心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('00.07.30登録)
第五信(2)
素通りの欧州大陸
七月二十七日にモスクワに着くまでは、案外汽車の中で筆を執る暇がありましたが、モスクワからロンドン着までの四日間は、おのぼりさん、見物にてんてこ舞いで、ヘトヘトに疲れ切り、なかなか途中で筆を執るどころの話ではありませんでした。止むなくロンドンのハムステッドの宿で、おぼろげな記憶をたどって、ホンの印象の一端を記すだけですから頗《すこぶ》る簡単になりました。従って読者の方でも、大いに時間が節約できるわけです。 まず私の記憶に残るモスクワの印象は、いささか悪夢のそれに似ています。ベラボウに綺麗《きれい》なクレムリン宮殿、極端にきたならしい乞食の群《むれ》、やたらにニョキニョキそびえ立つ寺院の尖塔《せんとう》、莫迦に赤茶けた屋根と壁との行列、イヤに不景気らしい、そしてイヤに曇りがちなたくさんの男女の顔……要するに市街全体の与える感じが頗る不調和、もしくは頗る無気味なもので、言わばある一つの大きな、バケモノ屋敷を見物するような趣《おもむき》があります。イヤ実際また適当な霊媒でも使って、心霊的にモスクワの内面を調査したら、現実以上にものすごいものが、きっとあるに相違ないと思います。世界に国土を形成する国民はたくさんありますが、思い切って残忍無道の殺伐を敢行《かんこう》する勇気にかけて、ロシア人などは……。イヤ、ロシアに住むユダヤ人などは、たしかに横綱格です。 モスクワ商人のぼったくり主義は、相当われわれの間に評判のわるいものでした。 「共産主義が良いか悪いかは、一度モスクワで昼飯でも食ってみればすぐに判る」と、同乗のドイツ商人が、私に向かってこぼしました。「私はまずいスープと少量のチーズと、他に二、三品下らないものを食って、二十ルーブル取られました。奴《やっこ》さん達は、他人の財布と、自分の財布との区別を知らないのですネ」 私と連れ立って市内を見物したパリの保険屋さんは、こんなことを言いました----。 「私はさっき橋の上で、寺院の尖塔を数えてみたところ、五十いくつかまでは、たしかに私の眼にとまりました。そのくせ煙突らしい煙突が、市内にほとんど一本も見当りません。これじゃ結局他人のフトコロを狙うようになりますヨ」 公平に見て、全くモスクワは、一般の観光客にとって、あまり親しみのわくものではありませんでしたが、ただナポレオン撃退の記念として、カネに飽かして、四十年がかりで建造したという、一つの大寺院のみは、建築物として、まことに立派なもので、そればかりは、私の記憶に深く々々刻まれています。 翌二十八日の午後には、われわれはすでにポーランドの首都ワルシャワに着いていました。二時間あまりの停車時間を、なるべく有効に使うべく、二人のフランス人と共同で、一台のタクシーを雇い、市内のめぼしい場所をあちこち回りました。イヤ、ワルシャワ市街の整頓していること、その公園の立派なこと、そのナントカ橋の堂々たることなどは、たしかに極東のおのぼりさんをビックリさせるに足りました。も一つワルシャワで忘れられなかったのは、サクランボの甘いことで、われわれは停車場前の広場で、ウンとそれを買い込んで自動車に持ち込み、一方でキョロキョロ眼を歓ばせつつ、もう一方でムシャムシャ口を歓ばせました。 「欲を言えばここで、世界的に有名な、クルスキーの心霊現象を見物することができれば、シメたものだが……」 私は心霊好きのパリの保険屋さんに、そんな事をささやきました。 翌二十九日の午前九時過ぎに着いたところは、ドイツのベルリンで、旅客のほとんどは、ここで下車しました。とにかくこの十日間、寝食を共にしたフランス、ドイツ、イタリア、アメリカなどの人たちと、別れを告げた時には、さすがに淡い名残《なごり》惜しさを感じました。 「イヤいろいろお世話になりました。いずれまたロンドンか、それとも東京あたりで、お目にかかることもありましょう。ごきげんよう」 われわれは、プラットホームで、そんな挨拶を交換し、ベルリンにとどまることたった三十分で、ケルンに向かいました。これはケルンで、オステンド直行の汽車に乗り換え、それからすぐに英国に渡ろうとしたもので、机上の計画としては、拙いものではありませんでしたが、実際行ってみると、ずいぶん無理な強行軍で、疲れた体で、真夜中に汽車の乗り換えをやったり、税関の検査を受けたりすることは、一方《ひとかた》ならず、極東のおのぼりさんをへこませる材料になったことが、後になって判りました。それだけでなく、ハルピンで貰って来た仮寝台券を、ベルリンで正式のものに引き換える時間の余裕が、どうしても見付けられなくて、その結果ケルンからオステンドまで、十八世紀の遺物のような一等車で、ごろ寝することを余儀なくされました。シベリアからロンドンに行くのには、やはりベルリンあたりで一、二泊の上、適当な汽車で出発する方が、いろいろと都合が良いようです。今回の旅行の失敗というのは、まずこんなものでした。 とにかく二人のおのぼりさんは、日暮れ過ぎにケルンにつき、数時間の待ち合わせ時間をつぶすべく、停車場前のとあるホテルに入って風呂に入ったり、ベッドに転がったりしましたが、おりしも同市はオリンピックの最終日とかで、各方面から集まったスポーツ好きたちが、応援歌を唱えながら全市をねり歩き、とてもちょっと寝てみるどころの話でもありませんでした。かくてその夜は十二時過ぎに、オステンド行きの夜汽車に乗り込み、その夜はロクに眠りもせず、リイジだの、ブリュッセルだのという有名な町々を過ぎ、薄ぼんやりした寝不足の顔をして、オステンドについたのは、三十日の午前八時過ぎでした。 ここで一ばん驚いたのは、北海から吹きまくる潮風が莫迦に寒いことで、外套を着ても、なおかつ寒さを感じました。温度を計ったら、恐らく華氏五十度程度だったでしょう。が、さすがに英国行きの名のある渡航場の一つとして、桟橋その他の設備は申し分なく、誰をつかまえて喋っても、問題なく英語が通じ、そして乗客の大半がイギリス人であったのは、極東のおのぼりさんに少なからぬ安心を与えたのでした。 船が出港したのはちょうど午前十時半、われわれは甲板の風当たりの少ないところに椅子を横たえ、いささかゆったり気分でうたた寝をしたり、他の船客と談話を交えたり、また時々立ってあちこち見まわしたりしました。そのうちだんだん大陸方面の山や家が、おぼろにかすみ、それと反対に、子供の頃から書物で知っている英国の白亜《はくあ》の絶壁が、次第々々に鮮明に眼に入ってきました。 「いよいよ近づいたな、モウ、ドーバーに入るのも間もなくだろう」 そう思って、私はいささか胸を踊らせました。(三・八・十五) |