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発言番号0101-0150のログです。

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0150 類魂と一つになる感覚
名前: アラム  投稿日: 2001年11月08日 (木) 22時47分12秒

哲子さん、はじめまして。

類魂と一つになる感覚の体験のことですが、残念ながら、私もまだここまでの体験はしたことがありません。

まずは、類魂の代表である守護霊との意識の同通から目指さなければならないですね。

「私達はあなたです」、「あなたは私達です」、
「あなたは決して一人になることはありません」、
「あなたが苦しいときには私達もともに苦しんでいます」
「決して見捨てることはありません」

こうしたメッセージも常には受け取ることができません。

「執着を断つ」、「無私になる」、「利他の行為」といった仏教の修行
「霊主肉従」、「利他愛」の努力の積み重ねこそが「類魂との一体化」の経験にもつながっていくと思います。

このことについては、私よりも有希さんがHPでリンクされているカノンさんの方がご存知ではないでしょうか。

宗教家でも多分、自分の類魂との意識の共有という体験までいった人はいると思いますが、そこで、「自分は宇宙の神と一体になった」と錯覚を起こしてしまうこともあったかもしれないと思います。

「霊主肉従」、「利他愛」の実践の努力と「道具意識」、「真の謙虚さ」が大切になるのでしょう。

守護霊の上には、類魂を統括している守護神ともいえる方や類魂を指導している高級霊もおられると思います。

こうした存在とも同通できるまでになれるとよいのですが。

 


0149 ハリーエドワードのようには・・・
名前: ハナ  投稿日: 2001年11月08日 (木) 21時54分02秒

有希さん、どうもいろいろありがとうございました。
私としては有希さんの言葉は大変ためになり、今後とも学ばせていただきたいと思います。

だれもが、本当にすべての人が、「私は神の道具なのだ。どうぞ治療霊さん、使ってください」と申し出ただけで、心霊治療ができれば、それはお金をとる必要もないと思います。自己投資の必要もないからです。

でも、だれもがそう思うだけでは治療もできないし、実際、目の前で病気や不調で苦しんでいる人を見ながら、「日常生活で利他愛を実践してくことが大事」と説いても、わからないのでは?と思います。彼らには、とにかく助けてくれる手が欲しいのです。

しかし、そうなるためにはその間の自己投資も生活費も必要となります。それにかかる費用をいただいてもいいと思います。「献金」の習慣がないので、仕方ないと思うのです。

ハリーエドワードは確かにお金をとらなかった(献金で生活していた?)のは事実ですが、彼がそのまま現在、日本人として生まれていたらどうでしょう?

あの時代、あの国だからこそできたのであって、この国とこの時代で当てはめることはできないと思います。

出る杭は打つ・・・ではないけれども、大変な攻撃にあうでしょうし、それが裏目に出て、「カルトだ」と誤解されかれないと思うからです。日本で「見えない世界」を広めているのは有名大学出の元エリート官僚であったり、大学の先生だったり、医者であったりします。しかし、彼らに対する攻撃はものすごいのです。

それは霊界でも細心の注意を払って「日本人向けのスピリチュアリズム」を広めているのだと思うのです。それならば、「整体」や「‥‥セラピー」「ボディワーク」というように、わざとニューエイジのヒ−リング風にカモフラージュして広めることもありえるのではないかと思うのです。それには、安心して来てもらうためにもお金をとった方がいい場合があります。

「無料で癒します」では、宗教の勧誘みたいで「なにか意図があるのでは?」と怖がる(笑)可能性があるからです。

なんだか私も今まで考えなかったようなことを考えることができて有希さんには感謝します。長々と書きましたが、反論でも弁解でもありません。

どういう方法をとっても、法律に違反していたり、人格を踏みにじるような方法でなければ(相手も納得してお金を払って治療を受けるわけですし)、どうか「お金を取れば罪悪感を感じるはず」と言い切らないでいただきたいなあと思うのです。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


0147 霊界はすぐ側に
名前: 有希  投稿日: 2001年11月08日 (木) 11時05分42秒

哲子さん、はじめまして。

> 今回のテーマである「心霊治療」を今日ある方から初めて受け、私としては強烈な体験でしたのでちょっと書かせていただく気になりました。

とても大きな体験をされたようですね。
きっと、哲子さんが言葉にされた以上の感覚を持たれたんでしょう。
ちょっとうらやましい気もします (^。^)
哲子さんの体験を読んで、霊界は架空のものでもなく、現実にすぐそこにあって、共に生きている、というか、共に歩んでいるというのが実感として伝わってきました。

> ここのところで「わからなくいいんだ」と大変ほっとした次第です。実は「よくわからないぞ」
> とひそかに悩んでおりましたから。

実は、私も密かに悩んでいました (^・^)
でも、考えてみたら、それがわかってもわからなくても、自分の成長にはあまリ大きな差はないですもんね。
それより、『霊主肉従』『利他愛』の努力を地道にして行く方がずっと大きな価値があると思いますから。

> 最後の方にお書きになっていらっしゃる<類魂と一つになる感覚>という体験がおありでしたら是非お聞かせ願えませんでしょうか?

これは私もぜひ伺いたいものです。

 


0146 私の記憶違い
名前: 有希  投稿日: 2001年11月08日 (木) 11時04分29秒

アラムさん wrote:
> 『スピリチュアリズム入門』では「霊界の低い階層では二十人ぐらいの霊の集まりから始まり、高い階層では
> その数がずっと多くなって、何百、何千と集まって一つの類魂を形成する」(P134)と書かれています。

> 親和性ということですが、低い階層では共通したある嗜好性などによって集まった閉鎖的な集団でしかないもの
> が、段階を上がるにつれて、共通した志向や知識などによって集まった集団になり、ついには多様な個性をもっ
> たものまでも共通したものとして一つにまとまることができるようになるのではないでしょうか?

> 類魂として許容できる能力が拡大していき、それだけ多くの霊が一つにまとまっていけるということになるので
> はないでしょうか?

あらためて『スピリチュアリズム入門』を読み返してみて、自分の記憶違いだったことに気がつきました。「少ない」というイメージを持っていたのは、類魂の数で、一つ一つの大きさは抜けていたようです。
ご指摘ありがとうございました。
いつもながら、アラムさんはさすが知の方ですね。

 


0145 大変!体験!
名前: 哲子  投稿日: 2001年11月08日 (木) 00時55分24秒

はじめまして 哲子と申します。今回のテーマである「心霊治療」を今日ある方から初めて受け、私としては強烈な体験でしたのでちょっと書かせていただく気になりました。

実は私は最近右肩が痛みだし、ある方に「機会があったら心霊治療やってくださいね」とお願いしてありました。今日やっとその方にお会いすることが出来、四方山話のあと治療を受けました。
私は椅子に座り目を閉じ、ヒーラーは背後から肩に手を当てました。初めは特に感じませんでしたがヒーラーが位置を変え、一方の手を痛む右肩に置きもう一方の手を私の右手とつないですぐ
なにやらパチパチというような音がしたかと思うと凄い勢いと量の、光みたいなものがぐるぐる
循環している感覚がありました。目は閉じていましたが右側がはっきりと明るくなるのがわかりました。「なにこれ?!」という思いと同時になにか感無量になり涙が頬を伝いました。治療が終わって肩を動かしてみたところすっかり痛みが消えたわけではなかったあのですが(だいぶ楽にはなってました)私にとって痛みは?なんてことはどうでもよくて、今私が見たもの(感じたもの)
の方がずーっと大きなことでした。ここまでの体験は全く予想も期待もしてませんでしたがいやおうなく証をみせられたような気持ちでした。
そのヒーラーの方は「私は何にもしてません。私はただのエネルギーの通過体ですから」とおっしゃるので治療代は払っていません。

ついでに「類魂」について書かせていただきます。
勉強会の座談会から
>類魂についてはペーパーバーチさんのHPにも書いてありますよね。
>ペ:一応載せていますけど、僕もあまりわかってなくて、本など見ながら書いています。だい
>たい、この世の人でちゃんとわかる人なんていないんじゃないですか。『永遠の大道』のマイ
>ヤース霊だって、本当のところはわかってないですよね。ましてこの世の人間でわかる人なん
>て……。
>有希:いないと思います。ただこれを本当に知って理解する必要があるかどうかというと、
>やはりこれは知的レベルでしかないと思うの。
ここのところで「わからなくいいんだ」と大変ほっとした次第です。実は「よくわからないぞ」
とひそかに悩んでおりましたから。

また掲示板から
アラムさんの「0144類魂説の説かれる意味」を拝見して自分一人の生き方が類魂のメンバーに
大きく関わってくるというところは深く頷けるところであり責任を痛感するところです。より
よい体験を積んでいかないと申し訳ないですよね。
アラムさんは本当にいろいろなことに精通していらしていつも「すごい!」と感心、感嘆しておりました。さぞかし体験も豊富なことだろうと推察いたしております。
そこで少しばかりお伺いしたいのですが
最後の方にお書きになっていらっしゃる<類魂と一つになる感覚>という体験がおありでしたら是非お聞かせ願えませんでしょうか?
名前は哲子でも哲学するより感覚に頼る私からのお願いです。

 


0144 類魂説の説かれる意味
名前: アラム  投稿日: 2001年11月05日 (月) 23時39分39秒

「類魂説」の説かれる意味ですが、「再生説」以上に大きな意味があると思います。

一つは「守護霊」についてです。
よく守護霊は先祖の霊だとか、地上や霊界での縁のある霊だとか言われていたわけですが、「霊界においては地上における血のつながりのようなものはそれほど重要ではなくなる」とされていますから、守護霊がそれほどまでに地上の人間に関わる意味があるのだろうかとの疑問がありました。

ついには守護霊が完全に見捨ててしまうこともありえるのではないかと思われたのです。

霊能者を名乗る人にも「守護霊がいなくなる」とか「守護霊が交替する」と言う人が多くいます。

「霊格の向上のためやカルマの償いのために守護霊を引き受けているのだ」という説もありましたが、これだと、同じ様な状態の人に対して使命を果たすのであれば、その当人に対してでなくても構わないことになります。

「守護霊の交替」ということがあってもおかしくないことになってしまいます。

「類魂説」が説かれることによって、「守護霊とは同一類魂のメンバーであり、深い情的親和性によって結ばれているので決して見捨てることはない」というように思うことが出来るようになったのです。

「守護霊が何故地上の人間に対して愛情を注いでくれるのか」という疑問に対しても、「あなたは私であるから」との答えが返ってくることになるのです。

いつ失われるかわからない守護霊の愛情に対しての不安というものから解放されます。

次に、「再生説」とも関連してきますが、「人生を送る意味」と「自殺が何故いけないか」ということです。

人生を送る意味では、これまでは、「自分のカルマの解消と霊的向上のため」ということでしたが、「類魂説」が説かれることによって「類魂全体の進歩・向上のため」という事が加わりました。
「自分の人生は自分のためだけのものではない」ということになったのです。
さらに、「自分の人生における体験によって類魂全体の向上が変わってくる」ということになります。
自分の霊的向上がなされないことによって、類魂全体の成長をも阻害してしまうということさえあり得るかもしれません。
それだけ人生が大きな意味を持っていることになります。

