ですが、私がらふぃえるさんに申し上げたかった点は、上記もさることながら、むしろ次の点の比重の方が大きいのです。

先日の私宛のあなたの書き込みの一節です。

>その後にペーパーバーチさんが書き込まれた内容を見ますと、全面的にもりふみさんのおっしゃることが正しかったようですし、ペーパーバーチさんももりふみさんに最大の信頼を置かれているようですね。
 ですから、もりふみさんは全然傲慢ではなく、僕が間違っていました。

ナンですか、これは? 実を言うと、これを読んだとき、私はあなたが「仲間として」ナサケなくてナサケなくて仕方がありませんでした。どうして『ですから』なのか?『ですから』とは、いったいゼンタイ何なのか?と。

あなたのアタマと感性は「ペーパーバーチさん」と同一なのですか?あなたは「ペーパーバーチさんが〜〜」のようであれば、「僕」の結論までもが無批判にそれに従ってしまうような、そんなフヤけた豆腐のようなアタマの持ち主なのですか?自分が「間違っていました」でも「間違ってはいない」でもどちらでもいいけれど、何がしかの結論を導く為にダレかの考えを借用しなければならないような思考回路しかないのですか?これでは『ペーパーバーチさんがこう言ったから、自分はこうしたのだ』ということになり、「僕が間違っていました」という「あなたの」考え・結論を導きだした思考プロセスの主体はペーパーバーチさんの頭脳に内在すると言っているようなもの。じつにナサケない『ですから』ですね、これは。モノを言うなら「大霊に恥じることなく」以前に「自らに恥じることなく」自分のアタマで自らの思考プロセスを経てからにすべき。そうしないと、この場合、「僕が間違っていました」と言うことに多少なりとも女々しい不承不承的気分があったことの裏返しの『ですから』なのかという無用の誤解を与えかねないですよ(実際に私は最初そう「誤解」しそうになりました)。

それから、モノはついでにもう一つ。

とにかくらふぃえるさん、こういうのはホントに(仲間として放っておくわけにはいかないほど)女々しい、女々しすぎるからやめませんかというハナシです。

>お邪魔なようでしたら、いつでも撤退しますので、その旨はっきりとお申し付けください。

>ニューエイジの議論はここではするなというご趣旨ですか?(略)やめろというならやめます。

>ペーパーバーチさんにこのHPに留まって良いのかお聞きして返事のない間に、出て行けというならば出て行くと申し上げてまだ返事のない段階で(略)

誰も邪魔だとは言っていないのに「お邪魔なようでしたら、撤退」、言われているわけでも何でもないのに「出て行けと言われるのなら出て行きます」、ダレもそんなことを言っていないのに「やめろと言われればやめます」すべて仮定条件つき。こんな女々しい言い種はコドモ界の人々の言い種でしょう?すくなくともオトナの言い種としては失格です。『自分で』撤退したいと思えばそうすればいいのだし、『自分で』出て行きたくないと思えば出て行く必要はないでしょう。『自分で』「やめたくない」と思えばやめなくていいでしょうし、とにかく『自分で』まずは判断しなさいよ大人なら、ということをらふぃえるさんにはしつこく言いたい。ダレかに何かを指示されたり、方向を与えられないかぎり『自分で』は何も判断も下せないし行動も出来ないわけではないでしょう、あなたは。それなら何故かくも女々しい言い種ばかりを繰り返すのか、もういい加減やめようよ『シルバーバーチ』を読むのなら、ということです。

敢えて言いましょう、『シルバーバーチ』とは、それを読むことで『自分で』何かを感じ、それに基づいて『自分で』考え、『自分で』判断し、『自分で』行動することが出来る素地を持った大人の為の書であり、メッセージだと私は思います(小さな子供たちとのQ&Aも含まれてはいますが)。そしてスピリチュアリズムには組織もなければ教会もない、教義やお題目があるわけでもない、僧もいなければ祭壇もない、人間の弱い依存心を満たすものはこの世には何もないのです(書物としての霊訓を除いて)。要するに『自分で、自分のアタマで』考えて感じて判断して行動して・・・・・・という習慣が基本であると同時にとても重要な要素なのです。あなたはこれから精読すされるということですから、是非とも上に述べたような意味で大人の自分としてのスタンスで取り組まれることを願ってやみません。

 


3243 ガーデナーさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年11月07日 (金) 12時19分50秒

ヒーリングに関する私のいろいろな質問に関し、ガーデナーさんのHPにてご丁寧に回答いただき大変ありがとうございます。

今後、祈りの実践などを考えるさいに、参考にさせていただきます。

 


3242 コメントをお寄せいただいた皆様へ
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年11月07日 (金) 09時32分02秒

一週間ぶりぐらいにこの掲示板をのぞいてみました。
私生活で目が回るほど忙しかったのと、正直に言って、あまりこの掲示板をのぞく気がしなかったのです。
しかし、忍耐忍耐と自分に言い聞かせて、のぞいてみたら、意外にも気づかってくださる暖かいメッセージが多くありがとうございました。
ヨシさん、yumiさん、TMHさん、きっちょむさん、アラムさん、知足さん、ありがとうございました。

いくつかの点で、ご質問のあった点や、こちらから質問のある点について書かせていただきます。

知足さん(3209)

暖かいお言葉ありがとうございます(^^)
HP、読ませていただきましたが、知足さんの絵はとても暖かくて不思議な元気に満ちていてとても面白いと思いました(^^)

さて、「還元主義」なのですが、知足さんがいかなる意味で使っているのか、僕にはよくわかりません。
もう少し詳しく説明していただければ幸いです。

僕は、人間を説得するには、論理と良心の、両方に訴える必要があると思っているんです。
たとえば、「国家は利己的なものだから、利己的な理由で戦争を行ってもかまわない」という論理や、「自分はたしかに冷笑や嘲弄をしてるけれど、その相手に思いやりを持っていないのだから仕方がない」という論理は、当人の中では論理の矛盾はなく一貫していますよね。
こういう場合、その論理を適応した場合の別の例示を持ち出してさらに質問を試みるか、相手の良心に訴えるしか術がないと思うんです。
同じスピリチュアリストであれば、理想としては万人を愛すべきこと(僕も全然実際にはできていませんが)、また、利己的な動機で人を殺傷していはいけないということが、スピリチュアリズムの本にも書いてありますし、良心に訴えれば説得が可能だと思うんです。
ですから、「大霊に恥じることはないのか?」、あるいは、「それがスピリチュアリズムと何の関係があるのか?」と問うことが、良心に訴える場合にはあって良いと思うのです。

ガーデナーさん(3215)

誤解のないように申し上げますが、僕はスピリチュアリズムに実践がないと言っているわけではなく「瞑想・ヨガ・坐禅等の行の実践」と申し上げております(^^;
もちろん、ヒーリングや祈りは、重要なスピリチュアリズムの実践です。
それに、僕は「霊訓」を読んで考えが変わらないなど言っていませんよ。
大いに感銘を受けました。

TMHさん(3218)

はじめまして(^^)
暖かいアドヴァイスありがとうございます。
いつも小桜姫物語、愛読させていただいております。
この場を借りて改めて御礼申し上げます。

1995年の事件というのはオーム事件ですよね?
おっしゃるとおりの面はあると思います。
しかし、この論点は難しいですね。
オーム事件の教訓から何を汲み取るか・・・。
長くなりそうなので、もし機会があればいずれ別の折に討論することができれば幸いです。
ただし、あの事件は、同時に寛容についても考えさせられる事件だとも思うんですよ。

骨髄移植のことに関しては、皆様たくさんコメントを寄せていただいているようで、恐縮ですし、TMHさんがおっしゃるとおりと思います。そのレベルを目指したいと思います(^^)
ただし、僕はもともと吹聴していたわけではありませんし、移植手術をした相手に対して本当に心配だったからしただけで、その相手に一度たりとも恩着せがましい思いを抱いたことはないと神にかけて申します。また、社会の多くの人にも、なるべく骨髄バンクに登録していただきたいとは思いますものの、聞かれもしないのに自分はこんなに立派だなどと吹聴したことはただの一度もないです。
この議論は、極めて不毛だと思うので、あまりやりたくないのですが、そもそもからまれた相手に対して言い返したことでした。
そして、その言葉を切り取って、もりふみさんが傲慢だと言ってきたわけです。
そして、そのことに僕は全然納得がいかないんですよね。

他人を傲慢と言って批判することに、どれだけの意味があり、実のある議論があるか疑問なんです。
まだしも、善行や実践について競い合うのは、古代ギリシャ的な卓越性を競い合うアゴーンの理念から見て望ましい部分もあると思うんですが、他人に対して傲慢という人がいると、そういう本人はどうなんだ?って僕は誰に対しても思ってしまうんです。
あゆさんも述べてらっしゃいますが、骨髄移植というのは、本当になかなか型が合わないこともあって、僕の知っている方で親兄弟全員型が合わずに移植の手術ができず、提供者が現われるのを一年待って、とうとう手術を断念して亡くなっていった方もいるので、
もりふみさんが「そのような思い上がった意識を持つdonorからの提供を受けることには躊躇するかもしれません」なんて言うのは、安全圏にいる人間の思い上がった意識で、藁にもすがるような思いをしてる人の気持ちはこの人は全然わかっていないだろうなぁ、と思わざるをえないわけです。
というわけで、もりふみさんから傲慢だと言われて、はいそうですね、と納得するのは自分の気持ちを偽ることになると思うのですが、あんまりこの議論をしても身があるとも思わないですし、僕も吹聴するつもりなど毛頭ないので、ここらで打ち切りにしたいと思います。
暖かいアドヴァイス、本当にありがとうございました。

ついでに、小川さん(3227)
たしかに、スタッフの方も本当に大変と思います。お疲れ様でした。
過去ログまでなかなか読み通す暇がないので、過去にどういういきさつがペーパーバーチさんとあったのかは存じ上げないので、他には何も申し上げることができませんが。

ヨシさん(3231)

おっしゃるとおりです(^^;
少しずつ議論するよう心がけます(といいつつこの書き込みもすでに長くなってますね(笑)
3201のコメントは嬉しかったです。改めてこの場を借りて感謝します。

アラムさん(3238)

はじめまして。
僕は、スピリチュアリズムの霊能養成会には行ったことがないので、御情報ありがとうございました。
しかし、スピリチュアリズムにすでにあるとすれば、それはすでに他の宗教からとりいれたということではないかと思いますが、その点はどうなのでしょうか?
瞑想・ヨガ・座禅などは、どう考えても実践知で、身体を持たない霊から教えてもらうわけにはいかず、誰か身体を持つ先達について学ぶ必要があると思うのですが。
その点について、とても興味深いし、僕は知識が不足してますので、教えていただければ幸いです。

>>伝統宗教は、歴史的淘汰を経てきているので、それなりに人間の狂気や不完 全さを是正してきた平衡感覚を含んでいるし、文章が美しいものも多い
>と述べられていますが、これはどういうことを述べられているのでしょうか?
何がスピリチュアリズムに欠けているのでしょうか?

シルバーバーチ自身、一冊の本にすべての真理がおさまるはずがないと述べています。
欠けている、という表現はひょっとしたら適切ではないのかもしれませんが、他の本に補えるものがたくさんあると言いたいんです。
スピリチュアリズムは発足以来150ほどしか経っておらず、しかも人数としては極めて未だに少数に留まっております。
「伝統宗教は、歴史的淘汰を経てきているので、それなりに人間の狂気や不完 全さを是正してきた平衡感覚を含んでいる」ということで僕が言いたいのは、人数も多く歴史も長いキリスト教や仏教は、失敗や誤りとその是正の歴史がとても長いので、そこから汲み取るべきものも多いのではないかと思う、ということです。
「文章が美しいものも多い」というのは、たとえばアッシジのフランチェスコの祈り、などを念頭に置いていたのですが、いかがでしょうか?
宗教の定義については、2994で知足さんとの議論の中で、辞書的定義と説得的定義の違いを説明しておりますので、そこを御覧になってください。

仏教が六師外道に対してどう接していたかですが、おっしゃるとおりもちろん批判はしていました。
しかし、批判をするな、それは寛容ではないと僕は言っているわけではないのです。
批判はしていい、しかし、もし批判をするなら愛が必要だし、トゲトゲしい言葉を使う必要はないと言っているわけです。
仏教は、ご存知と思いますが、不悪口・不瞋恚・不慳貪などの戒があります。
当然、六師外道に対しても、その戒を本当に仏教徒ならば適用すべきということであります。

>他の宗教とスピリチュアリズムの関係ですが、
様々な宗教の中核の真理の部分を集めたものがスピリチュアリズムとされています。

ですから、僕とヨシさんの議論は、そもそも、どう違っているのか、また一致している部分はどこなのかということを中心に議論してきたわけで、おっしゃるとおりなのですが、ではどこがどうなのかという具体的なところを検討しようとしていたわけなんです。

またまた長くなってしまいましたが、ペーパーバーチさんにこのHPに留まって良いのかお聞きして返事のない間に、出て行けというならば出て行くと申し上げてまだ返事のない段階でコメントしてしまったことを、お許しいただきたいと思います。

 


3241 ペーパーバーチさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年11月06日 (木) 13時49分35秒

ペーパーバーチさん、さっそくのご教示ありがとうございます。

アラムさんへの質問
>>スピリチュアリズムの宗教としての教えを知るには「スピリチュアリズムのバイブル」>とも呼ばれる『霊訓』をご覧ください。
>○この点がよく分からなかったのですが、よろしければ具体的にご教示願えませんか

に関し、私もこれはW.S.モーゼスの『霊訓』ということを知った上で、質問したのですが、これについて補足説明させていただきます。(説明不足ですみませんでした)

私が「シルバーバーチの霊訓」と W.S.モーゼスの『霊訓』を読んだ理解の範囲で申し上げると、高級霊訓が下された背景、時代、霊媒の立場などが異なるとは言え、どちらも基本的な思想では同じ事を述べていると思います(だからこそ、これら高級霊訓の真実性がこの点でも証明されるわけですが)。

それを踏まえ、「スピリチュアリズムは宗教か」という観点から、「スピリチュアリズムの宗教としての教え」を知るために、アラムさんはなぜ、W.S.モーゼスの『霊訓』を取り上げたのか、そして具体的にどのような点で「宗教としての教え」が W.S.モーゼスの『霊訓』 に記述されているのかを質問したのです。

 


3239 アラムさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年11月06日 (木) 12時27分51秒

アラムさん、はじめまして。らふぃえるさんへの投稿(>3238)につき、私自身、啓発されるところがありましたので、若干質問、コメント等させていただきます(単なる感想に終わっているものもありますが、ご容赦ください)。

>初歩的なものでしたら、本を読んでの独習も可能です。
○本を読んでの独習が(私にとっては)悩ましいところなのですが、シルバーバーチの霊訓などを読んでも、具体的な祈りの実践方法が書かれていません。具体的に書かないことは、祈りの実践が固定化、形骸化することを防ぐためにも大いに意味があるとは思うのですが、他方、具体的にどうすればいいのか分からなくなることがあります。私は以前日蓮系の宗教で「題目」という具体的実践方法で祈り、それなりの宗教的体験をした経験があるだけに、あやふやな、のれんに腕押し的な感じを持つことも事実です。
○私は、現在ではベッドで横になり、精神・身体をリラックスさせて祈っていますが、題目と違って、どこかとらえどころが感じられません。要は、個々人が、自分にあった方法を見つけ出していくしかないと思っていますが、難しいです。

