らふぃえるさん、再びどうも(^^;。
|「とりあえず」というのは僕の主観的な思いいれに過ぎないのかもしれません。
|しかし、テキストはそれが書かれた歴史的な文脈や社会背景も読み解くには必要だ
|と思うんですよ。
その通り、あの本の中にそれを示唆するものが欠片も存在しない以上、そんなものは主観的な思い入れ(と言うより思い込み)に過ぎません。ありもしないものを、想像に想像を重ねて「きっとあるに違いない」と言い張る主張はトンデモでしか無く、検討に値しません。
また、仮に歴史的な文脈や社会背景を考慮すれば、現今のニューエイジの退廃的な在り方が浮かび上がってくるはずで、らふぃえるさんが『なまけ者の〜』に投影した願望は、ますます危うくなってくるはずです。
|「愛が大切」というのは間違ってはいないと思うのですが、その点をわかりやす
|く述べているならそれなりに意味や価値はあるのではないでしょうか?
100点満点のテストで10点しか取れなかった子に「よく頑張った。十分意味がある点数だ」と言ってあげるべきでしょうか? あてずっぽうに書いた答えがたまたま当っただけかも知れないのに? 仮に何らかの意味があるなら、その正解そのもの(ここでは「愛が大切」?)にであって、10点しか取れなかったテストを評価するべきではありません。
口先で「愛が大切」と言うだけなら幼児向けのアニメだって言ってます。単に「言っている」という事と、「わかりやすく述べている」という事とは別の話ですし、それ以前に、あの本が「愛が大切」ということの意味を分かりやすく述べているとも思いません。らふぃえるさんの仰るような「意味」や「価値」だったら『なまけ者の〜』なんかより、うちの子供が大好きな『アンパンマン』の方が100万倍も意味も価値もあって、おまけに言ってる内容の質も高いです(^^;。
オウム真理教だって統一協会だって、表向きは「愛が大切」と述べているのですよ。それを以って(罠にかけるためのエサだとも気付かずに)彼らのマイナス点に目を瞑り、「良いことも言っている」と称揚してやることが、果たしてスピリチュアリストとして正しい態度でしょうか?
間違った霊的教えは、時に人の命さえ奪うものです。拳銃を振り回しながら「人を撃ったりしないから安全だよ。それに護身の役にも立つし便利だよ、缶ビール開けたりテレビも消せるし(って、ワケわかんないよね(^^;。シンプソンズでホーマーがやってたんですが(^^;;;)」と言われても「なるほど」と思えないのと同様に、あの手の低級霊の教えに価値を認めてやることは不可能です。もっとも、その主張のおかしいところ、間違いを逐一暴かれ、徹底的に否定されることによって、正しい霊的知識を啓蒙する触媒として使えるという“意味”ならあると思いますけど。
ダメなものはダメ、危険なものは危険であると啓蒙することは、霊的真理を知った人間の義務であると思っています。日和って「あれもこれもイイところがあるね!」と言ったほうが好感度は上がるんでしょうけど、まあ、僕の好感度なんてどうでもいいことですから(笑)。
テストで10点しか取れなかった子には、叱りつつも良いところがあれば誉めてやるべきなのであって、悪いところを指摘することもなく、ただ良かったことだけを誉めてやるとしたら、それはただ単に「無責任」なだけだと思います。
|ゴラスの「悟りとは愛」という言葉は、僕にはじーんときました。
うん、その気持ちは分からないでもありません。僕も霊的なことを学ぶ入口で、高橋信次とか大川隆法にはまりかけたことがあります。今ではどちらもスピリチュアリズム的には失格だと思っていますが、あれらを信じたいと願い、むさぼるように本を読んでいた日々の事は懐かしく思い出します。
らふぃえるさんのゴラスへの思いは、僕のそういう気持ちと近いんじゃないでしょうか? スピリチュアリズム的に総体的に評価すれば失格だということは、実はらふぃえるさんにも分かっているんでしょうが、ご自分の好感情に引きずられてわずかな美点を拡大解釈しているように思えます。
|仏教は、キリスト教より著しく、戦争の回数も異端の弾圧も少ないと思いますが、
|これは大きな違いではないでしょうか?
