神社の参拝者とひと口に言っても、その種類は実にさまざまです。最近は神さまを敬う気持ちが薄れたせいか、めっきり参拝者の数も減り、また熱心さも薄らいじゃったようですけど、昔はずいぶん真剣な方が多かったんですよ。時代の変化は、こちらから見ていると実によくわかります。心霊のあるのか無いのかさえあやふやな人たちが形式的に頭を下げても、らちがあきません。神社もうでで一番大事なのはやっぱり真心です。たとえ神社にまで行かなくても、熱心に念じてくだされば、ちゃんとこちらへ通じるんですから。 参拝者の中で一番数も多く、ある意味美しいのは、やっぱり何の注文もせずにお礼に来る方々でしょう。『毎日安泰に暮らさせていただきまして、誠にありがとうございます。明日からも何とぞ無事に過ごせますようお願いいたします。』昔はこんなさっぱりしたお祈りばっかりだったんですけど。そうそう、私が神に祀られた当時は、津波で助かった人々のお礼参りでにぎわったものです。もちろんあの津波で多くの方々が亡くなったんですけど、心がけのよい遺族は決して恨みがましいことを言わず、死ぬのも寿命だからとあきらめて、心からのお礼を述べてくれるのでした。私としては、これらの人々を自分の力だけで助けたわけではありませんので、お礼なんか言われるとかえって気の毒になっちゃって、一層がんばって皆を守ってあげなくちゃ、なんて気持ちになるのでした。 お礼参りの次に多いのは、病気平癒の祈願、なかでも子供の病気の平癒祈願です。母性愛というのは全く特別なものみたいで、あれほど純粋で、そしてあれほど力強いものはめったにありません。そんなことは実によく私の胸に通じてきます。でもどんなにたのまれても、人間の寿命ばかりはどうにもなりません。ずいぶん一心不乱になって神様におすがりしても、死ぬ時はやはり死んでしまいます。そんな場合、平生から心がけのよいものは『これも因縁だから仕方ありません。』なんて、立派にあきらめてくれますが、中にはずいぶん性質《たち》がよくないものもいます。『あんな神さまはダメだ。いくらたのんでもちっとも効かないじゃないか。』なんてことを言って、挨拶にも来ないんですから。それがまたこちらによく通じるんですから笑っちゃいます。やっぱり人物の善悪は、物事がうまくいったときよりもいかなかった時の方がよくわかりますね。 次に案外多いのが、恋愛の祈願、好きなもの同士をぜひくっつけてほしいなんていう祈願ですの。そんな類のものは、よく産土神さまにうかがいまして、差しつかえないものはできるだけ話がまとまるように骨を折ってやりますが、中には妻子のある男性と一緒になりたいとか、また人妻と添わせてほしいなんて、いわゆる不倫めいた無理な注文もありますが、もちろん私としては、そんな祈願は受け付けないばかりじゃなく、場合によっては神さまに申し上げて罰を下してもらいます。モグリの新興宗教じゃあるまいし、正しい神としてこんな祈願を聞き届けることは、絶対に無いと考えてもらって間違いありません。 その他事業成功の祈願、災難除けの祈願などいろいろあります。これはどの神社でも大体一緒です。人間はどんなにえらそうに見えても、ずいぶんと隙間《すきま》だらけで、またずいぶんと気が弱いもので、日ごろ大きなことを言ってイバっていても、まさかの場合は手も足も出はしないんです。もちろん神の援助にも限りがありますけど、それがあるのとないのとでは大違いです。もともと神霊界があってはじめて人間界が成り立っているわけですから、今さら人間がつむじを曲げて神様を無視することなんてできないんです。そんなわけで神様の方ではいつもちゃんとお膳立てをして、待っていてくださるんですよ。 それからもう一つ触れておきたいのは願掛け、つまり念入りの祈願ですね。たいてい人の寝静まった真夜中のものと決まっていますけど、そうした場合にはもちろん私の方でもよく注意して対応しています。夜中だからいけないなんて全くありません。現世でいうならちょうど、救急患者に呼び起こされる当直医師といったところかしら。 まだまだ細かく挙げていったらキリがありませんが、参拝者の種類と言えばざっとこんなところです。 それでは二、三、私が経験した実例をお話しようと思いますが、その前に少しお伝えしておきたいことがあります。それは、それらの祈願を聞く場合の私の気持ちについてです。ただぼんやり聞いていたんでは聞き逃す恐れがありますので、朝になればいつも深い統一に入り、そしてそのまま御幣と一緒になってしまうのです。その方が参拝者たちの心がずっとよくわかりますもの。いってみれば私の二百年間というのは、毎日が御幣と一体というわけです。夜になって参拝者が途絶えたころ、初めて我に返って御幣から離れるというわけなんです。 ではそろそろお約束の実例をお話することにしましょうか。 |