「自殺が何故いけないのか」ということにしても、「あなたの人生はあなただけのものではないから」ということが加わります。
類魂の中の代表として地上に生を受けているので、自殺は神に対してだけではなく、類魂に対する約束をも破る行為であるわけです。

次に、「職業差別」、「階級差別」、「人種対立」、「人種差別」、「戦争」などについてですが、類魂のメンバーの中には様々な人種、民族、階級、職業の者がいますから、差別や戦争をすることは同じ類魂のメンバーに対して行っているのと同じようになるわけです。
戦争をしている相手の国は、自分の類魂の仲間の祖国であるかもしれないのです。
自分が見下している階級や蔑視している職業に属している者が自分の類魂の仲間にいるかもしれないのです。

このように「類魂説」の考えをもとに「人類は一つの家族であり、差別はするべきではない」という考え方がでてくるわけです。

そして、霊界に類魂が存在すると知ることは、自分を深い愛情で見守ってくれている、強い絆で結ばれている多くの仲間がいるということを知ることでもあります。

自分の思いだけにとらわれず、この地上において類魂の思いを知ること、類魂と一つとなった感覚をつかむこと。これが仏教の目指した「地上でのニルバーナ」なのではないかとも思います。

 


0143 類魂に関連しての質問
名前: アラム  投稿日: 2001年11月05日 (月) 22時28分34秒

皆さんに質問します。

スピリチュアリズムで「類魂」が登場する以前、スウェーデンボルグが
「いずれの霊も、もっとも自分の本性に合った霊界の団体に属して、それ以後の永遠の霊の生を送ることになる。霊界には霊の性格の多様さに応じて無数の団体がある」
「同じ町や村の中の霊たちの様子は、どこか共通した特徴がみられるようだった」
「同じ町や村の霊の顔つきや性格には、たとえ顔つきの外形は異なっていても、全員がどこか共通した性質をもっていて、その相似はこの世の人間の親子兄弟姉妹よりももっと濃く、親密さもそれ以上だった」
「どの顔もすでに何千年も前から知っていた親しい顔のような感じがした」
「まさに長年生まれ育った故郷に何万年ぶりかで帰ったような気持ちであった」
「本来の性格の合う者だけが一緒に集まって団体をつくって生活を送る」
「ひとつの町や村が同じ住居だったり、同じ雰囲気をもっているのは、そこに住む霊の性格が全く同じだからである」
(『エマニュエル・スウェデンボルグの霊界』今村光一訳 中央アート出版)
と述べられている霊界の団体とは「類魂」とは全く違うものなのでしょうか?

『パワーズの生命哲学』(桑原啓善訳 でくのぼう出版)でも「霊たちは最も親しいものたちがいる集団へ導き入れられる。彼らは霊的レベルもその志向も互にその境涯に調和したものばかりである。それですぐに自分は余所者ではないという実感をもつようになる」と説かれていますが、この集団とは「類魂」のことだと思われますか?

「類魂」という用語ですが、
「動物たちのような個性を失って帰っていくそれぞれの種族ごとの集団魂」
「統括霊のもと、様々なレベルの霊が親和性によってつながっている同系霊族集団」
「同じ成長レベルの類似性、共通性をもった霊のグループがそれぞれの経験、知識、感情、思考を共有化して、意識の一体化・融合化を行い、できあがった大きな魂」
といった異なるものを全て表そうとはしていませんか?

有希さん〜
>数十人は相当レベルが高いという事じゃないかしら
>人間のレベルで言うと、魂があまり成長していない人達ほど沢山いるわけだし、そこから成長すると次の類魂に行くわけですよね。ピラミッド型に上へ行けば行くほど純度の高い親和性になるから少ないのかなーと思っていました

ペーパーバーチさん〜
>若い類魂は構成員が少ないという事でしょう
ということですが、『スピリチュアリズム入門』では「霊界の低い階層では二十人ぐらいの霊の集まりから始まり、高い階層ではその数がずっと多くなって、何百、何千と集まって一つの類魂を形成する」(P134)と書かれています。

親和性ということですが、低い階層では共通したある嗜好性などによって集まった閉鎖的な集団でしかないものが、段階を上がるにつれて、共通した志向や知識などによって集まった集団になり、ついには多様な個性をもったものまでも共通したものとして一つにまとまることができるようになるのではないでしょうか?

類魂として許容できる能力が拡大していき、それだけ多くの霊が一つにまとまっていけるということになるのではないでしょうか?

進歩するほど、様々な類魂がさらに大きな類魂を形成していき、ついには地球の全ての霊が一体化した類魂を形成するようになるのではないかと考えていたのですが、ビデオ『地球人類の霊性進化の道“スピリチュアリズム”』では超高級霊になると類魂ではなくなると述べられていたようですから、これは違うのでしょうね。

 


0142 あれ?
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月05日 (月) 14時57分32秒

今朝、僕宛の書き込みがあったのでお答えしようと思ったんですが、削除されたみたいですね。もういいのかな?

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

 


0139 心霊治療のつづき
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月05日 (月) 01時11分33秒

ポカQさん〜
>りゅうじんさん「お金の要らない国」読ませていただきました。

ありがとうございます。いいタイミングで読んでくださったようなのでもう少し考えてみましょう。
僕が小説の中で書いた国のように、食うためにお金を稼ぐ必要がなければ、純粋に自分の才能を生かすための仕事に就けます。仕事と金儲けを切り離して考えられる。僕は、仕事とは本質的にはそういうものだと思っています。心霊治療だって、才能のある人は金を取るの取らないのと心配することもなく、思う存分、治療に専念できるでしょう。
しかし、現在のこの世のシステムでは、仕事と金儲けは一体になっていますから、なかなか理想通りにはいきません。一つ仕事に就いたら、朝から晩まで時間もエネルギーも吸い取られ、とても片手間で心霊治療なんてやっていられないでしょう。でも、せっかくの才能は生かさなければもったいないですから、僕は、余計な仕事はせずに心霊治療で生計を立てるのもいいと思うわけです。
この世で心霊治療を仕事にする場合は、治療費は一応目安を作っておいて、お金のない人は払わなくてもよいことにしたらどうでしょうか。余裕のある人なら病気を治してもらえば普通は何かお礼をしなければ気が済まないでしょうし、目安を作っておかないと、余計な気を使わせることにもなるからです。
まあ、僕にはそんな才能はないですから、できる人が自分の納得いくように試行錯誤されればいいことなんですけどね(笑)。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

 


0138 主とサタン
名前: アラム  投稿日: 2001年11月04日 (日) 21時42分05秒

ポカQさん、こんにちは。

ご質問のことですが、これは他の人の意見も聞いたほうがいいとは思いますが、私の理解の範囲で答えてみましょう。

「スピリチュアリズムではサタンの存在を説かないことが問題だ」という人もあり、「サタンについて語らないで、キリスト教の教義を否定するから、スピリチュアリズムの通信霊はサタンの仲間である」という人もいるほどです。

まず、「主」ですが、これは「神」という意味で使用される場合と「救世主」という意味でイエス・キリストを示す場合とがキリスト教ではありますよね。

「創造主」という意味で「主」を用いる場合にはスピリチュアリズムで説く「神」の概念と同じと言ってもよいと思います。
特にキリスト教の要素の強いスピリティズムでは全く同じ意味と言ってよいでしょう。
ただし、キリスト教の聖典の中に「旧約聖書」が含まれていますので、ユダヤ教の影響から神の裁き、神の怒りという概念が入って、スピリチュアリズムで否定する「暴君のような人格を持った神」がキリスト教の「主」の中に流れ込んでいます。

「大霊」はもともとネイティブ・アメリカンが「創造神」、「太陽神」を表したもので、シルバーバーチが用いたことで、スピリチュアリズムの中にとりいれられたものでしょうか。
自然界・大宇宙・霊界全体を包みこみ、全てに遍在している“大きな霊”ということで、「地上界を創造した神」と区別する意味で用いることもあると思います。

「主」を救世主を意味するものとして使用している場合は、ニューエイジではイエス・キリストではなく、ニューエイジの中心指導霊と思われている「ミトラ」(マイトレーヤ)を示したり、ナザレのイエスを通じて顕現していた存在である「キリスト」を示したりしますが、スピリチュアリズムにおいてはこの意味での「主」は認めていないと思われます。ただし、「心霊主義」と呼ばれるような中での幽界からのキリスト教徒からの通信の中では「イエス・キリスト」を指すものとして「主」と呼ぶものもあるようです。

キリスト教でいう「悪魔」は「デビル」や「デーモン」、「サタン」まで幅広い意味を含んでいます。イスラム教の「ジン」までも含んでいるようです。

ですから、スピリチュアリズムでは認めているのか、同じ意味なのかということになると、どの定義のものかが問題になります。

低級な精霊、自然霊をさすものとしてなら、スピリチュアリズムでも、下級の妖精の存在は否定していません。
人間にとっての災いと思える自然災害、嵐などを引き起こす自然霊の存在も否定していないと思います。

さらに、人間の作り出した想念と幽界でのエーテル残滓が変化したものが結びついたものや夢幻界での幻想などがあらわれたものもあります。

しかし、自然霊の中で地獄に落ちた人間を苦しめる存在についてはどうなのでしょう。
『死後の世界』ではこうした存在が登場しています。
人間の霊とは全く異質な存在とされています。
日本でいう「地獄の鬼」にも似た存在です。

また、神の摂理の中で、破壊に関わる闇に仕える天使については「ホワイト・イーグルの霊示」に出ています。

「サタン」についてはどうでしょう?
元は天使でありながら、神の思いに背いた堕天使。
ゾロアスター教やミトラ教で登場してくる「アーリマン」や「アンラ・マンユ」、ヤザタ派の「アザゼル」(孔雀の天使)

「サタン」という名の魔王は、自分の地位に満足できず、自分の王国を作ろうと反乱を起こして、天から追放されたサタナエル(サマエル)の伝説や、アフラ・マズダを殺し、天上の戦いを引き起こし、天国から追放されたが、後に改心して天使に戻った孔雀の天使などの伝説と関係があると思われますが、「試みるもの」、「神に反するもの」とされています。

元はマズダー教、ミトラ教に由来するものです。

キリスト教の悪魔払いの際に、憑依していた霊が「私はサタンに仕えている」などと述べたことや、「聖母預言」で何度も警告の中に出てきたこともあって、存在していると信じられているようですね。

信仰宗教でも認めているところがかなりあります。

しかし、スピリチュアリズムでは、「闇の世界を支配するサタン」は認めていません。

『霊の書』、『霊訓』、『シルバーバーチの霊訓』、『ホワイト・イーグルの霊示』、『アーネルの通信』、『マイヤースの通信』といった高級霊訓全てがそのことを否定しています。

「低級霊」と呼ばれるような霊全てが「悪魔」のような霊であるわけではありません。

キリスト教の悪魔払いの時の「悪魔」は、迷っている間に生きている人間のオーラに引っかかり、精神障害などの混乱を引き起こすことになった霊、騒霊現象などを引き起こす自縛霊などが主です。

さらに、悪霊の集団の頭、「霊的真理の普及」や「地上の霊的浄化」を妨害しようとする邪霊、積極的に人間を堕落させようとする悪霊なども「悪魔」といっても間違いではないと思います。

キリスト教の「悪魔」には他の宗教の崇拝対象も含まれていますから、スピリチュアリズムの指導霊をも悪魔としかねません。

ですから、キリスト教でいう「悪魔」の全てをスピリチュアリズムが認めるわけではないし、スピリチュアリズムでいう「低級霊」(未発達霊)の一部にはキリスト教のいう悪魔にも相当するような残虐性などを持った霊もいると言えます。
邪霊、悪霊は利己的な目的で動くため、地獄全体で動くというようなことはありえませんし、神の摂理の範囲内で活動しているにすぎないので、神と勢力を二分するような力をもって神に対するということも不可能だということになります。

ただ、天使が堕落したというような意味での「悪魔」や人智学でいう巨大な悪の霊、「ルシファー」、「アーリマン」、「アシュラ」が存在するかどうかは私にはわかりません。

 


0137 再度、スピリチュアリル・ヒーリングとお金に関して
名前: 有希  投稿日: 2001年11月04日 (日) 11時08分25秒

ハナさん、ご意見をありがとうございました。
いろいろ参考にさせていただきました。

> それで、有希さんは実際に霊界の医師団と一緒に治療されているのでしょうか?

