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発言番号0151-0200のログです。

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0200 Re:0198 霊力の実感できる世界
名前: アラム  投稿日: 2001年11月25日 (日) 18時56分26秒

りゅうじんさん〜
>僕はこうなると既に地上としての意味はない気がするんです。
>霊界の存在なり、背後霊の援助なりがあることを全ての人が明らかに自覚で>きるような状態になることはこの地上の理想ではなく
>人間の進歩も望めなくなると思うんですよね

>はじめから明らかに霊界の存在がわかっていたら他力本願になる気もしてね

この意見には私は反対です。

現在であっても、地上の人間が自覚できないだけで、霊力は注がれています。
それを地上の人間が受け止められなかったり、拒絶したりしているだけです。

霊力を自覚できないのは、そのように仕組まれているからではなく、地上の人間が霊主肉従の状態に常にないからです。

霊力を自覚できるようになったとしても、地上の人間の努力に応じただけしか霊力が注がれないことに変わりはありません。
他力本願になるような人には霊力を与えられないという点では変わりはないのです。

この状態になるということは、全ての人々が他力本願になるようなことがなくなるということです。

霊力を十分に受けながら、努力して、自分の内にあるものを開発して、それを他の人に役立つように用いるようになるということです。

この自分の内なるものの開発にも、他の人々への貢献にも限度はありません。

物質的な必要物が全ての人に行き渡るようになれば、次には、精神的な必要物が全ての人にもたらされるように努力する段階が始まります。

利己心を中心的にした進歩から、利他心を中心とした進歩へと移行していくことになるでしょう。

霊力が実感されるようになっても、背後霊の援助によって不必要である苦しみが避けられるようにはなりますが、向上のために必要な苦しみ、困難はなくなることはありません。

無意味でしかない苦しみや無知による悲しみが少なくなるということです。

これまでに例外的に現れていた霊力や霊界の存在を自覚していた人々でも、より霊的な向上を目指した努力と他の人々への愛の行為を怠らず、日常生活を送っている人がいます。

そうした人々は多くの人々への愛ゆえの苦しみ、悲しみを経験しています。

このことから考えても、霊力の実感ができる世界が進歩のない世界とはならないと思います。

ただ、ここに科学技術の進歩によって、自分の必要とする物を一瞬の内に作り出せるようになり、不必要なものを一瞬の内に消し去ってしまう。
必要な情報が一瞬の内に手に入り、一瞬の内に自分の行きたい場所にいける。
このような状態が可能となってしまったら、肉体の努力が一切必要のない社会となってしまったならば、それは地上の世界とは言えなくなるでしょう。

こうなれば、確かに人間が肉体を持って進歩するということが望めなくなり、別の科学的に未発達な世界へ行くか、肉体を棄てて、より精妙な体でもって修行経験をする世界へ行くかしなければならなくなるかもしれませんけれど。

 


0199 菜食
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月25日 (日) 11時05分58秒

ポカQさん〜
>皆さんは菜食をするにあたってどの辺に一線を引いていますか?

雑食の僕の意見など聞いてもしょうがないかもしれませんが(笑)、あれはよくてこれはいけなくてとこだわり始めるときりがない気がします。この世に完全はないというのが僕の考え方なので、僕は細かいことはあまり気にしませんけど。イスラム原理主義みたいな戒律を作っちゃうと人間らしく生きられないしね。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu

 


0198 地上の理想
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月25日 (日) 10時53分28秒

有希さん〜
>大霊とか、霊界と一致する感覚
>背後がいつも応援してくれているという感覚、それを自分が肌身を通してしっかり確認
>そういう感覚をみんながごく当たり前に自覚できる時代

アラムさん〜
>こうした霊力が絶えることなく全ての人に注ぎ込まれる時代です。

逆らうようですが、僕はこうなると既に地上としての意味はない気がするんです。霊界の存在なり、背後霊の援助なりがあることを全ての人が明らかに自覚できるような状態になることはこの地上の理想ではなく、人間の進歩も望めなくなると思うんですよね。だからこの世では霊的なことは絶対に証明できない仕組みになっていて、物質のみに価値観を求めていっても真理はつかめないということに気づく可能性が生まれるんじゃないかと思います。はじめから明らかに霊界の存在がわかっていたら他力本願になる気もしてね。

アラムさん〜
>真の共産主義社会は霊界に存在していて、地上で共産主義社会と思われている互いに相手の足を引っ張り合い、貧しい状態で平等になろうとしているような社会は地獄のような世界でしかないと思います。

全くその通りですね。地上で共産主義は明らかに誤解されていると思います。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu

 


0197 皆さん有難うございます
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月25日 (日) 01時15分12秒

こんにちは、ポカQです。
私の質問に答えてくださった皆さん有難うございます。
多角的な意見を聞く事ができ、とてもためになりました。
特にペーパーバーチさんの「小桜姫物語」からの引用、
有希さんの「テスターの処方箋」からの抜粋、
アラムさんの
>作物、野菜などは自らが犠牲になるという事を知っていて、
>自らの身を捧げて、
>より大きな働きのために役立つ事に喜びを感じる事ができる

という部分は今までの私には無かった考えでした。
私には食べられる運命にある植物たちがどうしても泣いているようにしか思えなかったのです。
しかし皆さんの意見を拝見して、私の考えが間違っている事が分かりました。
自らの身を捧げる事に喜びを感じる事ができる植物という生命は、人間よりも大霊の法則に従って歩いている気高い生命であるのかもしれません。
私が肉体を捨て去り幽界に旅立つ時が来た日には、植物たちと思う存分語り合いたいなあと思うようになりました。(私は植物に肩入れしすぎかもしれません。)

ところで皆さんにお聞きしたいのですが、ひとくちに菜食といってもどのようにすればいいのでしょうか?
例えば私が疑問に思うのですが、肉魚は駄目だということは分かりますが、
牛乳や卵は駄目なのでしょうか?
これがもし駄目だとすると洋菓子類がまったく食べられなくなります。
これは私にとってかなり辛い事です。
また、野菜にかけるマヨネーズや一部のドレッシングもかけられなくなります。
また最近の狂牛病騒ぎで耳にしたのですが、お酢や醤油にもビーフエキスが入っているものがあるそうです。
味の素を作るときにも豚のエキスを使用するという話を聞いた事があります。
皆さんは菜食をするにあたってどの辺に一線を引いていますか?

また人付き合いの中で肉が食卓に並ぶということもあるかと思いますが、その時はどう対処していますか?
これから菜食を実施するにあたっての参考にしたいと思いますのでできればご意見をお聞かせください。宜しくお願いします。

 


0196 新しい世界
名前: アラム  投稿日: 2001年11月25日 (日) 00時56分58秒

有希さん〜
>これだと別に新しいわけじゃなくて、スピリチュアリズムの世界からすると当たり前の世界ですよね
>シルバーバーチがいつも言っていることをベースに考えると、やっぱり新しい世界というと霊的世界になると思うんですよね。

スピリチュアリズムの提示する世界は霊界をその念頭に置いていますから、地上世界より一歩進んだ段階の世界を説いているのだと思います。

一つは宗教が全ての人に行き渡り、それが実践されている世界でしょう。

有希さん〜
>お互いが利他愛で接する事ができる世界
>利他愛がベースになった世界

シルバーバーチ以前に、イエス・キリストが「天に為される如く地にも為されるであろう」と説かれたように、霊界で既に行われているように地上世界でも行われるようになるということでしょう。

「全ての人が互いに愛しあいなさい」というのは宗教であって、キリスト教といった狭い枠のものではないと思います。

シルバーバーチが「サービス」と説く宗教、それが全ての人の行動として示される世界が新しい世界といえると思います。

何か良いものを一人の人が手に入れると、それを他の人のためにも使用する。自分の資質を発達させ、それを人のために役立てる。

「その新しい世界の種子がすでに地上界に根付いているということです」
(『シルバーバーチは語る』 P66)
これは大霊の摂理が地上界に具現化していっているということだと思いました。
一つの原型としては、優秀な霊媒が出現しました。
自分を犠牲にして、他の人のために役立てようとする人々です。

そして、地上の人と霊界の霊人たちが協力しあう世界です。
現在のように霊界からの働きかけがあっても、それに気付かないというようなことがなくなります。

有希さん〜
>大霊とか、霊界と一致する感覚
>背後がいつも応援してくれているという感覚、それを自分が肌身を通してしっかり確認
>そういう感覚をみんながごく当たり前に自覚できる時代

こうした霊力が絶えることなく全ての人に注ぎ込まれる時代です。

長田さん〜
>結局は霊的真理が行き渡った世界ということです

この新しい世界で行き渡っているはずの霊的真理、新しい世界を実現するために必要なことについて、シルバーバーチが幾つか説いていますね。

「大霊からいただいた資質を発達させ、それを人のために役立てる方向で使用する」(P67)
「大霊の恩寵はみんなで分け合わなくてはいけない」(P68)
「余るほど持っている人は足らない人に分けてあげなくてはいけません」(P68)
「摂理は寸分の狂いもなく働きます。あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです」(P68)
「摂理を一つでも多く学び、それを実行に移さなくてはいけません」(P69)

こうした霊的真理を実践する人が多くなるほど、新しい時代が築かれていくことになるのだと思います。

「政治も宗教も科学も学問もある1つのものの側面に過ぎないことが理解できる、新しい人類が現れるでしょう」(P67)
これは地上では分けて考えられているけれども、実は大霊の摂理を地上において表現しようとしたものに過ぎないということではないでしょうか。
どれかに偏るとか、両方にまたがるとか、すべて総括できるとかいうことではなくて、その本来の一つのものを理解でき、それをもとにして様々な活動を行うことの出来る人間こそが新しい人類ではないでしょうか。
想像できないとも言えますが、シルバーバーチをはじめとする高級霊に近い見方が出来る人間でしょう。

シルバーバーチは
「そうした努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません」(P70)
「教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、そうしたラベルにはお構いなく」(P73〜P74)
と説いていますし、スピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、と説いたときもありました。
「私にはラベルは関係ありません」という見方が出来る人間こそ、様々なラベルをつけられて分けられているものの本来のものが理解できる人間ではないでしょうか。

いわば、これまでばらばらのものとされていたものが、統合されたものの一部として理解されるような時代が来るのではないでしょうか。

スピリチュアリズムというのは、宗教であり、科学であり、哲学であり、ということですが、「地上の霊的浄化、霊的進歩に関わる計画・活動」ということですから、霊界の計画に関与するものは残らず含まれますよね。

「既得権を取り壊す必要があります」(P68)
これまで「あって当然、あたりまえ」と考えていたものを本当にそうかどうかを考えてみる必要がありますね。

それで言うと、今の不況の状態も、それが正当なものであったかどうかを見直す機会であるかもしれませんね。

この不況の時期に、実は不要であったものが取り除かれていき、必要とされているものが何かがわかるようになる。
ただ儲けさえすればよい、自社の利益だけ欲しいと考えていた会社が生き残れなくなり、本当に役に立とう、社会に貢献しようという思いから活動していた会社が残っていく。

このようになっていくことによって、本来のあり方に近付いていきます。

ただ、この犠牲になっていく人々のためには、分かち合い、助けてくれる人々の存在が不可欠となるでしょう。

こうして、まずは利己的な人が豊かになるという状態を崩していき、その一方で、他の人のために役立とうとする利他的な人が増えていくようにする。
それから後に、分かち合いというようにならないと、結局は利己的な人による不満によって、その社会は成り立たなくなるでしょう。

共産主義はもともとはキリスト教的な考えから出てきたものですから、利他愛を持つ人の存在が不可欠なわけです。

多く持つ人が分かち合う、または多く持つ人が多くの人のために役立てるということから、こうした社会は始まるので、多く持つ人を自分たちと同じ様な状態に引き下ろそうとしても、こうした社会は始まらないわけです。

利他の心こそが共産主義社会をもたらすものですから、マルクスの主張のような暴力革命でもたらされるわけはないのです。
相互利他の社会を利己的な人々が成立させることは不可能なのです。

霊界のことを学ぶこともこの参考になるでしょう。

真の共産主義社会は霊界に存在していて、地上で共産主義社会と思われている互いに相手の足を引っ張り合い、貧しい状態で平等になろうとしているような社会は地獄のような世界でしかないと思います。

霊的真理が広がっていき、霊力が注ぎ込まれていくことによって、新しい世界が築かれていくのです。

その目標とするありかたが霊界の姿として伝えられています。


まとまりが悪くなってきましたので、これで止めます。

 


0195 肉にまつわる病気
名前: アラム  投稿日: 2001年11月24日 (土) 22時03分32秒

りゅうじんさんの述べられたように狂牛病の疑いがあるというだけで殺された牛はかわいそうですね。

ここ数年間、肉として食される動物によって感染する病気の問題が多いですね。

豚、羊、牛と出てきましたから、次に鳥によって感染する病気でも出てきたら、本当に何か警告の意味があるのではないかと考えるしかなくなりますね。

ただ、オゾン・ホールの拡大によって、注ぎ込む宇宙線が増大したためにこうした病原体が活性化したのではないかという意見もありますから、もしかすると、人間が引き起こしたものであるかもしれませんが。

