スピリチュアリズム勉強会&座談会
('02.03.20作成)

第10回('02年2月24日)
「シルバーバーチは語る」7章 神とは何か
「ニューズレター第16号」スピリチュアリズムにおける神観

その1


 

参加者:有希、長田、哲子、ペーパーバーチ

有希:今日は新しい人が来てくれました。哲子さんとおっしゃいます。私とは時々メール交換をしていまして、シルバーバーチの霊訓の熱烈なる愛読者です。それからスピリチュアリズム入門、続スピリチュアリズム入門、ニューズレターも読んでいます。

哲子:はじめまして、今日はとても楽しみにしてまいりました。日頃は有希さんのHPやペーパーバーチさんのHPを楽しみに拝見しています。私もシルバーバーチのすばらしさに共感している一人であり、なるべく日々の生活が霊的真理に添えるように努力しているところです。今日は良い刺激とさせてもらいたいと思いますので、よろしくお願いします。

有希:では、今日は第7章の「神とは何か」と、ニューズレターの新年号の「神観」をやっていきましょう。両方読んで思ったんですけど、今までシルバーバーチの中では「神は法則です」と書いてあるのが、ニューズレターの中には、「法則そのものではない」というのが書かれてあって、やっぱりなぁというのが私の思うところでした。以前から神は法則そのものではなくて、法則を造ったのが神なんだろうと思っていたので、とっても安心しました。

ペ:僕は、これ(ニューズレター)に書いてある内容に全面的に賛成というわけではなくて、この人達はこのように考えているんだなと思って読んでいます。でも法則そのものではないというのは確かにその通りですよね。この世でも霊界でもそうですけど、神は法則として現れているのであって、姿をあらわす形の1つが法則であるというだけで、法則そのもの“だけ”というわけではないはずなので。
ただ、シルバーバーチもどこかで言っていたと思うんですけど、一神教的な存在というか、ニューズレターに書いてあるような感じの唯一絶対の根本神という存在が本当に存在するかどうかというのは霊界の人達にとっても信仰の問題であって、それが本当かというのは証明できているものではない……と思うんです。という意味では、ニューズレターに書かれているようなことはちょっと誤解を招く恐れがあるかなと思ったんです。

有希:私は以前から、「神がいる」という表現がしっくりこなかったんですけど、これは言葉での表現なので仕方ないですね。神がいるとかあるとか、存在しているとかではなくて、全てが神の手の内にあるというように思っていたので。

長田:「いる」というと、見えないけどどこかにその物体があるような感じがするからですか?

有希:ええ、そうです。「大霊」という言葉も、大きな霊の寄り集まりみたいな感じがするから何か違うような気がするんですよ。霊というと見えないけど一応は形があるという前提じゃないですか。神は形が無いはずだから、大霊という表現も実はピンとこないんです。でもこれは言葉だけの問題ですからどちらでもいいんですけどね。
最初に1つ疑問に思ったことがあって、ニューズレターの中にも信仰ですと書いてありましたよね。普通信仰というと、宗教団体の信仰と錯覚しやすいと思うんです。信仰って本当は何なんでしょう。一応私なりに答えを持ってはいますけど、はたしてそれが正しいかどうか……。普通信仰というと、字のごとく神を信じて仰ぐとか、神に従うとか、そんなイメージがあるけれど、シルバーバーチの信仰というのはそれとは何か違うような気もするんです。宗教団体のように、盲信的に自分たちの神を信じるとか、そこの教祖を神様の代わりにして何か言葉を貰って仰ぐとか、そういうイメージとはずいぶん違うと思ったんです。

ペ:ニューズレターを見ると、スピリチュアリズムは神を唯一の信仰対象として絶対帰依する生き方を求める、と書いてあるんだけど、シルバーバーチが言っているのとちょっとズレがあるかなと思うんです。そのこと自体は間違っていると思わないんですけど、どちらかというとシルバーバーチが言っているのは、神を信仰するというのではなくて、同胞に対して奉仕することがスピリチュアリズムの信仰だというような考え方だと僕は思っているんですけど。

有希:そうかあ、それも信仰ですよね。私が感じた信仰というのは、神様との本当の親子関係というか、ずーと遠かった存在を近づけていくこと、というように捉えたんです。だから人間の親子関係もそうなんだけど、子供は親を見て育って知らず知らずのうちに、親からいろいろ学びますよね。そうやって大人になって行くと思うんですけど、自分から意識的に親に近づいていく、神に近づいていくというのが信仰かなと考えて勝手に納得してたんです。そういう意味では神に向かっていくということで一神教というのはそうだなと。だから法則通りにいくのもこれは神の方に向かっていくことなんだなと思ったし、向かっていく方向はやっぱり1つしかないんだということでとっても納得したんです。

長田:私もニューズレターでとってもよくわかったんですけど、その一般的な信仰というとどういうイメージですか?