それらしい体験が少しある程度です。

> それは彼らがそう言うのでしょうか?

私にはそういう霊能力はありませんから、そう聞いたわけでもないですし、霊訓の中にもそういうことは書かれていなかったと思います。
では、なぜ私がそう思ったのかということですけど、ハリー・エドワードにしても、テスターにしても、また最近会ったヒーラーの方も、料金は取っていないので、それを前提に考えてみたんです。

> 私も最初、霊的治療を受ける前は「お金をとるのは邪道だ」と思っていました。でも、実際、自分が霊的真理を
> 学んで、道具になってやってみて、そして後継者を育ててみて、(なんでもやってみないと気が済まないし、
> 責任もった発言はできないと思ったので)その考えは変わってきました。

ハナさんはご自分でずっとやってこられて、体験から必要性を感じられたんですね。
おっしゃっていることは、地上の目から見るなら、ごく当然のご意見だし、私にとっては何より体験を前提としているということなので、とても刺激になりました。
そう考えれば、体験のない私には何も言う資格はないようです。

でも、私なりの意見を再度書かせてくださいね。
これはあくまでも私個人の意見ですし、未体験の中で書いていますから、その辺りはお汲み取りください。

私が物事を考える時は、とりあえず『霊的視点』で考えるようにしています。
どうしてかと言うと、現実に焦点を合わせすぎると、灯台下暗しになってしまうことがあるからです。
霊的真理、特に『利他愛』をもとにして考えると、見返りを期待しない、要求しない、というのが大前提になると思います。与えたことに対して同じだけの見返りを要求したり、期待するのは純粋な利他愛ではないし、これはビジネスになってくると思うんです。

例えば、ボランティアで空き缶を拾ったり、ごみを拾ったりして環境を良くしようとしてくださっている方たちがいます。その人たちの思いはいろいろあるでしょうけど、自分の善意をお金に換えていないから、誰もがその行為をすばらしいと思っているんじゃないかと思います。

ところが、そうした清掃をしている内に、もっときれいにしたいという思いが湧いてきて、仕事として始める人もいるかと思います。その人たちは当然どこかの会社とか団体と契約して清掃することになるわけです。それはそれで良いと思います。

何が言いたいかといいますと、利他愛はお金に換算しないから価値が出るのであって、お金に換算した時からビジネスに変わってしまうのではないかということです。りゅうじんさんのおっしゃるように、才能の一つだから、といわれれば、それはそれでいいと思います。

ただ、その才能なり、能力は自分のものであり、自分がやっているんだ、という自負する心があるなら、そして、それを仕事とし、その仕事を社会の役に立つようにという思いをもってされるのであったなら、他のどの仕事よりもはるかに有益で価値のある仕事になると思います。

でも、やっぱり、私自身の感覚でいくと、霊的なことではお金はいただけない、という思いの方が強いのです。
なにしろ、自分がやっているわけではないし、自分の能力でもないし、ヒーラーは霊界のエネルギーの通過体にすぎないからです。

私は以前ビタミンオイルを使った、リンパマッサージを勉強したことがありました。これはわりと高度なテクニックを要しますし、筋肉学を知らないと効果が少ないマッサージなんです。これは医療マッサージとしても通用しますから、かなり勉強しました。五十肩とか腱鞘炎、ぎっくり腰など、筋肉関係ではとても大きな効果が出ましたし、それも短時間で効果が現れました。これは自分で努力して勝ち取った技術ですから、料金を頂くのは当然だと思っていました。

ところが、ある時、筋肉補強テープのことを知りまして、それを使ってみたところ、いままで私が1時間かけてやっていたことが、そのテープを一本貼るだけで、何時間もマッサージをしたのと同じ効果が出ることがわかりました。貼る時間は数分です。これで椎間板ヘルニアも手術しないで治ったほどです。

そのテープはごく普通に薬局で売られているし、貼り方もそれほど難しいものではありません。そのテープの効果は絶大でしたけど、私は料金を頂くことはできませんでした。私はただ貼っただけでしたから。あとは、必要な人が自分でテープの貼り方を覚えればいいだけのことです。そういうのにお金が頂けるでしょうか。私にはできませんでした。

スピリチュアル・ヒーリングも同じです。自分で努力して、訓練を受けて培われた能力なら料金は頂けるでしょう。でも、他の心霊治療家と違って、スピリチュアル・ヒーラーは単なるエネルギーの通過体ですし、なにより、ヒーリングをすればするほど、疲れるどころかヒーラー自身が元気になっていくんですから、別の考え方をした方がいいのかもしれません。

私がお会いしたヒーラーは治療する場所は持っていないし、料金も取っていませんでした。でも、場合によっては6時間で200人の方を診るそうです。それも一人一人別々にです。ご自分の生活のための仕事もしていらっしゃいますから、生活費はそれで充分なのでしょう。ヒーリングをすればするほど元気になるということで、空いている時間は日本国中を回って、全てヒーリングに費やしているようです。

では、場所はどうしているのかというと、善意の方が自宅を提供してくださったり、施設を借りたりしているようです。当然交通費とか施設の料金は要りますが、ヒーリングを受けた方の中で、本当に受けて良かったと思われる方が感謝の献金をしてくださるということで、それでまかなっているようです。
こうした方は特別な使命のもとでヒーリングを行っているのでしょうね。

私がスピリチュアリル・ヒーリングでお金を取ってはいけないと考えているのは、こうした事柄が前提となっているわけです。でも、それを仕事としてやっていらっしゃるなら、他のどの仕事よりもはるかにすばらしい仕事だと思いますから、ぜひ続けて頂きたいと思います。

 


0136 悪魔(サタン)と低級霊、主と大霊の違いとは?
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月04日 (日) 01時08分03秒

こんにちは、ポカQです。

アラムさん、答えて下さって有難うございます。
偽の審判の合図で起こしても、本人の自覚がなければ幻想から抜け出られないとの事、とても参考になりました。

ところで、他にも分からないことがあるので皆さんにお聞きします。
この1年間教会で牧師先生の話を聞きながら、ニューズレターを読んできましたが気になることがあります。

教会で「主」「悪魔(サタン)」といわれている単語は、
スピリチュアリズムで使われている「低級霊」「大霊」と同じ意味なのでしょうか?
それとも全然別物なのでしょうか?
教えていただければ幸いです。

p.s.
りゅうじんさん「お金の要らない国」読ませていただきました。
面白いですね、有難うございました。

 


0135 スピリチュアル・カウンセラー、理想の病院
名前: アラム  投稿日: 2001年11月03日 (土) 22時59分39秒

スピリチュアル・ヒーラーは霊力の通り道でしかなく、治療を行っているのは霊界の医師なので治療費は取るべきではないという事ですね。

ただし、治療を受けた人が感謝によって行う献金や善意からの寄付までは断る必要はありませんし、受け取ってもよいと思います。

これは遠隔治療の場合はとくにそうだと思います。
通信費ぐらいは受け取っても構わないと思います。

直接治療の場合は少しは料金をもらっても構わないと思います。
特に出張治療の場合には交通費ももらってもよいと思います。

直接治療の場合は、治療する場所が必要になりますし、そして、ヒーラーも単に霊力の通り道となるだけではないと思われます。

直接治療を行うヒーラーは同時にスピリチュアル・カウンセラーであることも必要だと思います。

病気の人の悩みなどを静かに聞いてあげて、心の問題点に本人が気がつくように誘導してあげる。
イメージや瞑想によって自然治癒力を高めるお手伝いをする。
病気の人の不安や緊張を和らげてあげる。

こうしたことは、ヒーラーの人格的影響が重要になります。

また、霊的知識を教えてあげて、心の問題を解決できるようにアドヴァイスをしてあげることも大切になります。

こうしたことは純粋な霊力だけではなく、ヒーラーでもあるカウンセラーの才能と努力にもよることです。

霊的知識と心理学的知識の両方の学習が必要になります。

このカウンセラーとしての仕事では料金をとっても構わないと私は思います。

無料でヒーラーとカウンセラーを兼ねた仕事を続けた人が多くいたことは確かですが、この方法では非常に負担が大きくなります。

道具となった人に無理が生じてしまうのです。

スピリチュアル・ヒーラーとスピリチュアル・カウンセラーを兼ねた直接治療を行うのであれば、不当に高額なものでなければ料金をとっても構わない。

スピリチュアル・ヒーラーとして、霊力を通すだけの遠隔治療だけを行うのであれば、通信費を別として、料金はとるべきではない。ただし、感謝からの献金や善意からの寄付は受け付ける。

スピリチュアル・カウンセラーでも、勿論インスピレーションによる霊界からの協力もありますが、それ以外に体力・精神力の消耗もありますから、料金をとっても不当ではないと思うわけです。

「体力・精神力の消耗や無理があっても、無料で奉仕するべきだ」という意見はあると思いますが、本業と無料奉仕を行って、無理を重ねた霊能者も日本にはいましたから、霊力だけでは実行不可能なことだと考えます。

さらに、スピリチュアル・ヒーラーとスピリチュアル・カウンセラーを兼ねて、さらに実際に医師であることが理想的であると思います。

そうなると、物理的医学治療と心身医学による治療、スピリチュアル・ヒーリングが行える病院というものが必要となります。
また、そのための資金が必要ということになるわけです。

イギリスではそうした治療院を建設するために資金を出してくれる人が多くいたわけですが、日本ではどうでしょう。
そうした人がいなければ、料金をとることも考えなければならないでしょう。

ホリスティック医学の病院でスピリチュアル・ヒーリングも取り入れてもらえれば一番よいのでしょうが、まだ無理なのでしょうね。

死を迎える準備をするところなどもこうした病院と一つになるといいと思います。

しかし、エドガー・ケイシーがリーディングを用いて、その処方を実施できる病院を建設しようとして失敗したという話を本で読みました。

物理的治療と精神のケア、霊的治療、死を迎える準備の場といったものを兼ね備えた病院というものはまだまだ実現不可能なのでしょうね。

 


0134 心霊治療
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月03日 (土) 15時10分57秒

僕は、心霊治療でお金を取って、それで生計を立ててももいいんじゃないかと思います。そういったことも、絵や音楽やスポーツのような才能の一つと考えられるんではないでしょうか。どんな才能でも自分一人の力ではないでしょうし、与えられたものは生かした方がよいと思うし、それが社会のためになるなら仕事として認められると思います。心霊治療だけがタダでなければいけないというのもおかしな話です。勿論、不当に高額な料金を取ってはいけないと思いますが、それはどんな仕事でも暴利をむさぼることはよくないわけですから、心霊治療に限ったことではないでしょう。要は、どんな才能を持って生まれても、傲慢になったり、欲深になってはいけないということでしょうね。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu

 


0133 その霊団が・・・
名前: ハナ  投稿日: 2001年11月03日 (土) 09時19分54秒

ずいぶん、前になってしまいましたが・・・
有希さん、いつもわかりやすいお返事ありがとうございました。

「スピリチュアルヒ−リングは霊界の医師がすることなので、ヒーラーは道具なのでお金をとってはならない。でも、献金があればありがたくいただく。しかし、それを生活費にあててはならない」というおおまかな要旨は賛成です。

それで、有希さんは実際に霊界の医師団と一緒に治療されているのでしょうか?それは彼らがそう言うのでしょうか?