そうすると、感染した動物たちも人間による犠牲者ということになります。

 


0194 狂牛病
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月24日 (土) 11時04分49秒

僕は、霊性が低いからかもしれませんが、肉を食べることはよくあります。嫌いじゃないし、付き合いもあるし、出されれば食べなきゃ悪いしね。
それにしても、狂牛病の疑いをかけられて食われもせずに焼き捨てられた5000頭の牛はかわいそうだ。もう、人間は肉を食うなってことかな。でも、肉に関わってる人がみんな職替えするのは大変だ。

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0193 動物殺生
名前: アラム  投稿日: 2001年11月23日 (金) 23時02分20秒

引き続いて、動物殺生の話です。

ポカQさん〜
>ひょっとすると人類が新しい段階に入ったので、新たな真理がシルバーバーチを通してもたらされたのかも知れませんが

そういうことではないと思います。
これまで一部の人達には啓示されていた内容が、多くの人達に対して知らされたということだと思います。

動物を神への生贄として捧げることも、肉食をすることも、人間の堕落によるとする考え方もあります。

ポカQさんは神に羊を捧げたりすることが『旧約聖書』に出てくるので、血を流すことを霊界が認められているのではないか と考えられたのでしょう。

仏教でのゴータマ・ブッダの説かれたものとされる中に動物を犠牲とした祭祀についてのものがあります。
「刃が牛に落ちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、「不法なことだ!」と叫んだ」
「昔は、欲と飢えと老いという三つの病があっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病が起った」
「何ら害のない牛が殺される。祭祀を行う人は理法に背いているのである」
(『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元訳 岩波文庫より)

動物を犠牲とする祭祀は過ちであるとしています。
同様にザラシュシュトラも動物を犠牲とするダウェーワへの祭祀を禁止しました。

肉食についても本来は認められていなかったものでしょう。
「旧約聖書」でも本来は肉食ではなかったことが示されています。
「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つ全ての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる」
「地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える」(『創世記』)

どこにも肉を食べてよいとは出ていなかったのです。

ヒンドゥー教ではブラーフマナーに対してこの肉食についての啓示が示されています。
「プラジャーパティーは、生命に対してこのいっさいを食べ物として用意した。動・不動のいっさいは生命の食べ物である」
「動かないものは動くもののための食べ物であり、牙のないものは牙のあるものの、手のないものは手を持つものの、そして臆病なものは勇敢なものの」
「食べる側は毎日食し得る生き物を食したとしても汚されない」
「なぜならば、創造主は食される生き物と食する生き物とを創造したからである」
と説いています。
しかし、これは主として動物に向けられたものです。

「肉が欲しいときは(中略)小麦粉で動物を作るべし。決して理由なく動物を殺そうとしてはならない」
「理由なく動物を殺す者は死後、再生の度に、殺した動物の毛の数だけでの激しい死の苦しみを経験する」
「自分の幸せを欲して無害の生き物を殺す者は、生きている間も死んでからも、決して幸せを得ることはない」
「殺害を許す者、切り裂く者、殺す者、売る者、買う者、料理する者、給仕する者そして食う者は、殺害者である」

このように説いてありますが、この時期においては、まだ食べてもよい条件があります。
「買ったのであれ、自らが用意したのであれ、自らが用意したのであれ、あるいは他人に提供されたのであれ、神々あるいは祖霊を敬った後に肉を食べるときは罪に汚されない」
「祖霊及び神々を敬わず、他の肉によって自分の肉を肥やそうとする者ほど罪深い者は他にいない」

祭祀のために殺された動物を食べることは罪にはならないとされているのです。

しかし、それでも肉食は避けるべきであるとされています。
「生き物を殺害することなく肉を手に入れることは決して出来ず、一方生き物の殺害は天界に導かない。それゆえに肉を避けるべし」
「肉食に罪はない。酒にも性の交わりにも罪はない。それらは生き物に自然な活動である。しかし、それの停止はより大きな果報をもたらす」
「肉の出所および生き物の殺害と捕縛のことをよく考えて、いっさいの肉食を断つべし」
(以上 『マヌ宝典』 中公文庫 渡瀬信之訳 より)
霊的に未熟な人にとっては罪ではないが、霊的な向上の阻害になるので、肉食は避けなさい というのは霊訓とも一致するように思われます。

この『マヌ宝典』がポカQさんの述べられた差別の根拠となったことも確かです。
私はこの部分は啓示が捻じ曲げられたもので、本来は霊的向上の段階を示したものが四ヴァルナ、カースト制に変えられたのではないかと思いますが。

こうした肉食の禁止は、砂漠などの地域になると禁止された食物になっています。

「獣をほふってその肉を食べることができる」
「あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる」
「あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか」
「すべて水のなかにいるもののうち(中略)すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる」
「すべて、きよい鳥は食べることができる」

こうした食べてよいものを定めた後、豚、だちょう、など食べてはならないものを示しています。
「血を食べてはならない」とありますから、刺身やレアのステーキなどは駄目でしょう。
(以上 『申命記』より)

これが、イスラムになると、少し戒めがゆるくなります。
「律法が啓示される以前には、イスラーイールが自分で自分に禁止したもの以外は、あらゆる食物がイスラエルの子らに許されていた」
と、律法での禁止された食物が本来のものでないことを示し、ムスリム(イスラム信者)への食物の戒めが啓示されます。
「家畜の獣類は食べてもよろしい」
「汝らが食べてはならぬものは、死獣の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ邪神に捧げられたもの、絞め殺された動物、打ち殺された動物、墜落死した動物、角で突き殺された動物、また他の猛獣のくらったもの」

しかし、許されたものとして条件が記されたものがあります。
「汝らが自ら手を下して最後の止めをさしたものはよろしい」

こうした昔の啓示でも、現在のように自分は手を下さないで手に入れる肉、人工的に大量生産された肉は食してはならないものとされるわけです。

このように、はじめは植物を食べることがよいとされていたものが、肉食が許容されるようになってきたということのようです。
その中でも霊的向上を重視する人々は肉食を避けてきたということです。
修道僧や修道尼、出家修行者などがそうですね。

「陸上及び水中に生じる野菜、あるいは花、根、果実、また清浄な樹木に生えるものや果実油を食すべし」(『マヌ宝典』)
「豆、野菜、球根、蔓の実を善き人々から正しいしかたで得て食べ」
「生きものをみずから殺してはならぬ。また他人をして殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ」(『スッタニパータ』)

こうした一部の人々に示されていた「肉食を避けよ」という教えが全ての人が為そうと努力したほうがよいこととして示されたわけです。

シルバーバーチ以外でも肉食を止めたほうがよいと説いている高級霊がいます。ホワイト・イーグルもその一人です。
「人の食べるものは、肉体とエーテル体の原子に栄養を供給する。粗雑な食物をとれば、粗雑な原子に活力を与えることになる」
(『霊性進化の道』 潮文社 桑原啓善訳 P30)
「粗雑な食事は、その進歩を遅らせ困難なものにする」
「肉食はよろしくない。動物は殺される時、恐怖心をもつ。従ってその血や肉を食べると、恐怖心と粗雑な波長が人に伝えられる」
「もし兄弟を食べろと言われたら、何とされる。身の毛のよだつことではなかろうか。かって、この習慣をもつ種族がいた。皆さんはずいぶん堕落した習慣と思われるだろう」
「やがて肉食は、堕落した習慣と考えられるようになるだろう、残忍さということとは別に」(同上 P31)
「はっきり言えることは、皆さんの足が霊性進化の道に根を下ろすにつれ、目が開かれ、肉食の欲求は退化するということである」(同上 P32〜
P33)

それでは菜食がよいとされることの根拠は何でしょう。
これについて説かれているものは動物の肉食について説かれているものに比べると以外に少ないように思われるのですが。
この点についてはペーパーバーチさんがよい箇所を紹介してくださいました。
ありがとうございます。

他にはホワイト・イーグルも菜食を薦めています。
「逆に太陽で熟した食物、たとえばフルーツ・穀物・木の実・野菜を日常とるようにすれば、媒体の高位の原子を養うことになり、霊性進化に役立つ」
(『霊性進化の道』 P30〜P31)
「霊性進化を目指すなら、肉体原子の浄化をせねばならぬ。きれいな媒体を望むなら、清浄な食物をとらねばならぬ」(同上 P31)

問題は植物は恐怖心を抱かないのかということです。
ペーパーバーチさんの紹介してくださった『小桜姫物語』の梅の精の言葉からすると、「喜んで差し上げます。少しでも人間のお役に立つと思えば、却って嬉しいことです」と思ってくれることになりますが。
『霊の書』では
「植物は物的に反応する感覚はありますが、知覚はありません。従って痛みは感じません」と説かれています。
(『スピリチュアリズムの真髄「思想編」』 心の道場 P230)

ところで、「霊の書」では
「地上の人間の体質からすれば、体力を維持するためには動物性食品は接収する必要があります。それを欠くと体力が衰えます」(同上 P268)
と説かれています。
これはシルバーバーチやホワイト・イーグルよりも伝えられる時期が早かったからでしょうか?

「霊の書」は動物の生贄についても説いていますが、私は人間の生贄から動物の生贄と変化したのではないかと思ったのですが、ここではその逆になっています。
「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」
(『スピリチュアリズムの真髄 「思想編」 P250)
「その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが」
「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます」(同上 P250)

まず、動物の生け贄、それから動物実験、そして、肉食という順番で、人間がなくしていくべき努力目標が霊界より示されたと考えてよいでしょうか。

菜食がよいという根拠を示す霊界通信についてもっとご存知でしたら教えてください。

大変な長文になりまして、すみません。

 


0192 『霊性』の違いによって起こる、価値観の違い
名前: 有希  投稿日: 2001年11月22日 (木) 12時11分34秒

ポカQさんは捕鯨に関してですけど、私はイルカのことで同じ疑問を感じていました。
牛や豚を好んで食べている人たちが、自分たちの生活を守るためにイルカを数頭殺したからといって、それを非難できる権利はないと思いました。自分たちの生命を守る場合は、正統防衛に値するからです。
それから私も肉食に対する答えを求め始めました。
それで、自分の中で出た答えは「やはり肉食はよくない」だったんです。

人間の魂の成長度は「霊性」つまり霊的直感とでもいったらいいでしょうか、理屈ではなく、そうした霊性によって感覚的に善悪や清濁を見極めることができると思います。霊性の豊かな人は清らかで質素なものを求め、より善でありたいと努力すると思います。
それに対して霊性の乏しい人、つまり未熟な人ほど悪に対する嫌悪感が少ないし、濁れている方がしっくりすると思います。
成長度によって、好みも価値観も大きく変わるということですよね。
でも、未熟な人は未熟なりに成長の道を歩んでいるわけですから、それを敵視したり、その人に嫌悪感を持つのもまた未熟であるからと思っていますが。

この霊性は霊感とは違い、霊的真理を知れば知るほど研ぎ澄まされていくようです。
ポカQさんの投稿を読んで、ポカQさん自身はご自身の霊性ですでに肉食の非を感じてはいるものの、理性的にも納得したいのでははないか、と感じました。

ねろりさんも、とても謙虚にご自分に言い聞かせるようにして書かれていたので、私はとても好感を持ちました。

肉食に関してのアラムさんとペーパーバーチさんの意見は全て納得のいく説明で、とても参考になりました。
その中でも特に、

アラムさんwrote:
> 植物と動物の場合には、霊的な性質の差があるという話もあります。

ペーパーバーチさんwrote:
> 少なくとも現在のような大量消費のシステムの中で、動物に不自然な生と、不自然な死を強いるのは、決して
> 正しいことでは無いでしょう。

> 但し、肉食が絶対に「ダメ」だとは僕は思いません。少なくとも現時点の人類にとっては「望ましくない」けれ
> ど「許容範囲」のことだと思います。これはあくまでも相対的なものであって、過去の人類には肉食は「良い」
> 事だったかも知れませんし、未来の進歩した人間にとっては「ダメ」になることもあるでしょう。

> 動物や植物のそれぞれを、食べていいのかとか殺していいのかを分けるものは、僕の考えでは霊的進化の程度、
> 持っている意識の程度、もっと簡単に言えば苦痛や恐怖を感じるか、ということだと思います。

植物に関しては小桜姫の中に出てくるエピソードはタイムリーでした。


これ以上私から申し上げることはありませんが、テスターの「現代人の処方箋」より少し抜粋してみます。

人食い人種が敵の捕虜を殺して食べても罪とはいえない。そういう習慣の中で生きており、それが“いけないこと”であるという意識が芽生える段階まで霊性が発達していないからである。
しかしあなたにはそれがわかっている。あなたはそれを罪悪であると見る段階にまで達している。だから人間の肉は食べられない。が、たぶん動物の肉は食べるであろう。しかしあなたより霊性の発達した人は動物の肉も食べられない。その人にとっては動物を殺して食べるということは罪悪なのである。そこでその人は植物食になる。
そういうわけで、あなたが牛肉を食べても“いけないこと”とはいえなくても、植物食の人にとっては“いけないこと”なのである。このように人間の行為の正当性の唯一の基準はその人の霊性の発達程度なのである。

肉には野菜を、ということで野菜や果物を大量に生産することにも危険が伴っている。そのために使用する化学薬品が生命体系を破壊しつつあるからである。小動物や昆虫が殺虫剤で毒を浴びている。そうした成分がめぐりめぐってどれほど人体に入ってくるか計り知れないのである。

私は、霊的に成熟した人間は自然に食べ物についての正しい知識が芽生えるものと確信している。そして成熟したスピリチュアリストは最後は植物を中心とし、しかも、人工を加えない自然な食品を選ぶようになるに相違ないと信じている。

成熟した人間には美食は見るのも嫌なものである。物質文明最大の汚辱である。文明人は現在のような贅沢な食習慣を恥じるべきである。
食習慣が変わり、動物を血祭りに上げることを止めることによって、霊的自覚の水準が高まり始めるであろう。そして、西洋文明諸国の食事が質素になれば、世界の食料事情もよくなることであろう。

大食については弁護すべき要素は何一つない。許されてよい理由は一つとして見出せない。大食の習慣がなくなることによって、餓死する可能性のある何百万もの人が生命を救われる。自分は美食をくらいながら飢餓国へお金を寄付するなどという行為は、人間の尊厳を侮辱するものである。

 


0191 RE:0183 動物殺生に関しての私の個人的な視点
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年11月22日 (木) 02時09分34秒

ポカQさん、こんにちは。

|地上的な視点(その1)

|「日本人よ鯨は可愛い動物だから殺すな!」

それは記憶違いやテレビ局の改竄ではなく、捕鯨反対の根本的な動機は間違いなくそれです。僕も、同じ言葉を何度も聞かされましたし、書籍などでも読まされました。彼らは鯨やイルカは人間に近いほど高度な知性を持った生物であるという妄想を抱いているようなんですな(苦笑)。
だいいち、キチンと計画して捕鯨すれば絶滅なんかしやしないのに、彼らにとってはそんなの全然関係ないでしょう?