>それ以上の本格的なものになりますとスピリチュアリズム・サークルやスピリチュアリ>スト・チャーチ、霊能養成会などでの実習ということがなされているようです。
○日本人でスピリチュアリズムを学ぶものは、ほとんどが個々人で学んでいると思います。私自身、周りにはそのような人はいませんし、この掲示板が唯一のコミュニケーションの窓口です。
○スピリチュアリスト・チャーチ、霊能養成会も日本ではあまり聞いたことがありませんが、たとえあったとしても、怪しいものかどうか十分吟味しなければならないし、たとえキチンとしたものがあったとしても、組織にはその弊害(集団主義、教理の押しつけ、個人への傾倒など)が出てきやすいものですし、参加することがいいのかどうかは難しいところです。
○スピリチュアリズムでは個々人の自由意思に重点が置かれているので、組織、師匠に頼らず、個々人がそれなりの実践を苦労しながら考えていくしかない、と最近は思っています。

>伝統宗教は、歴史的淘汰を経てきているので、それなりに人間の狂気や不完 全さを是>正してきた平衡感覚を含んでいるし、文章が美しいものも多い
>と述べられていますが、これはどういうことを述べられているのでしょうか?
>何がスピリチュアリズムに欠けているのでしょうか?
○以前も書きましたが、シルバーバーチの霊訓を読んでいると、「正しいこと」、「いいこと」を上から説教されているような感じを受けることがあります。その点、聖書などを読むと人間の醜さ、弱さ、悪さを凝視した上で、神に近づこう、という人間サイドから見た信仰が描かれていて共感することがあります。
○これはスピリチュアリズムの思想に欠けているところがある、ということではありませんが(むしろ私はスピリチュアリズムこそ現代人の合理的な精神を満足させるすばらしい宗教・思想だと思っています)、神へのアプローチという点で、他の宗教は参考になるのではないかと思っています。

>人の役に立たない宗教は霊界では宗教とみなされないとされているのです。
○その通りだと思います。しかし私は「人に役立つ」ということをもっと広く考えていて、魂の底からの願望(たとえそれが当初は利己的なものであっても)を追求することも、結果的には「人の役にたつ」こともあると思っています。「牛に引かれて善光寺参り」と言う言葉がありますね。
○私が以前題目を唱えて、私の精神の病を克服した後(それ自体は「人のため」でなく、「自分のため」でした)、少しは人のことを考えられる余裕ができ、人のこと考えられることが、ほんの少しですが、できるようになったことを考えると、「自分のため」と「人のため」というのは、意外なところで通じているし、表裏一体の関係にあるのではないかと思います。
○したがって、単に「人のため」。「利他愛」と述べるだけの文章を見ると、どうも私は違和感を感じることがあります。

>「寛容」ということですが、
>ヨシさんは
>思想体系に反するものは排除しようとする
>と定義されていましたが、「真理」とみなされるものに反するものには厳しく指摘する>というところはあるでしょう。
○「排除」と言う言葉は誤解を招きやすいかと思っていましたが、アラムさんは私の言わんとするところを理解して頂いているようで、嬉しいです。
○スピリチュアリズムは他の宗教と比べ、相当程度「寛容」的な宗教と思いますが、それでもスピリチュアリズムの根幹の思想についてはあくまでも守り抜く、どんなことがあっても信じ抜くという強い信仰を持たないと、神には近づけないと思っています。

>スピリチュアリズムは宗教か ということですが、
>スピリチュアリズムの宗教としての教えを知るには「スピリチュアリズムのバイブル」>とも呼ばれる『霊訓』をご覧ください。
○この点がよく分からなかったのですが、よろしければ具体的にご教示願えませんか。

3240 名前: ペーパーバーチ  投稿日:2003年11月06日 (木) 13時23分54秒
スピリチュアリズムのバイブルといえばW.S.モーゼスの『霊訓』しかありません(^^)。国書刊行会とコスモ・テン・パブリケーションから出ていたのが絶版になって、今は心の道場さんから自費出版で出ている……んですが、なぜかコスモから出ていた方も未だにamazon.co.jpで注文できるみたいです。

どちらも近藤千雄さんの翻訳ですが、心の道場版の方をオススメします。いま会社なので確認できませんが、確か訳文が違ったはず……。

モーゼスの「霊訓」〈上〉
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876660247/ref=nosim/paperbirch-22

モーゼスの「霊訓」〈中〉
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876660263/ref=nosim/paperbirch-22

モーゼスの「霊訓」〈下〉
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876660301/ref=nosim/paperbirch-22

心の道場出版案内
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp-library.htm

http://www.paperbirch.com/


3238 らふぃえるさんへ
名前: アラム  投稿日: 2003年11月05日 (水) 23時58分44秒

らふぃえるさん、はじめまして。

らふぃえるさんはスピリチュアリズムに欠けているもので伝統宗教で補えるものがあるとして
>瞑想・ヨガ・座禅等の行の実践の伝統が伝統宗教にはある
>こうしたものは実践知であり、本では必ずしも伝授できない
>スピリチュアリズムの本だけでは近づけない
>身体的技法等は仏教などの伝統宗教から補う必要がある
と述べられています。

初歩的なものでしたら、本を読んでの独習も可能です。
それ以上の本格的なものになりますとスピリチュアリズム・サークルや
スピリチュアリスト・チャーチ、霊能養成会などでの実習ということがなされているようです。
伝統宗教に頼らなくてもスピリチュアリズムの中に既にそのようなものはあるということです。
好みによって伝統宗教の中の行法を取り入れる人もスピリチュアリストの中にはいます。
「日本神霊主義」の流れの中では古神道の「鎮魂法」を実践する人が多かったようです。
しかし、スピリチュアリズムに欠けているわけではありません。

>伝統宗教は、歴史的淘汰を経てきているので、それなりに人間の狂気や不完 全さを是正してきた平衡感覚を含んでいるし、文章が美しいものも多い
と述べられていますが、これはどういうことを述べられているのでしょうか?
何がスピリチュアリズムに欠けているのでしょうか?


ヨシさんとの議論によって、宗教の定義、スピリチュアリズムと他の宗教との比較ということをなされとうとしていましたが、「宗教の定義」は様々なものがありますね。
「おおもと として尊ぶ教え」というような定義もあります。

シルバーバーチが「宗教とは人の役に立つこと」と説いているのに関して
>宗教は人の役に立つことをこそその真髄としなくてはならない、
>宗教においては人助けこそ最も重要な要素である、という意味で定義を使っ ていると思います
>あらゆる宗教に通底した定義として「人の役に立つこと」という定義をシル バーバーチが持ち出しているわけではないでしょう
>人の役に立たない宗教だって山ほどあります
と らふぃえるさんは述べられていますが、この「真髄」こそ 宗教と定義されているので、人の役に立たない宗教は霊界では宗教とみなされないとされているのです。

ヨシさんは
>人間・物質界以上の絶対的存在(神・法則)を信じる
>精神・霊性の向上を図ろうとする
という定義を以前にされていましたが、この部分がないものは霊界から見て宗教とはみなされないということです。

らふぃえるさんとヨシさんの合意による「宗教」の定義は地上的観点からの宗教の定義であり、霊界から見た 宗教 の定義とは異なっているということです。

「寛容」ということですが、
ヨシさんは
>思想体系に反するものは排除しようとする
と定義されていましたが、「真理」とみなされるものに反するものには厳しく指摘するというところはあるでしょう。

仏教でも六師外道や悪見、邪説にまでは寛容ではなく、厳しく指摘していたはずです。


スピリチュアリズムは宗教か ということですが、
スピリチュアリズムの宗教としての教えを知るには「スピリチュアリズムのバイブル」とも呼ばれる『霊訓』をご覧ください。

他の宗教とスピリチュアリズムの関係ですが、
様々な宗教の中核の真理の部分を集めたものがスピリチュアリズムとされています。

 


3237 そーかー、そういうことだったのかー
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年11月05日 (水) 09時16分03秒

ペーパーバーチさんの、3227の小川さんへコメントを読んで、もっと、もっと、ペーパーバーチさんのことを知ってみたくなりました。

んでもって、ただ今、全過去ログ読破中〜〜!! ん〜〜、(いろんな意味において)読み応えアリ〜〜〜!!!

追申: ははぎくさん、子育てご苦労様で〜す!! 私、個人的には、かたいものでもガンガン噛める、歯の丈夫な子が大好きで〜す(笑)!!

 


3236 学会員が霊的真理に目覚めれば...
名前: cerefica  投稿日: 2003年11月05日 (水) 09時09分11秒

PENさん、お褒め頂いて大変恐縮です^^
周囲(学会)からの圧力があるかもしれませんが、お互いに頑張りましょう!

創価学会は世間では悪く捉えられていますが、一人一人を見ると、とても純粋で人間的にすばらしい方が多い事を良く知っております。
もし彼らが霊的真理に目覚めたならば、とても力強くて情熱的なスピリチュアリストになっていただけると思います。

 


3235 cereficaさん
名前: PEN  投稿日: 2003年11月03日 (月) 15時37分07秒

> このように簡単に記述していますが、伝える前は結構緊張しておりまして、
> というのも、小さいときから日蓮正宗(学会)の教えは絶対だと教えられていた
> ので、どんなひどいリアクションが返ってくるか予想もつかなかったからです。

cereficaさんの勇気に拍手(パチパチパチ)。私はcereficaさんのお気持ちが
よぉーくわかります。

私を含めて同じような環境の方は多いかもしれません。私の家では母のみ。
しかし母の兄姉(母を含めて5人)のうち4人(母を含めて)、そしてその子供達
(私のいとこ達)が学会員です。

私のすべきことはシルバーバーチの本を読んでもらうこと。とりあえずそこまで
を一区切りにしたいと思っています。本を読んで自分で判断してもらい、それで
拒否されるなら仕方がないと思います。と言うより、それ以外に有りようがないの
では?と。時期の来ていない人に薦めても単なる読み物でしかないかもしれませ
ん。でも読んでもらうまでが大変なんですよ。私の母はまだ私が言って聞かせ
た簡単な霊的知識しか知りませんし、まだ自分から本を読もうとはしません。(^^;

 


3234 創価学会員の親に対して
名前: cerefica  投稿日: 2003年11月02日 (日) 22時57分16秒

私の家族は全員が創価学会員という学会家族です。
(勿論私自身も学会活動をしておりました。)
私がスピリチュアリストになってから、いつか親にスピリチュアリズムの事を伝えていくことが親孝行だと思い、その機会を狙っておりました。

昨日、ようやくそのチャンスが巡ってきて、父母にスピリチュアリズムの概要を語りました。
感情的な母親は思ったとおり、不快感をあらわにしましたが、結果的には理解してくれました。さらに、心の道場さんのサイトを一緒に観てくれたり、「シルバーバーチは語る」の本を読んでくれました。
何でも自由にやらせて貰っていた父親の方は、特に批判も賛同もしませんでしたが、少し興味を持ったみたいでした。

このように簡単に記述していますが、伝える前は結構緊張しておりまして、というのも、小さいときから日蓮正宗(学会)の教えは絶対だと教えられていたので、どんなひどいリアクションが返ってくるか予想もつかなかったからです。
しかし、何とか勇気を振り絞って伝えることができたのは、
神様や守護霊や背後霊、そしてここの掲示板の方々から勇気を頂いたからだと思っております。
本当にありがとうございます。

霊的真理の普及という壮大なプロジェクト活動の第一歩として、まず親へ伝える事ができて、本当に良かったと思います。
第ニ歩・第三歩へ向けて、より努力していこうと思います。

 


3233 誤解・曲解
名前: ガーデナー  投稿日: 2003年11月02日 (日) 17時45分31秒

今日は。皆さん色んな苦・困難を持ってるから、そこから
自己中心的な結論を見い出して公表してしまう方がみえる
のでしょうね。

その自分の救われたケースを皆さんに論議されるのを覚悟
の上で投稿しないと、誤解や曲解を生んでしまうのは仕方
のないことです。

サラさんは、もうこの掲示板にはみえないでしょうが、もう
少し早く弁明された方が良かったと思います。私はサラさん
に迷惑かけられたと思うようなコメントしてません。謝る相
手が違います。

この本に書かれてる事は素晴らしいから是非皆さんに紹介し
ようと思っても、皆さんの霊的成長具合も様々ですから受け
取り方も当然様々です。

私はいつまで経っても霊訓から卒業できないし、このまま一生
浸かってても良いかなって思ってます。この考えは自分の中に
ある神の思いじゃなくて、ただの自己中な考えです。

良い意味で楽しく明るく苦・困難は受け止めています。思い悩
んだところで人生、あと数十年ですから、どんな苦・困難が来
ても私は「いらっしゃいませ〜」の気持ちは忘れません。乗り
越えられない苦・困難はないっていつも浮かぶし、迷い人が来
ても「しっかり上(神)を見て精進してください」って心で叫
びながら祈ってます。

 


3232 学ぶ機会を与えて下さったことに感謝しています!!
名前: サラ  投稿日: 2003年11月02日 (日) 10時59分59秒

小川さんはじめ、皆様方のご意見は素直に感謝致します。本当にありがとうございました。私の師の1人である方が言われていたことを思い出していました。  あるがままに・・・みんな必要なことしかしていない(私の反省すべき点を訂正しないという意味ではありません)その状況が完璧。そのなかで学ぶべきことがある。 ・・・多くの学びを得ました。心より感謝いたします。


ガーデナーさんへ

私の書き込みでご迷惑をおかけ致しましたことお詫び致します。
決して浮ついた気持ちで「楽をして・・・」と書いた訳ではありません。皆様方にもいろいろなことがおありのように私にもありました。簡単に5〜7年前に主人の痴呆症の両親をそれぞれ看取りました(このとき霊的なことを学んでいるが故にできない自分を責め、それだけではありませんが下半身付随一歩手前までいきました。が誰も両親を看ようとしませんでしたので私が息子達の協力を得て最後まで看ました)そして3年前の9月に母の死・10月に妹の自殺・11月に主人のリストラ・・・ 2年前の5月に蜘蛛膜下出血のおそれありの激痛(検査の結果異常なし!この痛みは今も強弱でありますが原因はわかっています)昨年3月に生きている気力を無くして倒れてしまいました・・・長くなりましたがこれらを経て私の場合は無理をしないでできる範囲内でする。楽しく、遊びながら(!?)いい加減はダメだけど好い加減がよい!!に行き当たったのです。省略したので誤解(!?)を招きガーデナーさんにご迷惑をおかけ致しましたこと心よりお詫び致します。


最後になりましたが感謝と共に掲示板のさらなるご発展を心よりお祈り致します。  Thank you !!