私も最初、霊的治療を受ける前は「お金をとるのは邪道だ」と思っていました。でも、実際、自分が霊的真理を学んで、道具になってやってみて、そして後継者を育ててみて、(なんでもやってみないと気が済まないし、責任もった発言はできないと思ったので)その考えは変わってきました。

治療するにもスペースがいるし、その家賃は?
本を書くにも、その机は?
ネットで広告するにもそのパソコン代は?
そしてなによりも生きるための食事は?・・・・

霊団と人間も協力関係だと思っています。彼らが道具を生かし、手入れし、より磨かれた道具にするためには、多少投資をしなくてはいけないことは彼らも承知していますし、もし、そういった人間界の事情を無視して、「無料でやれ」というのなら、それは怪しい霊団(笑)だと思っています。

霊団の方でも、日本人の国民性や、歴史、法律、経済事情、などを考えているわけで、「より広く、より効果的に霊的真理を広めるにはどうしたらいいか。どうしたら大勢の魂を覚醒させることができるのか」「どうしたら後継者を育てることができるか」と思っているはずです。
そのために、「無料でやることの弊害」を省くこともあるのではないでしょうか。

私自身、もしも、自分が死んで肉体を失って、霊界の医師の霊団に加わったら、道具になってくれる人間を生かし、増やすために、一番いい方法を模索していくと思うのです。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


0132 偽のものは通用するのか?
名前: アラム  投稿日: 2001年11月02日 (金) 22時40分52秒

ポカQさん、こんにちは。

偽の最後の審判を演出して寝ているクリスチャンの霊を起こすということが可能かどうか疑問に思います。

まず、「幽界では思っていることが全て筒抜けになってしまうのかどうか」が問題になります。

『死後の世界』では、陸軍士官の霊が地獄について「一生懸命お互いに騙しッくらを試みる。そのくせお互いのはらは判りすぎるほど判り切っているのである。騙せないとしりつつ騙しにかかる」と述べています。
しかし、「胸底の秘密を我輩にさとらせなかった」とか「そこまで見抜く智慧がなく」と述べている箇所や自分のいる境涯よりも上の地獄の住人を騙しているところが出ていますから、全ての思いが相手に伝わるわけでもないのかもしれません。

『ジュリアの音信』では、「人間があけすけに見えることです。勿論、全ての者にその力があるとは申しません」と述べられています。

『新樹の通信』(潮文社)では、日本の神が一時、坊さんの姿や天使の姿に化けて指導しているのが出ています。
日蓮信者に対しては、坊さんの姿をして、「一生懸命に題目を唱えながら、日蓮聖人を目標として、精神の統一を図るように」仕向け
キリスト教徒に対しては、天使の姿をして、「自分はイエス様からいいつけられて、これから、そなたの指導に当たる」と言って、「心身の浄化」を「イエス・キリストの像に向かって、精神を集中させ、早く神の側に行けるようにと念じるという修行を命じています。
日蓮信者の場合には、法衣を着た坊さんが白装束の神の姿に急変し、キリスト教徒の場合には、天使が「実は自分は、イエスの使者でも何でもない」と言って、白い姿の六十ばかりの老人になったと出ています。

これからすると、仏教では方便と言いますが、指導霊がポカQさんの述べられたような手段を用いることは可能だということになります。

しかし、本人が「これは変だ。これは幻覚だ」と気が付くまでは、幻想の世界からは抜け出せないということですから、もし、偽の最後の審判で眠りから覚ましても、その審判の幻想の世界から抜け出すことはできないことになります。
霊的成長がないということではあまり違いがないことにはならないでしょうか?

 


0131 ポカQさん、ありがとうございます
名前: もりふみ  投稿日: 2001年11月02日 (金) 11時49分02秒

 「大躍進」の失敗、プロ文革、そしてチベット動乱によって多くの犠牲者が出たことを以ってポカQさんが毛沢東を虐殺者として認識されるに至ったこと、よく分かりました。ありがとうございました。

 私自身はマオイストでも何でもなく、特に毛沢東に肩入れするいわれは何もないのですが(むしろ、中国在住中に私が直接、間接に聞いた文革の10年の間の悲惨さと「大躍進」の馬鹿ばかしさに関するハナシから--かつて自分は紅衛兵だったという友人も何人かいます(笑)--、毛沢東に対しては批判的な視点を持っています。ハッキリ言えば、あれだけの偉業を成し遂げながら、晩節を汚してしまった人物だというふうに見ています)、しかし、チベット動乱も含めて、ポカQさんが仰るような「虐殺」だとは思いません、何故なら、毛沢東及び中共中央(当時の)は、ヒトラー及びナチのように人を殺すということを明確な動機としていたわけではないからです。誤解のないように申し上げますが、だからと言って私は毛沢東には罪はないと言うのではありません、贖っても贖いきれないほどの罪を犯したと思います。そして究極的に毛沢東にすべての責任は帰せられるべきことであることに間違いありません。でもそれは、上記の理由から「虐殺」というにはあたらないな、と思うのです。

 しかしながら、ポカQさんのような見方、考え方もあるのだということが分かって良かったと思います。ありがとうございました。

 皆様、申し訳ありませんでした。本論から外れた発言、御容赦下さい。では、subjectに戻りましょう。

 


0130 ポカQさんへ〜
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月02日 (金) 10時17分54秒

ポカQさん〜
>りゅうじんさんに一言お伝えしたいのですが、私の経験上この世の科学が未だ到達できない驚天動地の世界はあるということです。

僕も霊界があることは信じてはいますよ(笑)。ただ、自分が行ったことがあるわけではないし、この世では証明しようがないので、可能性として絶対とは言いきれないだけです。
科学は、人間が現在どこまで証明できたかということを明らかにしているだけのものですから、今わかっていることが全てなんて考えることは逆に科学的じゃないですよね。

>ですから自力でスピリチュアリズムに出会えることが出来たりゅうじんさんを私は少々羨ましいと思ってしまいます。

自分で思いついたわけではなくて、きっかけは高橋信次という人の本を読んだことだったんですけどね。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

 


0129 もりふみさんへ
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月02日 (金) 02時54分07秒

こんにちは、ポカQです。

もりふみさん〜
>毛沢東が虐殺行為を行ったという認識をポカQさんがお持ちになるに至ったのは
>私が知らなかったそういう史実があると思いますので・・・

もりふみさんが知らないかどうかは分かりませんが、
私の知っている範囲で毛沢東のことをお伝えしたいと思います。
(ペーパーバーチさん、掲示板の趣旨から外れてしまってすみません。)

1959年、毛沢東は大躍進政策を始めました。
このとき全国のの農村に土法炉を作らせて鉄を生産しようとしました。
しかし、この方法は前近代的なやり方なので出来上がった鉄は質が悪く使い物になりませんでした。
また、深耕密植も行いました。
これは、田んぼに隙間なくびっしりと苗を植えて収穫を増やそうというものです。
しかし、こんな自然の摂理に反したやり方で収穫が増えるわけがありません。
結局収穫は激減して、大躍進政策の期間で合計2000万人の餓死者が出たそうです。

ここで毛沢東が自らの失政の責任を取って、政治の表舞台から消えていれば
私も彼を虐殺者扱いはしません。

1966年彼は自らの権力の復権を目指して文化大革命を起こします。
紅衛兵を使って反対者に対して「革命精神が足りない」と証して拷問や処刑をしました。
死者は2600万人です。

自分の意にそぐわないものを処刑するのは虐殺とは言えないのでしょうか?
私はそういう行為は「虐殺」と言えると思います。
ヒトラーはホロコーストでユダヤ人を600万人虐殺したと言われていますから
数だけでいえば、毛沢東の方が虐殺者としての格は上ということになります。

付け加えれば、毛沢東が虐殺したのは自国民だけではありません。
他国民も虐殺しています。
1950年中国人民解放軍が毛沢東の命令を受けてチベットを侵略しました。
1951年にはチベットの外交権を奪い軍を進駐させました。
そして1959年チベットの首都ラサで民衆が最大のデモを行ったのをきっかけにして
チベット人に対しての大規模な弾圧と虐殺を始めました。
毛沢東の死後、現在に至るまでチベットへの虐殺と弾圧は続いています。
死者は合計で120万人とも言われています。(これはチベットの人口の5分の一だそうです。)

 


0128 りゅうじんさんヘ
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月02日 (金) 01時10分39秒

こんにちは、ポカQです。

りゅうじんさん〜
>僕の場合30過ぎまで唯物論者で、あの世を信じている奴なんておかしいと思っていました

私も27まで唯物論者で霊感は0です。宗教やってる人は危ない人だと思っていました。
その後色々な経験をして、現在はキリスト教の教会に通いながらスピリチュアリズムの勉強をしています。
りゅうじんさんに一言お伝えしたいのですが、私の経験上この世の科学が未だ到達できない驚天動地の世界はあるということです。

りゅうじんさん〜
自分はこの世で死んでも終わりではないと仮定した場合、・・・

私の場合はそういうことを考えつくような頭は持ち合わせていません。
ですから自力でスピリチュアリズムに出会えることが出来たりゅうじんさんを私は少々羨ましいと思ってしまいます。

 


0127 霊的覚醒
名前: アラム  投稿日: 2001年11月01日 (木) 23時05分59秒

「霊的覚醒」ということですが、これには人それぞれに様々な段階の「霊的覚醒」があるのではないでしょうか?

仏教でいう「悟り」と似たものではないでしょうか?