有希:神様に拝んで、ああして下さい、こうして下さいと頼むイメージってないですか?

ペ:そうですね。自分を信じてくれる人に何かしてあげる神様という感じですね。

有希:宗教では教祖=神の言葉ですから、教祖の言葉を信じてそれに従う、みたいなイメージを持っていました。ペーパーバーチさんは宗教のもつ信仰というのはどういうイメージです?

ペ:簡単なようで難しい質問だ(^^;。今までの信仰や宗教のイメージというのは、金儲けでやっている悪いイメージしかありませんよね。でも、それって偽宗教や間違った信仰のイメージであって、正しい信仰は違うもののはずですから。

有希:キリスト教でもイエスやマリアにお祈りしますよね。イエス=神になっているから、すごく妙です。結局イエスの像に拝んだり、十字架を大切にしているのは偶像崇拝になるわけですから。

ペ:何かの言いなりになって、自分をなくしていくようなイメージありますよね。

有希:そうそう、そんな感じですよね。

長田:そうするとここに書かれているような、神の願いを実践して、神にもっと近づきたいというのとではずいぶん違いますよね。

有希:ええ、違いますね。どこでもそこの宗教だけが正しくて、他の宗教は間違っていると言うのがおおいですしね。そして神はそこの団体の人達だけを愛してくれているようなそういう偏った神様だから、従えばご利益があるけど、逆らえば地獄に落ちますよ、というような信仰ですよね。

長田:あ〜、そうですね。

有希:では、「シルバーバーチは語る」の方をやっていきましょうか。
私にとって今回は、目からうろこの感じでした。神という概念が私の中でとても明確になったのが有り難かったです。今まで霊界とか守護霊、背後霊というのは、動きそのものが自分に密着しているのでよくわかったんですけど、神というのは理屈ではわかるけど、今一つピタ〜ッと捉えられなかったんですよ。それが今回とってもはっきりして、こんなに身近だったんだ〜、と感じたらすっごくうれしくなりました。どこでそう思ったかというと、P120の後ろから4行目なんですけど、

あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。大霊は大霊です、生命です、愛です、全てです。(P120)

シルバーバーチが「一人一人がミニチュアの神です」とよく言ってるじゃないですか。ニューズレターの中にもそういう個所が何箇所か出てきていますけど、とても自分が神だとは思えなかったんです。でも、神そのものじゃないけれども神が浸透している、充満しているとなると、なるほどな〜という感じです。

長田:私の場合「神」と言われると、すごく大きくて絶対的で自分とは遠くかけ離れているような存在だと感じちゃうんですけど、それが自分を取り巻く色々なエネルギーだったり、生命力だったり、愛だったりすると、なるほどと思えるんです。でも、それがまだ頭で理解しているだけで、自分の中でしっかりと一致していないような気がします。

哲子:神は神なので私はあまり深く考えていませんでした。でも一番ピッタリしたのが、「神は創造主で人間の親である」という内容なんです。だから逆にどうして宗教では捉え方が違ってきちゃうのかが不思議ですね。

有希:ペーパーバーチさんはどうですか?

ペ:あまり神ということは考えてないんですよ。だって、とっても想像がつかないものだから考えてもわからないし、例えば宇宙を創造した存在でもたぶんそのレベルはまだ神じゃないと思うんです。もっとその上が限りなく存在して、その宇宙というものだって無数にあると今は言われているわけだから。それよりもっと上のレベル、究極の存在なんてとっても人間に想像出来るはずがないので、とりあえず人間が想像できる……例えば太陽系を統括する天使とか、銀河系とか宇宙の運行を任されているようなレベルの霊的存在とか、そういうのを仮に神と言う様に思うくらいじゃないですか、人間に出来ることといったら。それも本当は想像の限界を超えているようなものだと思うんですけど。

有希:ひょっとしたら神のことがわかって喜んでいるのはこの中で私一人かしら。

ペ:人間の想像力の限界を超えてるというのが僕の考えです。たとえば「太陽系の大きさ」を想像するだけのことでも、たぶんものすごく矮小化した程度しか想像できないでしょう? まして宇宙全体も超える究極の神なんて……。