 


3231 らふぃえるさんの投稿を読んで
名前: ヨシ  投稿日: 2003年11月02日 (日) 00時04分59秒

らふぃえるさんのペーパーバーチさんへの回答を読み返してみました(>3202、>3203)。大変興味深いのですが、同時に大変難しいですね。宗教・哲学の根本に関わるいくつもの問題が長い投稿の中に書かれているし、仏教などの深い見識・知識がないと分かりづらいものもありますし、うーむ、難しい。

一つの問題を議論するだけでも、相当のエネルギーと時間がかかるでしょう。そのような論文を一晩で書き上げるらふぃえるさんも凄いですが、まあ、これは人類の大問題と言っても過言でないぐらいの問題だと思いますので、(私みたいな、物わかりのよくない参加者のためにも)気長に、しかし常に念頭に置いて、検討していけたらと思います。

読んでいて、これは啓発されたと思う箇所を少し引用してみます。

>僕はスピリチュアリズムに欠けているもので仏教が補えるものがあるとやっぱり思うんですよ

>? 瞑想・ヨガ・坐禅等の行の実践の伝統が、伝統宗教にはある。こうしたものは、実践知であり、本では必ずしも伝授できない。その点で、スピリチュアリズムの本を読むだけでは近づけない、身体的技法等は仏教などの伝統宗教から補う必要がある
? 伝統宗教は、歴史的淘汰を経てきているので、それなりに人間の狂気や不完全さを是正してきた平衡感覚を含んでいるし、文章が美しいものも多い。それらは、スピリチュアリズムにとって、有益な内容も多いのではないかと思われること。

>教相判釈のような包摂的な思考方法をとった方が、キリスト教のように排他的になるよりかははるかに建設的と思うんです。----ただし、スピリチュアリズムが排他的になるかどうかは、今後のスピリチュアリストの運営の仕方によると思うんです。

>行や実践の体系においてはスピリチュアリズムは伝統宗教に大きく依存せざるを得ないと思うんです

他にも、感銘を受けたところは、沢山ありますが、スピリチュアリズムを考えるに当たって、いいポイントだと思うものをいくつかあげました。祈りの実践一つをとっても、確かに既存の宗教から学べるところはあると思います。

ということで、一つの提案なのですが、読者の便宜を考えれば、すべてをいっぺんに議論するのでなく、これはまず最初に議論すべきだというテーマ、あるいは皆さんが関心を持っているテーマを選んで、少しずつ議論した方が、皆さんのためにも、時間的にも有効かなー、と思うのですが、いかがでしょうか。

 


3230 再び、「カノンさんの日記」より
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年11月01日 (土) 22時50分26秒

『すべてはあなたの心次第であるということ。

あなたが心の平安を望むなら、それはあなたのものなのです。
本心から、心の平安を望んでいますか。心の奥では、そんなものあるわけがない、自分には無理だ、なんて自分は駄目なんだ、・・・様々な自己否定や自己嫌悪が、本心から望むことを妨げているのです。

自分の心なのに、自分で制御できない。
どうしてなんでしょう。それがどうしてなのか分かりますか。

こうあるべきだ、こうした方がよい、このような考え方はいけない、どうしてこんな考え方をするのだろう、・・・分かっているのに、感情などが顔を持ち上げ、どうしても腹が立ったり、許せなかったり、むかついたり、様々な感情に支配されて、自分本来の心に気がつきながら、それを無視して感情に流されてしまいます。

頭の中では、霊的真理を心の指針とし、それを言動に反映させていくことで、自分自身も成長し、喜びに満たされ、心の平安を得ることができることを、しっかりと分かっているのです。

しかし、それができない。
どうしてなのだと思いますか。自分の心を冷静に見つめることです。何が見えてきますか。見るのも嫌ですか・・・嫌だ嫌だと、感情がだだをこねていますか。

一歩踏み込めば、そこに宝があるのに、その一歩がなかなかできない。できないというよりも自分で踏み出そうとしていないのです。

日々の生活の中で、あなたの思い通りにいくことなんてあまりありませんね。他の様々な人たちと調和しながら生きていくことが、あなたの修行なのですから、思い通りにいかないことは有り難いことなのです。

相手のことを思いやること、その相手が優しくて、思いやりがあって、・・・そんな人ばかりなら本当に理想的ですね。そんなことは霊界に戻ってから考えなさい。

どんなに自己中心の相手でも、思いやりを感じない自分勝手な相手でも、その相手の心に影響されることなく、あなたはあなたの信じている神の愛を流させていただくのです。常に思いやりの心を忘れることなく、相手の魂の成長を祈っていくのです。
それがあなたの修行です。

あなたはこの物質世界に修行にきていることを忘れています。

もし、あなたに都合の良い環境で、優しい思いやりのある人ばかりに囲まれて、自分から望まなくても心穏やかに、平和に暮らしていけるのなら、魂の成長はどれくらいあると思いますか。そのような平穏で満たされた生活なら、霊界でいくらでもできるのです。波長同調の世界ですから。

あなたの置かれた環境、出会う方々、・・・偶然は決してないのです。

以下省略』

ありがとうございました!!


ははぎくさんへ(ますます大好きです!!ブチュ! 笑)、空句さんへ(クウク、素晴らしい響きですね!)、まるもさんへ(ガイドブック気に入っていただけてうれしいです!)、ガーデナーさん(HPの件、違う方なのでは・・・汗)。みなさん、レスありがとうございました!!

追申: らふぃえるさぁ〜〜ん!! おげんきですかぁ〜〜??

 


3228 株式投資について
名前: きりこ  投稿日: 2003年11月01日 (土) 00時03分15秒

ヨシさんと、ガーデナーさんが、ちょっとだけ株式に触れていましたが、
株式投資というものに付いての私の考えをちょっと・・・

○株式投資はゼロサムゲームではない。
 →会社の成長に合わせて株式も成長します。短期的な投機売買は別として、  長期で考えれば、ゼロサムではありません。

○株式投資は、その会社を応援することにもなる。
 →株式を買い、株式価値を高めることは、企業の資本戦略を容易にし、その  発展に寄与します。

 以上の2点が、結構、肝要だと思っています。
 私は、2点目のところで、アメリカのバイオテクノロジー企業に投資してい ます。やっぱり、どうしてもバイオ及び最先端医学関連はアメリカが、断然 リードしています。
 
 野村証券のコマーシャル(だったかな?)で、緒方直人が星空を眺めながら、自分の子供の頃の夢(宇宙飛行士になりたかった)を語り、いまは違う仕事をしているけれど、宇宙開発を行う企業に投資している・・・という内容の
コマーシャルがありました。
 
 あれそのもので、私もバイオ関連で研究者になりたかったんですが、夢かないませんでした。
 自分では、バイオの研究をして、医学の発展に寄与することはできませんが、株式投資をして、間接的に支援しています。
 
 いまのバイオの最先端は本当に凄くて、ガン、白血病、アルツハイマー、筋ジストロフィー、精神疾患、脳性麻痺、糖尿病、腎性貧血等、従来治療が困難といわれた疾病について、遺伝子レベルで原因と仕組みを解明し、その治療法・治療薬を、従来では考えられなかったスピードで開発しています。

臓器再生、神経再生も夢ではなくなりつつあります。

いまは、まだまだ踊り場的段階ですが、今後画期的な新薬が生まれてくると思います。
現在も、最近ですが、慢性骨髄性白血病の特効薬が、スイスのノバルティス社で開発されました。(グリーベック)

私には、残念ながら、研究者としてバイオに携わることは、まったく不可能です。
ただ、株式投資と言う方法で、間接的に支援することができます。

株式投資と言うと、日本では、
危険な賭博、一歩間違えれば身の破滅みたいな捉え方をされている方が多いですが、
それは誤った認識です。

信用取引やデリバティブを行ったりせず、余裕資金で、現物取引していれば、
破産なんてありえませんし、長期的に見れば、貯蓄など比較にならないリターンをもたらします。

自分が応援したい企業を、間接的に支援することでもあるんです。

ただ、応援投資の場合は、どうしてもベンチャーが多くなります。
投資としては、かなりリスキーでは有ります。

これだって、広い意味では利他行為になるでしょう。(ほかには、燃料電池等も良いでしょうね)

 


3227 ドナー入院
名前: 小川  投稿日: 2003年10月31日 (金) 23時38分37秒

以前もう来るな、来ませんとのやりとりがあった小川です。
ペーパーバーチさま、もしも気に入らなかったら削除してくださいね!お願いします、じゃなくて、いつものように好評な舌鋒鋭いというか毒舌な返信をつけられるのを覚悟の上で勝手に私は、ちょっと投稿してみたくなりました。

骨髄移植に際して、こんな見方をしている人もいるということ。
まあ、参考までに。
少し、私自身の贖罪の気持ちもあります。

私は医療関係で働いています。
あゆさんのように、HLA(自分と他人を見分ける鍵のようなもの)フルマッチの身内の方からの移植はそうでないものに比べ、比較的好成績と聴きました。

しかし、他人からの骨髄移植、または身内同士であっても、HLAの型に多少の差があると、GVHD(graft-versus-Host-disease)ということが起こる確率が高くなります。専門的な話はもっと複雑ですが。
要は、移植によってその人の体に流れることになった血は、それまでの血液じゃなくて、ドナーの血液です。患者さんがAB型であっても、ドナーがO型なら、患者さんはその後、O型人間になります。
しかし、ドナーの血液・免疫システムの立場になってみれば、新しく自分が栄養することになった患者の体は、自己と違う他人、ということになるので、血液の通う場所すべて攻撃の対象になる可能性があるわけです。
移植すればいいってもんじゃなくて、その後にも患者さんの戦いは続くことは多いです。
そんなに平坦な道のりではないです。
GVHDに対し免疫抑制剤を使っては感染症になり、感染症が重篤だからまた免疫抑制剤を切って、GVHDがひどくなる、その繰り返しが続き、やっぱり亡くなることも多いです。

私がみたのは、妹さんから移植を受けた女性でした。
HLAフルマッチではなかったけれど、病状が急を要していたので、妹から急遽移植することになったとのことでした。
私がお目にかかったとき、彼女には全身の筋膜に起きるような、めずらしいGVHDがおきていました。全身ガチガチに硬くなっていて、ロボットみたい。そこで、たくさん免疫抑制剤を使ったら、すこし体が柔らかくなったのですが、結局重い感染症になり、先日亡くなりました。
亡くなったのは、移植から4年後、そのうち最後の1年はロボットのような体で、ずっと苦しい入院生活を送られていました。
・・・妹さんから、4年間、命をプレゼントされたともいえますがね。

血液病棟にはそんな患者さんがたくさんいます。
抗がん剤も、点滴の量も、他の病棟の比ではありません。
いつも血液疾患担当の医師は、夜遅くまで仕事をしています。
そんな中の、健康な方のドナー入院。
健康な方に傷をつけてはいけませんから、医療スタッフもとても気を遣います。
私も、そんなところに立ち会った時がありました。

私が、贖罪したいところ。
・・・私も正直、ドナー入院したくてなりませんでした。
ドナーさんがうらやましかったです。
純粋なドナーさんの気持ちとは全然違う動機です。
私も、ドナーさんのように横になれて、気を遣われてみたいなあと思って、見ていたのです。

仕事に疲れすぎていたせいか、全身麻酔管理され、丁寧に扱われていたドナーさんがうらやましくなってしまった。
私もドナー登録はしてあるけれど、腫瘍ができてしまったので、もう、ドナーにはなれないかも知れません。

もちろん、リスクもあるし、手術の様子を見たら、そうそう簡単にドナーになれるものではないと思います。
というわけで、ここでみなさんに申し上げたかったのは、ドナーさんも大変だけど、スタッフもけっこう大変なんだよ、っていうことでした。

言葉の問題に関しては、個人的には普通にドナーの方が分かりやすいです。point of viewも、もりふみさんにとってはその方が分かりやすいかも知れませんが、ヨシさん同様私も「観点」の方が分かりやすいです。

サラさん、今も見ていらっしゃいますか。
私も日常生活でよく言われるのですが、相手に分かりやすく、という指摘は、受け容れてみると悪くない思います。多くは、自分に否があることが多いです。そんな時は、素直に認めて謝ったりした方が、早い。
それに、ここで言われなくても、きっとどこかで言われることでしょう、むしろ実生活じゃないところで指摘してもらえて良かったかも知れません。
そして、指摘以上に侮辱されていると感じる部分があれば、素直に怒ったり、傷ついたことへの表明をされてもいいと思います。
これは私の感想ですよ。
私だったらもっと遠回りに指摘するか、本人が自覚できるような形に洗練するにはどうしたらいいか、考え込んでしまうかも知れません。
まあ、世の中そんな暇がないといえば、そうですよね。

しかし正しければ、有意義であればどんな指摘でもやっていいってものではなくて、より洗練された指摘法を追及していこうという気持ちでいる方が、more betterではないかというささやかなsuggestionをしたいと思います。

3229 名前: ペーパーバーチ  投稿日:2003年11月01日 (土) 01時44分48秒
この人の投稿は以前にお断りしています。それでもどうしても発言したいということであれば、事前にメールで相談されるなり、何らかの方法はあったはずです。いきなり投稿されたのは残念です。おまけにこの発言内容……あえて内容に関するコメントはしませんが……。

というわけで、この人を掲示板へのアクセス制限設定させていただきました。

http://www.paperbirch.com/


3226 二つの目
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 17時58分15秒

あゆさん、こんにちは

あゆさんの投稿(3225)読まさせて頂きました。あゆさんのご指摘は、現場の悲しみ・苦しみを実感しないで何を空理空論しているのか、もっと苦しむ人たちへの利他愛や自己の向上に直接つながる議論をすべきではないか、とのご指摘かと思います。

現場の実情や苦しみ・悲しみを念頭に置かないで議論している人はこの掲示板には決していないと思いますし、そのようなことはしないよう注意して行かなくてはならないと思っています(ただし、骨髄移植については、私の身の回りにはこのことに悩む方がいませんでしたので、私自身の類似の苦しい経験から推測するしか方法はありませんが)。

これに関し、環境・自然保護ボランティアの方に聞いた話を申し上げたいと思います。

『自分は野鳥の保護に関心があって、環境保護活動を行っている。最近つくづく感じることは、単に環境・自然保護の情熱だけでは活動はできなということだ。ある意味で冷めた目で現状を把握し、分析し、関係機関と協議し、現実にできることから実行していくという、実務的なプロフェッショナルが必要になってくる。その意味では、むしろ環境保護に関心がない人のほうが、保護活動の仕事を円滑できることがしばしばある』

私たちには「苦・悲しみという現実への直視という敏感な感性」と「その解決のための理性的な目」の二つの目が必要と思います。私自身どちらもできていないので、このような事を言うのは大変おこがましいし、気が引けるのですが敢えて申し上げました。

この用語の議論に戻りますと、骨髄移植という言葉がたまたま出てきたので、あゆさんはすぐご自身の体験を思い出されたのではないかと思いますが、私としては「読者にいかに分かりやすい工夫をして投稿するか」という問題意識で書いたまでで、決して骨髄移植の方々の悩み・苦しみを忘れているわけではありません(もりふみさんは、もっと忘れていないと思います)。

ただし、あゆさんのご指摘はややもすると、議論に流される私たちにとって、重要なご指摘ですので、肝に銘じていきたいと思います。

あゆさんに対しご満足のいける回答ができなかったかもしれませんが、申し上げました。

 


3225 骨髄移植
名前: あゆ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 15時15分18秒

皆さんの移植のお話・・・何とも悲しいです。
名前だの呼び方だの。。そんなことはどれだけ奥深く知ってたって何になるのでしょう・・。

私の娘は弟(13歳)から骨髄移植を受ける為に、抗癌剤治療の長い長い過酷な戦いをしてきました。
たった二人の兄弟なのに全ての型も合ったと知った時の感動はすごいものでした。
でもその移植の本当の事情、経過、確立、拒絶反応、ドナーである弟への影響・・。
もうそれは、聞いてれば半日かかるぐらいの内容でした。
気を失いそうになりました。
どんなに危険でもっと娘を苦しめるかわからなくてもやらねばならない究極の選択です!

