心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.10.01公開)
それはある年の夏のはじめ、館の森の蝉時雨《せみしぐれ》が、まるで早瀬を走る水のように騒々しく聞こえていた、暑い昼下がりの事だったそうです。館の中は降ってわいたような突然の来客の知らせに、昼寝をしていた人たちまで慌てて飛び起き、上を下への大騒ぎとなりました。それもそのはず、その来客というのが他でもない時の帝の珍《うづ》の皇子小碓命様《おうすのみことさま》その人なのでした。(※訳注1) 彼は当時筑紫路から出雲路にかけて遠征中でした。お伴の兵士はおよそ五、六十人で、いずれも命《みこと》の直属の部下で屈強な武人《つわもの》ばかりでした。ついでにちょっと付け加えておきますと、その頃命の直属の部下というのはいつもこの程度でした。それが一たび戦闘になると、その辺りの武人達が後から後から馳せ参じて来て、たちまち大軍になったそうです。『わざわざ遠方から大軍勢を引き連れて出征されることはありませんでした。』命の出征されるところ、どこでもご一緒された橘姫がおっしゃるのですから、まずその通りと思っていただいて間違いはないと思います。 ともかく五、六十人の来客は、不意の来客としてはなかなかの大人数ですよね。ましてそれが当時の日本にたった一人の戦の神様のご来訪とあっては、とてつもない大事だったんでしょう。きっと森の蝉時雨だってピッタリ鳴き止んだと思いますわ。ただその時何よりラッキーだったのは、姫のお父様が珍しく国元へ帰っておられたことで、お父様ご自身が采配を振るわれて家の者たちに指図し、少しのぬかりもなく素晴らしいおもてなしをされたということです。その辺の事情については姫は言葉を濁しておられましたが、どうやらその日の小碓命様のご訪問は必ずしも不意打ちのようなものではなく、あらかじめ帝からの御内命があり、言わば橘姫さまとお見合いのためにそれとなくお越しになられたような次第なのでした。 そんなわけで姫はその夕べ、両親に促され、盛装してお側にまかり出て、ご接待の役をなさったのでした。『何といっても年若き娘の事ですもの、恥ずかしさばかり先に立って、特別のおもてなしなんかできませんでしたのよ。』姫は簡単にそのぐらいしかお話してくれませんでしたが、うふふ、どうやらお二人の切っても切れない固い絆はその時結ばれたのは間違いないようです。実際どの時代を探しても、お二人ほどお似合いのカップルは滅多にいらっしゃらないですものね。口幅ったいけれど、命は百代に一人といわれる優れた器量の日《ひ》の皇子《みこ》だし、姫はまたおしとやかな中にも凛々しい気性を持たれた絶世の美女ですもの、お二人がお互い一目惚れしなかったとしたらそれこそ変です。お年頃は命が二十四歳、姫が十七歳、どちらも人生の花盛りというわけなのでした。 余談ですが、私こちらの世界で大和武尊命様にお会いしたことがありますので、その時の印象を話しておきますね。会う前はあれほどの武勇に名を馳せた方ですから、きっとものすごく怖い方だろうって思っていたんですけど、実際にお会いしてみると、それはそれはお優しいお姿をしておられました。もちろん筋骨は隆々としておられますが、お顔は色白のお優しそうな細面でした。そしてちょっとつり気味の目元にも、きりっと引き締まった口元にも、ほとんど女性的といっていいほどの優しい雰囲気を湛《たた》えておられたんです。『なるほど、このお方なら少女姿に仮装されてもよくお似合いでしょうね。』なんて、失礼とは存じながらそんな事を考えちゃったほどです。(※訳注2) そんなことはさておき、その時命は二晩ほどお泊りになってそのまま帰京されましたが、やがて帝のお許しを得た上で再び安芸の国にお出でになり、その時に正式に婚礼の儀を挙げられたのでした。もっとも戦続きの折なので、式はいたって簡単なもので、ただ内輪で杯を交わされただけで、すぐに花嫁を連れて次の戦に旅立たれたそうです。『こういう場合だから、どこに行くにも君を連れて行くよ。』命はそうおっしゃったそうです。また姫の方でも愛しい人と苦労を共にするのが女のつとめと、その時固く固く覚悟されたのでした。 ※訳注1:「ヤマトタケルノミコト」は、第十二代景行天皇《けいこうてんのう》の第三王子で、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と記し、小碓命《をうすのみこと》・倭男具那命《やまとおぐなのみこと》(古事記)、小碓尊《をうすのみこと》・日本童男尊《やまとおぐなのみこと》(日本書紀)の幼名がある。/神々の宴HPより。http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index08.html ※訳注2:命が西の熊曾建《くまそたける》兄弟を平定する時に、少女に偽装して宴席で彼らに近づいて倒した史実を念頭においた発言と思われる。詳しくは前述神々の宴HP参照のこと。 |