それから、欧米人にとっては牛はあくまでも「食い物」であって、美味そうとは思っても、可愛いとは思わないみたいですよ。(僕もどっちかと言うとウマソーって思う口です(^^;)

本当に鯨が高い知性を持っているなら、それを殺して、食べるというのは考えものだなとは思います。それが文化だからというのは続ける理由にはなりません。ジャングルの食人族の文化は止めるべきで、捕鯨の文化は守るべきというのは理屈が通らない。ただ問題は、捕鯨反対派は鯨の知性を過大評価しすぎているとしか僕には思えないんですよね。


|地上的な視点(その2)

|肉に対しての安全性について問題があるとしていますが、
|では野菜ならば安全といえるのでしょうか?

これは半分賛成・半分反対。
肉は野菜よりも毒素が濃縮されるので何十倍も危険な場合があるんですよ。もっとも、これは魚でも同じことが起こりますし、コストをかけて安全な肉を生産すればすむ話です。「スピリチュアリストとして肉を食べるべきではない理由」にはなりませんね。


|地上的な視点(その3)

|(肉を食べる)=(動物を殺す)=(とても残酷なこと)=(こんな
|残酷なことをするなんて屠殺業の人々はひどい人達)

そういう短絡的な差別思考は問題ですが、それは肉を食べることの是非とは別の話だと思います。ましてや……

|ですから、動物を殺すなんて可哀相だから肉を食べないという人はちょ
|っと危ない考えの持ち主だな、と私は思ってしまいます。

など、短絡に過ぎるのではないでしょうか? 「動物を殺すなんて可哀相」と思う人が必ずしも屠殺業の人を差別的に考えるとは限らないのに、どうしていきなり「危ない考えの持ち主」だと思ってしまうんでしょう? そういう短絡こそ「危ない考え」ではありませんか?


|霊的な視点(その2)
|うろ覚えなのですが、私が高校生の頃何かの本で次のような話を見つけました。

それは三上晃さん(またはその影響を受けた人)の著作では無いでしょうか? すごぉく有名な人ですよね。ご安心ください、その本に書いてあったことは全て妄想です(^^;。(三上晃さんの「植物は警告する」という本なら持ってます)


|とありますが、ではトマトはどうなのでしょう?
|トマトの目の前でほうれん草をざくざく切り、沸騰したお湯の中にザ
|ボンと入れる光景を見させられて
|「次は私の番なのだ、お願い誰か助けて・・」
|と泣き叫んでいる哀れなトマトの声が聞こえてきませんか?

『小桜姫物語』の中に、梅の精と話すエピソードがあります。

---------ここから現代語訳&転載----------

「でも人間は、この枝振りが気に入らないなどと言って、ときどき鋏でチョンチョンと枝を摘むことがあるでしょう。そんな時にあなた方はやはり腹が立ちますか?」
「別に腹が立ったりはしません。枝振りを直すために伐るのと、イタズラで伐るのとは、全然気持ちが違いますから。私たちにはその気持ちがよく分かるんです」
「では花瓶に活けるために枝を切られても、あなた方はそれほど嫌とは思わないんですか?」
「それは思いません。私たちを心から可愛がってくださる人間に枝の一本や二本、喜んで差し上げます」
「果実を取られる気持ちも同じですか?」
「私たちが丹精して作ったものが、少しでも人間のお役に立つと思えば、却って嬉しいことです」
「木によっては、根元から切り倒される場合もありますが、その時あなた方はどうされます?」
「そりゃあよい気持ちはしません。しかし切られるものを、私たちの力でどうすることもできません。すぐあきらめて、木が倒れる瞬間にそこを立ち退いてしまいます」

---------ここまで----------

人間も動物も植物も、それぞれに生命の在り方は違います。シルバーバーチの霊訓の中では、動物や植物だけでなく、鉱物まで含めて語った箇所さえあります(探す時間が無いので、どの本の何ページというのは勘弁してください(^^;)。それ以外にもヒントになるところは無数にありますので、ぜひ、いろいろ読んでみてください。

http://www.paperbirch.com/

 


0190 肉食について(またまた出遅れ(^^;)
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年11月22日 (木) 00時30分38秒

僕はこの問題には口を挟みづらいんですよね。なぜなら、お肉が大好きだから(^^;。なにしろ、テレビとかで狂牛病のニュースで牛が映ったりすると「ああ、焼肉食べたいな〜」っと思ってしまうぐらいで、狂牛病の影響で焼肉屋の売上が激減とか言われても「ナンで?」という人間なので(苦笑)。皆さんだって、豚骨ラーメンがこの世から無くなったらイヤなんじゃないかと……ああ、カツオだしのあっさりラーメンが好きなんですか、そうですか。

……などという漫談はこのぐらいにしておきまして(^^;、スピリチュアリズム的に言えばやはり肉食は望ましくない事だと思います。少なくとも現在のような大量消費のシステムの中で、動物に不自然な生と、不自然な死を強いるのは、決して正しいことでは無いでしょう。それでも人類が生存するために必要なことであるなら「必要悪」と思えないこともないですが、決してそうではありません。(ここは記憶を頼りに書くので不正確だと思いますが)一頭の牛を食べることで取れるエネルギー量を1とすると、その牛を育てるため使われた穀物を人間が食べれば、60以上のエネルギー量を摂取できるという話を聞いたことがあります。つまり、牛肉ばかり食べていた人がホンの1億人ほど(^^;ベジタリアンになって、大豆やトウモロコシをエネルギー源にすれば、世界の60億の人が飢えずにすむようになるということです(これはもちろんモノのたとえで、実際にはこんな単純な筈はありませんが)。

但し、肉食が絶対に「ダメ」だとは僕は思いません。少なくとも現時点の人類にとっては「望ましくない」けれど「許容範囲」のことだと思います。これはあくまでも相対的なものであって、過去の人類には肉食は「良い」事だったかも知れませんし、未来の進歩した人間にとっては「ダメ」になることもあるでしょう。

|動物でも植物でも大霊が創造した生命である事には何ら変わりはない筈です。
|なぜ肉食がいけないのか分かりません。

本当に「変わりはない」のでしょうか?

では、犬や猫の肉を食べるのに抵抗は感じませんか? いや、犬とかでは判りづらいかも知れませんね。今でもお隣の国では犬鍋の店が普通にあるぐらいですし(日本にもあるけど)。極端な話、人間の肉を食べるという話を聞いたら野蛮だと思いますよね? では逆に、風邪などをひいたとき「ウイルスだって同じ生命だから薬を飲んで殺したりなんかしない」と思う人がいるでしょうか? 「寄生虫の人権を守るため」に虫下しを飲まない人がいるでしょうか?(いや、実はいるらしいんですけど……)

さて、人間と動物、植物、寄生虫やウイルス、これらの違いは何でしょうか。なぜ風邪の菌を殺すのは平気なのに人間を食べるのは野蛮なんでしょう? 過去には人間を食べる地域もありましたよね。いろいろな文化的背景はあるにしても、それ以前の問題として、食料の乏しい国では重要な蛋白源だったというのは否定できない事実でした。でも、今では野蛮なことです。それだけ人間が進歩したから、以前は必然だったものを野蛮に感じるようになったのです。(異論はあるでしょうが、僕はそう思います。もちろん、そんな野蛮な時代でさえ、食用の人間を狭いところに押し込めて大量生産するようなことは、人類の歴史上一度も無かったと思います)

動物や植物のそれぞれを、食べていいのかとか殺していいのかを分けるものは、僕の考えでは霊的進化の程度、持っている意識の程度、もっと簡単に言えば苦痛や恐怖を感じるか、ということだと思います。牛や豚は屠殺される時、恐怖や苦痛を感じると思います。植物は感じないはずです(花の自然霊が人間に摘まれて鑑賞されることを喜んでいると言う霊界通信もあります)。魚なんかも苦痛と言うより単なる反応でしょう。死に恐怖や苦痛を感じないものを食べるのに、罪悪感を感じる必要はありません。

もう一つ、その動物の一生が類魂に何を持ち帰ることができるか(動物は死後、個体を維持せず、類魂に埋没します)ということも考慮すべきでしょう。その点で最初に書いた「大量生産システム」は最悪でしょう。モノのように扱われた牛や豚の類魂が進化するとは思えない。その点、昔ながらに放牧された牛ならば、最後には食べられるとしても(;_;)、プラス・マイナスで言えばプラスの方が多いんじゃないかな……というのは肉を食べたい人間の妄想かも知れないので、話半分に聞いておくべきかも……(^^;。

大量生産を止めれば、もちろん食肉の価格は現在の数倍以上になるでしょう。しかし、それでいいのだと思います。肉は贅沢品、もしくは副食であるべきで、その方が日本の食卓も正常になるんじゃないでしょうか? やっぱり、安ければどうしても肉を使ってしまう(それだけで食卓を成り立たせやすい食材なので)もんね(^^)。

http://www.paperbirch.com/

 


0189 RE:0183 動物殺生に関しての私の個人的な視点
名前: ねろり  投稿日: 2001年11月22日 (木) 00時03分31秒

ポカQさん、レスありがとうございます!
  
  ポカQさんwrote;
   >この動物殺生に関しては、中高生の頃から私なりに熟考してきた問題でもあります

前回は、ポカQさんに対して、いかにも「熟考せずして…」と決めつけ調子で書きこみしてしまいました。非常に思慮を欠いた書きこみで、大変失礼しました。
前も少し触れましたが、書きこみながら、そして送信後も、「これは自分に対して言っているなあ」と、感じていました。あまり直視しなかった(したくなかった(^^;)テーマに対して、頭を整理し、深く考える良い機会を下さったと思っています。ありがとうございます。

  ポカQさんwrote;
   >私には大霊の作られた生命にカテゴリーをつけて分類することが良く理解できません。
   >私には動物も植物も同じ生命としか思えないのです。

前回書いたことと矛盾しているようですが、ポカQさんの考え、私も理解できます。
猫をなでているとき。枯れかけの植物に少し手をかけてあげて、ある日、元気な小さな葉を見つけたとき。海辺で太陽に暖められた砂浜に座ったり砂を掴んだとき。ふと「どこか命の底の部分で、みんな、つながっているんだな」的感覚をおぼえるときがあります(なんかニューエイジっぽいですかね?へへ(^^;)。自家栽培というほどでもないですが、育てているネギを食用に切るときは、「ありがとう、少しいただきます」と心で言います(←罪悪感からかも)。店で買うんじゃなくて、自分で育てたものに直接手を下すと、生命の実感や自分の行いも、目の当たりにしますね。ある意味、人間なんかの基準で、神の創造物を分類し、「食べる」「食べちゃダメ」なんて判断するのは、おこがましい…かもしれないですね。

  ポカQさんwrote;
   >まだ結論みたいなものは出せていませんし、
   >この掲示板でみなさんの意見を聞いたからといって、すぐ答えが出るものとも思っていません。
   >ただやはり言い出しっぺとして、私の現時点における考え方も述べた方が良さそうに思えたので、
   >私なりの視点も書いてみようかと思います。
   >これをたたき台にして皆さんの意見を拝聴させていただければ幸いです。