でも、それをすれば自分は元気になれるんだ・・と、それだけを支えに頑張って治療と検査づけ副作用との戦い・・がんばっていた娘、いつも笑顔でみんなに接していました。

誰もその立場にならなければ、移植される本人、家族、ドナーの気持ちは理解できないかもしれませんが、あえて申し上げます。

論じたり意見交換することにより、そんな人々の痛みがわかったりしてお互い向上できるようになお話をしてほしいです。
現実に体験した私からのお願いです。

今も戦っている小さい子も沢山います。その家族もドナーの方も同じこの地上に生まれた仲間じゃないですか・・。
悪気はなく言われてても、自分の為に・・天国へ行くためにやってる・・とかはとっても悲しいです。

息子はいつも言ってました。
「俺の血をあげれば姉ちゃん元気になるんだよね?」と。

http://www.tensmile.jp

 


3224 もりふみさんへ
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 15時03分34秒

もりふみさん

ご丁寧な回答ありがとうございます。もりふみさんなりの必然性があったことはよく分かりました。

私はそれほど複雑に考えていなくて、読者の人が理解しやすいかにポイントがあったのです。
したがって、ある程度人口に膾炙している、つまり一般に受け入れられていると思われる、donor、donationについては指摘しませんでした。その点donee、view-pointは一般に使われていないし(私の両親は絶対に理解できないと思いますし、私の愚妻も分からないと言っていました)、読者の皆さんの立場にたてば、例えばdoneeは「臓器提供を受け入れる人(以下doneeとする)」、view-pointは「観点」と言えば分かりやすいのになー、ということで指摘しました(この点、私のりふみさんへの指摘は説明不足だったと思います。すみません)

したがって、カタカナで「ドネイション」としなくても、ローマ字でdonationでもいいと思います。要は読者が分かればいいんですから。私もらふぃえるさんへの投稿で、very good questionですね、なんて使いましたし(笑)。らふぃえるさん、元気にしてますかーー。

「リベルテ、エガリテ、フラテルニテ」も気にしていませんでした。これは本論から外れた標記のようなもので、分かろうが分かるまいが、本論を理解することに関係ありませんでしたので。

まあ、この話は私も「事のついでに」申し上げただけですので、お気になさらないでください。私への自戒を込めて申し上げると、自分の論理にはまってしまうあまり、読者に分かりにくくならないよう気をつけたいと思っています。

最後になりましたが、芹沢翁のご紹介ありがとうございます。実は、私も、ははぎくさんの投稿を以前読んで関心があったのですが、日本に一時帰国したとき買いそびれてしまいました(私は現在海外に住んでいます)、今回もりふみさんの投稿を読んで、読書意欲を再度かき立てられましたので、今度一時帰国したとき、探してみます。

 


3223 芹沢文学  この前のつづき
名前: ははぎく  投稿日: 2003年10月31日 (金) 14時45分36秒

リベルテ、エガリテ、フラテルニテ♪

ステップを踏みたい気分です♪もりふみさんの所へとんで行きたいほど嬉しかったです!最近何故か幸せを感じる感覚がとても鋭くなって、周りに漂う幸せの香りを胸にいっぱい吸い込んでいます。

『国文学 解釈と鑑賞』も『AERA』も知りませんでした。是非探してみようと思います。このごろ本はアマゾンばかりだったので、情報を見逃さないように本屋さんにも行ったほうがいいですね。教えてくださってありがとうございます。

>真実さん
シルバーバーチも芹沢文学も愛読しておられるのですか?もしかして両方読んでいる方は多いかもしれませんね。もりふみさんが仰るように、芹沢翁の作品も人も人生も、スピリチュアリズムそのものですものね!

       ********

『人間と運命』『神のシリーズ8冊』『教祖様』
これは是非とも最初に。

『懺悔紀 』
もの凄く感動して、この後、他のを次々読みました。

エッセイ『文学と人生』『こころの広場』など
小説嫌いな人(私がそうです)におすすめです。興味深い話満載ですが、その素晴らしさは説明できないほど。
     
       ********

たくさんの有名な人の秘話を、まさに神の目で見て書いてあるので、学ぶことも多く、面白いです。川端康成の自殺の真相を読んだ時は「へえぇぇぇ」衝撃でした。名前を伏せてあっても、あ、あの人だ、とわかる人もいて、たしか、今の安倍幹事長のお母さんも登場していたと思います。

神のシリーズの中のどれかに登場していた、地方から上京して芹沢翁を訪問するご夫婦の実話があるのですが、この場面を読むと、いつも光が満ちて花びらが舞い降りる場面が浮かんできます。その方が自費出版で本を出されたので、芹沢文学館に電話をしたら、お礼はいらないそうですと、なんと無料で送ってくださったのですが、1万円くらいしそうな立派な本で、驚きまた。いつの日か、お礼を申し上げる日はくるのかどうか。芹沢文学と同じ匂いがする本でした。本当に『読者はわが子』。

『神の微笑』を貸してくれたMさんと共に、神のシリーズを読み進めていた頃のこと。大江健三郎のことを書いてあった箇所を読んで、大江健三郎って立派なんだね、愛の人なんだねーと、話した次の日に、ノーベル賞受賞の記事が出て、おやさまも芹沢翁も既にご存知だったのだと驚いて、二人で顔を見合わせたことがありました。

その頃ペレストロイカで、ゴルバチョフも登場していたし、話題の多い時期だったんですね。

本の中で、芹沢翁は伊藤青年(大徳寺さん)を、やや突き放した感じで書いてあるので、私は、とても心配していたのですが、本当は麗しい師弟関係というより、敬愛するお祖父さんと孫みたいで、ああ良かった〜心から思いました。読者の関心を大徳寺さんに向けないようにしたのでしょうか。

おやさまは、いつも「辛い時、淋しい時、来たくなったらおいで。無理して来たらいけませんよ。」天命庵に夢中になってはいけないと、おっしゃっていますが、この話はkimiさんのレベルに合った霊界通信の中の『10・お教えした理由をお話しいたします』と同じです。この小屋では、カノンさんがkimiさんの身のまわりの世話をし、訪れる人たちを迎え入れ、kimiさんは、ひたすら真理を伝え続ける。でも、いつまでも留まってはいけないのですね。また、元気を出して自分で自分の道を歩いていかなければ。友はいるし、いつも神さまは見守っていてくださるのだから!

 


3222 ヨシさんへの部分的回答
名前: もりふみ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 14時20分32秒

ヨシさん、こんにちは。

 本来なら先に問いかけを受けている「らふぃえる」さんに先に返答しなければならないのですが、取り敢えずヨシさんからの問いの後半部分(ヨコ文字表記について)のみを先に片付けさせて頂きます。「らふぃえる」さんへの返答の一端とも関連しますので:

 御指摘のヨコ文字については、以下に説明するように充分な必然性があって記述したものです(必然性もないのに《キザったらしくファッション的に》ヨコ文字を使用するという趣味を私は持っていません、為念)。

 寄付・寄進・寄贈・喜捨・献金・献上等金品等を自発的に提供する行為(これらすべてをここでは以下、暫定的に“寄付”としましょう)と自らの身体の一部である臓器・血液・骨髄等を提供する行為(同様に“臓器提供”とします)の相違は、(社会に)貢献するに「何を以って」するかというところにありますが、『自らの意思で自らが提供可能なものを以って貢献する』という「大きな概念」の中での小区分に過ぎません。しかし実は日本語には、その「大きな概念」そのものを表す言葉・用語(“寄付”と“臓器提供”の両者をまとめて総称する言葉)が「ない」のです。ヨシさん、ありますか?ありませんよね。文化的にも歴史的にも後者の概念は長い間存在しなかったわけですから(西洋医学が日本に入ってくるまでは)、それを意味する言葉が日本語にはもともとないのは当然です(ですから“寄付”が“臓器提供”を含意しないのは当然ですね。そのことは、“臓器提供”の中では比較的早い段階で行なわれるようになった血液の提供行為に《注:医学的には血液は立派な臓器のひとつです》“献血”という新しい言葉《漢語でもありますが》が新たに用意されなければならなかったことでも明らかです)。

 しかしながらヨコ文字文化圏(=キリスト教文化圏としてもいいですが、ここでは以下乱暴に“英語圏”とします)では、まずはその「大きな概念」が先に立つのであって、「何を以って」が先に立つのではありません。もちろん“英語圏”においても歴史的に事象としての“臓器提供”は“寄付”よりも新しいのでしょうが、もともと“寄付”の本来的な属性は上記の『自らの意思で自らが提供可能なものを以って貢献する』点にあったわけであり、したがってその意味においては、新たに出てきた事象ではあったにしても、“臓器提供”はすっぽりそのまま自然にその延長線上に位置づけられる(あるいは自然に包摂される)だけであり、独立した概念・言葉が用意される必要はなかったわけです。その本来的な属性=「大きな概念」を表す言葉こそ、”donation”なのです。もうお分かりだとは思いますが、これまで述べてきた文脈に沿った意味では”donation”を日本語に置き換えようがないのです、なにしろそれにあたる「概念」そのものが存在しないのですから。もちろん英語で書かれた文章の中の”donation”という語は、文脈に応じて寄付と訳したり寄贈、献血、臓器提供等に訳せばいいわけですから全く問題はありません(献血は“blood donation”、臓器提供は“organ donation”とは言いますが)。しかし私が「らふぃえる」さんに申し上げた文脈(“寄付”と“臓器提供”を相対評価の対象とする発想への疑義)においては、その“寄付”と“臓器提供”を貫く本来的な要素である「大きな概念(とそれを表現する言葉)」こそが必要であったこと、容易に御理解いただけると思います。とすれば、その意味において私が使用できる言葉としては、“donation”という語をおいて他にはないのです。

 それならカタカナで「ドネイション」と表記すればいいではないかと仰る向きもあろうかと思いますが、それこそキザだと思います。カタカナ表記として充分に熟していない外来語を無理やり使用することほど鼻持ちならないことはないと私は思っていますので、「ドネイション」は考慮の余地なく却下です。だいたいそんなことをするくらいなら、ちゃんとアルファベットによる原語表記のまま使用する方が何百倍も誠実な態度だと私は思っているのですが、如何でしょうか。

 それならオマエが「ははぎく」さん宛てのメッセージの最後に書いた「リベルテ、エガリテ、・・・」という変てこな隠語めいた暗号のようなものはいったいナンなんだと詰問されそうなので、ついでにここで釈明しておきますね。

「リベルテ、エガリテ、フラテルニテ」は隠語です(笑)。芹沢文学愛好者間でしか通用しないこの隠語・暗号はですね、実はフランス革命の理念である「自由・平等・友愛(博愛)」を意味するフランス語の日本語カタカナ表記だというだけのハナシです。しかし日本ではとても熟している表記とは言えません。にも関わらず原語ではなくこうしてカタカナ表記する必然性は、そこが「隠語」とした所以なのですが(笑)、再三御紹介している芹翁の『神の〜』シリーズに出てくる一種のキーワードとして、この『カタカナ表記のまま』で頻出する語だからなのです。釈明おわり(笑)。

 つぎ。えぇっと、donor とdoneeについては上のdonationの必然性さえ御理解頂ければどうってことのないハナシなのですが、いちおう為念。「ドナー登録」という概念・言葉が定着した結果、日本ではカタカナの「ドナー」=臓器提供者という認識で(良し悪しではなく)定まってきたように思われます。そのことによって、本来含意されて然るべき“寄付”をする人という意味は、カタカナの「ドナー」からは逆に排除されてしまったというわけです。したがって、「らふぃえる」さんへの私の文脈ではカタカナ「ドナー」を使用するわけにはいかなくなるわけです。結果donorと表記するしかないですね。donorをdonorとした以上は、“寄付”や“臓器提供”を受ける側のことをdoneeとせざるを得ないのは理の当然です。

 以上がヨシさんからの御質問(の一部)へのレスポンスになったかどうかは分かりませんが、いずれにしても、私には私なりの必然性が充分にあって、それを意識してのヨコ文字表記をしていることは、御了解いただけたものと考えます。

 蛇足:いま気づいたのですが、TMHさんが久しぶりにお見えのようです。TMHさんは“臓器提供”を受ける人をrecipientと表記されていますが、医療の現場ではそうなのですね。私はrecipientという語には(特許権、著作権、意匠権などの許諾・供与に関わる取り引きで、その)『対価を受け取る側』という意味で業務上毎日接しているのですが(もちろん副業で、です。本業はJ事務所ですから)、医療現場においてもrecipientが使用されているとは知りませんでした。TMHさん、それがいまや一般的なのでしょうか?

 


3221 取り急ぎ
名前: TMH  投稿日: 2003年10月31日 (金) 14時13分45秒

ヨシさん、こんにちは。
いつも丁寧なご投稿、楽しみに読ませてもらっています。
ご質問のうち、とりあえず略号については説明不足でしたので、お詫び申し上げますとともに、取り急ぎ補足させていただきます。
その他の点につきましては、しばらく猶予ください。

ROM=Read Only Member
古くはパソコン通信のBBS、現在ではメーリングリスト、ニュースグループなどのメンバーのうち、書き込みをしないで読むだけの人のこと。
(「よくわかる かもしれない真・コンピューター用語辞典」から抜粋させていただきました。)

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/5634/t82EB_0001.html#642

 


3220 今後ともよろしくお願いします
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 13時37分33秒

TMHさんが書かれた
>ペーパーバーチさんももりふみさんも、愛情も持たずにただ人を攻撃しているわけではありません。このことは、彼らの辛口の弁舌に違和感を感じていらっしゃる皆さんにも理解しておいてほしいのですが、

正直申し上げて、私はペーパーバーチさんの口調の激しさに違和感を感じるものです。

本掲示版の管理人であるペーパーバーチさん、及びペーパーバーチさんが全幅の信頼をおいているもりふみさんの発言は、他の人の発言とは比べものにならないインパクトを参加者の皆さんの心理面に及ぼすと思います。あのような口調の激しさの後、私もここまで書くのに勇気を要りましたが、私を含めた参加者の皆さんが萎縮せず、自由に、率直な意見を出して、今までのような活発な議論ができることを期待します。
トンデモは困りますが、しかし、どうしても自分はこれを確信すると思えば、たとえトンデモでも、その発言に責任をもって述べ、議論すればいいと思います。

ペーパーバーチさん、皆様、今後ともよろしくお願いします。

 


3219 質問と確認
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 12時50分46秒

TMHさん

はじめまして、TMHさん現代語訳の小桜姫物語はスピリチュアリズムを学ぼうとする私にとって、なくてはならない大事な書籍の一つとして読まさせて頂いています。この場をお借りしてお礼申し上げます。

さて、TMHさんの下の投稿(3218)につき、確認と質問をしたいと思います。

1995年の事件というのは、地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教関連の事件のことですね。また、ROMというのがよく分からないのですが、文脈から推測すると「本掲示板参加者」と受け取れますが、それでよろしいでしょうか?

