心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.02.25公開)
参考のために幽界の修行の模様を聞きたいとおっしゃるのですね。わかりました。私の知っていることは何でもお話いたしますが、しかし現界で行うのとあまり違いはありませんよ。私たちもやはりご神前に正座して、心に天照大御神様《あまてらすおおみかみさま》の御名《みな》を唱え、また八百万の神々にお願いして、できるだけ汚い考えを払いのけることに精神を打ち込むんです。もともと肉体はありませんので、現世でやるような斎戒沐浴《さいかいもくよく》はしません。ただ斎戒沐浴をしたと同じ清らかな気持ちになればよいだけの話です。 それで本当に深い深い統一状態に入っちゃいますと、私たちの姿は球状になります。ここが現世の修行と幽界の修行の一番目立つ相違点かもしれませんね。人間はどんなに深い統一ができても、身体はそのまま残ります。いかに本人が心で無と感じましても、側から見ればちゃんとその体は見えています。しかしこちらでは、本当の精神統一に入った途端人間らしい姿は消えうせて、側から見ても一つの白っぽい玉の形にしか見えなくなるんです。人間の姿が残っているようでは、まだ修行が進んでいない証拠というわけです。『あんたのその見苦しい姿は何だ。まだ執着が強すぎるぞ。』何度見苦しい姿をおじいさまに見つかってお叱りを受けたか知れません。自分ではこんなことではだめと思い直し、一生懸命神様を思って清らかな気分を続けようとあせるのですが、あせればあせるほど暗い影がチラチラと心に差し込んできて、統一を妨げてしまうんです。私の岩屋の修行というのは、結局こういった失敗とお小言の繰り返しで、自分でもホトホト愛想が尽きちゃうほどでした。私ってよくよく執着が強く、罪深い女性なんだわって。こんな生活が何年ぐらい続いたかというと、自分ではとにかく無我夢中で、そんなに長い時間とも思えませんでしたが、後でおじいさまに伺ったところによりますと、現世の年数にしてざっと二十年余りだったとの事でした。 現世的執着がたくさんある中で、私にとって他の何より断ち切るのに骨が折れたのは、前にもお話いたしましたが、やはり血を分けた両親に対する恩愛でした。現世で何一つ親孝行らしいこともせず、ただ一人先立ってこちらの世界に来たのかと考えると、何とも言えず辛くて、悲しくて、名残惜しくて、また申し訳なくて、それこそいても立ってもいられないように感じるほどでした。人間何が辛いといっても、親子が順序を変えて死ぬことほど辛いことはありません。もちろん私には夫に対する執着もありましたが、なんといっても夫は私より先に亡くなっており、それに神様が、時機が来れば会わせてやるとおっしゃいましたので、割合早くあきらめがつきました。ただ現世に残してきた父母のことだけはどうしてもあきらめがつかなくて、悩みぬきました。そんなときには神様も精神統一もへったくれもあったものではありません。近くの岩にすがりついて、もだえ泣きました。そんなことしたって、一度死んだものがとても生き返ることなどできはしないと頭ではわかっているのですが、やめられませんでした。 しかもさらに困ったことには、現世に残っている父母の悲嘆にくれた気持ちがひしひしと、幽界の私の胸まで通じてくることでした。両親は怠りなく私の墓に詣でて花や水を手向けてくれました。また十日祭とか五十日祭などという日には、その都度神職を招いて丁重な祭祀をしてくださるのでした。その時分の私はまだ修行未熟で現界の光景は見えませんでしたが、しかし両親が心に思っていることははっきりとこちらに感じてくるばかりか、『姫よ、姫よ!』と呼びながら、消え入るように嘆き悲しむ声までも響いてくるのでした。あの当時のことは、今思い出してもつい涙ぐんじゃうほどです。 このような親子の情愛などというものは、いつまでたってもなかなか消えてなくなるものではないようで、私にとっては今でもやはり父は父として、母は母として懐かしく感じます。でも不思議なもので、だんだんと修行が進むにつれて、なんだか心の発作を打ち消すのがうまくなっちゃったようです。これが向上というものなのかしら、なんて思います。 |