もりふみさん〜
>肉体的死後も霊としての生命は永遠に成長してゆく霊的世界があり、生命としての本質は霊的世界が主なのだという霊的本質を知ること

有希さん〜
>「今までの自分ではいけなかったんだ」ということに気がつき
霊的成長を求め始めた時

>「人間は物質だけの世界に生きているわけではなく、別の世界がある」ということを素直に受け入れることができた時

>本来の人間としての出発点

こうしたものは「霊的覚醒」の一つだと思います。

「霊的覚醒」とはあるきっかけによって本来の自分に気付き、それまでの自分とは価値観、考え方、生き方が変化することだと思います。

これには様々なものがあると思います。

それまで他の人を傷つけ、苦しめて何とも思わなかった人があるきっかけによって自分が間違ったことをしていたことに気付き、良心の痛みを感じるようになる。

それまで人と争うことに喜びを感じていた人が、争いに空しさを感じ、もっと良い生き方があるのではないかと模索するようになる。

「誰も自分の苦しみなど理解してくれない」、「こんな世界なんか消えてしまえばいい」と思っていた人が、「自分のことを温かく見守ってくれている存在がいる」、「この世界にも素晴らしいものがある」と気付き、もっと明るく生きようとするようになる。

「この世は全て金」と思っていた人が、「金よりもっと大切なものがある」と気付き、金儲けだけを目的とした生き方をやめるようになる。

これらはその例です。

りゅうじんさん〜
>真理にかなった行動ができる

>この世で自分がすべきことを霊的見地からも考え
>取り越し苦労、必要以上の欲に振り回されずに
>社会の一員としての役割を果たし
>人の気持ちを理解しながら
>のびのびと生きていけるようになる

こうしたことも「霊的覚醒」の一つです。

「霊的覚醒」は本来の自分、魂が目覚めることです。

他力信仰や他人を見下すようなことは本来の魂のありかたとはことなるものですから、「霊的覚醒」に至っていないことの証明です。

様々な段階での「霊的覚醒」がありますが、単に知ったというだけでは「霊的覚醒」ではないわけです。

また、霊的知識を知らなくても、「霊的覚醒」に至っていて、摂理に適った生き方が自然に出来る人もいるわけです。

 


0126 もりふみさんへ
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月01日 (木) 21時59分01秒

もりふみさん〜
>概念としての『霊的覚醒』とはナニかということ、その輪郭ぐらいは少なくとも自分の中では(こればかりは一人ひとりの中に各々が納得できる「定義」があってもいいかな)位置付けて咀嚼しておきたいと考えるのです。

僕の場合は30過ぎまで唯物論者で、あの世を信じてる奴なんておかしいと思っていましたから、「あの世がある」と仮定した方がつじつまが合うなと気づいた時が覚醒でしょうか(笑)。まあ、未だに理屈でそうだろうと考えているだけで、霊感のようなものは皆無ですから、本当のところは死んでみなけりゃわからないと思っています。こんなのは覚醒ではないかもしれませんね(笑)。

僕にとっては、自分はこの世で死んでも終わりではないと仮定した場合、今、どう考え、どう生きるかしか重要ではないので、霊界の仕組みなんかはあまり興味がないんです。別にシルバー・バーチを鵜呑みにするつもりもないし。霊的なことはただ信じてすむものではないと思うので、人にすすめるつもりもありませんが、この世の矛盾に苦しんでいる人の中で、僕のように考えを変えることで楽になれる人がいたら一応伝えてあげたいとは思っています。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

 


0125 Re:質問です。
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月01日 (木) 16時42分50秒

有希さん〜
>> あの世に頼ったり・・・
>> この世をまともに生きられなくなる
>というのは?

霊的なことを受け入れた途端に、霊界無くしては生きていけなくなるような人もいるんじゃないかと思うんです。下手をすると他力信仰になってしまうような。また、自分が霊的覚醒をしたと思うことによって、他人より優れていると考えるとすれば、大きな落とし穴だと思います。

僕は霊的なことを知る意味は、この世で自分がすべきことを霊的見地からも考え、取り越し苦労や、必要以上の欲に振り回されずに、社会の一員として役割を果たし、人の気持ちも理解しながら、のびのびと生きていけるようになることにあると思っているので、霊的なことを知ってもそれができなければ駄目だと思うんですね。逆に霊界など否定している人でも、そういう生き方ができるのなら問題はないと思うわけです。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

 


0124 有希さんへ
名前: もりふみ  投稿日: 2001年11月01日 (木) 15時40分29秒

 有希さん、御本人のみならずお友達のお話も御紹介頂いてありがとうございます。とても参考になりました。
 そうですよね、人それぞれにきっと『覚醒』の瞬間はあるのでしょうね。

>そのときに電気で撃たれたような衝撃を感じ

たり、

>スト〜ンと腑に落ちた

ことがあるんですよね、たぶん。その時に、ああ、これが『覚醒』だという自覚はなくとも、アトからそれと気づく、やはりそんな類の内的経験、ということなんでしょうね。そう言えば、世に流布している『マグダラのマリア』像も、そんな内的経験をした女性という捉え方をされているのかもしれませんね。

 


0123 りゅうじんさんへ
名前: もりふみ  投稿日: 2001年11月01日 (木) 15時17分58秒

 りゅうじんさん、レスありがとうございます。

>この世でどう生きるか、何をするかだと思います。

 確かにその通りですよね、究極的には(そして一般論的にも)。でも、スピリチュアリズム的な観点を持つことによって、はじめて上記のりゅうじんさんのコメントにあるような問題意識を持つことが出来るようになった私のような者にとっては、そこから先が問題になるわけです。そのための指針としての『霊的覚醒』の位置付けの仕方というか理解の仕方がピンとこないのです。そして、『霊的覚醒』という概念は、

>霊的覚醒をしたとしても、あの世に頼ったり、自分は偉いと思ったり、この 世をまともに生きられなくなるようでは・・・、(略)

とりゅうじんさんが仰る際の条件節『霊的覚醒をしたとしても』が矛盾なく以下の主節に導かれるというコンテクストの中で使われるような概念ではないというふうに私としては捉えていました(非常にややこしい左脳的な-あるいは最近ハヤリの男脳的なと言うべきか-言い方になって恐縮です)。つまり、『霊的覚醒』とは、まさしく主節の『・・・・なるようでは』ない生き方をもたらす契機になるところのナニカ(経験、自覚、他)であろうというふうに思うわけです。しかし、りゅうじんさん的にはそんな対立概念として捉えるのではなく、むしろ霊的覚醒なんてコトにこだわる必要はない、要は単純に『どう生きるか、何をするか』だということですよね。じつは私もそういうことだよなぁ、とは思っていますが、でもやはり、概念としての『霊的覚醒』とはナニかということ、その輪郭ぐらいは少なくとも自分の中では(こればかりは一人ひとりの中に各々が納得できる「定義」があってもいいかな)位置付けて咀嚼しておきたいと考えるのです。コレが出来ないとスピリチュアリズム的な考え方について、人に語ることはとても難しいだろうなぁとも感じています。

 


0122 質問です
名前: 有希  投稿日: 2001年11月01日 (木) 11時46分46秒

りゅうじんさんに質問です。

> あの世に頼ったり・・・
> この世をまともに生きられなくなる

というのは?

 


0121 霊的覚醒
名前: 有希  投稿日: 2001年11月01日 (木) 11時42分43秒

もりふみさん wrote:
>  自分としては、スピリチュアリズムの考え方に接することによって、肉体的死後も霊としての命は永遠に成長
> してゆく霊的世界があり、むしろ生命としての本質は霊的生活が主なのだという「霊的本質」を知ることが覚醒
> であるという具合いに納得して自分としては覚醒しているんだと思いたいのですが、

私はもりふみさんのおっしゃる通りだと思います。

> 等々をはじめとして様々な文脈の中で使われている「霊的覚醒」の定義は何だろうか、ということです。

私なりにですが、この定義を考えてみました。
自分が霊的覚醒をした時というのはなかなか自覚が持てないし、今になってみれば、あの頃かもしれない・・・と思うぐらいです。
友人たちに関して言えば、ある時を境に徐々に変わり始めた時というのがわかります。

私の場合はどうだったかと言うと、それまで普遍的な何かを求めてはいたものの、それが何か分からなかったし、誰に聞いたらいいのかもわかりませんでした。そんな時にある人から聖書を紹介されて、電気で撃たれたような衝撃を感じました。
特に『人はパンだけで生きるものではなく、神の言葉の一つ一つによって生きるものである』という言葉がスト〜ンと腑に落ちたと言うか、自分の中の空白だった部分にスッポリはまったと言うか、とりあえず「そうなんだ〜!!」と心の底から納得がいきました。それから自分を変えたいという気持ちが強くなって、むさぼるようにいろいろな本を読みました。

友人の場合は、子供の育て方で悩んでいました。そんな時、『子供をどう育てるかではなく、善い親になることが子供の一番の幸せ』という言葉に出会って、それから自分を変える方に心を切り替えることができたと言っていました。その友人の子供たちは、おおらかでとても豊かな情のある子に育ちました。

別の友人は、「自分はこれだけ姑と舅のことで悩んでいるのに、夫はも助けてくれないし、分かってもくれない」といつも嘆いていました。でも、シルバーバーチと出会って、「これは自分が変われるチャンスだったんだ」と気がついてからはどんどん考えが変わっていき、まだまだ不満はあるにせよ、人が学べないことを自分は学んでいるんだということで、彼女の中で何かがどんどん変わりつつあるのを感じています。

つまり、『霊的覚醒』というのは、「今までの自分ではいけなかったんだ」ということに気がつき、霊的な成長を求め始めた時じゃないかと思うんです。つまり、『本来あるべき人間として生き始めた時』とでも言えばいいでしょうか。

別の見方をすれば、『人間は物質だけの世界に生きているわけではなく、別の世界がある、ということを素直に受け入れることができた時』ということが言えるのかもしれません。スピリチュアル・ヒーリングの目的はここだと思うのですが。これはもりふみさんがおっしゃっていることそのままになると思います。

> そんなふうに考えるのはどうも何だか非常におこがましいような気がして落ち着かないのです。

そのお気持ち、よくわかります。
私は別の部分での「おこがましい」という思いを持っています。
はたして自分は本当に成長しているのだろうか・・・という部分です。
ある人から「有希さんはまた一歩成長したね」と言われたことがあって、その時、とても恥ずかしくなった時がありました。人の成長はよく見えるのに、いざ自分は成長しているかどうかと考えた時、確かに以前よりは成長しているとは思うけれど、すごく成長しているとはとてもおこがましくて言えませんものね。だって、まだまだ未熟なところばかりだし、頭でっかちだし、行動なんて口で言っていることの100分の1もできないんですから。

ということで、私は『霊的覚醒』は本来の人間としての出発点だと思うのです。
大切なのは、覚醒した後で、どれだけ成長できるか、どれだけ神と霊界と人の役に立つ人間になれるか、だと思っています。
だって、覚醒はしたものの、また元の物質中心の生活に戻ってしまったら、意味がないですもんね。

 


0120 ポカQさん、失礼しました
名前: もりふみ  投稿日: 2001年11月01日 (木) 09時52分37秒

 ハンドル名を間違えてしまって大変失礼致しました、お詫び申し上げます。今後ともよろしくお願いします。

 私も本掲示板の趣旨から外れたことで発言するのは本意ではありませんが、ただ、毛沢東が虐殺行為を行なったという認識をポカQさんがお持ちになるに至ったのは、私が知らなかったそういう史実があるのだと思いますので、それを教えて頂ければ有り難いと思います。私も認識をあらためたいと思いますので、よろしくお願いします。

 


0119 無理やり起こしちゃいけないのか?
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月01日 (木) 02時00分01秒

こんにちは、ポカQです。

アラムさん、有難うございます。
>人々のために尽くした人は、死後の調整期間を終わらせると、そこに何時までもとどまっていないで
>すぐに人のための仕事を始めようとするでしょう。
>何もしないでいるという事を何時までも続ける事が出来ないからです。

特にこの部分は参考になりました。
ところで、アラムさんの意見を読んで
また一つ疑問が湧いたのでお聞き致します。

>ただ待つだけでなく「審判の合図」までずっと眠り続けている霊もいるらしいです。

とあるのですが、例えば幽界の”どら”みたいな物でも鳴らして、
偽の「審判の合図」を作り出し、無理やり霊を起こして強引に冥府へ連れて行く
と言うことは出来ないのでしょうか?
曲がりなりにも幽界までたどり着ければ、もう戻ろうとする霊はいないはずですから。

「馬鹿なことを言い出してる」と思うかもしれませんが、以前漫画で死んだ事が自覚できない霊を
あの手この手を使って周りの霊たちが霊界へ連れ出そうとするのを読んだことがあるので、
何となく気になるのですがどうなのでしょうか?