ももさんの指摘、また私の回答にあるように(>3217、>3216)、私のみならず、本掲示版参加者の皆さんの便宜も考え確認と質問をさせて頂きました。

>、「自分は地獄にいても、誰かの魂が救われればそれでいい」という小キリストの実践態度こそ、究極の自己犠牲であり、私の理想の善行の一つです。

この話は、利他愛について私が問題提起したことと関係しますが(>3138)、実践は本当に難しいですね。この厳しいご指摘は、らふぃえるさんだけに向けられるのは酷だとも思いますし、私を含めた読者全てへの指摘と理解します。

(それから、私はdoneeの訳語は難しいと考えていたのですが、recipientという一般に使用されている(と思われる)用語はいいですね)

 


3218 辛口の効用
名前: TMH  投稿日: 2003年10月31日 (金) 11時51分02秒

ペーパーバーチさん、
久しぶりの舌鋒、爽快でした。
切れ味鋭い論客ぶりは健在でしたね。
最近丸くなっていたようで少し心配していたのですが、安心いたしました。

らふぃえるさん、こんにちは(はじめまして?)。
私はあなたのご意見、それほど全体的に論理破綻しているとは感じられません。
相手に愛情を持って批判すべきだということは大賛成ですし、歯に衣着せぬとこなんかは、なんだかペーパーバーチさんのキャラに似ている気がして憎めないし(笑)。
ただ、ペーパーバーチさんももりふみさんも、愛情も持たずにただ人を攻撃しているわけではありません。このことは、彼らの辛口の弁舌に違和感を感じていらっしゃる皆さんにも理解しておいてほしいのですが、奇しくもきりこさんがご指摘されているように、彼らはROMの皆さんのことも考え、熟慮の上指摘をされていると思います。1995年の事件以前は、ニューエイジ的アプローチに甘い顔をしても許されたかもしれません。しかしあの事件以降は、スピリチュアリズムというある意味オカルティックな面を持つ活動にかかわる以上、ROMの皆さんがトンデモ系の疑似科学や新興宗教の餌食にならないようにと、ペーパーバーチさんなんかはすごく気を遣われているんだと思いますよ。なにより形而上学的な活動にかかわっている方の中で、トンデモ本を評価されているのは、私ははペーパーバーチさんしか知りません。多くのオカルティックな方々が、その人自身トンデモ的な存在である中で、貴重な存在といえるでしょう。
私はその意味で、今後もペーパーバーチさんにはガンガン(-_-;)やってほしいと思っています。

一つ気になる事がありますので、書かせていただきます。

>僕は、骨髄移植を二回したことに、自負を持っています。
>傲慢というのは、根拠もなく他人を見下したり、自分のことは棚にあげて人を批判することですよね。
>僕の自負は、やはり傲慢なのでしょうか?

らふぃえるさんが実践されていることは、確かに素晴らしいと思います。だけど一体誰のためにその行為を実践されているのでしょうか?純粋に骨髄疾患に苦しんでいるrecipientのためですか?それとも自分の自己満足のためでしょうか?もちろんらふぃえるさんが前者であるとは拝察いたしますが、だったらなおさら、そのことをことさら自負し、喧伝される必要はないと僕は思います。
世の中に社会的、宗教的な善行為者は多いと思いますが、残念なことにその中には、自分のため、なかんずく死後、天国に行きたいがためである場合が少なくありません。大企業の経営者の慈善事業なんかは、その典型である場合も多いようです。GVオーエンの「ベールの彼方の生活」に、膨大な期間、地獄(低位の霊界)に潜伏し続ける小キリスト(高級霊)の話が出てきますが、「自分は地獄にいても、誰かの魂が救われればそれでいい」という小キリストの実践態度こそ、究極の自己犠牲であり、私の理想の善行の一つです。
ですから、らふぃえるさんがもう一歩突き抜けて、自分のした事を当然と思って忘れるぐらいになれば理想的ですし、スピリチュアリズムを人生の指標の一つにされている以上、そのレベルをぜひ目指してほしいと思います。
かく言う私もぜんぜんそのレベルに達していませんので、偉そうに言って申し訳ないのですが、ともにがんばりましょう。

しかし久しぶりだし、削除できないとなると、「投稿送信」ボタンをクリックするのに結構緊張しますね!

 


3217 はじめまして
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月31日 (金) 11時03分42秒

ももさん、

特定の個人にあてた返事や質問が多いとのご指摘ですが、中には確かに特定個人間の私的なコミュニケーションもありますが、大部分の投稿は(形式的には特定の個人にあてた返事や質問の形をとっているものの)内容的には他の人が読んでも啓発されるものであり、場合によってはその中に入っていって議論することも自由にできますので、特定の個人にあてた返事や質問であっても、そのように読んでいけば大変役に立っていると私は思っています。

私に関して言えば、かりに特定個人への投稿であっても、他の人が読んでいることを意識して書いているつもりですし、その内容について他の人から意見のでることを期待しています。(このももさん宛の投稿についても同様の気持ちで書いています)

また、スピリチュアリズムは、「自由検討の精神」がその特徴ですから、活発な議論ができるために、自由に、率直な意見が出せるような雰囲気作りが大事だと思っています。

 


3216 こんにちは。
名前: もも  投稿日: 2003年10月31日 (金) 05時11分01秒

ペーパーバーチさん、皆様、おはようございます。
このHPは私にとって、家に帰ってきたようなホッとできる場所です。また、スピリチュアリズムを勉強できる場所でもあると思っています。
でも最近の掲示板は、特定の個人にあてた返事や質問がとても多いように思うのです。書き込みする人が決まってきているからそうなのかもしれませんが、このHPを訪れ、読んでいる人は沢山いると思います。
一考していただけると、嬉しいです。

 


3215 今晩は
名前: ガーデナー  投稿日: 2003年10月30日 (木) 22時32分36秒

皆さん今晩は!
>きりこさんへ
自分が投稿なんぞ出来ると思ってもなかったので失礼な言い方
してごめんなさい。確かに正論なんですが、逃げ場のないよう
な所まで追い込むように感じてしまいました。

>ヨシさんへ
この掲示板は顔の見えない方の集まりなので、全てを白日の下へ
さらすことはできません。自分のHPでも同じですが、関心の
ある方しかみえないので少し気楽です。私のレベルでは徹底的に
スピリチュアリズムを肯定して無限愛を捉えたいからです。

>らふぃえるさんへ
3203の投稿の1についてですが、スピリチュアリズムに実践
がないようなご発言ですが、これには呆れてしまいました。
私は、短気でせっかちで我儘でヒーラーとしては不適格者なんで
すが、シルバーバーチの霊訓と出会い、人のために自分を役立た
せる悦びを知り、人の成長を己の悦びにし、真理・法則を知る悦
びを知りました。スピリチュアリズムの行は祈りです。自分を高
めるだけでなく、お人の霊性を導かせる祈りです。
霊訓を御覧になって考えが変わらないと言うのであれば、お読み
になっても仕方ないです。暗記するほど読んでも神に対する畏敬
の念をもって読まない限り納得できないと思います。
仏教がお好きであれば仏教を徹底的に追求されれば良いと思います。
その上で、私は貴方を歓迎します。

>きっちょむさんへ
私のHPなど息子と一緒に友人のPC教室へ行って、半年もかけて
やっとの思いで作った恥ずかしい物です。テキストもないので、独
り言以外は更新しようにもやり方忘れて出来ません。お褒め頂くと
お尻がむず痒い思いであります。息子はクラブに塾に忙しくて、も
う一緒に行けません。彼はスラスラ頭に入り、私はスカスカ抜けて
行きます。

 


3214 ははぎくさんへ
名前: もりふみ  投稿日: 2003年10月30日 (木) 17時28分13秒

 ははぎくさん、こんにちは。返事が遅くなって申し訳ありません。

 しかし、ははぎくさん。ぜ、ぜ、ぜ、全作品読破ですか!す、す、すごすぎます(笑)!(しかも湯河原の方にも何度もいらっしゃったのですね。それもスゴすぎます!)
 あの膨大な作品群をすべてということは、それはもう、ただただ脱毛、失礼、脱帽です、畏れ入りました。私としては、最近の掲示板で宗教・信仰論があったことから、その種の事柄を語るなら芹翁の『教祖様』は読んでおいた方がいいだろうなぁと思って『神の〜』シリーズと併せて御紹介したのですが、全作品を読破された「ははぎく」さんから御紹介をして頂くべきだったですね。でも「きりこ」さんなど早速読んでみたいとのことですから(嬉しいじゃありませんか、他のみなさんもぜひ)、何から読むのがいいか等、今後のフォローは「ははぎく」さん、よろしくお願いします(笑)。

 芹翁はおそらくスピリチュアリズムについては「ス」の字も御存知ではなかったと思いますが、執筆活動まるごと(最後の最期まで)が、そのままスピリチュアリズムの実践そのものだったような気がします。

>これほどまで神を知り神と共に生きた人は、いないのではないかと思います。

 仰る通りですね、同感です。特にこの日本では、特定の宗教に立脚しない人が(というより、いわゆる教団宗教的信仰を持つことを拒みつづけ、組織宗教への批判的視点を最期まで崩さなかった人が)これほどまで神に迫り、神を語り、神と共に生きたという例は絶無ではないでしょうか。翁をスピリチュアリズム的視点から眺める意義は少なくないだろうと私が思う所以です。

>最後の二冊は、魂はほとんど天に帰っているのですね。天と地を行き来して、これから昇りゆく天の情景、地に於いては今まで生きてきた懐かしい光景が雲間に見え隠れして、幻想的な不思議さを感じます。

 いやぁ、ほんと。最後の二冊を読んだときは私も心の中で思わず問いかけました、「芹沢せんせー、この原稿はいったいゼンタイどこでお書きになったのですか、『この世』ですか『あの世』ですか、それとも『その世』あたりですかぁ?」と。大江健三郎がたしか「向こうの世界とこちらの世界の往還を云々」と言っていたと思うのですが、まさしく『往還』であり、また『融合』でもありますね。

 ははぎくさんは文学雑誌の『国文学 解釈と鑑賞』(今年の三月号・芹沢光治良特集)は既にお読みですか?お嬢様方をはじめとする文豪ゆかりの方々が文章を寄せていて(もちろん大徳寺氏も)、私には「えぇっ?そうだったのか」という新たな発見がたくさんありました。もしまだでしたら、この雑誌は大抵の公立図書館にバックナンバーが揃えてある筈ですから読めると思います(ははぎくさんも東京近辺のようですね、それなら神保町あたりでも入手は難しくないと思います)。

 ははぎくさん、ではまた。リベルテ、エガリテ、フラテルニテ!

 


3213 ペーパーバーチさんへ
名前: yumi  投稿日: 2003年10月30日 (木) 13時37分32秒

ペーパーバーチさんこんにちは。
自分の言いたい事を言うのに、あのように他者を扱う表現は果たして必要なのだろうかとよく考えてしまいます。ディベートという言葉が頭の中をよぎってしまう私です。

タデウス・ゴラスの本について私なりの考察です。

この本は、らふぃえるさんがおっしゃっているように、規制された社会に疲れ果てている人の為に書かれたものだと私も思います。

「スペース」の意味については訳者がちゃんと訳せなかったのではないでしょうか?
話の内容からすると「空」のことのようですね。私はそのように変換しました。

愛についてですが、ゴラスはまず自分を愛し、そして他者を愛しなさいと言っています。
そして、
P52.「自分を愛するということは、エゴを甘やかせ、巨大化させることとは違います。エゴイズムとは自分のことが大嫌いなのに、自分は偉いのだ、大したものものなのだと証明しようとすることです。自分を愛すればあなたのエゴは消え、自分は人よりすぐれているなどと証明する必要を、もう感じないですむようになるのです。」と言っています。

これは、
自己否定をするとダメな自分から脱却する為に代替え(穴埋め)を探すのです。人によっては何かを所有する方に走ったりしますが、大抵は自分はダメではないという事を他人に証明しようとします。
自分を肯定してくれる人を探したり、そういう人を無理矢理作ったりするよりも、ダメである自分を含めてまるまるそのままの自分を認め愛してあげれば、自分の欠落している(ように思っている)部分を他人に認めてもらうことで埋め合わせする行為は、する必要がなくなるということです。

自分を愛せるようになると、他者を愛する事は容易くなります。自分を愛する様に他者を愛せばよいわけですから。
エゴをなくしてゆくことと、他者を愛するという行為は、言葉にはなっていませんが『他者の為に自己を役立てる行為』に確実になってゆきます。
要するに理屈ではなく、まず「やってごらんなさい簡単だから」ということをゴラスは言いたかったのだと思います。

シルバーバーチは確かに解りやすいとは思いますが、タデウス・ゴラスの本がそれと全く違う事を目指しているようには思えません。入り方が違うだけのように思えます。

 


3212 「〜でしたらごめんなさい」no
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月30日 (木) 13時13分07秒

もりふみさん

【ポイント】
「〜でしたらごめんなさい」とか「もし〜なら〜して下さい」式の表現は、人間関係を配慮して言う場合及びその他の理由で使われる場合もあるので、必ずしも全てが甘ったれで、イヤらしいものとは言えない。したがって、文脈の中で判断する必要があるのではないか。

【本文】
もりふみさんが問題提起した
>、「〜でしたらごめんなさい」とか「もし〜なら〜して下さい」式のナニが甘ったれかというと、相手の反応を防御的に先取りするというイヤらしい方向で(自分で判断しないにも関わらず)仮定節を勝手に立てるというところですね、

について考えてみました(私の投稿3710にもこれに類する表現がありますので、考えたということもありますし、この件でこのまま誰も再問題提起しないと「〜したらごめんなさい」という表現全てががイケナイコトという認識になるのではないかという問題意識もあります)。

(1)まず『〜でしたら削除してください』という類の表現は「自分の発言に責任をとらない」、「相手に判断を任せっぱなしにして、それ以上の議論を避けよう」とする無責任さ(甘え)がありますので、この点についてはもりふみさんの意見に賛成です。

(2)他方、このような表現はよく日常会話などで使われるのですが、例えば

誰かを批判しようとするとき、『あなたに失礼なことを言うかもしれないが、〜』、『決して私は感情的に言っているのではないのだが〜』『あなたの気分を害したら謝るが〜』などと前置きして、批判などをすることがあります。これは相手の反応を先取りして防御するという点はありますが、「私はあなたのことを批判はするが、私はあなたの敵ではなく、味方なのですよ」と暗示して、人間関係をこじらせないようにとの配慮によるものと思いますし、このような態度は無責任・甘えとは言えないと思います。(もちろん、このような人間関係の配慮と言うよりも、無責任・甘えで言う場合で言うケースもあると思いますが)