との、ポカQさんの質問を提示するスタンスを支持したいです。地上的・霊的視点でのコメントには、いくつかポカQさんとは違う考えがありましたが、頭を整理する参考になりました。私も答えは出ていません。時には迷いつつ、何を食すにせよ、感謝の気持ちは持っていたいな…と思いました。

 


0188 ポカQさんへ
名前: アラム  投稿日: 2001年11月21日 (水) 23時57分51秒

動物殺生についてのポカQさんの考え方がよく分かりました。

ただ、その中で、この問題とは直接関わりはないかもしれませんが、少し気になる箇所がありました。

>神にいけにえを捧げるということが時々でてきます。(特に旧約)
>羊を捧げたり、すごいのになると自分の息子や娘を捧げたりしています。
>血を流すことをそれほど悪いことではないかのように書いてあります。
>ニューズレター8号・2Pに
 天使による霊界からの地上への働きかけは、地球全体の規模でみると、
 ユダヤ民族に対してもっとも集中的な働きかけがあったということなので  す。
 とありますので、血を流すということを霊界側は認めていたのではないでし ょうか ?
という箇所ですが、私は旧約聖書のこの生贄について述べられている部分は正当な啓示とは認めることができません。
特に自分の息子や娘を捧げよというところは高級霊界からの通信とは認められません。
この部分は低級霊からの通信か、地上の人間の思い込みが混ざった部分だと思います。

ユダヤ民族が入っていくまでに、その地域の先住民の信仰していたものが、そうした人間の生贄を要求するとされた神でした。
モレクなどに人間の赤子や子供を燃やして捧げるといったことをしていました。
旧約聖書にも、こうしたことはいけない と説かれた部分があります。
しかし、こうした古い信仰形式が後のユダヤ民族にも取り入れられることになったようです。

この地域に限らず、多くの地域では、人間の生贄を捧げるという宗教儀式が行われました。それが後の時代に到来した愛に満ちた神によって「このような事はいけない」と説かれ、こうした事をやめるということがあったようです。
人間の生贄の替わりに動物を捧げるということが行われ、それが、やがて花や作物を供えるということになるのです。
残念ながら、この愛の神(神人)が流血を好む神によって傷を負わされたり、追い出されたり、殺害されたりして、血なまぐさい儀式が復活するということがあったようです。

ですから、霊界がこうした生贄の儀式を肯定的に認めていたわけではないわけです。
霊界は「未発達な段階ではこうしたことを行うということもあり得る。仕方がないこと」と受け止めてくれていたにすぎないのです。

「ユダヤ民族に対して最も集中的な働きかけがあった」というのは、イエスにいたる多くの預言者による霊的流れを指しているのであって、ユダヤ民族の霊的な未熟さによる宗教儀礼や儀式までを指しているわけではないと思います。

屠殺者への差別のことなどを述べられていましたが、これは仏教の殺生観に発するものです。日本だけのことではなく、ジャイナ教など「アヒンサー(不殺生)」の戒律を持つ信仰を持っている人は共通してこのような見解をしています。

ただ、お願いして、自分達の食べる分を得て、感謝していただくという場合はどうなのかは分かりません。
このようなことは狩猟民族などでは行われています。

ネイティブ・アメリカンなども「大霊より与えられたもの」としてバッファローなどを獲って食べていました。エスキモーなども「神より与えられたもの」としてカリブーなどを獲って食べています。
しかし、こうした人々は先進国の文明人よりもはるかに霊的には優れた人々です。
必要な分だけを獲って、感謝のもとに、何一つ無駄とすることなく、皆で分け合って食べ、その皮や骨にいたるまで利用する。
犠牲になってくれた命に感謝し、神への祈りを捧げる。
こうした人々は大自然からの許しを得たと感じてから、狩りを開始するそうです。
こうした人々の場合も罪となるのか、それとも、それがいけないこととは知らないので罪とはならないのか。

植物と動物の場合には、霊的な性質の差があるという話もあります。
作物、野菜などは自らが犠牲になるということを知っていて、自らの身を捧げて、より大きな働きのために役立つことに喜びを感じることが出来る。
それに対して、人間に食べられる家畜などは、どうして食べられなくてはならないのか という思いを残してしまい、それを食べた人の獣性を強めることになる。

受容することが出来る植物の性質と、自然の摂理による弱肉強食には従うが、自分の身を守るために出来る限りの抵抗をする動物の性質の違いというものがあるという見方もできます。

自然霊や妖精も、作物や果実、野菜などを人間に分け与えるという目的でならば頼めば協力してくれるということもあります。

この点からも肉食よりも菜食の方が本来のあり方であると言えるでしょう。

健康のためには、肉食よりも菜食のほうが良いというのも、動物が殺されるさいの怒りや恨みが毒素と変じるためということもあるかもしれません。

 


0186 道具(パイプ)になることですが・・・
名前: ハナ  投稿日: 2001年11月21日 (水) 21時19分18秒

長田さん
お返事がおそくなってすみません。
私の体験はHPで紹介しています。
私は今も教育機関に勤める事務員で、幽霊を見たりとかの霊感も特になく、霊媒もできるわけではなく、普通に生活しています。はっきり言って、なにもできないのです。

ただ、神の存在は信じているし、霊界の人々がどんなにか働いてくれているかは今までのつきあい(?)から実感しています。だから、治療は彼らを信用しておまかせするだけです。

心霊治療の道具(パイプ)には決心すればだれでもなれます。でも、きれいなパイプじゃないと使えないでしょう。こちら(人間)は、きれいにメンテナンスしておく必要があるし、その努力は必要だと思います。

私がシルバーバーチが好きなのは、その言葉が「絵に書いた餅」ではなく、実践できることです。もし、その言葉だけを引用しても、実践できなければ、「聖書と(病気を癒さない)キリスト教」のようになってしまうでしょう。

「心から人のためにという気持ちになれば、必要なものはそのうち必ず揃うものです。」(11巻134ページ7行目)

そういうわけで、だれでも、どんな人でも、求めていれば必ず道具になれると信じています。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


0184 読みづらくなって申し訳ありません
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月21日 (水) 03時55分05秒

183のレスですが「>」の記号が文章の途中に入ってしまい読みづらくなってしまいました。
先頭にあるもの以外は取り除いて読んでください。

 


0183 動物殺生に関しての私の個人的な視点
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月21日 (水) 03時36分49秒

こんにちは、ポカQです。
ねろりさん、有希さん返事のレス有難うございます。

ねろりさんwrote
>私はスピリチュアリズムと出会って数ヶ月・・・
>シルバーバーチの本はまだ数冊しか読んでませんが・・・
数冊も読んでれば私よりもキャリアは上です。
私はまだ「シルバーバーチは語る」をやっと一冊読み終わっただけですから。そんなに自分を未熟者と卑下する必要は無いと思いますよ。
今後とも宜しくお願いします。

さて、本題に移ります。
ねろりさんwrote
>ポカQさん自身の中でもう少し熟考される余地がある・・・と感じました。
今まで質問してきた事は、わりとその場で「分からない」と思った事をすぐ書き込んだものが大半でしたが、
この動物殺生に関しては、中高生の頃から私なりに熟考してきた問題でもあります。(長い時間考えたから熟考したとは必ずしも言えない事ではありますが)
まだ結論みたいなものは出せていませんし、
この掲示板でみなさんの意見を聞いたからといって、すぐ答えが出るものとも思っていません。
ただやはり言い出しっぺとして、私の現時点における考え方も述べた方が良さそうに思えたので、
私なりの視点も書いてみようかと思います。
これをたたき台にして皆さんの意見を拝聴させていただければ幸いです。
私にとっての地上的な視点と霊的な視点に分けて述べたいと思います。


地上的な視点(その1)
中学生だった頃のある日、私はテレビでニュース番組を見ていました。
その時見たニュースは、捕鯨問題についての国際会議がどこかの都市で(多分アメリカだったと思う)開かれたというものでした。
当時の私は捕鯨禁止は鯨を絶滅させないためにはやむを得ないかと思っていました。
ところがその番組で、反捕鯨のある動物保護団体に属する白人の人がインタビューで語っていた事は「日本人よ鯨は可愛い動物だから殺すな!」というものでした。
私は思わず「ふざけるなー!!!」とテレビに向かって叫んでしまいました。
この人達は仕事で(カワイイ)牛を殺しているアメリカの屠殺業者や、
そこでできた牛肉で商売をしているマクドナルド等のアメリカ企業に対して、
何らかの反対活動でもしてきたのでしょうか?
そんな話はそれまで聞いたこともありませんでした。
彼らは自分たちは平然と牛を殺して食べているのにその事は棚に上げて、
鯨を食べる習慣のあった日本人に対して動物保護の名のもとに批判をしている訳です。
もっとも現在冷静になって考えてみますと、この白人本当にこんな事を言ったのかどうかは分かりません。
私はあくまで画面に出たテロップを読んだだけなのですから。
テレビという媒体は中立公正を表立ってはうたっていますが、
局の方針にそぐわないようなニュースや事実などは流さないというようなことを平気でやるところです。
このテロップだって視聴者の怒りを引き出そうとして勝手に改ざんした事実無根のものを流したのかもしれません。
ともあれ私の頭の中ではこの時をもって
(動物愛護団体)=(偽善者集団)
という図式が確立し、今なお私の頭の中にあります。


地上的な視点(その2)
有希さんwrote
>家畜を量生産するために、どれだけの抗生物質が使われいるかというと
>これも信じがたいくらいの量です。この抗生物質が私たちの体を蝕んでいる>ことがかなり知られてきました。

肉に対しての安全性について問題があるとしていますが、
では野菜ならば安全といえるのでしょうか?
農薬などの散布はしていますし、輸入食品であるならば防カビ剤なども使用されている可能性があります。
また無農薬野菜や有機野菜という手もありますが、市場では苦戦を強いられています。
手間ひまがかかるため値段が高く、そのわりには見栄えが悪いので売れ行きが良くないのだそうです。
このまま消費者の嗜好が変わらない限り、この農法の野菜は消えてしまう運命にあるかもしれません。
ですから野菜の方が肉よりも安全であるとはいえないと思います。


地上的な視点(その3)
日本には昔から「ケガレ思想」というものがあります。
屠殺業などの殺生に関わる仕事をしている人達に対して「ケガレている」などのレッテルを張り差別するというものです。
昔はこのような仕事を被差別部落の人達に押し付けてきました。
今でも屠殺業に関わる人達は被差別部落だった人達の子孫の方々が多いのではないでしょうか?
特に西日本では今なお差別が根強く残っているという話を聞いた事があります。
もし今の日本の状態で菜食主義が進めば、
屠殺業を営む人達を偏見の目で見るような差別がまた復活するのではないかと思われます。
これは私個人の考えですが健康のために菜食主義にしている人は構わないのですが、
(肉を食べる)=(動物を殺す)=(とても残酷なこと)=(こんな残酷なことをするなんて屠殺業の人々はひどい人達)
という図式が日本人の間では簡単に成立してしまうような気がするのです。
ですから、動物を殺すなんて可哀相だから肉を食べないという人はちょっと危ない考えの持ち主だな、と私は思ってしまいます。


霊的な視点(その1)
霊的な視点というのはおこがましい気がするのですが、便宜上分けただけですからあまり気にしないで下さい。
現在私は毎週日曜日に教会に通っていますので、時々聖書を読むことがあります。
聖書の中では神にいけにえを捧げるということが時々でできます。(特に旧約)
羊を捧げたり、讃美歌を捧げたり、すごいのになると自分の息子や娘を捧げたりしています。
血を流すことをそれほど悪いことではないかのように書いてあります。

ニューズレター8号・2pに
>天使による霊界から地上への働きかけは、地球全体の規模で見ると、ユダヤ>民族に対してもっとも集中的な働きかけがあったということなのです。

とありますので、血を流すということを霊界側は認めていたのではないでしょうか?
もっともこの点に関しては、
「シルバーバーチは語る」122p
>生命の旅路は進化です。進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・>拡大・拡張です。あなた方が善だとか悪だとか言っているのは、その旅路に>おける途中の段階の高い低いの善に過ぎません。終着点ではありません。

とありますから、ひょっとすると人類が新しい段階に入ったので、
新たな真理がシルバーバーチを通してもたらされたのかも知れませんが・・


霊的な視点(その2)
うろ覚えなのですが、私が高校生の頃何かの本で次のような話を見つけました。

ある博士が植物に電極をつないで一日の状態を調べるという実験をしていました。
博士は実験結果を見て一日に何度か波形が急激に変化することに気づきました。
何故なのか博士は原因を探ってみました。
するとトイレの水を流したときに波形が変化することが分かりました。
「そうか水の流れに反応するのか・・」
博士は植物の近くで水を流してみることにしました。
しかし波形には何の変化も現れませんでした。
「おかしいな・・」と博士は思いました。
そのうち、もう一つのことに気づきました。
トイレの水を流したからといって必ず波形が変化するわけではなかったのです。
よく調べてみると大便をした後、水を流すと波形が変化することが分かりました。
さらに博士は考えました。そしてこのトイレには水を流すと同時に殺菌剤も一緒に流れ出すことに気づきました。
「ひょっとしてこの植物は大腸菌が大量に死ぬことを知覚して、それに反応するのだろうか?」
さらに博士は次のようなことを思いつきました。
「もしそうだとするなら、植物にも知性というものがあるのか?
 だとすればこのことを説明すれば理解する事もできるのだろうか?」
そこで博士はこの植物にトイレの仕組みについて説明し、
君に危害を加えることはしないからと説明しました。
するとその後大便をした後、水を流しても植物は反応することがなくなった・・
という話です。

