心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.08.06公開)

三十二.無理な願い


 

『昔の香織のような面影はかすかに感じるけれど、それにしちゃ老けてるわね。』なんて私が躊躇《ちゅうちょ》していますと、彼女はさもじれったそうに膝をすり寄せてきました。

『姫《ひい》さま、私をお忘れですか。香織でございますよ。』

『やはりそうでしたか。私はあなたがまだ元気で現世に暮らしているものとばかり思っていたわ。いつなくなったの。』

『もうかれこれ十年ぐらいにもなるでしょうか。私のようなつまらないものは、とてもこちらで姫さまになんか会えっこないと思い込んでいましたが、今日は思いがけず願いがかなってこんなに嬉しい事はありません。よくまあご無事で。姫さまはちっとも昔とお変わりありませんね。お懐かしゅうございます。』現世じみた挨拶を述べているうちに、彼女はとうとう私にしがみついて泣き出しちゃいました。私もついもらい泣きして、しばらく二人して泣いてしまいました。

 興奮がおさまってから私たちはよもやまのお話で盛り上がりました。

『ところであなたは一体どこが悪くて亡くなったの。』

『おなかの病気でした。毎日針で刺されるようにキリキリと痛み続けた挙句、とうとうこんな事になりました。』

『それは気の毒な事でした。だけどどうしてあなたの死ぬ事が、私の方に通じなかったんでしょう。普通なら臨終の思いが感じてこないはずはないんだけど。』

『それは…きっと私の不心得のせいですわ。』と、香織は面目なげに語りだしました。『日頃私は姫さまの形見の小袖を着せてもらって、すぐお側に行ってお仕えするんだなんて口癖のように言っていたんですが、いざとなった時にさっぱりそれを忘れちゃってたんです。どこまでも執着の強い私は、自分の家族の事、とりわけ二人の子供の事が気にかかり、なかなか死に切れなかったんです。こんな心がけのよくない女の臨終の知らせが、どうして姫さまのもとに届くでしょうか。何もかも私が悪かったのです。』

 正直者の香織は涙ながらに、臨終の心がけが悪かったことをしきりに詫びるのでした。しばらくして彼女は言葉を続けました。

『それでもこちらに来て色々と神さまからおさとしを受けたおかげで、私の現世での執着も次第に薄らぎ、今では修行も少し積むことができました。でもそれにつれて日増しにつのってくるのは姫さまをお慕いする心です。こればっかりはどうにも我慢ができず、何度神さまに姫さまとの再会をお願いしたか知れません。神様の方では格別お怒りにならず、それでも内々に姫さまのことをお調べになられていたとみえまして、この度いよいよ時節が来たとなったところで、ご自身で私を案内して連れてきてくださったのです。姫さまお願いでございます。これからはどうぞお側に私を置いてくださいませ。私は昔のとおり姫さまの身のまわりのお世話をしてあげたいのです。』

 そう言って彼女はまた私にすがりつきました。

 これにはさすがの私もホトホト困ってしまいました。

『神界の掟としてそればっかりは許されないんだけど。』

『それはまたどうしてです?私はぜひここに置いていただきたいんですけど。』

『そんな事は現世での話であって、こちらの世界ではあなたも知っているように、着替えにも髪の手入れにも、少しも人手が要らないでしょう。それ以上にどうしようもないのは、身魂《みたま》の因縁だわ。めいめいきちんと割り当てられた境涯があるので、たとえ親子夫婦の間柄でも、自分勝手に同棲する事はできないのよ。あなたのこころざしは嬉しく思いますが、どうかあきらめてね。会おうと思えばいつでも会える世界なんだから、どこに住まなければならないなんてことはないはずよ。それほど私のことを思ってくれるんなら、そんなわがままを言う代わりに、しっかり修行をなさい。そして思い出したらちょいちょい私のところに遊びに来てね。』

 最初彼女はなかなか納得しないようでしたが、それから少し話し合った後、その日は自分のところに帰って行きました。

 その後香織とは絶え間なく通信しあっていますし、たまには会ったりもします。そして今では彼女もすっかり明るい境涯に入り、顔なども若返って、自分にふさわしい神様のご用に勤《いそ》しんでいるのです。

 


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