(蛇足)もりふみさん、こんにちは。
>毛沢東をヒトラーやポルポトと同列にするのは可哀相だと思いますよ。

この事に関しては私なりの見解がありますが、この掲示板の趣旨から外れたものになりますので
私の意見を述べるのは控えさせていただきます。

ちなみに(蛇足2)
私のハンドルは「ボカQ」ではなく「ポカQ」です、あしからず。

 


0118 霊的覚醒
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月01日 (木) 00時20分29秒

もりふみさん〜
> 私は、すくなくとも自信を以って霊的覚醒はしていると自覚できればいいなぁとは思うのですが、おこがましくて、とても出来ないのです。だから、いったい何を以って霊的覚醒と言えるのかを知りたいと思うのです。

お気持ちよくわかるつもりです。霊的覚醒の定義が何かははっきりしませんが、本当に大事なのは、霊的覚醒をした、あの世の存在を信じた、人間はこの世限りのものではないと思った、と考えることではなく、だったら、この世でどう生きるか、何をするかだと思います。真理にかなった行動ができるなら、霊的覚醒などしなくてもいいし、霊的覚醒をしたとしても、あの世に頼ったり、自分は偉いと思ったり、この世をまともに生きられなくなるようでは人間として進歩はないと思います。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

 


0117 間違った死の教えのために成長できない霊
名前: アラム  投稿日: 2001年10月31日 (水) 23時18分50秒

ポカQさん、こんにちは。

墓地で暮らしているクリスチャンの霊というのは、キリスト教の教義を信じているためにではなくて、「復活」の教義を信じているために魂の進化が阻害されている霊です。

「最後の審判がやってきて、その時に肉体を持って復活する」と固く信じているので、肉体が滅びて、霊体としての復活をとげ、霊の世界へ入ったのだということが理解できないのです。

「最後の審判はいつ来るのだろうか。その時に救われて、素晴らしい世界で暮らせるのに」と何時までも何もしないで待っているだけなのです。
これでは霊としての成長はもたらされることはあり得ません。

ただ待つだけではなく、「審判の合図があるまで」とずっと眠り続けている霊もいるらしいです。せっかく指導霊が訪れても、「審判の合図はなりましたか?」と尋ねて、「なっていませんよ」という言葉を聞くと、また眠りに入ってしまうということもあるらしいです。

人々のために尽くした人の場合は、死後の調整の期間を終わらせると、そこにいつまでも止まっていないで、すぐに他の人のための仕事を始めようとするでしょう。
何もしないでいるということを何時までも続けることが出来ないからです。

似たようなことは浄土信仰者にもあると思います。
死後も念仏を唱えていて、指導霊が訪れても、「あなたは阿弥陀如来ですか?」、「阿弥陀如来のお使いですか」と尋ねて、「いいえ違います」という返事を聞くと、また何時までも念仏を唱え続けるというようなことがあるのではないでしょうか?
これは「阿弥陀如来がお迎えに来て、浄土に入ることができる」と信じていた人に阿弥陀如来が迎えに来なかった場合、こうなるのではないかという話ですが、クリスチャンの「復活」信仰者の場合も似たようなものだと思います。

さらに、唯物論信者の場合にも似たことが起こると思います。
生前、「死後の世界はない」、「霊など存在しない」と強く信じていた人が、霊となって霊界にきても、「こんなことはあり得ない」と強く否定して、深い眠りに入ってしまうということもあると思います。

これらは地上において信じた死に対する知識が間違いだったということによるものです。

 


0116 霊的覚醒
名前: もりふみ  投稿日: 2001年10月31日 (水) 10時57分06秒

 こんにちは、もりふみです。初めてこちらの掲示板に書き込ませていただきます。スピリチュアルヒーリングについての様々な角度からの皆さんの示唆に富んだ興味深いdiscussionはとても刺戟を与えてくれていますね。

 そんな皆さんに、私が隔靴掻痒の感とともに、なんだかモヤモヤっとして明確に理解し得ないでいる概念についてお考えを伺えれば、と思います。それは即ち、例えば、

アラムさん:

>病気が治らなくても霊的覚醒がもたらされるということはあるわけです。

有希さん:

>ヒーラーの方のこぼれ話によると、魂が覚醒された人が治療を受けると悪い結果が出ることがある、とも言っていました。

 等々をはじめとして様々な文脈の中で使われている「霊的覚醒」の定義は何だろうか、ということです。

 自分としては、スピリチュアリズムの考え方に接することによって、肉体的死後も霊としての命は永遠に成長してゆく霊的世界があり、むしろ生命としての本質は霊的生活が主なのだという「霊的本質」を知ることが覚醒であるという具合いに納得して自分としては覚醒しているんだと思いたいのですが、そんなふうに考えるのはどうも何だか非常におこがましいような気がして落ち着かないのです。それは、やはり私は決してペーパーバーチさんやアラムさんほど博覧強記的勉強をしているわけでもなく、また有希さんのように色々な体験を通してスピリチュアリズムを実生活の座標軸としてその実践をモチベーションにされるほどには深く自分の中に根を下ろしていないということを痛切に思うからなのでありますが、とにかく、端的に、オレは霊的に覚醒していると思う、と自覚できるかできないか(そんなことを外に向かって宣言するような真のスピリチュアリストはいないと思いますので、なかなか訊きにくいですよね)は大きな違いだと思います。

 私は、すくなくとも自信を以って霊的覚醒はしていると自覚できればいいなぁとは思うのですが、おこがましくて、とても出来ないのです。だから、いったい何を以って霊的覚醒と言えるのかを知りたいと思うのです。それとも、それは覚醒して初めて分かるというような逆説的な理解の仕方をするしかないのでしょうか・・・?

(蛇足)ボカQさんへ:

 >逆に毛沢東のように多くの人を虐殺し苦しめた人物であっても・・・

 というフレーズがありましたが、たしかに毛沢東は自らが発動した権力闘争 であるところのプロ文革期においてとても多くの人々を結果的に苦しめはし ましたが、「虐殺」と言われるような行為はしていないと思います。毛沢東 に対する評価は、立場によって大きく分かれるとは思いますが、少なくとも ヒトラーやポルポト、秦始皇などと同じレッテルを貼るのは、いくら何でも 可哀相だと思いますよ。

 


0115 墓地で暮らすクリスチャンの霊
名前: ポカQ  投稿日: 2001年10月31日 (水) 02時25分29秒

こんにちは、ポカQです。

「スピリチュアリズム入門」を一通り読み終えました。
いくつか疑問点があるので皆さんにお聞きしたいと思います。

106p「”最後の審判日”を待ちながら、死体の埋葬されている墓地で暮らしているクリスチャンの霊がいるというのは、事実その通りです。
(中略)・・死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つもの、という信念を、全生涯をかけて作り上げてきているわけですから、その信念が崩れない限り、いつまでもその牢獄から抜け出られないのです。」

こう書かれているのですが、どうも納得いかないのです。
例えばマザーテレサの様に人々のために尽くした人物であっても、キリスト教の教義を信じつづけているため
いわゆる自縛霊のようなものになってしまい、
逆に毛沢東のように多くの人を虐殺し苦しめた人物であっても、キリスト教と触れ合うことなくいたため
死後の世界に順応できて魂を成長させることができる。

ということが実際に霊界で起こっているのでしょうか?

そんなの理不尽に思えて仕方ないのですが・・・

 


0114 ヒーリング
名前: 有希  投稿日: 2001年10月30日 (火) 22時40分59秒

アラムさん wrote:
> 霊的覚醒には至らなくても、その病気による苦しみによって学ぶべき時期が終わっていた場合には病気の治癒が
> 起こることはありますし、病気による苦しみが必要とされている時期には病気が治らないということがあります。

> 病気が治らなくても霊的覚醒がもたらされるということはあるわけです。

> 病気を治してもらっても本人の魂が資格を得ていなかったためにまた同じ病気になるということもあるかもしれ
> ませんが、別の病気になって別の苦しみを受けるということの方が多いのではないでしょうか?
> 魂にその資格がないため、カルマによって病気が治らないという場合の方がさらに多いと思いますが。

3人で話していると、その場ではなかなかすっきりとした言葉が出てこないことがあります。
後で読み返してみて、それからまた考えてみてわかることもたくさんあります。
アラムさんが書いてくださった上記の内容は、後でシルバーバーチを読み返してみたら、同じような箇所がありましたし、なるほど、と思った次第です。
アラムさん、さすがです (^・^)

> 私がスピリチュアル・ヒーリングの治癒例ですごいと思ったのは、真実の自分に目覚めることが出来たというも
> のです。
> こうした精神の治癒がもたらされることや人が良い方向に変わるということは、スピリチュアル・ヒーリングの
> 効果があったといえるのではないでしょうか?

ええ、私もこれはすごいと思いました。
この治療例はハリー・エドワーズのものですよね。

> 頼るのはたしかにだめだとは思うのですが、スピリチュアリズムを実践している人は別にして、スピリチュアリ
> ズムを知っている人にとっては実際に霊力を体験するということでは意味はあるのではないでしょうか?

霊力を体験することはいいことだと思います。自分が受けてみてもいいし、治療している現場を見てもいいし。
ただ、ヒーラーの方のこぼれ話によると、魂が覚醒された人が治療を受けると悪い結果が出ることがある、とも言っていました。単に好転反応なのかもしれないですけど。
でも、見てやろうとかいう、霊を試す不純な気持ちがあるとよくないと思います。

話は変わりまして、「ヒーラーとお金」のところでの私の発言ですが、後でいろいろ考えてみて、献金について考えていなかったことに気がつきました。
ヒーラーが治療代を要求してはいけないと思うけど、治療を受けた人が感謝の思いで献金したいというのであれば、それは受けてもいいのではないかと思いました。献金は、それはそれでその人の感謝の表し方ですものね。素直に受けた方がいいかなと思いました。それに、アラムさんのおっしゃったように、治療するための場所とか通信費、交通費など、現実にいろいろ必要なわけですから、そういうことに使うのであれば、多少の献金を頂くことはいいことだと思います。ただし、そのお金を生活費に充ててはいけないと思いますが。

 


0113 ヒーリングの効果
名前: アラム  投稿日: 2001年10月30日 (火) 21時58分57秒

有希さん〜
>霊的覚醒こそがスピリチュアル・ヒーリングの真価だから、もし病気を治してもらっても覚醒しない場合はどうなるんでしょう。もし覚醒しきらずにまたこの世の物質的な事を選んだとしたら。それはそれで一つの道なのかしら。
ペーパーバーチさん〜
>まだそこ(病気が治るところ)まで来ていなかったということでしかないんでしょうね
長田さん〜
>結局また病気になっちゃうんだろうか?
ペーパーバーチさん〜
>判ってなければなってしまうでしょうね

この部分は少し奇妙に感じました。

この場合は、病気が治るところまで来ていなかったということではなくて霊的覚醒に至るところまで来ていなかったということではないでしょうか?