今冷静になって考えると、この話作り話だったかもしれません。
何せ当時の私はテレビ・新聞は必ず事実を報道し、本に書いてあることは小説以外全て偽りが無く、学者の言うことは全て正しい・・と信じていた大バカものでしたから・・
もちろん今はそんなアホな考えは持っておりません。
新聞・テレビは事実を歪曲して伝えることなど日常茶飯事で、
本は嘘ばっかり書いてあることの方が圧倒的に多く、
学者は自分の考えている通りにデータを改ざんして発表することなど朝飯前だという事は良くわかっております。
それでも、この時この話を読んで
「植物は生きていて、おまけに人間と同じように知性まであるのか!」
と衝撃を受けました。
そして、未だにこの考えを払拭することができません。

ですから
ねろりさんwrote
>また「他の生物を食べなければ」との記述の中の”生物”というくくりにつ>いて「あいまい」さを感じます。もう少しカテゴリーを分けて考えてみては>どうでしょう。
とありますが、私には大霊の作られた生命にカテゴリーをつけて分類することが良く理解できません。
私には動物も植物も同じ生命としか思えないのです。

有希さんwrote
>あの大きな目を見るとあまりにもきれいで、これから屠殺場で殺されるのか>と思うと居たたまれなくなります。
とありますが、ではトマトはどうなのでしょう?
トマトの目の前でほうれん草をざくざく切り、沸騰したお湯の中にザボンと入れる光景を見させられて
「次は私の番なのだ、お願い誰か助けて・・」
と泣き叫んでいる哀れなトマトの声が聞こえてきませんか?
(安心してください、私だってトマトの声など聞いたこともありませんから)

私が肉を食べない菜食主義の人達に言いたいのは、
菜食だからといって他の生命、すなわち野菜の命を奪っていることには何ら変わりはないのでないかということなのです。
動物の命は奪わなくても野菜の命は奪っている。
もちろん食べなければ生きていけないのですから当然のことなのですが、
動物を食べていないのだから私はえらいのよ・・みたいな考えはしないでほしいなと言う事なのです。(勘ぐりすぎかも知れませんが・・)

「シルバーバーチは語る」で読み落としたところがあるかもしれませんが、
動物と植物の違いについてシルバーバーチは何か語っている事があるのでしょうか?
もしあるのであれば教えていただきたいなあと思います。
それによって私の間違った考えが訂正できるかもしれませんから。

以上拙い文章でしたが、これが動物殺生に関して私が今までに考えてきたことです。
ここまでお付き合いいただき有難うございました。

 


0182 ニューエイジ・ムーブメントの伝える新時代とは
名前: アラム  投稿日: 2001年11月20日 (火) 23時46分24秒

「新しい世界」という言葉から「新しい時代」という言葉が連想されます。

ペーパーパーチさんが「ニューエイジ的な考え方の影響」による「理想的な未来世界」ということを述べられていましたので、参考までにニューエイジではどのように説かれているのかも見てみようと思います。

ニューエイジ・ムーブメントは、新時代とはどのようなもので、それを迎えるためにはどのような準備をすべきなのか、どのように築きあげていくのかを示すということを目的としています。

そのニューエイジ・ムーブメントのチャネリング情報では、「ニューエイジとは何か?」について次のように伝えています。

●人間性の時代、意識の時代
各人が、意識的に現実を創り出す自分の責任を、自発的に喜んで受け入れる。

各人が、自分の世界は自分自身の創り出した幻想であることを理解し、その幻想は、自分独自の選択や決定、個人的な考え方や感じ方、個人的な態度や信念によってのみ限界づけられているということを理解する。

各人が、喜びと共に自分の力をとり戻し、神との協力関係の中で、自分自身の主人、創造主となる。

「支配と優越の世界」ではなく、一人一人が、愛と祝福をこめて、「自主と自立の世界」を創り出す。

(『ラザリス 聖なる旅』 新人物往来社より)

各人が自分の現実を創造的に意識的に創り出し、他の人を操ろうとはしない。自分を愛し、他の人を愛し、神との協力によって、現実をより豊かで、より愛に満ちたものとしていく時代、それが新時代であると伝えるのです。

これはシルバーバーチの説く「新しい世界」とは別のものでしょうか?

 


0181 幽体質素について
名前: 有希  投稿日: 2001年11月20日 (火) 23時38分20秒

長田さん wrote:
> 幽体質素が少ない私でも

この幽体質素のことですけど、長田さんはご存知だと思うのですが、他の方で知らない方がいらっしゃると間違い易いと思うので、一言だけ付け加えさせてください。

魂の成長と幽体質素の多さは比例しないようです。
成長していない人でも多い人はいますし、成長している人で少ない人もいるようです。
そして、成長している人の幽体質素は澄みきっているようです。

 


0180 前回の参考
名前: アラム  投稿日: 2001年11月20日 (火) 21時52分13秒

前回の書き込みの際の参考について書き忘れました。

参考にしたのは「スピリチュアリズム・ニューズレター」第7号です。

 


0179 がんばります
名前: 長田  投稿日: 2001年11月20日 (火) 11時38分32秒

有希さん、アラムさん、答えてくれてありがとうございます。
特にアラムさん、すっごくよくまとめられていて、とてもよく分かりました。幽体質素が少ない私でも目指す方向は同じですから、能力があるなしにかかわらず、同じ努力はしていかなければいけませんね。
大切なことは自分を道具として使ってもらうこと。その方法は様々あって霊界にお任せです。ただ常に使いやすい道具となっていることなんですね。
目に見える能力の差に拘ってしまうことは未熟な証拠ですね。これは地上的視点で霊的視点ではありませんね。
とても参考になりました。
それから、睡眠中の・・・とってもおもしろい発想だと感心しました。
まずは私も日ごろからもっと純粋な思いを持ちつづけたいと思います。

 


0178 ヒーラーの条件
名前: アラム  投稿日: 2001年11月19日 (月) 23時56分37秒

有希さんの述べられたことも参考にして、スピリチュアル・ヒーラーの条件を考えてみますと

幽体質素が多いこと。
純粋であること。
謙虚であること。
苦しんでいる人を助けて上げたいという利他の思いが強いこと。
自分を使ってくれて構わないという犠牲精神があること。
などがあります。

さらに良いヒーラーとなる条件となると、
霊性が高いことが加わります。

日常生活を正すことができること。
常に自分自身に対して厳しく臨むことができること。
霊的真理によって自分の考え方や心境を高める努力をしていること。
霊的真理の伝道、人々の魂の目覚めのきっかけのための手段として行っているという意識を持っていること。

「道具としての謙虚さ」と「自己滅私的な奉仕性」を持ち、一般の人以上に霊主肉従の努力を続けることが最も大切とされます。

>使いにくい道具
ということが出てきましたので、逆に使いやすい道具とはどのようなものでしょう。

「能力をさらに発達させること、つまり受容能力を増し波長を高めること」
(『シルバーバーチの霊訓 (九)』 P170)
「生活態度を可能なかぎり理想に近づける努力をしなければなりません」
(同 P173)
「不名誉となるようなことをしてはなりません。腐敗させてはなりません。
間違った動機から使用してはならないということです。
ただひたすら自分を使っていただくという気持で、可能なかぎり理想を目指して努力していればよいのです」
(同 P173〜P174)
「要は霊が使いやすい状態になることです。
道具としてなるべく完全になることを心掛けることです。
完全な道具としてマイナスの要素となる人間的弱点を極力排除しなくてはなりません。そう努力することで霊力が豊富に流れるようになります。
背後霊団との協調関係を決定づけるのは治療家の日常生活です」
(同 P179)
「治療能力はどうやって発達させるか。(中略)心に宿す動機も発達を促します。日常生活の生き方によっても発達します。
可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心掛けによっても発達します。
できるだけ良くしてあげたいという願望を大きくしていくことによっても発達します」(同 P180)
「ひたすら他人のために役立ちたいと願い、こう反省なさることです。
“神は自分に治病能力を与えてくださったが、果たしてそれに相応しい生き方をしているだろうか”と」(同 P180〜P181)
「理想へ向けて不断の努力をすべきです。最高のものを心に描くべきです。
絶対に希望を棄ててはいけません。常に朗らかで楽観的雰囲気を出すべきです」(同 P184)
「背後霊団との最高の調和関係を目指して日常生活を律すべきです」
「あなた方は身を正すことだけを考えてください」
「欲しいのは、よろこんでその霊力の通路となってくれる道具です」
(同 P189)

エドワーズ氏と同じ条件もありますが、残念ながらシルバーバーチは
「それを授かって生まれてきたのであり、授かった以上はそれを発達させる必要があります」(P180)と説いた後でこれらの条件を説いていますから、能力は先天的なものということになります。

ただ、こうした条件は他の人にとっても目指すべきものとなるでしょう。

しかし、長田さん、もし、全ての人がヒーラーとしての能力を発揮できるとするならば、それは睡眠中に、肉体から離れてという可能性はあるかもしれません。
肉体から離脱すれば、全く霊感がないように思われる人でもある程度の霊的能力は使用できます。
シルバーバーチやテスター氏はそのような事を説いていませんが、病気治療ということでは、ある心霊治療家が睡眠時の幽魂離脱時に治療を行ったという話がありましたので、これなら誰もが行えるかもしれない可能性はあると思われます。

 


0177 [0170:動物殺生に関しての質問 ]について感想
名前: ねろり  投稿日: 2001年11月19日 (月) 01時30分26秒

こちらの掲示板は、初めての書きこみです。
未熟者ですが、よろしくお願いします。
ポカQさん書きこみについて、思うところがありました。
私は、スピリチュアリズムと出会って数ヶ月…という、甚だ消化不良な段階にありますので、
先輩でいらっしゃる、ポカQさんおっしゃるところの、
>この事についてちゃんと理解してる方がいましたら、教えて下さい。
の呼びかけに対して、私は「ちゃんと」応えられるはずもなく、恥をかく覚悟(汗)でノコノコ出てきました。
従って、適当に読み流していただければ幸いです。(脂汗)
[0170]の書きこみについて、私が感じたことを書いてみたいと思います。

ポカQさん自身の中で、もう少し熟考される余地がある…と感じました。
というか、書いているうちに「アタシも、安易に答えを知りたがる傾向があるゾ」
と痛感させられる、良い機会になりました。
ポカQさんwrote;
>また、第4回の座談会でも肉食は良くないとの旨が書かれてありました。
>なぜ肉食はいけないのでしょう?
>物質界で肉体を持つ生物は他の生物を食べなければ肉体を維持できません。
>動物でも植物でも大霊が創造した生命である事には何ら変わりはない筈です。
>なぜ肉食がいけないのか分かりません。

スピリチュアリズムに限らず、「肉食はよくない」という考え方は、ポカQさんもご存知の通り、
世間で少なからず話題になっていますね。
「なぜ肉食がいけないのか」腑に落ちないということでしたら、
スピリチュアリズムだけでなく、他分野の人々の考え方、意見なども取り入れて、
広い視野で考えてみるのも、意義がありそうです。
自然食とかマクロビオティック、健康等に関する本を読んだり、
インターネットをできる環境におありのようですから、
「google」などの検索エンジンを使って、関連HPを調べ、いかなるものか吟味するのも
いいかもしれません。
ペーパーバーチさんのリンクにも、大変参考になるHPがあったと思います♪
また、「他の生物を食べなければ」との記述の中の゛生物"というくくりについて、
「あいまいさ」を感じます。もう少しカテゴリーを分けて考えてみてはどうでしょう。
「グリーンランドのような作物の取れない地域に住んでいる人々」の場合と、
「大地からの産物が余るほどある国に住むが、肉や魚介類は大好きなので
それらの無い食卓は考えられない人々」の場合も、食糧事情が違いますので、
最初からひっくるめて考えてしまうと、無理があるかもしれません。
他にもいろいろ仮定、選択、吟味の幅が広がりそうです。
机上の空論と言えば、それまでなのですが…。

私は、シルバーバーチの本はまだ数冊(!)しか読んでいませんが、そのなかで、
心の道場さんから出ている「シルバーバーチの霊訓(「愛の摂理」復刻版)」のp130〜132、
p222〜226辺りが、今回の話題について考えるのに参考になりました。
とりわけ、
「未熟な世界においては完全な理想が実現されることは期待できません。しかし、だからといって、
理想へ向けての努力をしないでよいということにはなりません。」

「皆さんは変化しつつある世界に生きており、わたしたちも、どうせ今すぐには実現できないと
知りつつ、理想を説いております。…(中略)…
目標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです。」

は、厳しい(!)けれど、あたたかい叱咤激励ともとれる言葉で、ジンと心に届きました。

と、ここまで書いて、有希さんの書きこみを拝見しました。
有希さんwrote;
>この家畜の量生産の仕方をテレビか何かでごらんになったことがあるでしょうか。
私も、小3くらいの時、確か…たくさんの死んだ鶏がオートメーションで逆さ釣りにされて
流されている映像を見てショックを受け、以来、肉類が生理的にダメになってしまいました。
スピリチュアリズムと出会ってからは、辛うじて食べられたハンバーグや餃子もダメに…。
サンドウイッチのハムは食べますが…(苦笑)。
的確なコメントの後に、未熟な投稿をするのは躊躇しましたが、エイッと送ってしまいました。
私のようなものが、生意気に長々と失礼いたしました(汗びっしょり)!!