(3)従って、「〜でしたらごめんなさい」とか「もし〜なら〜して下さい」の表現が、相手の反応を防御的に先取りするというイヤらしい方向で使われ、甘えになるかどうかは、文脈を見た上で判断しなければならないのではないかと思います。

(4)それから、事のついでに申し上げると、doneeとかview-pointという英語表記は(>3188)、読者の立場に立てば、日本語にした方がいいと思います。

更についでですが、これについても「もし皆さんがこの英語表記が理解できるとしたら、このようなことを言って申し訳ありません」と言う言い方もできるかもしれませんが、この表現はイヤらしい方向で使われ、甘えになるとは言えないと思います。

 


3211 サイトを作ってみました
名前: ミュウ  投稿日: 2003年10月30日 (木) 09時26分42秒

久々にこちらに書き込ませて頂きますミュウです。

相当前に書き込ませて頂いていた時のこの掲示板から受けた感想として「これがスピリチュアリストと言うものなら自分は違うなぁ。。」というものを持ちました。どうしても宗教的雰囲気を感じてしまい馴染めませんでした(^^;

そこで自分なりの霊的側面についてのサイトを作ってみました。
まだまだ未完成部分も多いのですが、少しずつ発展しておりますので気が向いたならたまにでも覗いてやって下さい (´▽`)

最近のやりとりの中で、管理人さん及び一部の方に共通する部分がよく理解出来たのでリンク通知させて頂きました。

http://myutirin.littlestar.jp/

 


3210 ガーデナーさんのHP覗いて見たら---
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 23時42分10秒

ガーデナーさんのHPを覗いて見ましたら、先日の私の質問の回答(質問1と2について)がありました!! びっくり。

本当にご無理を言ってすみませんでした。また、ありがとうございます。続きを、首を長くせず、待っています(^o^)。

霊訓12巻のうち、1巻がお気に入りですか。私も好きな巻がいくつかありますが、1巻も好きでその中に入っていますよ。

 


3209 「大霊に恥じることなく」という発想について
名前: 知足  投稿日: 2003年10月29日 (水) 23時05分20秒

らふぃえるさんに対するこの掲示版での私の印象は、真面目な方で、
立派にスピリチュアリズムを実践されている方というものです。
私など、足元にも及びませんが、下記の発言は、スピリチュアリズムが
「還元主義」(私が、気にしているだけなのかもしれませんが)に
陥りかけているように思えて気になりました。

>ご自分の心をのぞいて、大霊に恥じることなく、
>自分はサラさんに対して純粋に愛に満ちた心を持っていたと言えますか?

★『大霊に恥じることなく』というは、いい言葉だと思うのです。自分の言葉や行動の
指針として、自分に対して使うのには、判り易くて明快で、とてもいい言葉だと思うのです。
けれども、この言葉を使って「他者の言葉や行動」を裁こうとする態度は、
「スピリチュアリズム還元主義」に陥る危険性があると思うのです。

★「言語」というのは、分析するための道具なのだと思うのです。
そして、私達は「言語」を使って、思考をするのですが、「言語」はあくまでも、
「自分という世界」を分析する(考える)ため道具だと思うのです。

★このように「他者を(私の)言語で裁かない」ということを含めての、
スピリチュアリズムの定義は唯一「スピリチュアリズム」とは
「人のために自分を役立てることである」のだと思うのです。

http://homepage2.nifty.com/hiroshi_n/etegami.htm

 


3208 ガーデナーさん、ありがとうございます
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 23時03分49秒

ガーデナーさん、こんばんは

私もガーデナーさんの文を読んでホッとしました。

>神は株が本当に必要なら儲けさせてくれますが、不必要なら駄目でしょう
こういう文をさりげなく入れるところがいいですね 。

ある方のインスピレーションメッセージ----私も心当たりあるなーー。

 


3207 ガーデナーさん
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 22時25分34秒

ガーデナーさん、こんばんわ。
暖かい雰囲気に溢れた投稿、楽しく読ませて頂いていますよ。

ペーパーバーチさんの投稿についての記述ですが、ペーパーバーチさんの投稿・意見・指摘は、決して、短気とか怒りではないです。

私も随分長い(?)間、当掲示板にお邪魔していますが、ペーパーバーチさんが本当に怒った上で記述したのは、1回しか見ていません。(かなり前)

確かに、辛口の論客では有りますが、冷静に、正鵠を射ている意見を、述べていると思います。

わたしは、すぐにカッカカッカしてしまうので(お酒のんでも顔真っ赤)、深く反省いたしております。

 


3206 さすがだなあ
名前: きりこ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 22時16分04秒

もりふみさん、こんばんわ。
素晴らしい洞察力、的確且つ冷静、鋭いご指摘、いつもながら感服いたします。
それを、決して感情的にならずに、ユーモアを交えて記述するところ、さすがです。
わたしは、まだまだだなあ・・・と、反省すること、しきりです。

ところで、J事務所のお仕事、最近いかがですか?
あれ?
Jは、ペーパーバーチさんでしたっけ?

 


3205 箴言
名前: ガーデナー  投稿日: 2003年10月29日 (水) 22時11分40秒

皆さん今晩は。

皆さんはトップページの箴言(しんげん)を見てから掲示板に
入ってみえますか?私は、箴言を見て実感してから入るように
しています。毎回、変わるように箴言を設定された管理人さん
に感謝します。

管理人さんも短気な一面がうかがえてしまうような文章は少し
残念です。その間に冷静に株の話にもって行けるなんて尊敬で
す。株をされるのには動機があると思いますが、神は株が本当
に必要なら儲けさせてくれますが、不必要なら駄目でしょう。

ある方のインスピレーションメッセージです。
己を卑しく人と比較すべからず。
人と己を比較すは、人を高める時なり。
人と己を比較す時は、己を高める時なり。
人を見下げ、人を軽んずために比較すべからず。
己の低きに気付き、人の危きを気付くためのみに許されし心なり。
卑しく堕つべからず。
卑しき心、起こすべからず。
神の道に挺身するものは天地が逆転すといえども
起こすべからざる心なり。
戒めよ。戒めよ。
全てを無に帰す恐ろしき心を戒めよ。
ナザレのイエスが味わいし苦
弘法が味わいし苦
この苦は人の心なり。
低きに向かう人の心なり。

私も心してるのですが実践は難しいです。
心当たりのある方はご注意を!

 


3204 甘ったれのシルシ
名前: もりふみ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 21時01分38秒

 ペーパーバーチさん、みなさん、こんにちは。

|ちなみに「管理人さん、この記事がまずいようでしたら削除してください」とかなら
|真っ先に消すけどな。内容読まずに。
|中身はともかくその一文がまずいんだよって
>もりふみさんも例に挙げてらっしゃいましたが、同じ事を思っていたのは僕だけじゃなかったのだな〜、と(^^;。

 やはりペーパーバーチさんもそうでしたか(笑)。

 実はここのローカルルールが整備された際に、“この種の一文は「甘ったれのシルシ」とみなし、これらを含む書き込みは自動的に削除されるという規制を、『はらぺこのまま学校に行かぬこと』と『天気の良い日に布団を干すこと』の間にさり気なく入れたら如何ですか”と提案しようと思ったのです。

 しかし小市民でもあり小心者でもある私としては、みなさんから乱暴者とみなされるのを恐れて、その大胆不敵な提案をすることに躊躇したのです(私が小心者である証拠は百も二百も並べられるけれど、乱暴者であるという証拠はいまのところ皆無ですから、この一事が乱暴者の証拠として末代まで残るのには耐えられないのです。おぉ、心貧しき小心者よ、何時は、もとい、汝は哀れな子羊なり)。更に私は思い至ったのです、その提案行為そのものが、燦然と輝く『独裁的恣意性』の賀状、もとい、牙城にパレスチナ的インティファーダを挑むようなものであると。したがって、結局私は提案しなかったのでありました。

 とにもかくにも、「〜でしたらごめんなさい」とか「もし〜なら〜して下さい」式のナニが甘ったれかというと、相手の反応を防御的に先取りするというイヤらしい方向で(自分で判断しないにも関わらず)仮定節を勝手に立てるというところですね、まずは自分の発言が『不適切』、『失礼』、『不都合』、『ふさわしくない』のかどうなのかは自分のモノサシで判断しなさいと。それらに当たらないと自らが判断すれば余計なことを言わないで堂々と言いたいこと「だけ」を発言すればよろしいし、『不適切』等であると思えば最初から発言しないか、それには当たらないと自分で判断出来る程度まで修正すればいいだけなのです。また、仮定条件つきの『ごめんなさい』は本当の謝罪やお詫びにはなりようがないし、『削除して下さい』や『無視して下さい』はインチキ謙虚やインチキ謙譲(それらの仮面をかぶってはいるものの、実際はそれらの対極にあるもの)でしかないことはもう少し広く認識されるべきですね。

 


3203 ペーパーバーチさん 3190
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月29日 (水) 11時44分14秒

ペーパーバーチさん

>3190

「|逆に、その思想を持つものの中に霊格の高いものがおれば、その思想には相当に
|霊的真理が含まれていると、よほど何か別の思想の影響がその人に見られない限
|り、みなせるはずです。

こういうのを詭弁と言います。そのようには“看做せません”。先日ご紹介させていただいた、カール・セーガンの最後の著書『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』に「トンデモ話検出キット」として、様々な主張の妥当性を検討するためのチェックリストが挙げられています。上記のらふぃえるさんの主張は、その中の〈相関と因果関係の混同〉に引っかかります。」・・・・・

これは何回読んでもよくわからないので(^^;、どうか愚か者に諭すと思ってわかりやすくご説明いただければ幸いです。
セーガンのその本が手元にないので、セーガンがどういう文脈でそう言っているのかわからないのですが、相関関係というのは、「相互に関係しあっていること。また相互に影響しあう関係にあること」という意味ですよね?

だとすれば、まず相関関係のある物事のデータを収集して、それを因果関係にまとめるのが帰納法だと思うのですが、セーガンは帰納法を否定しているのでしょうか?

まず、事例ですが、
「調査から明らかなように、大学卒業者には、それ以下の教育しか受けてい
  ない層にくらべて同性愛者が多い。したがって、教育は人をゲイにする。」
は、必ずしも無条件に間違いとは言えないと思うんです。
まず、その調査が確実なものか、また大卒とそうでない場合とゲイの数がそんなに違うかを確認する必要があります。
そして、もし広範かつ確実なデータで、しかも大卒者がそうでない場合と比べて著しくゲイが多い場合は、何らかの要因が働いていると考えられます。
イ. ゲイがもともと異性愛者に比べて知性に優れていて大学に合格しやすい。
ロ. やはり何らかの要因が、ゲイを増やしている。
のどちらかが考えられますが、もし「イ」を排除できるならば、「ロ」を検討するべきと思います。

この場合、どういう理由が考えられるかは調査をしたことがないのでわからないのですが、
たとえば昔のパブリックスクールや旧制高校のように、全寮制男子校出身者が大学進学者に多いことを発見したとします。
そうであれば、思春期に女性から隔離された環境にいれば、リビドーが男性に向かうことは十分ありえ、それが統計的に裏付けられれば、
「ある種の教育は人をゲイにする」と帰納的に推論できると思うのですが?

また、「アンデス山系の地震は、天王星の最接近と相関がある。したがって、天王
  星が最接近するとアンデス山系に地震が起こる。」
というのがどういう事例なのかよくわからないのですが、僕でもすぐに気づくおかしなことがあります。
まず、天王星より大きい引力を持つ月などの影響がなぜ起きないのか、また、なぜ地球上の他の地域には起こらずアンデス山系だけにその事象が起こるのか、という疑問です。
ただ単に、天王星が接近している時にアンデス山系に地震を起こるからといって、以上の疑問から天王星が影響してアンデス山系の地震が起こっているとは考えにくいわけです。
ですから、アンデス山系の地殻の変動の周期が、たまたま天王星が接近する周期と重なっているだけ、などの推理ができるわけです。
しかし、もし恒常的に天王星の接近がアンデス山系の地震と重なるとすれば、なんらかの影響関係があることも調査しなければ排除できないと思います。
因果関係の立証ができない以上、因果関係があるとはまだ言えませんが、調査するには値するのではないかと思います。

これらは詭弁ですかね?(^^;
どうしても詭弁であるという理由がわからないので、もう少しわかりやすく説明していただければ幸いです。


「>とは言え、僕だって何も「仏教には見るべきものなど何もない」などと主張するつもりはありません。ただ、それは程度の問題で、僅かばかりの霊的真理を拾い上げるために残飯の山をあさるのは非効率であるということです。」

僕は残飯の山ではなくて、宝の山の一つだと思っているんですよ。
歴史的な淘汰を経てきたものですから、そうでないものに比べて、はるかに宝に行き着きやすいと思っているんです。

「>もちろん純粋に霊的真理を求めたいのではなく、学問的興味・知的好奇心から、仏教(その他の宗教)に含まれる霊的真理を漁ってみたいというなら、それはそれなりに有益だと思いますし、とても面白そうなことでもありますから、ぜひやってみれば良いとは思います。僕も聖書やら各種仏教聖典やらシュタイナーやら神智学やらいくつかの新興宗教やらを勉強してみたことはありますから。ただ、そういう勉強は、教養にはなっても、霊的真理を知るための役には立たなかったと、僕は感じています。どちらかと言えば、仏教なんかより科学の勉強でもしたほうが良いと信じます。」

霊的真理を求めるならば、まずスピリチュアリズムをしっかりやるべきで、その他の宗教との比較は知的関心としては面白いだけとおっしゃられることに賛成です。
他の宗教との比較は、間接的にスピリチュアリズムの意義を知るためには有益な点もあるのではないかと思っていたのですが、直接霊的真理に達する道ではないというのはおっしゃられるとおりです。
この掲示板では、知的関心としては面白いが、それはやるなとおっしゃる主旨でしょうか?
やめろというなら、やめますし、知的関心から、今後別の場所か個人的にその議論についてはやります(^^)

また、科学は基本的に霊的真理に関わらない事柄と思いますので(もちろん副次的に宇宙への感嘆の念を起こすとか、理性的認識を鍛えるとか、科学技術が人の役に立つとかはあるでしょうが)、
仏教より霊的真理に近づくというお言葉は承服しかねます。
もちろん、霊的な迷いに陥る危険がないというご主旨であればわかりますが。


「|>か?(キリスト教徒にも立派な人はいますが、それはキリスト教徒として立派なのでは
|>なくて人間として立派なのだ……という内容)

|該当する箇所を教えていただければ幸いです。霊訓の何巻の何ページがお教えください。
これは驚きました。あなたはスピリチュアリズムに欠けている部分を仏教を学ぶことで補えると考えているのではなかったのですか? そのように考える人が……いや、考えるだけでなくご丁寧にスピリチュアリズムの掲示板にしゃしゃり出て公言までする人が、なぜこんなシルバーバーチの霊訓の中でも有名な言葉(何冊かの霊言集で重複して紹介されている)さえ知らないのでしょうか? その程度の見識しか無い人が、知りもしないものに何が欠けているのかなど、どうして分かると思えるのでしょう?」

