有希さん、こんにちは。今更ですが、遅ればせながらお返事します(^^)。
ちょっと考えてみると、話のレベルが変わってきてるのをゴッチャにしてしまっているんじゃないかなと思えてきました。ちょっと整理してみます。
1)考えなしの言葉で嫌な思いをさせた(もしくは傷つけた)場合
例1:障害者の子供を持つ親に対して「出来損ないの子が出来て大変だね。でも、いつか良いこともあるよ」……もちろん本人は励ましたつもり。(本当にこういうことを言う人はいるらしい(-_-;)
例2:子供が出来ずに悩んでいる人に対して「子供はまだつくらないの?」
2)その人なりの最善を尽くしたつもりだったが、結果として傷つけた(相手の霊性を阻害した)場合
この二つは違うように見えますが、根本的な問題点は同じと考えます。つまり、相手に対する適切な行動をとれるだけの能力、または霊性が足りなかったということです。程度の問題はありますが、自分の行動の結果は必ず自分で埋め合わせなければならない……シルバーバーチの言う“償いの法則”が働きますから、何らかの形で償わねばならないハズです。
如何に本人が善意のつもりでも、未熟さ故の罪というのはあると思います。“咎め”られるかどうかは知りませんが、いつか自分自身で埋め合わせなければならない……というのが僕の考えです。
ただし、2の場合は例外、というか、似ているようでまったく違う事例も考えられます。
3)相手に対する行動は適切だったが、対象者は傷ついたと“思った”場合
例:反社会的な宗教に入った人を説得。相手は、信仰を否定されたと思って“傷ついた”と感じた。
これは本人は「傷ついた」と思っているが、実際には「気に入らない事態に陥ったことに不満を持った」というだけの状態です。この場合は“償う”必要は生じないと思います。なぜなら、傷ついたと思うのは本人の問題に過ぎないからです。これを2のような、本当に相手の霊性を阻害した場合と一緒にするとワケがわからなくなります。つまり、相手のためになったか否かと、相手が喜んだか否かは、本当は切り離して考えるべきということです。
以上をふまえた上で、コメントに入ります。
|同じ思いからの行動の結果として、相手が感謝してくれたら良いことをし
|たことになって、相手が傷ついたら悪いことをしたことになるなんて、何
|か変ですよ、これって。
何故でしょう?
相手と自分との相互関係の中で生れてくる行動なのですから、それが相手にどういう影響を及ぼしたかという結果を抜きに判断するのは、それこそおかしな話なんじゃないでしょうか。同じ思いから同じ行動をしても、相思相愛なら喜ばれ、相手次第ではストーカー(犯罪)になります(^^;。シュタイナーは「悪とは時期はずれの善である」と言ったそうですが、その“時期”を判断する責任は無いのでしょうか? いや、絶対に“ある”と、僕は思っているわけです。
たとえば上記1)の例2がそうでしょう。例1だって、もしかしたら言われて喜ぶ相手もいるかもしれない。でも、その言葉が相手にどういう影響を与えるかを考えずに投げつけるなら、それは利己性の発露以外の何物でもありません。刃物を渡すとき、刃の側を相手に差し向けたりしないでしょ? まして、仮に相手が盲目だったら、普通よりずっと気を遣って渡さなければならないでしょう。いずれにせよ、相手にとってどうなのかを考えた上で渡す責任があるわけで、無造作に刃物を投げ渡して、相手に刺さったのはうまく受け取れなかった相手の責任というのは無責任な話です(^^;。(念のため付け加えると、仮に相手がたまたまうまく受け取ったとしても、自分自身の不適切な行動に対する責任は生じると思われます)
自分だけで完結してしまうなら、それは自慰行為でしかありません。相手がいる以上、お互いに気持ちよくならなければ、いくら自分のテクニックの正しさを言い張ってもどうしようもないということです。(はっ、いったいどういう譬え話をしているのだ(^^;)
|でも、償うってどんなことです?