哲子:そう言われてみるとそうですね。ただ安易に、これが神だ、と自分でそう思っているだけかもしれません。人それぞれ色々な考え方、感じ方があるんですね。

ペ:というように考えると、ニューズレターで汎神論的な考え方を間違いと言っているけど、この世の人間のレベルで考える時は、ベースの部分は汎神論的に捉えて、でもそれだけではなくて唯一神というのもあるんだというように付け加えるように考えてもいいと思うんです。書いてあることが間違ってると思ってるワケじゃないですよ。ただ、捉え方が自分とはちょっと違うかなと思ったんです。心の道場の人達はそういう神への信仰を持つという「やりかた」が好きなんだなぁと。
僕はスピリチュアリズム自体には、唯一の神というものが無くても成立するものだと思っているんです。なぜこの世の人間が助け合わなければいけないのかとか、どういうようにしていけば霊的に成長していくかとか、なぜ成長していかなければならないか、ということを考える場合に究極の神というものを考える必要があるかどうかというと、それはなくてもスピリチュアリズムの大切な部分というか、僕が「良い」と思っている部分はちゃんと成り立っていると思うので。

有希:それはどの段階でも成り立つんじゃないかしら。神がわからなくても霊界という事が分からなくても、お互いに助け合っている人はいますものね。実際私の知り合いに、霊界も神も分からない、でも自分本意の生き方だけはしたくないし、人の役に立つ自分になりたいって言うんです。というように神や霊界がわからなくても霊的人生は成り立つわけですよね。でもそこをずーっと突き詰めていくと、やっぱり最終的には神に行きつくんじゃないかと思うんです。だからペーパーバーチさんが、あえて「神のことを考える必要がない」というのもそれはそれで成り立つなと。

長田:神と表現するかしないかの違いのような気がするんですけど。

ペ:僕も存在はしていると思っているんですけど、そこまで一番大事なものとは思っていないという。

哲子:つまり、神様がいるとは思うんだけど、まだ自分としては確信が持てない。だけど自分の生き方としては、こうしていくことが正しいと思うというものがしっかりとあるという感じですか?

ペ:そうですね。

有希:神のことはよくわからないけど、霊界はわかる人って結構いるんじゃないですか。そういう人が本当に神様がいると確信できたらすごいだろうなと思います。でも、そういう人って自分で自覚していないだけじゃないかしら。

長田:そうですよね。でもスピリチュアリズムというのは、霊界通信の内容、つまり霊的摂理に自分を合わせる努力をしていくことですよね。そうすると、霊界では神の存在が当り前で、どの段階でも無条件に感じるみたいですから、やっぱり霊界の事実を追求していくのがスピリチュアリズムかなと思うんです。私、小桜姫を読んで、いつも神様って出てくるから、地上では全然実感できないけど、霊界に行くと無条件に感じることが出来るんだ〜とあらためて納得しました。

ペ:でも、小桜姫で神様と言われているのは、今言ってる究極の神様じゃなくて、高級霊のことだと思いますよ。

長田:そうですね、私も何をもって神様と感じているんだろうと思ったんですが、でも確かに神を感じているんですよね。

有希:例えばそれが高級霊だとします。でもその高級霊にはずーっと後ろがいるわけで、その高級霊を生かしているのが神の愛なんですよね。それとか、何枚ものガラスがあって、下の方へ行けば行くほど光は薄くなるけれど、それでも光は通っているみたいな。

長田:たとえ薄くてもそこにとってはすごい光で、神と感じるくらいなんでしょうね。

有希:そこはそこで必要な分の神の愛が充満しているんですよね。

ペ:ああ、なるほど。高級霊からの光であってもその根本は究極の神から来ているという捉え方なワケですね。そう考えると、確かにそういう(心の道場的な)捉え方の方が正しいというか、分かりやすいのかも……。

哲子:私は神様がいて下さってよかったとすごく思うことがあるんですけど、そういうことありませんか?

長田:私はまだ自分の中で神様というものが分からない部分の1つとして残っているような気がします。私は哲子さんのような感覚になったことがないし、せいぜい愛されているなぁという感覚くらいですから。もちろん頭では分かるんですけど、魂とつながっていないような気がするんです。だから、地上の人間が肉体を持ったゆえに実感しにくくなるという部分だけはとても納得できたんです。

有希:私がハッ!!とさせられたのが、P122の後ろから6行目です。

生命の旅路は進化です。進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が善だとか悪だとか言っているのは、その旅路における途中の階段の高い低いの善に過ぎません。終着点ではありません。あなた方の判断はその途中の不完全な理解力によって行われているのであって、善だと言ってもその段階の善であり、悪だと言ってもその段階での悪に過ぎません。その段階での判断に過ぎません。その時の事情との関連で判断した結果であって、その事情から離れればまた別の判断をするかもしれません。しかし、いかなる事情にも大霊が宿っているということです。(P122-123)

国会でも掲示板でも色々議論をしますけど、みんな自分が一番正しいみたいに言いますよね。それって、その段階のその人だけの判断だと考えればいいというのがわかりました。昨年貿易センターが爆破された時も、アメリカが正しいのかイスラムが正しいのかというような二元論的なところが非常に強かったじゃないですか。それもどちらが正しいかではなくて、その時だけの善悪観なんですね。これが目からうろこの一つでした。その時は正しいと思ったことでも、たぶん後でまた自分の考えが変わるかもしれないと思うと、断定して言ってはいけないなと反省しました。