おっしゃられるとおりです(^^;
僕も、読んだ記憶はあったのですが、どこの箇所かわからなかったので、参照できるように出典を教えていただきたかっただけです。
自分できちんとその箇所を探して読めばよかったですね(^^;
労を惜しんだ僕の不精は確かに責められてしかるべきです。
12巻ぜんぶ暗記するほど読んでから偉そうなことは言え、というのはおっしゃられるとおりです(^^;

ただし、批判するためには、そらんじるほど読んでからにしろとおっしゃられる主旨なら、そのとおりなんですけど、議論する中でさらに研究が進む場合もあるし、とりあえず発言していくのもありかなぁと思っていたんです。
そういうのがダメとおっしゃられるなら、やめます。
しかし、ほとんどの問題について、そうすると、口をつぐまざるを得ないですね(^^;

ただし、僕はスピリチュアリズムに欠けているもので仏教が補えるものがあるとやっぱり思うんですよ。
そらんじるほど読んでからにしろ、とおっしゃられるのは今後真剣にとりくむことにして(^^;、
とりあえず現段階での僕の意見を以下に書いておきます。おそらく、もう一度シルバーバーチを読んでもあんまり意見は変らないと思うんです。

? 瞑想・ヨガ・坐禅等の行の実践の伝統が、伝統宗教にはある。こうしたものは、実践知であり、本では必ずしも伝授できない。その点で、スピリチュアリズムの本を読むだけでは近づけない、身体的技法等は仏教などの伝統宗教から補う必要がある(もちろん、そもそも身体的技法などは霊格を上げるのに不要、とおっしゃられるのであれば、この立論は無意味です)
? 伝統宗教は、歴史的淘汰を経てきているので、それなりに人間の狂気や不完全さを是正してきた平衡感覚を含んでいるし、文章が美しいものも多い。それらは、スピリチュアリズムにとって、有益な内容も多いのではないかと思われること。

しっかり読んで、以上の点を考え直してみたいですが、現段階でこの立論そのものがおかしいと思われるのであれば、ご批判等言っていただければ後学のためになるのでよろしくお願いします。


「>ま、ともかくその種の霊言の一つをご紹介しておきましょう。(実は僕が考えていたのは別の箇所だったんですが、とりあえず見つかったところを(^^;)


  ――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリ
  スチャンも無数にいると思うのですが……
  
   そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメ
  なクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるという
  ことを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありませ
  ん。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもと
  に殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、
  魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。
  (『シルバーバーチは語る』九章 キリスト教のどこが間違っているのか))」

おお、僕が持っているのは12巻本の方なのです・・・。
それゆえ、出典が確認できないのですが、わざわざ挙げていただき、いたみいります。
しかし、まず疑問文が「教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも無数にいると思うのですが」になっていて、それならば、キリスト教の教義に拘泥しないところでその人が人間として立派になったんだろうなぁって僕でも思いますよ。
それに、ここでは、教義に拘泥することが良くないということが言われている気がするのですが(^^;

僕がそもそも言いたかったし言ってきたのは、仏教徒で、熱心に仏教の教えに取り組んだ人で、他の思想の影響がないのに、霊的に成長した人が歴史的に多々いた。
その場合、仏教が霊的真理を含んでいたと考えないと、何によってその人が霊的に成長したのか説明がつかないと思うんです。
もちろん、実人生の経験なりが大きいとは思うんですが、実人生に意義付けを与えたり長い人生で方向感覚を持っていくには、何らかの価値観がないとむりでしょう。
その何らかの価値観が、仏教だと本人も言っているのであれば、仏教が霊的真理を含んでいるのではないか、という僕の推論がどうして不当なのかどうしてもわからないんです。


「あまりにも非論理的なので呆然としてしまいます。もういちど頭を冷やして考え直してみてください。歴史的な視点と教理的な視点を混同しているのは、あなた自身です。」

頭を冷やして考え直してみたのですが、どうしてもわからないので、以下に疑問をつらつら書きますね(^^;
でも、たしかにその書き込みをした時は頭に血が上り気味だったと思います。
反省します。

「僕は「法華経(などの大乗の教え)こそ真の釈迦の教えで、小乗の教えは方便である」という主張を否定したのであって、その教えの内容の良し悪しについては一言も言っていませんし、何百年も経ってから「本当はこういうことが言いたかった」などという(偽りの)主張をする大乗仏教の立場と、初めから「霊が語っている」とする(昔の著名な賢人の言葉と偽っているわけではない)シルバーバーチとではまったく別の話です。片方は(実質別物の教えであるにも関らず)釈迦という著名人のブランドに乗っかろうとし、片方は(野蛮な民族と思われていた)インディアンとして、むしろ偏見を背負ったところから言葉の輝きのみで勝負しようとした……これを同列に考えられるとは、あなたは本当に言葉の表面的な所だけしか見えない、本質を考えられない人ですね。」

ちょっと待ってください。
そもそも、これらの2931の僕の発言は、僕が2877で、ニューズレターにおいて小乗仏教の「無我説」を根拠に仏教が批判されてることに対し、それは大乗仏教にはあてはまらない、だから仏教がキリスト教に比べて劣るとはいえない、という僕の意見に対し、2930でペーパーバーチさんが述べてた文章に対して述べていたものです。
だから、そもそも価値判断の内容だったと思っていたのですが、いかがでしょうか?
そうした文脈を無視して、僕に対し言葉を表面的にしか見ないとおっしゃられても、承服しかねるものがあります。
大乗仏教があるから仏教を無我説を根拠に批判してキリスト教より劣っているとすることはできない、という僕の意見に対し、ペーパーバーチさんが大乗仏教はでっちあげとお答えになったので、「でっちあげだからそれを根拠にニューズレターの意見を批判することはできない」という含意があったと思い反論したのですが、そういうご主旨ではなかったのですね。

スーパーブランドかどうかはこの問題においては関係がなくて、仏(の霊)が語ったという思想を否定するなら、シルバーバーチの霊が語ったという理屈も成り立たないとどうしても思うのですが、いかがでしょうか?
現世的な視点のみでは、実証不可能という点では、同じではないでしょうか?

それに、そもそも歴史的な検証の仕方においても、全く大乗仏教が仏陀の真意と無関係といえるのかも議論の余地があると思うんです。

「法華経が成立したのは釈迦の死後200〜500年後(諸説ある)ですし、涅槃経に到っては3世紀ごろに書かれたものであって、どちらにせよ釈迦の思想とは無関係のシロモノです。釈迦の死後間もない頃に、既に生前の言葉はまとめられているのですから(いわゆる原始仏典)、その頃に影も形もない思想が何百年も経ってからヒョッコリ出たとしたら、それは後世にでっち上げられたものと判断すべきでしょう。」

死後間もない頃って、阿含経典もそもそも死後けっこう経ってから編纂されてるので、原始仏典というのは正確ではなくて、そもそも部派仏教の部派経典と言うべきと思います。
巷間、よく阿含を原始仏典というので、そう言葉の細かいことにはこだわらなくていいと思いますが、歴史的な経緯としては正確を期さなくてはいけないですよね。
そして、部派経典をつくった僧侶を中心にした部派とは別に、ストゥーパを中心に在家信徒が長い間口伝で釈迦の教えを語り継ぎ、そうした口伝と部派仏教の中の新しい動きが合体して大乗仏教ができたという説があります。
口伝は追跡不能ですが、文字文化とは別に古代中世は口承が大きな役割を果たしていたことを考えれば、ありえないこととも否定できないと思います。
かつ、釈迦の思想と無関係、というのは、シルバーバーチ霊がバーバーネルに語ったことを肯定するならば、ナーガールジュナなどに釈迦の霊が語ったかもしれないことを否定はできないと思います。
上記の二点から、無関係のシロモノと断定はできないと思います。


「まぁ、歴史上の視点では僕の言ったとおりだそうなので(^^;それで良いとして、教理上はどうかといえば……阿含経などいくつかの原始仏典と法華経などの大乗経典を比較すれば、釈迦が語った哲学と大乗仏教は全くの別物であることは明らかです。語るに落ちたな、と思ったのは僕だけではないことでしょう。)

歴史上の視点、というのは文献追跡が可能かどうか、と言うべきでしたね。
無関係の別物とは、上記の観点から未だに思えませんし、思想も空や四諦など基本的なところは継承しているので、別物とは思えません。
語るに落ちたとは、いまのところそれゆえ自分では自覚できません。

「当時既にシルクロードを通じて交易はあったわけで、何百年もキリスト教が伝わらなかったと考える方が難しいと思いますけどね。まぁ、キリスト教云々は事のついでに出しただけの話ですし、資料を出せと言われても難儀なことなんで、それは違うとおっしゃるならそれはそれで結構です。」

じゃあ、この点についてはご自身の意見が根拠のないことだったとお認めになるんですね?
あの文脈の中で、ペーパーバーチさんの意見を聞くと、「大乗仏教はキリスト教の亜流に過ぎないのだから、やはりキリスト教より劣っている」という理屈が背後にあるような気がしていました。
そもそも文脈に関係なく議論されていたペーパーバーチさんにとっては無根拠なことをただ話のついでにおっしゃっただけで、さほどかみつくことでもなかったかもしれません。
それに、僕はキリスト教が伝わっていたかどうかではなく、大乗仏教がキリスト教の影響を受けたかどうかについて議論していたはずです。
イスラム諸国といまの日本が交易関係もあるから、いまの日本の仏教系や神道系の新興宗教がイスラムの影響を受けてる、と結論するのはトンデモな議論だと思いますが、ペーパーバーチさんは人には容赦なく批判されますが、あまりこの理屈はこのトンデモとかわらないと思いますよ。

「僕の論点の中心は飽くまでも「大乗仏教と釈迦の教えは別物」ということですから、僕としてはキリスト教云々ではなく“らふぃえるさんのおっしゃる「仏教内部で部派仏教に対する内発的な批判運動から」過去とは違う新しい教えが創られたのであって、その内容はもともと釈迦が説いていたものとは全く別物であった”と言い換えても良いわけです。もちろん霊界からの影響力も働いていたことでしょうし、様々な理由が複合的に組み合わさって、ああいう教えが出来上がったのでしょう。」

再三述べたとおり、あの文脈だと必ずしもそうではない含意があると僕は解釈していましたし、かつ「無関係な」別物ではないと思うわけです。
関係のある違ったもの(別物)という意味であれば、僕も最初から同意します。

「らふぃえるさんのように表層的な所を突付き回せば、釈迦の教えとの連続性を強弁する事は可能でしょうが、それを言ったらユダヤ教−キリスト教−イスラム教だって連続性はあるわけですし、冷静に比較すれば、やはり元々の釈迦の教えと大乗仏教は別物というのは、議論の余地がない事実であると思います。」

ですから、無関係な別物とは言えない、ってことを僕は言ってるんです。
かつ、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教よりも、別の宗教ではないという点で、はるかに連続性が強いと思うんです。
口伝や、部派の中の師弟関係などで、連続性があるわけですから。
しかも、小乗仏教と大乗仏教が別の宗教だとして、キリスト教がユダヤ教やイスラム教を屠りまくったのに比べると、ずいぶん違うと思うんですけど。

「もちろん「法華経とは霊界で考えが変わった釈迦の霊言なのだ」と書かれているなら話は別ですし、「釈迦の教えには飽き足らなくなって出てきた新しい教えである」と言うなら賛成も出来ましょうが、「これこそ釈迦の真意である(小乗仏教は物のたとえ)」などという主張には、それはやっぱり嘘でしょう?と言わざるを得ません。」

ですから、それは現世的な視点に立ったらウソになるだろうというのは僕ももともと認めているところですが、法身という永遠の仏を信仰の中心に立てている以上、教理上の問題だと繰り返し述べているんです。
現世的な視点に立てば仏が永遠に生きていて語りかけるなんて非合理で信じがたいということは、もちろんそのとおりなのですが、
霊媒現象だって信じていない人からは同じことだと思いますし、実証不能ということでは、同様だと思います。
スピリチュアリズムにおいては実証不能のことを信じるのに大乗仏教において信じないのはアンフェアだと申し上げているんです。

「(念のため補足的に言っておきますと、僕は大乗仏教の発生には、釈迦の霊ではなく、現在スピリチュアリズムにかかわっているのと同じ霊団……つまりイエス配下の霊団が関わっていたのではないかと思っています。が、もちろん根拠はありません(^^))」

うーん、じゃあ、なんで釈迦如来の名を語ったのかよくわからないです(^^;
ただし、僕も大日如来というのは、スピリチュアリズムの大霊と一致するし、その他の薬師如来とかいろんなのはスピリチュアリズムに関わっている高級霊ではないかと思っているんですよ(^^)

「シルバーバーチの霊訓一つろくに読んでいない人が「スピリチュアリズムの発展」にとって何がプラスになるかなど判断できるとは思いません。今までにも何らかのすばらしい霊的教え(と本人が思い込んでいるもの)を携えて、これを取り入れることでスピリチュアリズムはさらに進歩する、だのという主張をする人間が何人も現れました。一人の例外もなく、スピリチュアリズムのスの字も理解できていない連中ばかりでした。」

お説ごもっとも(^^;
反省します。
以後精進します!
ただ、スの字も僕が理解していないのか、知ってるというだけで、スの一角目ぐらいは理解しているのでは、と思う次第であります(^^)

「スピリチュアリズムという宝玉に気付かずに仏教という国を捜し求めているのではありませんか?」

二つ原石があって、一方があれば他方は捨てていい、という意見と、両方磨いたら合わさって一層引き立つという意見があったとします。
後者が、それでもう一つのもっと美しい原石を磨くことを怠っていたら、十分その美しさに気づいてないという点では批判が可能だと思います。
しかし、宝玉に気づいてないわけではないですよね?(十分に気づいてない、のかもしれませんが)
僕としては、両方磨きたいなと思います(そのためには一層精進が必要ですね(^^)

長文に渡るご指導、ありがとうございました(^^)

 


3202 ペーパーバーチさん 3189
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月29日 (水) 11時23分46秒

ペーパーバーチさん

>3189

長文に渡るコメント、ありがとうございました。
今更なんてことはありません(^^)
多少時間は経っていても忘れず労を惜しまずコメントしてくださり、ありがとうございました。

>百歩譲って「とりあえず」ということであれば、そこから先のステップがあることを示唆されていなければおかしいのですが、あの本のなかにはそのようなことは一言も書かれていません。それどころか、その先にあるべきもっとも大切な霊性進化の手段を完全否定していますよね。

ゴラスがあの本の中で、そこから先の霊的進化の段階を説いていないのは事実です。
僕が「とりあえず」と言ったのは、苦に満ちすぎた状態では、自己肯定感を持たせることが必要であり、ゴラスはそうしたことを意図していたのではないかという推測であります。
霊性進化の前段階には、とりあえず自殺しても自棄になっててもいけないでしょうから、前段階としては自分を愛することに力点を説く本があってもいいのではないか、ということでした。
しかし、もしゴラスが「とりあえず」を意図していたなら、そこから先のプロセスを展望してしかるべきであり、「とりあえず」というのは僕の主観的な思いいれに過ぎないのかもしれません。
しかし、テキストはそれが書かれた歴史的な文脈や社会背景も読み解くには必要だと思うんですよ。