 


0176 肉食について
名前: 有希  投稿日: 2001年11月18日 (日) 22時54分28秒

肉食についてですが、これは私個人の意見としてお読みください。
私は100%絶対いけないと思ってはいません。

> 例えばグリーンランドのような作物の取れない地域に住んでいる人々はどうしたらいいんでしょうか?

そうそう、この場合です。
この人たちの場合は、そういう環境で生きているわけですから、生きるためには肉を食べるしかないと思います。
ただ、最近では、他のものも手に入りやすくなっているので、別の方法を考えることはできると思います。

> 漁業を全面禁止して食糧は全部輸入しろとでも言うのでしょうか?
> 魚介類は大好きなので魚の無い食卓は考えられません。

日本では太古の昔から魚介類を食べてきましたから、魚介類に関しては私は構わないと思っています。
日本は島国なので、海の幸と山の幸、そして平野で取れる作物や果物を食べていましたものね。
問題なのは、牛とか豚、鶏などの家畜だと思うんです。

この家畜の量生産の仕方をテレビか何かでごらんになったことがあるでしょうか。
牛から牛乳を絞るためにどんな方法が使われているか、鶏に卵を産ませるために、牛や豚や豚を速く太らせて出荷するために、どんな方法が取られているか、一度でもその悲惨な光景を見たら、目に焼き付いて忘れられなくなります。
動物実験に等しいぐらいの悲惨さです。

なぜこんなことまでして、家畜を量生産するのでしょう。
もちろん食べたい人がいるからですし、自分たちが儲けたいからに他なりません。
でも、この牛1頭を育てるために、どれだけの穀物が使われているかと言うと、信じられない数字が出ます。
これはどれぐらいかちょっと忘れてしまいましたが、肉食を半分に減らしたら、地上から飢餓がなくなると言われているぐらいの量です。
家畜を量生産するために、どれだけの抗生物質が使われているかというと、これも信じがたいぐらいの量です。
この抗生物質が私たちの体を蝕んでいることも、かなり知られてきました。

ある人の言った言葉が私の心の深くに残っています。
「自分で殺せる人だけが食べたらいい」と。
私は魚は小さいものなら生きているものでも料理できるけれど、生きている動物を自分の手で料理することはできません。
アフリカでも、インドネシアでも、原住民の人たちは生きるために自分たちで動物を捕まえ、自分たちで屠り、そして食べています。
でも、私たちは自分の手は汚さず、美食として食べています。

私たちは肉を食べなくても生きていけるはずです。
むしろ、食べない方が健康にはいいし、生活習慣病にもなりにくいというデータも出ているくらいです。
肉食の多い人は大腸癌や直腸癌になりやすいというのも言われています。

私が肉を食べられなくなったのは、屠殺場で豚や牛の泣き声を聞いた時からです。
その近くにすんでいる人は、時には馬の声もする、と言っていました。
あの大きな目を見ると、あまりにもきれいで、これから屠殺場で殺されるのかと思うと居たたまれなくなります。

地上で生きているかぎり、食べなければ生きていけないけれど、身体に必要な栄養のことがわかれば美食は必要ないし、穀類と野菜と果物、そして少しの魚介類があれば健康に生きていけるはずなのですから。

書き出したらもっといろいろ出てきますが、これぐらいにしておきます。
もっと理性的に説明した方がよかったのかしら。

 


0175 使いにくい道具
名前: 有希  投稿日: 2001年11月18日 (日) 22時52分12秒

> >できないのは霊界の医師にとって、使いにくい道具だからだと思います。その「どうして道具になりたいのに
> なれないか」というのはその人の問題で、今後の課題でしょう。

> これをもう少し具体的に説明していただければとてもありがたいと思います。

これは長田さんからハナさんへの質問ですが、私なりの見解を述べさせてくださいね。

> 私は真理は読めても霊感というか、全く見えないし聞こえないし感じません。
> だからそういう能力は先天的なものかなと思っていました。
> やっぱり霊性というか、純粋性の問題なのでしょうか?
> これからの参考にしたいと思いますので、是非お願いします。

確かに、長田さんは霊感は弱いかも o(^。^)o
でも、これって、かえっていいことかもしれないです。
中には敏感過ぎて苦しんでいる人もいますもんね。

> >できないのは霊界の医師にとって、使いにくい道具だからだと思います。

とのことですけど、私もそう思います。
そこで少し考えてみました。
普通、善い道具になるには、純粋で、謙虚で、犠牲精神があって・・・ということになると思います。
ところが、純粋な霊界の医師の媒介になるには、それだけでは不充分のようです。
まず自分が魂の成長をしていないといけないし、自分からかけ離れて成長している治療霊の媒介にはなれないと思うからです。
もし自分が成長していなければ、進化した治療霊にとっては使いにくいどころか、全く使えないということになるんだと思います。

ただ、『類は友を呼ぶ』のごとく、自分を使ってくれるのは自分と同程度成長した治療霊ですから、さほど成長していない治療霊からすると、幽体質素が多ければ誰でも使えるのかもしれません。
ということは、幽体質素が少なければ、霊感は弱いので、治療霊の媒介にはなりにくいのかもね。

 


0174 告知です
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年11月18日 (日) 22時31分43秒

遅くなってしまいましたが座談会の第六回を公開しました。「勉強会&座談会」のトップページからご覧ください。

それから、2〜3日前になりますが、この掲示板の過去ログのページをつくりました。そちらも当サイトのトップページからどうぞ。

http://www.paperbirch.com/

 


0173 宣伝【だけ】の発言は禁止です
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年11月18日 (日) 22時20分27秒

171は宣伝以外の内容の含まれない発言でしたので削除しました。
スピリチュアリスト掲示板の1164にも同じ内容の投稿があったことを付記しておきます。
(そちらも当然削除済みです)

http://www.paperbirch.com/

 


0172 霊的治療とお金
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年11月18日 (日) 22時14分06秒

せっかくの面白そうな話題なのに、出遅れてしまった(^^;。

霊的治療とお金の話って、要するにこんな(↓)話なんじゃないかな。

●雄「○子さん、ぼくと付き合ってください」
○子「うん、いいよ」
●「では、ぼくと付き合うからには、このお金を受け取っていただきたい」
○「は?」
●「だから、ぼくと会ったりするために時間もいるし、デートする場所への交通費とかいろいろかかるでしょ?」
○「あ、あのー(^^;」
●「それに、やっぱりお金を受け取ってないと、同じ付き合ってくれるにしても真剣さが違ってくると思うんだよね」
○「……」
●「あ、あれ? なんで怒ってるの? ぼく、なんかヘンな事行った?」

……そ、それって「付き合う」って言うのかな?という話だと思うんですけどね。

改めて僕の考えを説明しますと、まず、霊的(スピリチュアル)治療でお金をとってはダメです。本物の霊的治療なら、かかる時間は数秒から数十秒。十人や二十人程度を治す程度で疲れることはありません。週に一日か二日の活動で、少なくとも普通の医者の一週間分以上の人数を治療できるでしょう。場所だって、その人が本物の貢献をしているのなら何らかの形で用意されるはずです。場所の一つも提供してくれる人も現れないなら(場所を確保するためのお金を集めるより簡単なはずです)、その人の活動にどこか問題があるという事です。

ただし、料金を決めずに少額の寄付を受け取るなら許容範囲だと思います。贅沢しなければ、それを自分の飲み食いに使ったって構わないとも思います。そういうのは、言ってみれば友人関係で何かやってあげて、食事の一つも御馳走になるようなものです。あまり頑《かたくな》に「一銭たりともいただきません!」というのも却って人情に欠けるんじゃないか、と僕なんかは思ってしまうわけです(^^)。それこそ治療に何千人も押しかけて普通の仕事をする暇など無い、一人数百円の寄付金でも生活は成り立ちそうだというなら、それによって生活するのも仕方のないことだとは思います。ただし、そこまで治療希望者が殺到する人なんて僕には想像もつきませんが(能力が無くて一人に時間が掛かってしまうというのは論外)。

もちろん、寄付金がたくさん集まったからって贅沢はいけません。寄付してもらったお金で贅沢するというのは、友達が「お礼にご馳走するよ」と言ってくれたのをいいことに、その店で一番高いものを注文するようなものです(汗)。じゃあ霊的治療家はお金持ちにはなれないのか?……その通り、霊的治療による収入で生活するなら、清く貧しく美しく、スピリチュアリズムを体現するような生活をせねばなりません。

しかし、お金の誘惑って強いですからね。寄付金で清く貧しく生活するのは、別口で生活を確保してやるより何倍も難しいのではないか(僕のようにシャバッ気の強い人間には到底無理です)。「君子危うきに近寄らず」で、霊の力をアテにして生活を成り立たせるような事は、するべきではないと考えます。

何故かと言えば、いくら高潔な人間でも誘惑の中にどっぷり浸かっていれば、心動かされる事が無いとは言えません。ちょっとした事で、簡単に霊力は逃げてしまうことでしょう。その時「お仕事」にしていたら「いま現在、霊力が働いていない」ことを認められるでしょうか? 残念ながら「認められない」可能性を無視する事は出来ません。つまり、お金を取って、しかもそれで生活する霊的治療家は、そのことそのものによってアプリオリに「信頼性に欠ける」と判断せざるを得ないのです。

ただし、上記の事は(スピリチュアルでなく)サイキックの方の心霊治療家なら別の話です。これは普通の人間の能力と同種の力ですから、その労力と才能に見合った額の料金を設定して、正当な労働の対価として支払いを受けて構わないし、またむしろそうするべきかも知れません。

http://www.paperbirch.com/

 


0170 動物殺生に関しての質問
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月17日 (土) 02時49分50秒

こんにちは、ポカQです。

アラムさん答えて下さって有難うございます。
マズダー教、ミトラ教とキリスト教の関係がよく分かって参考になりました。

「シルバーバーチは語る」を一通り読み終わりましたので、疑問に思った点を皆さんにお聞きしたいと思います。

415pに
>人間あるいは動物に無謀な痛みを与えることは摂理に反しており、
>いかなる言い訳をしてもその代償から逃れることは出来ない。
と書いてあります。
また、第4回の座談会でも肉食は良くないとの旨が書かれてありました。
なぜ肉食はいけないのでしょう?
物質界で肉体を持つ生物は他の生物を食べなければ肉体を維持できません。
動物でも植物でも大霊が創造した生命である事には何ら変わりはない筈です。
なぜ肉食がいけないのか分かりません。

例えばグリーンランドのような作物の取れない地域に住んでいる人々はどうしたらいいんでしょうか?
漁業を全面禁止して食糧は全部輸入しろとでも言うのでしょうか?
私個人は肉はそれほど好きでもないので無くても構いませんが、
魚介類は大好きなので魚の無い食卓は考えられません。
この事についてちゃんと理解してる方がいましたら、教えて下さい。

 


0169 お答えありがとうございます
名前: アラム  投稿日: 2001年11月15日 (木) 22時33分28秒

ハナさん、私の質問にお答えくださいまして、ありがとうございます。

ハナさんは、霊界の医師が使うことができる道具となれれば、誰でもスピリチュアル・ヒーリングができるとお考えなのですね。

治療家になろうというきっかけがシルバーバーチの言葉だったというのは素晴らしいですね。

まずは心霊治療に必要とされる道具になろうという決意、それから、そのための努力があったのですね。

ところで、自分に心霊治療のための通路になれるかもしれないと思わせるような経験は何かありましたでしょうか?

