心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.08.03公開)

三十一.香織女《かおりじょ》


 

 夫との再会を物語りましたついでに、同じ頃私がこちらの世界で再会を遂げた二、三人についてお話してみましょう。この方達と縁もゆかりもない現世の人たちには、あまり興味が湧かないと思いますが、私自身には忘れがたい事ですので、少々お付き合いください。

 一人は私がまだ実家にいた頃に腰元のように可愛がっていた香織という女性です。香織は私より年が二、三歳若く、顔立ちは十人並みですが、目元の愛くるしいなかなか利発な女性でした。身元は長谷部何がしという出入り徒士《かち》(※訳注1)の確か次女だったと記憶しています。

 私が三浦に嫁いだ時に香織は実家に戻りましたが、その後もしょっちゅう鎌倉からはるばる私のところに訪ねてくれていましたし、なにより私のことを『姫《ひい》さま、姫《ひい》さま』と呼んでなついてくれていました。そのうち彼女も縁あって、鎌倉に住んでいる一人の侍のもとに嫁ぎました。夫婦仲もたいそう円満で、二人の男の子も生まれました。気立ての優しい彼女はその子供達を大変可愛がり、三浦に来る時は一緒に連れて来たりしていました。

 当時の事は今ではもう夢のようで、詳しい事はすっかり忘れてしまいましたけど、ただ私が現世を離れる時、彼女から心よりの看護を受けた事だけは、今でも深く深く頭の底に刻み付けられているんです。彼女は私の母と一緒に例の海岸の私の隠れ家に詰めて、それはそれは親身に世話をしてくれました。それから私の病気が早く治るようにと氏神様に日参までしてくれたのでした。

 ある日病床で彼女から髪を梳《と》いてもらったことがありました。生前の私は髪が大変多く、日頃から母の自慢の種だったんですが、その頃はすでに寝たきりだったので、見る影もなくもつれていたんです。彼女は髪を梳かしながら、『せっかく梳かせばこんなに綺麗な髪なのに、もつれたままなんて可愛そう。』といってさめざめと泣きました。それを側で見ていた母も『もう一度元気になって、晴れ着なんか着せてみたいわ。』なんて言いだして、泣き伏しちゃいました。こんな話をしていると不思議な事に私の眼には今でもその場の光景がまざまざとよみがえってくるんです。

 いよいよもうダメと観念した時に、私が日頃一番大切にしていたひとかさねの小袖(※訳注2)を形見として彼女に譲りました。彼女はそれを両手にささげ、『いつまでもいつまでも姫さまの形見、大切に保存いたします。』と言いながら、あたり構わず泣き崩れました。でももうその頃には私の心は大分落ち着いてしまっていて、この世に別れを告げる事がそれほど悲しくもなく、目を瞑ると死んだ夫の顔がすぐに出現するほどになっていました。

 とにかくこれほどまでに因縁の深い関係でしたから、彼女がこちらに来てからも私のことを忘れるはずもないのでした。ある日私がご神前で統一の修行をしていますと、急に体がぶるぶるとふるえるような気がしました。何気なく後ろを振り返ってみると、年の頃五十ぐらいの一人の女性が座っていました。それが彼女、香織でした。

※訳注1:徒士----武士の身分の一。江戸時代、幕府・諸藩とも御目見得以下、騎馬を許されぬ軽輩の武士。おかち。----インフォシーク/大辞林より。ここでは、小桜の実家・鎌倉大江家に縁あって出入りしていた足軽を指すと思われる。----訳者)

※訳注2:小袖----袖口が狭く、垂領《たりくび》で前を引き違えて着る衣服。現在の長着の原形。平安時代には、貴族の装束の内衣であり、庶民は日常着として用いた。次第に貴族の服装が簡略化されるにつれて上衣《うわぎ》となり、男女ともに広く着用するようになった。室町時代にさらに洗練されて、打掛《うちかけ》・被衣《かつぎ》などの豪華な装飾用の小袖を生んだ。----大辞林第二版より)

 


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