哲子:どちらが正しいということじゃないということですからね。

ペ:あっ。いま気付いたんですけど……いまの話とは関係ないんですけど、ここの「高い低いの善」と書いてある「善」って、「差」の誤植じゃないですかね。

有希:私は高い善低い善と読みましたけど、「差」かもしれませんね。

注:原書を手に入れたので調べてみました。該当部分はこうなっています。
「What you call good or bad are but stages in the road of life, lines of progress.」
直訳してみると「あなた方に「良い」とか「悪い」と呼ばれているのは、生命進化の道程の段階のことである。」とでもなるでしょうか。やはり「差」の誤植か入力者の読み間違いじゃないかなぁ……近藤千雄先生って達筆ですし(^^;。(ペーパーバーチ)

哲子:その前のところ、P121の最後の行ですけど。

あなたは、大霊はあらゆるものの中に存在する、全存在の根源である、愛にも憎しみにも、叡智の中にも愚かさの中にも存在する、とおっしゃっています。その論法でいくと、間違ったことをする人間も正しいことをする人間も大霊の摂理の中で行動していることになります。同じことが戦争と憎しみを煽動している者と平和と愛を唱道する者とについても言えるように思います。(P121-122)

最近になってやっと、全ては進化の途中で、完全なるものは不完全なものから生まれるという途中の段階にあるという見方が出来るようになりました。昔は善は神から出ているもので、悪は悪魔から出ているものと捉えていたことがあったので非常にすっきりしました。

有希:一般的に言う善とか悪というのは、道徳的な考えですよね。シルバーバーチが言う善と悪の捉え方だと、摂理に添う事が善であって、摂理から外れることが悪なんですよね。だから摂理通りに行くことがより善で、例えば利他愛で生きていくことが善であって、利己愛で生きていくことは悪であるというように。でもそれも進化の途中だから、悪じゃなくて善に近いか善から遠いかという、そういう事だと思います。だから人を殺したり、欺いたり騙したりというのは、非常に善から遠い存在にいるのであって、進化で言えば非常に遅れているということですよね。そういう意味で憎しみの中にも愚かさの中にも神が存在していると言っているのかなと思いました。

ペ:また、同じ事をやっていてもそれぞれの人のレベルによって、その人にとって善か悪かが違ってきますよね。だからそれぞれの段階に応じて、それより上に進めるものは善で、下に落ちていくような行為は悪という、そういうように考えるとすっきりすると思います。

有希:そうですね。シルバーバーチの本のどこかに「ある人にとっては善だけれどもある人にとっては悪になる」、というところがありましたね。

ペ:戦争とかもそうですよ。単純に道徳的に頭を使わずに考えれば、戦争なんて悪に決まっているという事になるんだけれども、テロをほおっておいたらもっとたくさん出てくるんじゃないかとか、第二次世界大戦の時でもナチスが世界を制覇しようという時に、もし他の世界中の国が今の日本の憲法9条みたいな事を言っていたら、今ごろ世界中をナチが支配してますよね。ですからその時点では、それが善とまでは言えなくても仕方のないことなんだというように。永久にそれが善かというと必ず将来的には違う解決方法があって、未来の人類にとっては違う場合があるはずだし……。

有希:あの時は武力でナチスを潰すしかなかったですものね。ナチスの例はとってもいい例ですね〜(感心)

ペ:あの頃はそれが正しいからって、将来も戦争の解決が正しいとは思いたくないですけどね。

有希:話し合いによって変われば一番良いことだけど、なんせ利己的な人間の集まりだから何百年かしたら可能かもしれないですね。

哲子:そうですね、今はまだとても想像できないですからそういう時代を見てみたいです。

有希:ひょっとしたらその時代にまた生まれているかもしれませんね。
それから先回話したのと少しダブルんですけど、P124の8行目です。

しかし忘れないでいただきたいのは、人間の一人一人に、霊性の進化の程度に応じてそれ相応の自由意思が与えられているということです。霊的段階を高く上れば上るほど、自由意思を行使できる範囲が広くなります。(P124)

前回もこの話ありましたよね。シルバーバーチのいう自由意思というのは、私達が考えているような自由意思とはやっぱり違うんだなとここを読んで思いました。自由意思を行使できる範囲というのは、利他愛を選択する範囲が広くなることなんですね。成長していない人は色々な制約があって、葛藤があって、なかなか実行しにくいんだと思います。とっても自然に当り前に利他愛を実行できる人というのは、霊的段階をたくさん登っている人なんですね。

 


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