 


0168 その人の問題って?
名前: 長田  投稿日: 2001年11月14日 (水) 09時18分25秒

ハナさん〜
>できないのは霊界の医師にとって、使いにくい道具だからだと思います。その「どうして道具になりたいのになれないか」というのはその人の問題で、今後の課題でしょう。

これをもう少し具体的に説明していただければとてもありがたいと思います。
私は真理は読めても霊感というか、全く見えないし聞こえないし感じません。
だからそういう能力は先天的なものかなと思っていました。
やっぱり霊性というか、純粋性の問題なのでしょうか?
これからの参考にしたいと思いますので、是非お願いします。

>つまり、「心霊治療はすばらしい、霊的真理を広めるために必要。苦しんでいる人を救える」と知ってしまったら、実際に心霊治療に必要な道具となろうと努力したいと思っています。

すばらしい心掛けだと感心しました。

 


0167 だれでもできると思います
名前: ハナ  投稿日: 2001年11月14日 (水) 07時14分48秒

アラムさん>
スピリチュアルヒ−リングは、霊界の医師がやるわけで、人間は道具になるだけなのですから、「使ってください」とお願いするだけで、本当はだれでもできると思います。
できないのは霊界の医師にとって、使いにくい道具だからだと思います。その「どうして道具になりたいのになれないか」というのはその人の問題で、今後の課題でしょう。

私が治療家になろうと思ったのは、シルバーバーチの言葉の「知っててやってしまうことは、それを知らなかった人より責任が重いのですよ」という言葉です。

つまり、「心霊治療はすばらしい、霊的真理を広めるために必要。苦しんでいる人を救える」と知ってしまったら、実際に心霊治療に必要な道具となろうと努力したいと思っています。

結果はどうなろうとも、その努力は霊界の人々がちゃんと見ているわけですから、やろうとしないよりマシだと思うのです。

全然答になっていなかったですね(笑)。ごめんなさい。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


0165 遺伝的要素か 先天的要素か 
名前: アラム  投稿日: 2001年11月13日 (火) 23時27分33秒

有希さん、御返答ありがとうございます。

確かに『私は霊力の証を見た』のP187〜P188には
「霊媒能力というのは一種の遺伝である。が、どの才能でも同じであるが、霊能も努力して養成しないといけない』
と書いてありますね。

しかし、この記述では、霊媒能力について述べているのか、霊能について述べているのかはっきりしませんね。
霊能について述べているのでしたら、ヒーリング能力も霊能の一つですから、「ヒーリング能力は遺伝である」ということになります。

しかし、P148では「生まれつきコンデンサーやトランスのような働きを具えた人間であり、そう多くはいない。それだけに極めて貴重であり、重大な任務を背負っていることになる。だから、こうした才能に恵まれた人はつとめて精進する必要がある」
と書いてありますから、これからすると、テスター氏は「ヒーリング能力とは先天的要素が強いもの」と理解されていたように思われます。

そうすると、エドワーズ氏の述べられるように訓練次第で誰でもなれるというわけではないことになります。

この先天的要素が強いということを示すものはかなり多くあります。
「生まれついてのヒーラーですよ。私がやってあげたのと同じことがあなたにも出来ます。生まれながらのヒーラーです」
(『私は霊力の証を見た』 P43)
「あなたは人の病気を治すために生まれてきたのです」(同 P53)
「治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し」(『シルバーバーチの霊訓(一)』 P124)
「お二人は地上に生を受けるずっと以前からこの仕事を志願していらっしゃいました」(『シルバーバーチの霊訓(九)』 P88〜P89)
「あなたはこの仕事のために生まれてこられたのです」(同 P93)
「霊的才能はそう簡単に人間に授けられているのではありません。神からの才能の保管者であるということは、それだけ責任が重いということでもあるのです」(同 P98)

では、「全ての人に治病能力はある」ということはどうなるのかということですが、
「人間は本質的に霊ですから、一人の例外もなく霊的資質が内在しております。その資質が、ある人においては他の人より表に出やすい状態にある場合があります。意識的に開発する努力によってその資質(中略)が発現し、その人間と背後で働く霊団との間の協調性が緊密になります」
(『シルバーバーチは語る』 P104)
ということから、治病能力は全ての人が具えているが、全ての人がそれを発現させることができるわけではないということになります。

有希さん〜
>治病能力は大なり小なり誰でも絶対にあると思うんですよ。ただその力が弱いか強いかの違いだけで

ペーパーバーチさん〜
>どの程度のレベルに達することが出来るかは素質がある、というような事じゃないか
>レベルを問わなければ誰でも走れるということになるじゃないですか。でもそれは「選手になれる」というのとは違いますよね

これが正解かもしれませんね。

また、治病能力にはスピリチュアル・ヒーリングの能力と違うものも含まれるかもしれません。

「魂の優位性を主張し、肉体という下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです」
(『シルバーバーチの霊訓(五)』 P122)

この自分を治す力も治病能力といえますよね。

ただし、これにも
「そのためには“自分は神である。無限の創造活動の一部を担う存在である。全生命への責任を担う霊的存在である。本来は完全なる霊なのだ”と宣言できる段階まで悟りができなくてはなりません」
(『シルバーバーチの霊訓(五)』 P122)
という条件がありますから、全ての人が必ず出来るというものではない ということになりますね。

 


0164 遺伝的要素の箇所
名前: 有希  投稿日: 2001年11月13日 (火) 10時45分39秒

>テスターは誰でもできるわけじゃなくて、遺伝的要素が強いと言っていましたよね
というのはどの本の何ページに出ていたものでしょうか?

という申し出でしたので、どこに書いてあったか探してみましたが、出てきません(-_-;)
1ヶ所『私は霊力の証を見た』の187ページの一番最後の行に少し出ていますが、これはヒーラーとは限定していませんものね。
もしかしたら、ここを私が読み間違えたのかも。
ん〜〜〜、でも、確かに別の言葉がどこかにあったような。。。。。
もし私の読み間違えでしたら、ごめんなさい m(__)m

でも、テスターのお父さんは霊能者じゃなかったと書いてあるから、どうなんでしょう。
ハリー・エドワーズは確か霊能一家だったと思いますが。

実は、この「遺伝的要素」を読んだ時、私は疑問を持ったんです。
ハリー・エドワーズを読むと、訓練次第で誰でもなれるようなニュアンスで書かれていましたから。
もちろん、霊界の治療霊のエネルギーの媒体になるには、ある程度の魂の持ち主ということなんでしょうが。

 


0163 ヒーリング能力に目覚めたきっかけは?
名前: アラム  投稿日: 2001年11月12日 (月) 21時26分15秒

ヒーリング能力をお持ちの方にお尋ねします。

本などでは、交霊会に参加したり、精神統一の集いに参加したり、ヒーリングを受けることによって、自分にヒーリングのための霊力を受け、通路となる能力があることに気付いた、知ったと出ています。

ヒーリング能力をお持ちの方は何がきっかけで、ご自分のヒーリング能力に気付き、目覚めることが出来たのでしょか?

また、ヒーラーの方は、何がきっかけでヒーラーになろうと思われたのでしょうか?

テスター氏は「霊的に病気を治す才能を天性的に具えている」
(『私は霊力の証を見た』P74)
エドワーズ氏は「病気に苦しむ人を治してやりたいと内的に感ずる人は、すべて治療の力を潜在的に持っているのです」
「生まれつきの治療家と言いうるような人がいることも事実です」
(『霊的治療の解明』P37〜P38)
チャプマン氏は『何らかの目的をもって生まれている。私にとっては、心霊治療家になることがそれだったのである」
(『霊体手術の奇跡』 G・チャプマン 近藤千雄 訳 潮文社 P23)
と語られていますが、どのように思われますか?

ところで、有希さん
>テスターは誰でもできるわけじゃなくて、遺伝的要素が強いと言っていましたよね
というのはどの本の何ページに出ていたものでしょうか?

遺伝的要素ということは、ヒ−ラーの家系に生まれるとヒーラーになりやすいということでしょうか?

ネイティブ・アメリカンのメディスン・マンなどは同じ家系の中にあらわれやすいようですが、スピリチュアル・ヒーラーの場合はどうでしょうか?

 


0162 似たような思い
名前: 有希  投稿日: 2001年11月11日 (日) 23時42分46秒

とおるさん、はじめまして。
患者の立場での書きこみ、ありがとうございました。

> この時私の頭の中では、治療していただいたお礼に何かしなければ、と必死で考えていました。治療効果のある
> なしに関係なく、無償の行為は尊いものですよね。そして頭の中に浮かんだのは、その方が常日頃おっしゃって
> いる「感謝は神様へ、大切なことは魂を成長させること」ということでした。
> 確認したわけではありませんが、多分その方は、私自身もそのように意識して生きていけたら喜んでくださるだ
> ろうと信じて、魂の成長に係わることを大切にしております。成長したかどうかは問わないで下さいね。

私も似たような思いを持ったことがあります。
といっても心霊治療に関してではないのですが。
スピリチュアリズムを学び始めた頃、あるスピリチュアリストのお宅に泊まりで出かけたことがあります。
そこの方はあまりにも質素に暮らしていらしたし、いつも多くの方が出入りするので、失礼かとは思いましたが、宿泊料として小額ですが差し出しました。
そうしたら、むげに断ることもなく、「そのお金でもう一度ここへ来て下さい。その方が嬉しいですから。」と言って下さいました。
たったそれだけの言葉ですけど、私はその言葉と心にどれだけ感動したかわかりません。
その時思ったことは、私が成長することが、一番のお返しなのではないかと。
私が真剣にスピリチュアリズムを勉強しようと思ったのは、その心に触れたからでした。
もしあの時、あの方がお金を受け取っていたら・・・私はそれほど真剣にスピリチュアリズムを勉強しようとは思わなかったかもしれません。

初めて書き込みをしてくださったとおるさんですが、似たような思いを体験されたと知って、嬉しくなりました。
今後ともよろしくお願いします。

 


0161 理想に向けて
名前: さつき  投稿日: 2001年11月11日 (日) 12時34分59秒

ハナさん、皆さんこんにちは。
ちょっとひつこいかと思ったんですけど、私も書かせてもらいました。
心霊治療のお金の問題について、ハナさんのいいたいことはよく分かります。
弁解ではないとおっしゃっていますけど、どうしても弁解に聞こえてしまいます。それは有希さんにではなく、ハナさんご自身に対してです。ハナさん自身はどうするのが一番よいのか、ちゃんと分かっていらっしゃるのに、理想通りにはいかない・・・・と一生懸命弁解しているように私には感じました。全然違っていたら、本当にごめんなさい。
実際私自身、そういうことはよくあります。こうするのが一番いいし理想なんだけど添えない自分がいる。「だって、○○だから出来ない。現実問題そんなのは無理だよね。」とあれこれあれこれと自分の魂に対して弁解している自分がいるんです。やろうと努力もしないで、最初から仕方ないと決め付けているんです。これでは、全く霊界を信じているなんて言えないと、気づいてはまた反省をする、その繰り返しです。
私がそうだから、ハナさんも同じだと言っているのではありません。本当に気を悪くされたらすみません。
一番大切なことは、自分が思っている理想に向けて少しでも近づこうと努力することだと思います。今すぐ出来るなんて霊界だって思ってはいませんしね。

ハナさんは素晴らしい力の持ち主ですね、是非ご自身の理想に向けて頑張っていただけることを本当に心から願っています。

 


0160 マズダー教、ミトラ教
名前: アラム  投稿日: 2001年11月11日 (日) 01時33分02秒

ポカQさん、こんにちは。

本来、スピリチュアリズムとは関係のない話かもしれませんね。

マズダー教、ミトラ教はキリスト教以前のペルシャ地域を淵源とする古代宗教です。

マズダー教はアフラ・マズダーを信仰対象としていまして、その中興の祖のザラスシュトラ(ゾロアスター)の名によってゾロアスター教として知られています。
善悪の二元論と現世はこの二つの力の闘争の場であり、人間はこのどちらかを選らばなければならないという教義が特徴です。
やがて、サオシュヤント(救世主)が到来して、光が闇を倒すというキリスト教の黙示録にでてくる考え方の原型のような思想があります。
キリスト教の七大天使に似た六大の精霊の思想もあります。

主なる神がアフラ・マズダーだとする場合は光のスプンタ・マンユと闇のアンラ・マンユが双子で対立しているとされています。
主なる神がズルワーンであるとする一派もあって、そこでは、光のアフラ・マズダーと闇のアンラ・マンユが双子だとされています。
これが受け継がれてキリスト教の大天使ミカエルと大魔王サタンとの対立になっています。

ミトラ教はマズダー教と同じ系統の宗教ですが、信仰対象はミトラです。
ミトラは太陽の神、光の神であると同時に、少年の姿、若者の姿の救世主でもあります。

マズダー教との大きな違いとして、アーリマンがアフラ・マズダーを殺害したことになっています。しかし、やがて堕天使アーリマンもミトラの許しによって、ミトラの天使として帰天するとされています。

ミトラは光の神であるとともに愛の神です。

現在、キリスト教でクリスマスとして祝われているのはもとはミトラマスで、ミトラの地上での誕生日だと言われています。

父なる光と愛の神であると同時に子である救世主。

キリスト教にはミトラ教からも受け継がれたものがあります。

牛を犠牲にした秘儀があることを除けば、ミトラ教はユダヤ教やイスラム教よりも平和的な宗教であるといえます。

こうした様々な神話及びアフラ・マズダー または ミトラからの啓示を聖典とした宗教がマズダー教 及び ミトラ教です。

霊訓ではイエス・キリストにつながるユダヤの系譜が本流とされているので、アフラ・マズダーやミトラの啓示といったペルシャの系譜について全く触れられていません。

ゾロアスター教徒はイスラム教の『コーラン』の中では聖典の民の一つとされています。

ミトラ教はイスラム教の一派やキリスト教のグノーシス派などにその影響を強く残しています。

このアフラ・マズダーやミトラの影響から仏教の阿弥陀如来が生まれたとする説もあるようです。

ミトラが変化したマイトレーヤは神智学やニューエイジに関係しているとも言われています。

しかし、ミトラが「弥勒」でもあって、「666」となることや、聖母預言で「反キリストの名はマイトレーヤ」と告げたとされていることなどもあり、ミトラ教がローマでミトラス教としてキリスト教から「異教」とされていたこととも関連してキリスト教では認められないようです。