|相手の傷を癒すことですか?
|その辺は私にはまだ良くわかりません。
それこそ一概には言えないはずですよね。僕は基本的には「自分の霊性を高めることで同じ間違いを繰り返さなくなる事」も“償い”の重要な要素の一つ……というより、そうでなければ何が間違いだったかも判らないでしょうから、前提条件と言うべきかな? 考えなしの言葉で傷つけた程度のことなら、その相手にちょっと謝るだけで“償い”は済むでしょうし、間違った宗教を教えたり、その他何らかの形で霊性を損なったなら、そのぶん手助けをするのが(その方法も一概には言えませんが)償いでしょう。自分の行為が相手の霊性進化の障害になっており、再び前に進むために“癒し”が必要なら、それも償いのうちに入るかもしれません。
|地上だけの観点で見たらそこで癒しということが重要な意味を持つと思う
|んですけど、その人にも霊的な背後がいるし、その背後がいろいろな状況
|を材料にしてその人の成長に全力を尽くしていることを考えたら、やはり
|自分の責任は善いボールを渡す所までなんだと思えてきます。
善いボールを渡すことが出来たなら、その通りだと思います。ただ、“善い”と思っているのは自分だけの独りよがりかもしれないわけで、結果的に渡したものが善くなかった場合、そこに責任が生じてくるのは当然のことではないでしょうか? 自分でまいた種は自分で刈り取るのが大原則であって、失敗しても相手の背後任せで自分には償うチャンスが与えられないとしたら、その方が恐ろしいと思うんですが……。また、その程度の覚悟がなければ、“愛”という言葉を語る資格なんてないと思います。
|そうやって愛した方が傷ついた場合はどうなります?
|傷つけた相手が悪いのでしょうか?
それは自分が悪いんでしょう。仕事なんかと同じです。依頼された仕事を引き受けたにもかかわらず、納期に間に合わなくてクライアントに損害を与えたら……賠償責任を負うのは自分です。無理な納期を押しつけたクライアントじゃない。出来ないなら引き受けてはいけないんです。
でも、愛することは仕事とはやっぱりちょっと違いますから、否応なく引きずり込まれてどうしようもなくなって、一緒に傷つくことも含めて愛なんだろうなぁ、とは思いますけどね(って、ついでのように書いてますが、ここが一番肝心な所のような気もします)。
だから、有希さんは「愛することが恐くなります」と仰ってますが、もちろん「愛することは恐いこと」なんじゃないんでしょうか? 楽しいだけの“愛”なんて、本当の愛じゃないでしょう。だってお互いが、本気で生きている自分に(そして相手に)触れるんですから、恐くないはずがないんです。それは男女の愛に限らず、友情でも、その他の人間関係でも。一つ間違えばお互いの人生や、命にもかかわることだってあるわけですから。僕みたいに人間関係に不器用な人間は、山奥で一人で暮らせたらどんなに楽だろうって思いますよ。でも「恐さ」と引き合うだけの「快感」があるから、それは良いものなんじゃないでしょうか。
たぶん、自動車の運転みたいなものなんじゃないかと思うんですよ。各々の技術如何で、首都高を300km/hで飛ばせる人もいれば、農道を30km/hで走るのさえ恐い人もいる。速度が上がるほどに快感は増すが、同時にリスクも大きくなる。技術レベルを上げれば安全性を高められるが、低速でも人を殺す可能性(恐さ)はゼロにはならない。……考えれば考えるほど似てると思うんですが、それで何が言いたいかというと、その恐さを知らない人間は、車の運転も、人を愛することも、やっちゃダメなんじゃないか、と思うわけです。
※注:僕は300km/hも出したことはありません(当たり前だ)。せいぜいメーター読みで×0.57ぐらいです。……あ、いや、もちろんそんなのフィクションに決まってます。昔の話だし証拠もありません。だからタイホしないでください(^^;。
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