心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.05.16公開)
こちらの世界の仕事は、何をするにも至極あっさりしていまして、全てが手っ取り早くすんじゃいますが、それでもいよいよこれから龍宮行きと決まった時には、それ相当の準備をいたしました。何よりも大事なのは斎戒沐浴、つまり心身を清める作業です。もちろん私たちには肉体はありませんから、人間のように実際水をかぶるわけではありません。ただ水をかぶったような清浄な気分になればいいだけのことです。するといつの間にか服装までもが白衣《びゃくい》に変わっているんです。心と姿がいつもピッタリ一致するのがこの世界の掟で、人間界のように心と姿を別々に使い分けることなんてとてもできないんですもの。 そんなわけで私は白衣姿でまずご神前に端座祈願し、それからあの龍神様のお祠に詣でて、これから龍宮界へ参らせていただきますとご報告いたしました。先方から何か返事があったかとのお尋ねですね。もちろんありましたよ。『喜んであなたのお出でをお待ちしております。』なんて、とっても丁寧なご挨拶を頂きました。 龍神様のお祠から自分の修行場に戻ってみると、もう指導役のおじいさんが待っていました。 『支度ができたらすぐ出かけることにしよう。私が龍宮界の入り口まで送ってあげる。それから先はあんた一人で行くんだよ。それも修行のためだからね。あまり私ばかり頼ってもらっても困るのだ。』 そう言われた時はなんだか心細く感じましたが、すぐに気を取り直して旅支度を整えました。私のその時の旅姿ですか。それは現世で旅した時とそっくり同じでした。前から龍宮界は世にも綺麗で派手な所なんてうかがっておりましたので、私もすっかりその気になっちゃって、白衣の上に私の生前一番好きだった色模様の衣装を重ねて着ました。これは綿の入った裾の厚いものでして、旅行中は腰のところをひもで縛って着ました。もう一つ旅姿になくてはならないのが被衣《原文かつぎ、正しくはかずき、もしくはかづき》(頭にかぶること、もの:大辞林第2版より)ですね。私は生前の好みで、白の被衣をかぶることにしました。はきものは厚い草履《ぞうり》を選びました。 おじいさんは私の姿を見てニコニコしながら、『なかなか念入りな旅姿だなあ。乙姫様もこれをご覧になったらさぞお喜びじゃないかな。私なんかはいつも一張羅だけどね。』 そんな冗談をおっしゃったおじいさんは、いつもと同じ白衣に白い頭巾をかぶり、それから長い長い杖を持ち、裸足に白い鼻緒のついたわらの草履をはいて、私の先を歩いていかれました。ついでですからおじいさんのことをもう少し詳しく話しちゃいましょうか。年の頃は、そうねえ、八十歳ぐらいかしら。髪は白髪で真っ白、髭も真っ白、おまけに眉毛も真っ白、全て真っ白けです。顔立ちは面長で、目鼻立ちのよく整ったとても上品なお顔ををされています。私は仙人に会ったことはありませんが、もしも仙人というものが存在するならば、それは私を指導してくれているおじいさんのような方なんじゃないかしら、なんて思います。それほどおじいさんは何から何まできれいに枯れきって、すっかりあく抜けされていらっしゃるんですよ。 山の修行場を後にした私たちは、ずいぶん長い間険しい山道を下へ下へと降っていきました。おじいさんが先に立って案内してくださるので不安はありませんでしたが、所々危ない難所を通りました。また道々どこにいても例の甲高い霊鳥の鳴き声が、周りの木々の間から降るように聞こえていました。おじいさんはこの鳥の声がよっぽどお好きなようで、『こればっかりは現界では聞けない声だね。』と自慢されていました。 やっと山を降りきったと思ったら、突然一つの大きな湖が現れました。よっぽど深さがあるようで、たたえた水は藍を流したように蒼味を帯び、その水面には対岸の鬱蒼《うっそう》とした森林の影が、くろぐろとうつっていました。岸にはどこもかしこも割ったような岩が張り付き、それに松、杉その他の老木が大蛇のように垂れ下がっている様は、風情が良いどころの話ではなくものすごい光景でした。 『どうだい、この湖の景色は。あんたはあんまり気に入っていないようだね。』 『私はこんな陰気くさいところはいやですわ。でもここは何かいわれのある所なんですか。』 『ここはまだ若い、下等の龍神たちの修行の場所なんだよ。私は時々ここを見回りに来るので、よーく勝手を知っている。何事も修行の内だ。あんたもここでちょっと統一してみなさい。沢山の龍神たちの姿が見えるよ。』 あんまりいい気持ちはしませんでしたが、修行と言われたからには断るわけにもいかず、私はとある岩の上に坐って統一状態に入ってみました。すると湖水の中に肌の色の黒っぽいあまり品のよくない龍神さんたちがぎっしり詰まっていました。角のあるもの、ないもの、大きなもの、小さなもの、眠っているもの、暴れているもの…。初めてそんな不気味な光景に接した私は、思わずビックリして眼を開けて叫んじゃいました。 『おじいさま、もう沢山です!もっと晴れやかな場所に連れて行ってくださいませ。』 |