霊的覚醒には至らなくても、その病気による苦しみによって学ぶべき時期が終わっていた場合には病気の治癒が起こることはありますし、病気による苦しみが必要とされている時期には病気が治らないということがあります。

「患者がヒーリングをきっかけにして霊的世界に目覚めるならば、それはヒーラーにとって何より喜ばしい出来事であり、そのヒーリングは成功したと言えます。たとえ病気が治らなかったとしても、ヒーリングの目的は成し遂げられたことになるのです」
「その反対に、病気が奇跡的に癒されたとしても、患者の内面に何の変化も生じない場合には、そのヒーリングは失敗ということになります」(P5)

「もしあなたの治療によって患者の病気が治ったとしても、患者の心にプラスの変化がなかったとしたら、その心霊治療は失敗です。逆にもし外見上病気が治らなかったとしても、患者の心にプラスの変化があったとしたら、その心霊治療は成功したと言えるのです」(『シルバーバーチの霊訓』)

病気が治らなくても霊的覚醒がもたらされるということはあるわけです。

病気を治してもらっても本人の魂が資格を得ていなかったためにまた同じ病気になるということもあるかもしれませんが、別の病気になって別の苦しみを受けるということの方が多いのではないでしょうか?
魂にその資格がないため、カルマによって病気が治らないという場合の方がさらに多いと思いますが。

問題なのはせっかく霊力によって病気の治癒がもたらされても、「これは信仰によってだ」とか「これは魔術によってだ」とか思い込んだ場合だと思います。

また、良い霊的な刺激を与える、魂の不健康な状態を癒すという場合もあると思います。
「スピリチュアル・ヒーリングによって、患者の霊体と魂には大きなプラスの影響力が及んでいるからです」

私がスピリチュアル・ヒーリングの治癒例ですごいと思ったのは、真実の自分に目覚めることが出来たというものです。
向こう意気の強かったのが控えめになり、乱暴だったのが穏やかになり、カッとなりやすかったのが冷静沈着になる。
残酷で悪辣な性質を示す人が自分の堕落に気付く。
酒に溺れていた人が飲酒の習慣がなくなる。
薬物中毒者の状態が好転する。
欲求不満が沈静する。
発達の遅れた子が責任感を燃え立たせるようになり、善悪の判断を持つようになる。
こうした精神の治癒がもたらされることや人が良い方向に変わるということは、スピリチュアル・ヒーリングの効果があったといえるのではないでしょうか?

それから、
ペーパーバーチさん〜
>霊的治療というのは霊的なことに目覚めるためにあるのであって、すでにスピリチュアリズムを知っている人が頼るようではダメですよね
とのことですが、頼るのはたしかにだめだとは思うのですが、スピリチュアリズムを実践している人は別にして、スピリチュアリズムを知っている人にとっては実際に霊力を体験するということでは意味はあるのではないでしょうか?

本当は霊主肉従の状態の継続と利他愛の実践によって、瞑想・祈りを通じて霊力を実感するべきなのでしょうが、そこまでいっていない人にとって、霊的な治癒力に触れるということはその人の霊体や魂によい影響を与えることにはならないでしょうか。

 


0112 ヒーラーとお金
名前: 有希  投稿日: 2001年10月28日 (日) 23時52分45秒

アラムさんとハナさんのおっしゃることはとても良くわかりました。
一理あると思います。

心霊治療といってもいろいろな方法があると思います。
純粋に霊界の医者の媒介として行う「スピリチュアル・ヒーリング」をはじめとして、自分の能力を使う「気功治療」「磁気治療」「宇宙力治療」、自分の生体エネルギーを使って行うもの、サイキック的なもの、某宗教団体系列によるもの等々、名前をつけたらいろいろ出てくると思います。

私が勉強会の中で「お金を取ってはいけない」と言ったのは、「スピリチュアル・ヒーリング」に関してです。
それ以外の治療は治療師みずからの訓練とか努力によって、治療師の力で治すものだと聞いていますが、「スピリチュアル・ヒーリング」はヒーラー自身の力ではありません。ヒーラーは単なる媒介であって、純粋に霊界の道具になることによって治療が行われるというものですから、患者の病気を治しているのはヒーラーではなく、霊界の医師団だということになります。

そうなると、自分が治しているわけではないのにお金を取るとしたら、そのヒーラーは霊界の純粋な道具ではないということになります。
治療が自分の能力のおかげで行われていると自負しているのなら、それは治療家であって、スピリチュアル・ヒーラーではないことになります。治療家ならその能力に見合った金額を提示することができると思いますが、ヒーラーは「治療は霊界の医師団が行っているものであって、自分が行っているのではない」とわかっていますから、それでお金が頂けるでしょうか。
自分は単なる媒介だという自覚があるなら、お金を取ってくださいと言われても、取れないはずです。
もし頂いたら、罪悪感を感じるはずですから。

アラムさん wrote:
> 遠隔治療ならよいのですが、病気の人に対して直接治療をしようとすると、多くの人を治療しようとするほど、時間を取られるようになりますし、治療のための場所も必要となります。
> そうすると、本業で収入を確保するということが困難になり、また、治療の場を確保・維持するためにお金が必要になるという事もあるのではないでしょうか?

現実問題としてはそういうことも出てくると思います。
でも、それは取り越し苦労の部類に入りませんか。
実際には霊界がうまく取り計らってくれますから、何の心配も要らないと思います。

ハナさん wrote:
> それから、霊的治療が、病気を治すことではなく、「魂の進化」を目的とするなら、無料でやることがいいのかどうか。

目的としているのは「魂の進化」ではなく「魂の覚醒」です。でも、それも魂が覚醒する人だけを狙ってするわけではないはずです。道具に撤するなら、ある程度の線は引けても、自分で患者を選ぶことはできないはずですから。

本来、魂の進化は覚醒することによって霊的真理を求め、自分の意志と霊界の援助のおかげで現実の状況を経る中で成されていくものです。それに、成長するのはお金によるものではなく、体験の中から自分がつかみ取っていくものですから、無料以外は考えられません。

たとえばシルバーバーチを読んだとしても、ただ読むだけでその真意をわかろうとせず、いつまでも物質的観点でしか見ない人も多いし、それ以上に読み物として読むだけで、次から次へと新しいものを探して読む、という人もたくさんいます。そういう人はいくらお金を積んでも覚醒しないし、よほど苦しいことを乗り越えないかぎり成長も微々たるものでしょう。

実際に真理を手にしてもそうなら、ヒーリングならなおさら覚醒する率は少ないと思います。
それだけ人間は目覚めにくいし、利己性が強いという証拠です。
逆を言えば、覚醒して成長する人はすごい!! ということですけど。

> 無料なんだから私にどんどんやってくれ!とにかく病気を治してくれ!と汚い気持にならないでしょうか?

そういう人はとても多いと思います。
ほとんどの善意の治療家が悩むのはこのことだと思います。
でも、それは治療を受ける人の利己性の問題であって、治療家の問題ではないと思います。

>「ヒーリング」を売り物とする業界もありますから、それとの区別がついていない人も多いかもしれません。

結局はこういうことなんですよね。

 


0111 聖書について
名前: アラム  投稿日: 2001年10月28日 (日) 20時53分03秒

ハナさん、こんにちは。

「聖書が純粋に霊感で書かれたものではない」というのは、まずペテロが教団を作り出そうとした頃からイエス・キリストの説かれたものとずれてきはじめましたし、それにパウロが自分の解釈を入れたところからさらに変化しました。

しかし、その時点ではまだ修正不可能というものではなかったと思います。
これが、口伝から書き記されるものに変えられたときに記録者が別の当時にあった伝説を取り入れたり、自分の解釈を付け加えたりして別のものと変わりました。

さらに決定的となったのが三二五年の二ケーア会議。
ローマの唯一の宗教とするために「イエスが神である」として、そのために必要と思われる幾つもの伝説を付け加えました。

私はさらにこのとき、「キリスト教」という国を統率するための手段としての宗教とするために、再生について説かれた部分など本来の霊的な教えの大部分を削除したのではないかと思っています。

再生についてもそれらしいことを説いたわずかな部分が現在の聖書にも残っています。

シルバーバーチが聖書が正しいものではないと説いている箇所が
「あなた方がバイブルと呼んでいるのものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております」(『シルバーバーチは語る』 P341)
「イエス曰く・・・・・・と書いてあっても、実際にそういったかどうかは、書いた本人も確かではなかったのです」
「バイブルに出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません」(同書 P342)
「そのうちの多くは後世の者が書き加えたものなのです」(同書 P361)
など多くあります。

さらに、各種の霊界通信で「イエスが述べられた」として引用されているのに、現在の聖書に出ていない言葉があることからも、霊界にあるはずの原典に記されていて、聖書から削除されたものもあるのだと推察できます。

ですから、弟子の解釈の誤り、記憶間違い、口伝の間に内容が変化したもの、後世に書き加えられたもの、削除されたものなどがありますから、「聖書は純粋なものではない」ということになるわけです。

これについてはM・H・テスター著 『現代人の処方箋』(潮文社) 五章も参考になると思います。

ところで、イエス・キリストが救済の手を伸ばすために地獄に赴いた話が聖書にあると書いてあったものがありましたが、現在の聖書にそれらしいものが見当たらないのですが、もし何かご存知でしたら教えてください。

 


0110 ヒーラーとお金
名前: ハナ  投稿日: 2001年10月28日 (日) 09時08分26秒

アラムさん、こんにちは。返事が遅くなってごめんなさい。

ええとまず聖書は純粋に霊感で書かれたものではないというのは、パウロが「教会」づくりに専念しはじめてから、なんとなくその意図を感じるのです。イエスはひとりひとりに神性があることを説いたわけで、教会という建物や集団を生み出そうとしていたわけではないので・・・。でも、これは個人的なものです。

それから、霊団の長はイエスだと思いますし、ヒーラー(霊的治療家)であればイエスの言うことを聞くことは当然だと思います。

それからお金をとる件ですが・・・とてもアラムさんの言葉に納得しました。

これは私はOLで、今のところ生活に困らないので、無料で
友人や同僚に霊的治療をすることがありますが、これは例外で、お金をいただくことは当然だと思っています。

本来なら欧米のように教会文化が根付いていれば、「寄付」で生活できるかもしれませんが・・・・

それから、普通に考えても、会社で働いた分の時間と労力に対して、賃金が支払われなかったら怒るように、霊的治療も労働のひとつだと思います。浄霊をするわけですから、その労力と時間は大変なものです。

