心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.01.20公開)
一.その生い立ち
私のように修行も中途半端で考えも足りない一人の昔の女が、おこがましくもしゃしゃり出る幕ではないことはよくわかっています。でもこのように度々お呼び出しを受け、ぜひ詳しい通信をと続けざまに催促を受けましては、ついついその熱心さに心動かされ、むげにお断りもできなくなってしまいました。それに神様からも ただ前もって一つお断りしておきたいことがあります。それは私の生前の生活の模様を、あまり根ほり葉ほり聞いてほしくないということです。私にはそれが何より辛く、今更何の得にもならないので、自分の昔の身の上などちっとも話したくはありません。というか、こちらの世界へ移ってからの私たちの第一の修行は、なるべく早くみにくい地上の執着から離れ、少しでも現世の記憶から遠ざかることです。私たちはこれでも色々と工夫した結果、やっとそれができてきたところなんです。だから、私たちに向かって身の上話をしろとおっしゃるのは、せっかく治りかけた心の古傷をもう一度えぐり出すような、ずいぶんむごい仕打ちです。幽明の交通を試みられる人たちには、いつもこのことを頭に置いておいて頂きたいと思います。というわけで私の通信は、だいたい私がこちらの世界に引き移ってからの経験、つまり幽界の生活、修行、見聞、感想といったような事柄に力を入れてみたいと思います。またそれがこの道に携わる方々の、私に期待されるところかと思います。もちろん精神を統一してじっと深く考えこめば、どんな昔の事柄でもはっきり思い出すことができますし、しかもその当時の光景までがそっくりそのままの形態を保って、目の前にありありと浮かんできます。だって私たちの境涯には、ほとんど現在、過去、未来の区別なんかないんですもの。でも無理にそんな事をして、足利時代の絵巻物をくり広げてお目にかけたところで、大した値打ちはないでしょう。現在の私は、とうていそんな気分になれないのです。 とは言っても、今いきなり死んでからの物語をはじめたんでは、なんだかあまりに唐突で、この世とあの世のつながりが少しもわからない、取りつくしまがないと思われる方もあるかと思いますので、すごく不本意ですが、私の現世での経歴のほんのあらすじだけをかいつまんでお話することにいたしましょう。これも乗りかけた船、現世と通信を試みるものの逃れられない運命、業かもしれません。 私は実は、相州荒井《そうしゅうあらい》の城主三浦道寸《みうらどうすん》の息子、荒次郎義光《あらじろうよしみつ》という武士の妻だったものです。この世に生きた時の名前は小桜姫といい、時代は足利時代の末期、今から四百年ぐらいの昔です。もちろんこちらの世界では昼夜の区別も月日の流れもありませんので、私はこれらのことをただ神様からうかがって、なるほどそうなんだと思うだけのことに過ぎません。四百年といえば現世では相当長い年月ですが、不思議なものでこちらではそれほどにも感じません。たぶんじっと心を鎮めて、無我の状態を続けている期間が長いせいでしょう。 私の生家は鎌倉にありました。父の名は大江廣信《おおえひろのぶ》、代々鎌倉幕府に仕えた家柄で、父もやはりそこに勤めていました。母の名は袈裟代《けさよ》といい、加納家から嫁いできました。両親の間には男児はなく、たった一粒種の女の子があっただけで、その一粒種がこの私というわけなんです。だから私は子供の時からすごく大切に育てられました。別にカワイイというほどではありませんでしたが、身体は大きな方で、それに健康でしたから、私の娘時代は全くの苦労知らずでした。ちょうど春の小鳥のように、楽しいのんびりとした空気に浸っていました。幼いころにはおじいさんもおばあさんも元気で、それはそれは眼に入れても痛くないほどかわいがってくれました。天気のいい日などには、私はよく二、三人の腰元を連れて、長谷の大仏、江ノ島の弁天などにおまいりをしたものです。よせては返す七里ヶ浜の波打ち際の貝拾いも、私の何より好きな遊びの一つでした。その時代の鎌倉は、武家の屋敷の建ち並んだ、物静かなそしてなんだか無骨な街で、商店も品物は皆屋敷の奥深くしまいこんでありました。そういえば、私はつい最近ちょっとした用で、こちらの世界から鎌倉をのぞいてみましたが、赤瓦や青瓦でふいた小さなお家がびっしり建っていて、そのけばけばしさにはすっかりあきれてしまいました。 『うっそー!あれが私が生まれたのと同じ鎌倉なの?……。』私は一人そうつぶやいたものです。 その頃の生活状態をもっと詳しく話してみてはとのご要望がありましたので、おしゃべりついでに少しばかり想い出してみることにしましょう。もちろん少しも順序立ってはいませんので、どうぞそのおつもりで。 |