心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.01.20公開)
二.その頃の生活
まずその頃の私たちの受けたしつけについてお話してみましょう。時代が時代なので、しつけはいたって簡単なものでした。学問は読み書き、習字、それに歌道(短歌)を一通り、全て家庭で習いました。武芸は主になぎなたのけいこで、母がよくなぎなたを使いましたので、私も子供の時分からそれをしこまれました。その頃は女でも武芸一通りはけいこしたものです。娘時代に受けた私のしつけというのは大体そんなものです。馬術は後に三浦家へ嫁入りしてから習いました。最初私は馬に乗るのがいやでしたが、夫から『女性でもそれくらいの事はいるよ』と言われ、彼から教えてもらいました。実際やってみると馬は案外おとなしいもので、私は大変乗馬が好きになりました。乗馬の時はすっかり服装が変わり、乗馬袴をはいて白鉢巻きをするのです。主に城内の馬場でけいこしたんですが、後には乗馬姿で鎌倉へ里帰りしたこともあります。おともも男性ばかりでは困りますので、一人の腰元にも乗馬のけいこをさせました。その頃はちょっとの外出にも四、五人のおともは必ずついたものですから。 今度はその当時の物見遊山《ものみゆさん》(観光旅行)のお話でもいたしましょうか。物見遊山といってもそれはすごく単純なものでした。普段はお花見、潮干狩り、神社仏閣もうでなどで、今と大した違いはないでしょう。ただ当時の男性にとっての何よりの楽しみは猪狩《ししが》り、兎狩《うさぎが》り等の狩り遊びでした。皆手に手に弓矢を持ち、馬にまたがって、それはそれは大変な騒ぎで出かけたものです。父は武人ではないのですが、それでも山狩りが何よりの道楽なのでした。筋骨の逞しい武家育ちの私の夫などはなおさらのこと、三度の食事を一度にしてもいいくらいの熱心さでした。『明日は大楠山の巻狩りに行くぞー!』などとおふれが出ると、馬の手入れ、弁当の支度、おともの勢揃いと、まるで戦争のような騒ぎでした。 そうそう風流な優しい遊びも少しはありました。それは主に能狂言、猿楽などで、家来達の中にもそれぞれその道の達人がいまして、私たちも時々見物したものです。だけど自分でやった覚えはありません。京とは違って東国は大体武骨な遊び事がはやったものです。 衣服や調度類ですか?鎌倉にもそうした品物を売り歩く商人の店があるにはありましたが、先ほども述べたとおり、別に人目を引くように品物を店頭に並べるようなことはあまりありませんでした。呉服なども、良い品物は皆特別に織らせた物で、はたおりがなかなか盛んでした。もっともごく高価な品は鎌倉では間に合わず、はるばる京であつらえたように記憶しています。 それから食べ物……これは今の世の中よりずっと簡単なように思われます。こちらの世界へ来てからの私たちは全然飲食をしませんので、こまかいことはわかりませんが、私の守護しているこの女性(T夫人)の平生の様子から考えてみますと、今の世の調理法が大変手数のかかるものであることはなんとなく想像されますね。あのたいそう甘い白い粉……砂糖とかいうものは、もちろん私たちの時代にはありませんでした。その頃のお菓子としましては主に米の粉を固めた打ち菓子でした。それでもうっすらと舌に甘く感じたように覚えています。また食べ物の調味には、甘草《かんぞう》という薬草の粉を少し加えましたが、ただそれは上流階級の人たちの調理に限られ、一般に使用するものではなかったように記憶しています。むろん酒もありました。濁ってはいませんが、そう透きとおったものでもなかったようです。それから飲料としては桜の花漬けを湯飲みに入れてさゆをさして客などにすすめました。 こういったお話はあんまり詰まらなさすぎますので、どうぞこれくらいで切り上げさせてください。私のようなあちらの世界の住人が、食物や衣類などについて遠い遠い昔の思い出話をするのは、なんかお門違いをしているようで、ぜんぜん興味が乗らなくて困っちゃいます。 |