心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.05.07公開)
山の修行場に移ってからの私は、何となく気分が晴れやかになったようでした。主な仕事はやっぱり神前に正座して精神統一をやるんですが、ただ合間合間によく外へ出てあたりの景色を眺めたり、鳥の声に耳をすませたりするようになりました。 前にもお話しましたが、私の修行場は山の中腹の平地にありました。崖の上に立って眺めますと、立木の隙間からはずっと遠方が眼に入り、なかなかの絶景でした。どこにも平野らしいところはなく、見渡す限り山また山、高い山や低い山、色が濃い山薄い山、とその様子はさまざまですが、どの山にも樹木が茂っており、とがった岩山などはただの一つも見えませんでした。これらの山々が十重二十重に折り重なって見えるところは絵巻物を見ているようで、全く素晴らしい眺めでした。ついウットリ見惚れて、時のたつのも忘れちゃったこともあるほどです。 それからあちこちの木々の茂みの中から、なんともいえぬ美しい鳥の声が聞こえました。それは昔鎌倉の山中でよく聞いた不如帰《ほととぎす》の声に少し似ていましたが、もっと冴えてにぎやかでこみいった音色でした。たった一人の話し相手さえない私にとって、この鳥の声にどれだけ慰められたか知れません。どんな種類の鳥かしらと、ある時おじいさんに尋ねてみたんですが、こちらの世界でもよっぽど珍しい鳥だそうで、現界にはなおのこと全然見当たらない種類だそうです。もっとも音色が美しい割に毛並みは案外つまらない鳥で、ある時ふと近くの枝にとまっているところを見てみましたが、大きさは鳩ぐらい、いくぶん現界の鷹に似ていまして、首に長い毛が生えていました。幽界の鳥でもやはり声と毛並みはそろわないものなんだわ、と妙に感心しちゃいました。 もう一つここの景色の中で特に私の眼を引いたものは、向かって右手の山の中腹にちらちら見える一つの丹塗《にぬり》(赤い塗装)のお宮でした。それはほんの三尺四方(約1u)位の小さな社《やしろ》なんですが、見渡す限り緑一色の中に、そのお宮だけがくっきりと赤く冴えて見え、大変目立っていました。私の心はだんだんそのお宮に惹きつけられていきました。 そこである日、おじいさんがいらっしゃった時にたずねてみました。 『おじいさま、あそこにすごーくきれいな丹塗のお宮が見えるんですけど、どなたをおまつりしてあるんですか。』 『あれは龍神様のお宮だよ。これからは私ばかりに頼らないで、龍神様にも直接ご指導してもらいなさい。』 『えー、龍神様ですか。』 私は意外に感じて尋ねました。 『いったいそれはどういう神様ですか。』 『そろそろあんたも人間と龍神の深い関係を知っておいた方がいいだろう。相当奥深い事柄だから、とてもすぐには納得できないだろうが、そのうちだんだんとわかってくると思うよ。』 おじいさんはまるで学校の先生のような感じで、色々講義してくれました。おじいさんは次のように語りだしたのです。 『龍神というのは一口で言えばもとの生き神で、人間がこの世に出現する前からこちらの世界で働いている神々なんだ。たまに龍の姿にもなるから龍神には違いないけど、でもいつもあんな恐ろしい姿じゃないんだよ。時と場合によってはやさしい神の姿にもなれば、一つの丸い玉にもなる。現に私だって龍神の一人なんだけど、あんたの指導役として現れる時はいつも、こんな老人の姿になるもんね。ところでこの龍神と人間の関係なんだけど、人間は何も知らないもんだから最初から自分だけの力で生まれてきたなんて思ってるが、実は人間は龍神の分霊、つまり子孫なんだ。ただ龍神はあくまでこちらの世界のものなのに対し、人間は地の世界のものであるから、幽から顕(幽界から現界)へ移り変わる仕事は本当に困難で長い長い年月を経てようやくものになったのだよ。詳しいことは後で追い追い話すとしようか。とにかく人間は龍神の子孫、あんただって先祖をたどれば、やっぱりとある尊い龍神様の末裔《まつえい》なんだ。これからはそのこともよくわきまえて、龍神様のお宮にお参りしなくてはね。また、機会があったら龍宮界へも案内し、乙姫様にも会わせてあげよう。』 おじいさんの話はなんだか回りくどくて、当時の私なんかにはチンプンカンプンな所がありました。特におかしかったのは、龍宮界だの、乙姫様だのということで、私は実際笑い出しちゃったほどです。 『えー、龍宮界なんて本当にあるんですの。あれは人間世界の作り話だと思ってましたけど。』 『違うんだなそれが。』とおじいさんはどこまでもまじめな顔でおっしゃいました。 『人間界に伝わる、あの龍宮の物語は実際こちらの世界で起こった事実に、いくぶん尾ひれをつけて面白おかしくなっただけなんだよ。そもそも龍宮というのは、神々がおくつろぎあそばす所のことで、言うなれば人間界での家庭のようなものなんだ。前にも言ったと思うけど、こちらの世界は作り付けの世界と違って、場所も家も人の姿も思った通りに自由に変えられる。だから龍宮界だけが龍神の世界だと思うのは大きな間違いで、龍神の働く世界は他にも数え切れないほどたくさんあるのさ。でも神々が何よりも好まれるのが龍宮界なんだ。龍宮界は主に乙姫様のお指図で出来上がった家庭の理想郷なんだよ。』 『乙姫様とおっしゃいますと…。』 『龍宮界で一番の女神様で、日本に昔から物語の中に語り伝えられてきた豊玉姫様《とよたまひめさま》のことだよ。神々にも色々とお好みがあるので、他にも様々な世界があちこちに出来上がっているが、それらの中で何といっても一番輝いているのがこの龍宮界だ。すべてがいかにも清らかで優雅で、そしてその華美な中にもなんとも言いようのない神々しさがあるんだ。とても私の口からは語り尽くせなくて困るんだがね。あんたもたくさん修行を積んで、早く実際に龍宮界にいって乙姫様に会えるといいね。』 『私のようなものにそんなことがかなうでしょうか。』 『それはもちろんかなうよ。というかかなうだけの因縁があるからね。何を隠そうあんたは乙姫様の末裔なんだ。だからあんたの龍宮界行きは、言わば里帰りみたいなものなのさ。』 おじいさんの説明は全部が全部しっくりと理解はできませんでしたが、それでも普通では考えられないほど私の好奇心をそそったのでした。それからの私はいつも龍宮界のこと、乙姫様のことばかり考えるようになりました。後で考えるとこのことは私の幽界生活の一つの大きな転換点になったようです。でも実際に私が龍宮界へ行ったのは、それからしばらくたってからでした。 |