それはそうかもしれませんね。でも、西洋世界ではキリスト教以前にも酷い宗教の弾圧はありましたし(当初はほかならぬキリスト教自身が弾圧の対象だったわけですし)、キリスト教以前にも大々的な征服戦争を遂行した支配者は存在したわけです。東洋に目を移して支那の史記など目を通せば、西洋人の蛮行などカワイク見えてしまうほどの惨い話のオンパレード。近代に至っても大虐殺が行われています。
そういうわけで僕は、「それはそうかもしれませんね」とは言いつつも「でも、ホントにそうかな?」との疑問は提示しておこうと思います。宗教の違いではなく人種の違いとか、地域性の違いとか、もしかしたら仏教の魅力というモノがそこまでの狂気に人間を駆り立てるほどの魅力が無かっただけなんじゃないかとか、いくらでも別の可能性が思い浮かぶワケですが……。
ついでに言えば、何度か引き合いに出されている空海にしても、極東の極小の島国のさほどの勢力でもない一宗派の話に過ぎないわけで、そんなローカルな事例を元に仏教全般を語ることが可能なのか、とか。そもそも、仮に仏教がキリスト教より優れている部分があるとしても、だから現代でも学ぶ価値があるかと言えば、必ずしもそうとは言えないわけですし。……そういえば、元々は釈迦の教えの評価に関してだったハズなのに(違ったっけ?)、何故後世の仏教の話になっているのか、とか(^^;。
|日本やアジアにおける霊的働きかけを評価するのは、意味があるのではと思うん
|です。知的関心としては、ペーパーバーチさんもその関心は面白いと肯定してら
|っしゃるんですよね?
はい。その通りです。スピリチュアリズムの知識を使って、過去の宗教(仏教やキリスト教など)を解釈したり評価するのは面白いと思います。……でも、それってらふぃえるさんの仰った「仏教を学ぶことでスピリチュアリズムが大きく発展する(大意)」というのとは逆の考え方ですよね。
|かつ、「仏教やキリスト教などの古い教えは、大多数の現代人にとっては到底信じ
|ることなど不可能な、言ってみれば賞味期限の切れた教え」だとは思わないんです。
|仏教やキリスト教の中には、今でも新鮮なものがたくさんあると思いますし、賞味
|期限が切れていないと思うんです。
スピリチュアリズムというのは科学(という部分もあるもの)ですから、その意味で、霊的真理の部分に関して過去の教えを学んで大きく益する部分があるとは思いません。……というのは前回も書いたとおりです(^^;。物理学を学ぶにあたって古代ギリシア・ローマの科学が参考にならないのと同様に、現代のスピリチュアリズムが(霊的事実に関して)キリスト教や仏教から学ぶものは無いというのが、僕の基本的スタンスです。
ただし、過去の教えでも(霊的事実以外の)哲学的な部分に関しては(もちろんスピリチュアリズムの発展が云々とは別のレベルで)それを学ぶ個人々々にとっては成長に益することはあると思います。たとえば聖書の中のイエスの言葉(後世に付け加えられたものもあるので注意が必要ですが)や、論語や孟子などは啓発される部分も少なくないハズです。言ってみれば現代の科学者が古代ギリシアの「科学」から学ぶ所は無くても古代ギリシア科学者の「科学する姿勢」から学ぶことは出来るのと同じことです。
(ただし、仏教から学ぶことがあるかは知りません。また、文章が美しいということを書かれていましたが、それなら『平家物語』でも読む方が良いでしょう。文章表現の美しさに関して言えば法華経あたりとは格が違うと思いますよ)
|なんでそこまでして、そうしなくてはならないのか、というご質問は、全くそ
|のとおりと思います。
おっと、らふぃえるさんがそれを言っては議論が終わってしまいますよ〜(^^)。
「なんでそこまで」と言えば、それは「(仏教が)好きだから」でいいんじゃないでしょうか? また、過去の教えの中に霊的真理の痕跡を発見することで、人類の歴史を通じて霊界からの働きがあったことを再確認することは、決して無駄なことではないと思います。
|この論点は、次の3190での論点と関わってくると思うのですが、行や実践の体系に
|おいてはスピリチュアリズムは伝統宗教に大きく依存せざるを得ないと思うんです。