また、無料だと、治療する側にもプロ意識がうすくなって甘えが出てしまいます。

それから、霊的治療が、病気を治すことではなく、「魂の進化」を目的とするなら、無料でやることがいいのかどうか。
無料なんだから私にどんどんやってくれ!とにかく病気を治してくれ!と汚い気持にならないでしょうか?
それはドクターフリッツに治療を受けて治っても、霊的真理に目覚める人が少ないのでもわかります。

お金の件は、とにかく自分が霊的治療をしてみて、無料がいいかどうか判断すべきだと思います。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


0109 只今、読んでます。
名前: ポカQ  投稿日: 2001年10月26日 (金) 01時02分43秒

アラムさん、有難うございます。

注文した本が届きました。
只今、「スピリチュア入門」から読み始めています。
分からない所があったら質問しようと思ってますので、そのときは皆さんよろしくお願いします。

 


0107 ニューエイジ
名前: アラム  投稿日: 2001年10月23日 (火) 23時48分01秒

ポカQさん、ニューエイジとはニューエイジ・ムーブメントのことで、アメリカを中心として1960年以降、70年代後半から80年代後半にかけて特に盛り上がりを見せた霊性復興運動です。

ニューエイジでは従来のキリスト教的世界観や人生観はオールドエイジのものとみなされますので、キリスト教からは好ましくないものとみなされます。

ニューエイジは古代インド思想やヨガ、各種瞑想法、日本の禅、中国のタオなどの東洋思想や神秘主義などを取り入れたスピリチュアルな運動に加え、ニューサイエンスやホリスティック・ヘルス、トランス・パーソナル心理学、潜在能力開発運動、ニューエイジ形而上学、ヒーリング、エコロジー思想など様々な分野にわたる精神革命的な運動を含んだものの総称です。
この中に占星術、超古代文明、UFO,宇宙人なども含まれています。

問題のあるものとしては「サイケデリック」や「フリーセックス」などもニューエイジに含まれています。

「これまでのオールドエイジからニューエイジに移行しなければならない。その新時代を生み出すものこそがこのニューエイジ・ムーブメントである」とニューエイジの信奉者は主張しているわけです。
ニューエイジにとってはキリスト教だけではなく、仏教やイスラム教などもオールドエイジのものとみなされます。
また、スピリチュアリズムをも過去のものとみなされます。

ニューエイジの中で霊的なものとしては「リーディング」や「チャネリング」があります。

スピリチュアリズムからみると、ニューエイジは「霊的真理の普及・拡大化」、「人類を精神的レベルから霊的レベルに至らせる」ということを目的とした精神覚醒運動であり、純粋に霊的分野に属しているものは「チャネリング」のみであるとされます。

その「チャネリング」も地上の人間にとって耳ざわりの良いものだけにするという人間の編集や価値のない低級霊からのものを混入したままにしてあるといった純度の点で大きな問題があるものとなっています。
チャネラーの数は多いですが、質が伴っていません。
お金儲けと結びついてしまうことも多いです。

確かなチャネリングと認められているものには「セス」、「ラザリス」などがあります。

ニューエイジでは低級霊の存在を認めていません。
全てはよいものであり、人生は楽しむべきものとしています。

啓蒙・普及活動として頻繁にセミナーやワークショップが開かれますが、参加費などがかかることになっています。

ニューエイジでは「自分を愛し、自分を許し、自分を癒す」ということが強調されています。
スピリチュアリズムで中心的に説かれる「自己犠牲」がほとんど説かれません。

ニューエイジでは人生における苦しみの意義や必要性が全く説かれていません。
ただ明るさを強調した人間主義的・人道主義的傾向や地上人生中心的傾向が強いものとなっています。

ニューエイジもスピリチュアリズムの働きかけの表れの一つです。しかし、その信奉者であるニューエイジャーの多くがその根源にある霊界からの働きかけについて理解していません。

これらがスピリチュアリズムから見たニューエイジの問題点です。
(以上、スピリチュアリズム・ニューズレター第2号
    『続スピリチュアリズム入門』 第一部 第十章  参照)

 


0106 ニューエイジって何ですか?
名前: ポカQ  投稿日: 2001年10月23日 (火) 00時33分54秒

こんにちは、ポカQです。
質問があるのですが、ニューエイジって何ですか?
キリスト教やスピリチュアリズムにかかわるようになってから耳にするようになったのですが、よく意味が分かりません。

教会の人にも一度聞いた事があります。
その人は、機動戦士ガンダムにニューエイジの思想が入っている、と言ってガンダムを例に出して説明してくれたのですが、ガンダムを見たことがない私にはよく理解できませんでした。
ただ、その人はニューエイジに対してあまり良い評価はしていないことは分かりました。

キリスト教にとってニューエイジはあまり好ましくないものなのでしょうか?また、スピリチュアリズムとニューエイジとの関係はどういうものなのでしょうか?
わかる方がいたら、教えて下さい。

 


0105 ヒーラーとお金
名前: アラム  投稿日: 2001年10月21日 (日) 22時04分29秒

ぺ−パーバーチさんが
>テスターが本当にすごいなーと思うのは、治療家をやりながら仕事も続けていますよね
>本業でちゃんと収入を確保して患者さんからは全然お金を取らない
と述べられているところは私もすごいなと思ったところです。

イエス・キリストも「病人を治し、(中略)、らい病人を清め、悪魔を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ第十章)
と説いていますから、
ペーパーバーチさんが
>やっぱり、霊的なことでお金をとっちゃあダメですよね
と述べられ
長田さんが
>治るか治るかは霊界まかせなのに取れないですよね
と述べられ
有希さんが
>こういうことにお金を取ってはいけませんね
と述べられていますから、三人の方の意見は一致していますね。

スピリチュアル・ヒーリングでお金儲けをしないということには私も納得できます。

有希さんが述べられているように
>これを仕事としてお金をもらえばずっと続けられるということはあるかもしれない
ということはあるのではないかと思います。

しかし、遠隔治療ならよいのですが、病気の人に対して直接治療をしようとすると、多くの人を治療しようとするほど、時間を取られるようになりますし、治療のための場所も必要となります。
そうすると、本業で収入を確保するということが困難になり、また、治療の場を確保・維持するためにお金が必要になるという事もあるのではないでしょうか?

ヒーリングの場合は治療家の方も霊力を受けて元気になるそうですが、エドガーケイシーに代表されるリーディング能力者や生体エネルギー治療家などの場合には肉体的、精神的な疲労もあるようです。

ペーパーバーチさんが述べられるように
>本当に善意で治療してあげても「ありがとう」といいながら財布出す人
有希さんの述べられるように
>何でもかんでもお金に変えたい
というような人ならば、まだよいのですが、
無料だとわかると、ちょっとしたことでも、全て頼り切って、治療をしてもらおうと押しかけてくるような人もいるかもしれません。

そんな人が多くなると、治療家の方でも、訪ねてくる人に制限を設けたり、料金を設定して自衛したりする必要性が出てくるかもしれません。

ペーパーバーチさんが
>普通友達とかだったら、何か助けてもらってもお金出さない
と述べられていますが、友達のように装って人をこきつかい、利用しようとする人がいるように、霊的治療家に群がりよってくる人々もいるかもしれません。

ペーパーバーチさんが
>霊的な治療のエネルギーというのは、霊界からの友情とか愛情とかそういうものの「しるし」なわけで
>霊界からの贈り物をお金に換算して
>友情をお金で売り飛ばしているんですよ
と述べられているように治療を受ける人の問題もありますが、
お金によって「霊的治療の技術」を得ようとする人やお金によって「霊的治療家」を専属に雇って独占しようと考える人さえもいるわけです。

有希さんの述べられたように
>「ありがとうございました」と頭を下げるだけで本当はいい
というのが霊界でのあり方ですね。

スピチュアル・ヒーラーが善意で行い、霊界からの贈り物を届け、受け取った人が感謝して、霊的に向上するという形になればよいのですが。

「ヒーリング」を売り物とする業界もありますから、それとの区別がついていない人も多いかもしれません。

 


0104 これからが楽しみです
名前: 有希  投稿日: 2001年10月21日 (日) 19時33分28秒

> 昨日(20日)、心の道場さんに電話をして本の注文をしました。有希さんのアドバイスに従って「スピリチュア
> 入門」と「シルバーバーチは語る」を注文しました。これらの本を読んで話題についていけるようにしたいと思
> います。

よかった〜 (^・^)
共通したものがないと、話が進みませんものね。
ぜひ率直な疑問と、ご意見をお願いします。
今後ともよろしくお願いします。

 


0103 本を注文しました!
名前: ポカQ  投稿日: 2001年10月21日 (日) 01時18分06秒

こんにちは、ポカQです。
昨日(20日)、心の道場さんに電話をして本の注文をしました。有希さんのアドバイスに従って「スピリチュア入門」と「シルバーバーチは語る」を注文しました。これらの本を読んで話題についていけるようにしたいと思います。

アラムさん、色々答えて下さって有難うございます。
「パウロが地獄に落ちた」というのは信憑性に乏しいということを聞いて、内心ほっとしました。
私がパウロにこだわる理由を書くと、このホームページの趣旨と離れてしまいそうな気がするので、現時点では控えさせていただきます。
そのような話題になった時に、ペーパーバーチさんの許可を得てから書こうと思います。
それでは皆さん、今後ともよろしくお願いします。

 


0102 聖書とパウロ、イエス・キリスト
名前: アラム  投稿日: 2001年10月20日 (土) 01時23分14秒

ハナさん、こんにちは。

聖書が霊感で書かれたことは確かなのですが、そうでない部分もあるのではないかということなのです。

ところで、
>今も霊団の長で活動しているわけですから、直接彼に聞いてしまった方がいいかなあと思います
ということの彼とは誰のことですか?

イエス・キリストのことですか?
スピリチュアリズムでは確かにイエス・キリストからの霊界通信だと認められているようなものはないようなのですが、ニューエイジの中にはそう認められているものがあるのでしょうか?

それともパウロのことですか?
パウロが霊団の長というのは意味がわかりませんが、『霊の書』の中にはパウロからの通信はあります。

 


0101 パウロのこと
名前: ハナ  投稿日: 2001年10月19日 (金) 08時08分33秒

こんにちは、たまーに来てはふむふむと読んでいますが、今回は発言を。
ポカQさんのボルグのパウロの話、私も疑問に思っていました。
まあ。確かに聖書でも「女性は夫に仕えよ」とか、「奴隷は主人を神として仕えなさい」という時代錯誤的な表現もありましたが、やはり霊感で書かれたものだし、伝道でも聖霊に導かれていたんだと思います。
彼が「あなたの肉体は神の住まう宮なのです」というのは、「ひとりひとりがもつ神性を発揮しなさい」ということでもあるし、今の「ひとりひとりに神が宿っている」というニューエイジ思想にもぴたっときます。
やはり、イエスが「霊的真理を伝えに来た人」という観点から、彼の言葉を読みたいし、今も霊団の長で活動しているわけですから、直接彼に聞いてしまった方がいいかなあと思います(もちろん、その人の器に応じてクリアになるかそうでなくなるかは内容が変わりますが)。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


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