イエス・キリストとよく似ていることもその原因かもしれません。

スピリチュアリズムでは全く登場することはないといっていいでしょう。

 


0159 患者側から
名前: とおる  投稿日: 2001年11月11日 (日) 01時01分41秒

こんにちは、いつもおとなしく拝見しております。

心霊治療について盛り上がっているようで、、、私は治療者側の立場では何もいえませんが、患者側としてならほんの僅かですが体験がありますので…レスがトンチンカンでないことを祈りながら少しお邪魔いたします。

10年以上も前になるでしょうか、ある方の心霊治療を受けました(純粋なスピリチュアル・ヒーリングとはいえないと思いますが)、その時その方は「これはもって生まれたものだから治らない」と言いました。私は「やはりそうか」と思いながら、精一杯の気持ちということで○万円を包んで置いて来ました。

そして、5年ぐらい前に霊界の道具として人生を歩むことを実践していらっしゃる方の心霊治療を受けました(これまた純粋なスピリチュアル・ヒーリングかどうか判りませんが)、効果のほどは、なんとなく軽くなったような感じ…ぐらいでした。
その方はお金は(品物も)受けとらないだろうとなんとなく感じました。本当に何もいらないとおっしゃいましたし。

この時私の頭の中では、治療していただいたお礼に何かしなければ、と必死で考えていました。治療効果のあるなしに関係なく、無償の行為は尊いものですよね。そして頭の中に浮かんだのは、その方が常日頃おっしゃっている「感謝は神様へ、大切なことは魂を成長させること」ということでした。
確認したわけではありませんが、多分その方は、私自身もそのように意識して生きていけたら喜んでくださるだろうと信じて、魂の成長に係わることを大切にしております。成長したかどうかは問わないで下さいね。

総じて、何がいいたいのかわかっていただけたでしょうか。決して、お金をいただくことが悪いとは思っておりません。お金を取ろうが取るまいが私のように足を運ぶものはいるものです。但し、そこで脳裏(心)に浮かぶことは違ってくるようです。

ささやかな出来事で、恥ずかしい限りです。また機会がありましたら伺います…失礼しました。

 


0158 スピリチュアル・ヒーリングと献金など
名前: アラム  投稿日: 2001年11月11日 (日) 00時21分11秒

スピリチュアル・ヒーリングと治療費の問題についてはそれぞれの考えでという答えになるのでしょうね。

有希さんも献金については認められているようですが、それと支援があるのでしたら、特に料金は必要としないわけです。

支援をしてくれる人、献金をすすんでされる人がいるか、いないかが大きな違いとなるわけです。

治療費は任意でという人も多いようです。

有希さん〜
>手伝ってくれている治療霊は一切の見返りを要求せず、無償で手伝ってくれているわけですから、その治療霊には感謝の思いを伝えて、患者さんからのお金は自分のところに

ここに問題があるわけですね。

本業を持っていて、それとは別に利他愛の実践、奉仕行として霊界の道具に徹する人であれば、治療費を受けることなどとんでもないことでしょう。

しかし、多くの患者が救いを求めてやってきて、他の仕事、生活のための糧を得るための仕事ができなくなった人でしたら、ある程度の生活の糧を得ることは必要となります。

また、以前にも書きましたが、治療のための場所などが必要となるわけです。

そして、治療者を養成するための場所、他の雑音に邪魔されず、静かに精神の統一など、霊力を受ける訓練などをすることができる場所が必要となります。
このような場所においてヒーラーとしての素質のある人が見つけ出され、指導を受けることができるようにすることです。

そのためにも資金は必要です。

こうしたことのために献金を受けることができればよいのですが、それができない場合は治療費をいただいて、それをそのために使うというようなこともあり得るのではないかと思うのです。
これは治療者が自分のためだけに使用するのとは違うのではないかと思います。

イエス・キリストとその弟子達もヒーリングは無料で行っていますが、食事は受けています。

そうでなければ、本業によって得た収入を貯蓄して、それを出し合って、ヒーラーたちが集う場を維持していくということが必要ともなるでしょう。

一人のヒーラーが多くの患者に接しようとすれば、そのための時間も多く必要となり、本業ができなくなりますが、何人かのヒーラーがグループとなり、分担して患者に接することが出来れば、本業を続けることも可能となるでしょう。また、そのための費用も分担できますから、一人でやろうとするよりも負担が減るでしょう。

他には能力の拡大が可能かどうかも問題になります。
もし、一回のヒーリングによって、何人もの人へ霊力を注入することが可能だとすれば、それだけ治療のための場所が必要なくなります。

多くの人への同時治療というようなことは可能でしょうか?

献金や支援が受けられるならば問題はなく、そうでなければ、本業を続けて収入を得るかわりにヒーリングの対象人数を少なくするか、治療費を受け取って、本業をしないかわりにそれだけ多くの人へのヒーリングを行うか、何人かのヒーラーが協力することによって、収入をえるための本業も続けるが、ヒー
リングの対象人数も減らさないようにするか、受ける器としての能力を拡大して、一度に他人数へのヒーリングを可能にするかでしょう。

治療を求める患者の数とスピリチュアル・ヒーラーの数とのつりあいがとれていないように思います。

ヒーラー・グループの数が増えれば、それだけ負担も少なくなり、料金を取らなくてもやっていけるようになるでしょう。

どれだけの人を助けたいと思っているかで、この問題への対処方法もそれぞれ変わってくるでしょう。

多くの人を助けたいと思えばこそ、収入を得るための本業を続けていきにくくなっていくと思うからです。

エドガー・ケイシーなどの例からそのように思います。

ヒーラーが宗教団体の教祖のようになっていくのも、もともとにはそうした問題がある場合もあるのではないでしょうか?

生活を維持するための本業などやめて、より多くの人を助けてあげたいという思いがあったという場合も。

こうした問題に対しては、ヒーラーが自分の背後霊団の意向を知り、それに従っていくことこそが重要でしょう。

ヒーラーでない私にはこうするべきだとはいえないことかもしれませんが。

 


0157 自分の動機を吟味して
名前: 有希  投稿日: 2001年11月10日 (土) 23時37分08秒

> 心霊治療の治療費問題はなんか収まりが悪いみたいですね(笑)。

収まりが悪いですか?
そう感じたのは、私の表現の仕方が悪かったからなんでしょうね。
それとも、私がハナさんの気持ちを理解していないと思われたからでしょうか。
人にはそれぞれの立場と考えがあるから、どんな形を取ったとしても、最後は自分の動機を吟味してみればいいことだと思います。
りゅうじんさんのおっしゃるように、

> 心霊治療の目的は病気を治すことをきっかけにして霊的に目覚めさせることだし、金儲けが目当てになっては
> 本末転倒ではあります。どんな形式を取ろうと、本来の目的を見失わずにやって行くことが大切なんだと思います。

こういうことですものね。

 


0156 しつこいようですが
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年11月10日 (土) 17時05分38秒

なんの霊的能力もない僕がいつまでも首を突っ込むのも変な話かもしれませんが、心霊治療の治療費問題はなんか収まりが悪いみたいですね(笑)。
僕は、こういった場所ではスピリチュアリズム的でないと思われがちな、ある意味合理的なハナさんの気持ちもよくわかったので、そういった立場から見た現実的な発言をしましたが、他に仕事を持っているなどして食うに困らない、時間的余裕もある人は心霊治療を生活の糧にする必要もないだろうし、自分のそういった能力を生かすために全ての時間、労力をそれに傾けようとする人は、献金であっても何らかの収入は必要になるだろうと考えたわけです。
心霊治療の目的は病気を治すことをきっかけにして霊的に目覚めさせることだし、金儲けが目当てになっては本末転倒ではあります。どんな形式を取ろうと、本来の目的を見失わずにやって行くことが大切なんだと思います。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu

 


0155 マズダー教、ミトラ教て何ですか?
名前: ポカQ  投稿日: 2001年11月10日 (土) 01時54分27秒

こんにちは、ポカQです。

アラムさん、答えて下さって有難うございます。
主と大霊、悪魔と低級霊について今まで知らなかった事が良く分かりました。

ところで
>元はマズダー教ミトラ教に由来する。
と書かれてありますが、マズダー教ミトラ教とは何なのでしょう?
初めて耳にした言葉なので、どんな宗教なのか分かりません。
もしよろしければ知ってる範囲でよろしいですので教えて下さい。

 


0154 実践が大切ですね
名前: 哲子  投稿日: 2001年11月10日 (土) 01時33分02秒

アラムさん早速のお返事ありがとうございました。
  
類魂と一つになる感覚というようなものは究めていくというようなものでなく
霊主肉従、利他愛実践の努力のなかから時期がくれば感じさせてもらえるかなと、
それよりも先ずは謙虚に地道に実践あるのみと有希さん、アラムさん、長田さんの
書き込みから再認識した次第です。
みなさまありがとうございました。

 


0153 それぞれの道があるから
名前: 有希  投稿日: 2001年11月09日 (金) 22時29分17秒

ハナさん、お忙しい中、レスをありがとうございました。
ハナさんのおっしゃることはとても現実的で、多くの問題をかいくぐってきたからこそ言える言葉だと感じました。

> でも、だれもがそう思うだけでは治療もできないし、実際、目の前で病気や不調で苦しんでいる人を見ながら、
> 「日常生活で利他愛を実践してくことが大事」と説いても、わからないのでは?と思います。
> 彼らには、とにかく助けてくれる手が欲しいのです。

確かにこういう方たちのほうが圧倒的に多いですものね。
ハナさんはこういう人たちをいつも見ていらっしゃるので、現実的に考えられるのですね。
私も以前はこういうことをよく考えましたけど、シルバーバーチを読み続けているうちに考え方が変わりました。
変わったというより、うまく割り切れるようになったということかな。
自分がなんとかしてあげなくっちゃ、と思っていた時は、いつも理想と現実の間で苦しい思いをしていました。
でも、『道具意識』という言葉の意味がわかってからは、自分はきっかけを与えるだけなんだ、わかるかわからないかはその人の成長過程での問題だから、私にはそこまで関与する権利はないんだ、と思うようになったんです。
私に守護霊がいるように、その人たちにも守護霊がいて、その人が成長できるように必死に導いてくれているはず。
出会ったことは偶然ではないから、今わからなくても、何かが種として残って、いつか芽を出してくれたらいい。
そう思えるようになりました。

> どういう方法をとっても、法律に違反していたり、人格を踏みにじるような方法でなければ(相手も納得して
> お金を払って治療を受けるわけですし)、どうか「お金を取れば罪悪感を感じるはず」と言い切らないでいた
> だきたいなあと思うのです。

ハナさんに向けてその言葉を書いたわけではないのですが、嫌な思いをさせてしまったようですね。
すみませんでした。
でも、今まで多くのスピリチュアリストに出会っていろいろな話しをしてきましたが、私だけでなくほとんどの方がお金を頂くことに対して罪悪感を感じると言ってました。
『利他愛』とはそういう感覚を伴うものじゃないでしょうか。
例えば、親が子供の食事を作り、洗濯をし、健康管理に気を配るのは単に親としての義務だけではなく、子供に対する愛情があるからであって、子供に見返りを期待してするわけではないと思います。『利他愛』とはそういう感覚だと思っています。
そして、治療に関して言うならば、手伝ってくれている治療霊は一切の見返りを要求せず、無償で手伝ってくれているわけですから、その治療霊には感謝の思いを伝えて、患者さんからのお金は自分のところに、というのは理解はできても、やはり今の私には考えられないのです。

でも、もし私がハナさんと同じ立場に立ったら、きっとハナさんと同じように考えたと思います。
現実の大人の世界は『give and take』が一番スムーズに行くようですから、ハナさんはハナさんの心の感じるままに行かれるのが一番いいと思います。
今の地上では、そういう立場で働く人の方が必要なんですものね。

 


0152 体験は素晴らしいですね
名前: 長田  投稿日: 2001年11月09日 (金) 17時30分41秒

いつも欠かさず皆さんのご意見を拝見して、いろいろ勉強になっています。
哲子さん、素晴らしい体験をしましたね。私も心霊治療をしてもらったことが
ありましたが、全然感じませんでした。もともとすごーく鈍感な私ですから、とってもうらやましいかぎりです。自分が体験をしたことって、これからの人生にとって大きな意味がありますよね。
それから、「類魂と一つになる感覚の体験」私も残念ながらまだありません。
でも、ひょっとしたら自分自身で素晴らしい感覚じゃないかと期待しすぎていて、気がつかないだけかもしれないなと思えてきました。きっと、誰かのために自分のことも考えずに一生懸命やっている時とか、自分ではとても言えないような事を相手に言っていて、後で何でだろうと思えたときとかもそうかも知れませんね。
アラムさんがいわれたように

>「霊主肉従」、「利他愛」の実践の努力と「道具意識」、「真の謙虚さ」が大切になるのでしょう。

私も本当にその通りだと思います。実践から得た感覚、体験を一つでも増やしていきたいですね。

 


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