例えば精神統一の方法などは、とっくの昔に取り入れて実践しています(しばらく(財)日本心霊科学協会の精神統一会などに通ってみると良いと思います)。むしろ日本のスピリチュアリズムは、そうした伝統宗教の影響から離れなければならないというのが僕の考えです。
ここらへんは翻訳書ばかり読んでいる人には分からないところでしょうが(←あんまりこういう言い方はしたくないんですが(^^;)、スピリチュアリストを名乗る霊能者でも、言ってることはマンマ仏教や神道の「昔ながらの町の霊能者さん」でガッカリさせられることが多いです。神職やお坊さんの霊能者とか(江原さんも元神職でしたっけね)。そこらへんの事情を踏まえずに、今さら「大乗仏教を学んでスピリチュアリズムが発展」などと言われると……まぁ、もちろん気分も良くありませんし、「ナニ言ってんだ」という感じがしてしまうわけです(^^;。
そんなふうに、いきなり大上段に振りかぶったりせずに、自分の興味の対象として仏教をスピリチュアリズム的に再評価してみたいと仰るなら何も問題無いわけです。心の道場さんの釈迦への評価も、そうした試みの一つなわけですし。
|ニューエイジを胡散臭いと思うあまり、これらの認識まで否定することは、本
|当に理性的でしょうか?
いったい誰が「これらの認識まで否定」したのでしょう?(世間一般? だったらここで言うのはお門違いです) 仮にX氏がA・B・Cという3つの主張をしている時、Cという1点を否定することによってX氏を否定することは、主張A・Bまで否定することにはなりません。理解していますか?
環境問題に警鐘を鳴らしたのは科学者であって、ニューエイジはそれに後から乗っかっただけ。輪廻転生は2500年前の仏教より更に昔から言われている思想で、ニューエイジャーにとってはちょっと目新しかったから拝借されただけ。どちらも、ニューエイジを否定したからといって「これらの認識まで否定」されるようなモノではありません。
|ニューエイジを批判するより、世間一般を批判した方が良いのではないかというこ
|とを提案していたまでです。
現実逃避と金儲けをベースに、ほんのわずかに美点が埋もれているだけのニューエイジを胡散臭いと判断して遠ざけている「世間一般」の方が、「いいところもあるから認めるべきである」なんて思っているらふぃえるさんより何倍も賢明なんじゃないでしょうか。僕なら「世間一般」とやらを批判するより、らふぃえるさんやニューエイジを批判するほうが確実だと思いますけどね。
実際ニューエイジには胡散臭いものも多いのですから、それらを胡散臭いと思う一般の人を批判したからってどうしようもありません。我々スピリチュアリストとしては、「良いことも言っているから」と肯定してしまうのではなく(それこそ「やはり同レベルか」と評価されてしまうでしょう)、批判すべきは批判することが必要で、精神世界だって自浄作用を働かせなければダメだと思いますよ。バーバネルだってインチキ霊媒を次々とあばいていたワケですし。
|さて、上記で3189については、僕の意見を述べましたが、そのタイトルにおい
|て胡散臭さを感じるとおっしゃられるのが、ニューエイジに対してなのか、僕に対
|してなのか述語がないのでわかりません。
投稿した翌朝にコメントが付いていたので随分早くコメントされたもんだと思ったら、こんなことも分からない程度の理解でコメントしているわけですか……。こんなことは本文を読んで内容を理解していれば聞くまでもないことのはず。なるほど早くコメント出来るわけです。一本筋の通った論理を構築することもなく、相手の文章の部分々々にチクチクと反応しているだけなんですから。古来パソコン通信の時代より、そういうコメントを“脊髄反射レス”と言います。「理屈っぽいが論理的ではない」と評した所以です。
この次のコメントでもあれこれ「教えて下さい」のオンパレードですが、質問する前に自分で調べるなり考えるなりしたら如何ですか。ロクに考えもせずにあれこれ教えてくれと言われても、そんなものに懇切丁寧に答えねばならない義理はありません。掲示板は義務教育じゃないんですから。
http://www.paperbirch.com/