>また、LSDの使用に関しても、ニューエイジの世界では大麻やLSDにはほとんど害は無い(タバコより安全である)などという言説がまかり通っていますが、これらは一生涯後遺症が残る可能性がある「麻薬」であり、それらが手に入れやすい「アメリカの読者層を主に念頭において」書かれたものと考えれば、その危険性は日本でのそれを遥かに上回ると言うべきでしょう。何某かの良いところが皆無であるとは言いませんが、そのような危険性に目を瞑ってまで存在意義を認めてやるほどの価値があるとは思いません。

ゴラスはLSDなど利用しなくても、自己へ他者への愛を持てばすでに天国にいるということを言っているのであり、LSDは害がないから勧めるとは言っていないと思います。
僕の立論は、全く良いところがないというわけではないよ、ということなので、ペーパーバーチさんもそう思ってらっしゃるならば、このことについて別にそんなに議論する必要もないと思います。
ある段階の人には、この本が益する場合もある、ということを僕は言っているだけです。
たしかに、ペーパーバーチさんのおっしゃるとおり、甘い自己肯定感が麻薬に向かった場合危険な可能性があります。
しかし、麻薬中毒者は、自己肯定感の不足や愛の不足によって自暴自棄になっている場合も多いと思うので、この本で麻薬への耽溺が治ることもありうるんではないかと思っているんです。


「|いきなり霊的な真実を知らない人に、困難なトレーニングを言っても実践不可能
|でしょうし、初心者や自他に絶望している人間にわかりやすく易しい道を説くの
|もそれなりに意義のあることではないでしょうか。

>あの本に書いてある方法で霊性向上しようとする事こそ「実践不可能」だと思いますし、確かに「わかりやすく易しい」内容と言えなくもないでしょうが、いくら分かりやすくても肝心の書かれている内容が間違っていたら意味がありません。」

「愛が大切」というのは間違ってはいないと思うのですが、その点をわかりやすく述べているならそれなりに意味や価値はあるのではないでしょうか?
もちろん、多々間違った内容、もしくは欠けている部分があるので、もっとスピリチュアリズムの方が意味があるというならお説ごもっともです。


「>だいいち、分かりやすさ、実践の易しさでもシルバーバーチが遥かに上でしょう。「他人のために自らを役立てることをする」これほど簡単に始められることはありません(同時にこれほど奥が深く、多様で、実践の質を上げるのが難しいこともないのですが)。タデウス・ゴラスの本みたいに漠然と、愛が云々、スペース状態が云々、と言われても、僕にはまったくワケが分かりません(果たして分かる人がいるんでしょうか?)」

ゴラスの「悟りとは愛」という言葉は、僕にはじーんときました。
どんなに霊的知識が多くなったり、人のために役に立っていても、愛がなければダメなのではないかと思うんです。
シルバーバーチは、たしかにシンプルで真理だとは思いますが、そんなにとっつきやすいかは僕はわかりません。
もし自分に諸々の体験がなければ、霊媒と言っている時点で、フィルターがかかって拒否してしまったかもしれません。
それを言うなら、たしかにゴラスも、スペースやかたまり、とか、精霊とか、とっつきにくいですね(^^;
かつ、わかりやすさの点でも、シルバーバーチの方が上でもあると思います。
シルバーバーチに比べて、ではなく、一般的に言って分量も短いしわかりやすいのでは、と思ったのですが、シルバーバーチの方がその点も上のことはペーパーバーチさんのおっしゃるとおりです。

「|仏教では、教相判釈といって、どんな他人の思想や意見にもそれなりの段階的
|な真実は含まれていると考え、さまざまな意見についてその程度の高さや低さ
|を評価した体系づくりをさまざまなお坊さんが行ったといいます(空海の十住
|心論など)。

教相判釈《きょうそうはんじゃく》は元々宗派のではなく経典の分類だと思いますし、空海の十住心論《じゅうじゅうしんろん》は、結局他の宗派は密教よりレベルが下で救われないと言っているようなものなので(空海は若いときにも道教・儒教・仏教の優劣を論じていますよね)、キリスト教が他宗を異端と切り捨てると言っても、「あれはダメだ」と切り捨てるか「あんなのは低レベルだ」と貶めるかの違いで、特に仏教が素晴らしい論拠になるとは感じられません。キリスト教だって経典の優劣はやっているわけですし。」

いや、仏教の場合、経典がどれに依拠するかで各宗派を興しているわけですから、一概にそうも言えないと思います。
もしキリスト教でやるなら、コーランにもそれなりに真実が含まれているということを言うことに当たると思います(クザーヌスはキリスト教圏でもやったのかもしれませんが例外ですよね)。
かつ、救われないと言っているのではなく、より高次の救いには至れない、と言ってるんだと思います。
空海は三教指帰で、仏教が儒教や道教より上と言っていますが、儒教や道教を無価値として切り捨てるわけではなく、仏教に包摂されると言っていますよね?
かつ、神道とも積極的に融合を図っていきました。

この点は、本当にキリスト教と違うと思うんですよ。
もし、キリスト教が、ユダヤ教やイスラム教やインディアンの宗教にも、それなりに低レベルでも価値があると認めていれば、また、カトリックやプロテスタントが他の宗派にもそれなりに価値があると認めていたら、あんなに残虐な戦争や異端審問は起こらなかったと思います。
仏教は、キリスト教より著しく、戦争の回数も異端の弾圧も少ないと思いますが、これは大きな違いではないでしょうか?


「|僕としては、これはスピリチュアリズムだから良い、あれはニューエイジだから
|だめ、というような態度よりかは、これこれの思想の中にはこういう良い発想も

少なくとも僕は「スピリチュアリズムだから良い」とか「ニューエイジだからだめ」などという粗雑な決め付けをしているつもりはありませんし、スピリチュアリズムにも駄目なものがあることや、ニューエイジと呼ばれているものの中にも良いものがあることも何度も書いてきましたし、ニューエイジ的なものの“何が”“どのように”駄目なのかということも、嫌になるぐらい何度も書いています。過去の宗教にもそれぞれの時代・地域性に合わせた霊的真理が含まれており、レベルの違いはあるにせよ、それぞれに霊的世界からの働きかけが存在していること。いかがわしい新興宗教にさえ、それぞれに必要としている人がいるから存在するのであって、それぞれに存在意義はあるのだということも言ってきました。」

おっしゃるとおりでした。
すでにこの点については、3036の僕の提案に対し3047でペーパーバーチさんがお答えくださったので納得しておりました。
僕も、ペーパーバーチさんが全否定なさっているとは、それゆえ思っていません。
そんなに、このことについては意見の不一致はないと思うのですが、
ただし、ペーパーバーチさんの文章を読んでいると、「ニューエイジ的」という言葉がどうも目立つので、インパクトとして排他色が強いのではないかという危惧が僕の中にあったんです。
注意深くペーパーバーチさんの文章を読めば、そういうことはないとわかるので、たしかに僕の提案はペーパーバーチさんにとっては不必要かつ不適切なことでした。


「そして、それは決して僕だけではなく、ほとんどのスピリチュアリストはその程度の認識には至っているハズの初歩的な知識に過ぎません。なぜなら、有史以来途切れることなく霊界が人類に働きかけてきた事を考えれば、スピリチュアリズムだけが唯一絶対の真理であるなどということが言えるはずがないからです。」

おっしゃるとおりです。
僕もそれが言いたかったんです。
初歩的な知識を繰り返し確認させて申し訳ありません(^^;
ですから、日本やアジアにおける霊的働きかけを評価するのは、意味があるのではと思うんです。知的関心としては、ペーパーバーチさんもその関心は面白いと肯定してらっしゃるんですよね?

「ただし、同時にそれら(仏教やキリスト教など)の古い教えは、大多数の現代人にとっては到底信じることなど不可能な、言ってみれば賞味期限の切れた教えでしかありません。「古くたって食べ物だ」「食べられる部分はある」と仰るのには同意しますし、臭いをかぎながら選べば食べられる部分もあることを認めるに吝かではありません(^^;。しかし僕なら「これは大体大丈夫だ」とか「こっちは完全に腐ってる」なんて苦労して残飯をランク分けするより(だいぶイジワルな見方ですが、教相判釈って要するにそういうことですよね? あまり建設的には思えませんケド)安心して食べられる出来立ての料理を食べたいと思います。)

ここが根本的に僕の見解と異なるんですね。
先ほども述べたとおり、教相判釈のような包摂的な思考方法をとった方が、キリスト教のように排他的になるよりかははるかに建設的と思うんです。
これは、たしかにキリスト教と比較した場合の問題であって、スピリチュアリズムが排他的とは僕も言っていないはずです。
ただし、スピリチュアリズムが排他的になるかどうかは、今後のスピリチュアリストの運営の仕方によると思うんです。
そして、人間というのは、基本的に非寛容と排他へ傾きやすい生き物と思うので、歴史から教訓を学ぶことは決して無駄ではないし、とても有意義だと思うんですよ。

かつ、「仏教やキリスト教などの古い教えは、大多数の現代人にとっては到底信じることなど不可能な、言ってみれば賞味期限の切れた教え」だとは思わないんです。
仏教やキリスト教の中には、今でも新鮮なものがたくさんあると思いますし、賞味期限が切れていないと思うんです。
腐った部分を切除するには、スピリチュアリズムに照らすととても良くできるのではないかと思うんです。

なんでそこまでして、そうしなくてはならないのか、というご質問は、全くそのとおりと思います。
この論点は、次の3190での論点と関わってくると思うのですが、行や実践の体系においてはスピリチュアリズムは伝統宗教に大きく依存せざるを得ないと思うんです。
また、歴史的な淘汰を経てきたものは、それなりに平衡感覚等の点で極めて優れた叡智を含んでいると思いますので、スピリチュアリズムも旧来の宗教の良い点や歴史的な智慧の点では、吸収するとよいのではないかと思うんです。
(そういうことを言う前にしっかい勉強せいとはおっしゃるとおり(^^;;

「|ニューエイジが必ずしも現実との葛藤に乏しいとは思えません。

それはニューエイジだっていろいろありますから。中には良いものもあるというのは以前から繰り返し言っている通りです。ただ、その良いものの中にタデウス・ゴラスの本は入らない(論外)と思いますが。」

おっしゃられるとおりです。
ゴラスがおっしゃられるとおりだと思うことは2919で僕自身既述です。
それに、僕はここで、環境問題にとりくむこととかを、現実との葛藤に乏しくない例としてあげていたので、ゴラスを例にあげてたわけではないですよね。


「|これらを否定ないし無関心である人が大半の現代の状況を思う時、あまりニュー
|エイジを否定してかかるのは有益ではないのではないかと思う次第であります。

それらに否定的な人は、ニューエイジというものが胡散臭いものであると思っている人が大半でしょう。また当サイトでは、世の多くのニューエイジ的なものを“胡散臭い”と分かる程度の、健全な判断力(センスと言っても良いでしょう)と理性を持っている人を対象にしています。
「精神世界なんてみんな胡散臭いと思っていたけど、霊を信じる人の中にもああいうのの胡散臭さを分かる人もいるのか!」
そう思ってくれる人にこそシルバーバーチを知ってもらいたいと思っているわけです。」

僕の文章の引用文の前段を省略されていますが、僕が何を否定しいる人が多いと言っていたかは、2919で書いたとおりa.「地球環境などの現代社会の問題が本当に人類を滅ぼしかねるという危惧」とb.「輪廻転生や変成意識の重視や全てとつながっているという感覚といった、それまでの西洋文化に欠けがちな、かつスピリチュアリズムとも基本的に共通する視点」でした。
ニューエイジを胡散臭いと思うあまり、これらの認識まで否定することは、本当に理性的でしょうか?
僕は、aとbの視点を説いている点で、こうした認識のない世間の大多数の人に対しては、十分価値があるのであり、スピリチュアリズムももしaとbの視点を広めることが重要と思うのであれば、ニューエイジを批判するより、世間一般を批判した方が良いのではないかということを提案していたまでです。

「ニューエイジに好意的な言説に興味を引かれるような人、センスの無い人は、当サイトの読者にはいりません。それこそ、それぞれに存在意義があってニューエイジも存在しているわけですから、どうぞその手のサイトに行ってください。そんなのは掃いて捨てるほどあります。ここは数少ないスピリチュアリズムのサイトなんですから、よそでは聞かれない「なぜニューエイジはダメなのか」ということをこそ啓蒙すべきであって、擁護するなど百害あって一理程度あるかどうかであると思っています。もちろん異論はあるでしょうが、そういう人はご自分でそういうサイトを作れば良いので、僕がやるつもりはありません。」

ニューエイジの議論はここではするなというご趣旨ですか?
そうであれば、もちろんやめますが、ニューエイジ批判をするならば、当然ニューエイジについての議論も行った方がニューエイジについての意義付けなりスピリチュアリズムとの共通課題なり正確に認識できるのではないでしょうか?
ニューエイジとは何かというご質問も掲示板で出された方がいらっしゃいましたし。
やめろというならやめます。
かつ、ニューエイジのどこがだめか、ということを具体的に述べるのは、僕も全然反対していなくて、3036で述べたとおりです。
かつ、出て行けというなら、いつでも出て行きますが、はっきりそう言われるまでは、もりふみさんもスピリチュアリズムの仲間という風に僕をみなしてくださってますし、僕も仲間でありたいと思いますので、いまのところ出て行くつもりはありません。

さて、上記で3189については、僕の意見を述べましたが、そのタイトルにおいて胡散臭さを感じるとおっしゃられるのが、ニューエイジに対してなのか、 僕に対してなのか述語がないのでわかりません。
僕に対して、胡散臭さを感じるというのであれば、どこら辺にどうしてなのか、述べていただければ幸いです。
ニューエイジの中でとるべきものがあるというのは、ペーパーバーチさんもおっしゃっているわけで、それをもうちょっと積極的に評価した方がいいのでは、と述べることがそんなに胡散臭いんですかね?

 


3201 ペーパーバーチさんの一連の投稿を読んで
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月29日 (水) 11時07分57秒

私は過去ログを読んでいて、ペーパーバーチさんの口調の激しさを知っていましたが、昨日のペーパーバーチさんの口調の厳しさには、驚いたというのが正直な感想です。

幸い、らふぃえるさんは冷静に受け止めているようですので、安心しましたが、この掲示板の、いわば同級生仲間としては『君が冷静に受け止めてくれて本当にうれしい。僕は君のことを評価しているし、君はこの掲示板にとって貴重な存在だから、いつまでも参加してくれよな』と言いたいです。

サラさんについては、私の考えは3170で申し上げたとおりで、今でもこの考えに変わりはありません。この掲示板はペーパーバーチさんの運営する掲示板ですので、当然その運営方針はペーパーバーチさんにありますが、今まで約半年間お世話になった私の個人的な参考意見を言わせて頂ければ。あのようなバサっとした切り方でなく、もっと長い目で見てもいいのでは---というものです。

 


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