心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('01.01.05更新)

一章 神社と祈願


 

 日本は世界中で比類ないほどに、神社組織の行き届いた国です。それが行き届いているだけに日本人たる者は、神社の意義、目的、性質などについての、正しい観念を持たなければなりません。ただ習慣的、形式的に神社の前で拍手《はくしゅ》を打つとか、神社を中心にお祭り騒ぎをやるとかいうだけでは、世界の神社国民たる資格がないと言わねばなりません。

 ふだん私がしばしば申している通り、神社の存在を意義あらしむるためには、われわれはその前に、まず神霊の実在を学術的に証明しなければならないのは、当然のことです。神霊の実在はこれを否定するが、しかし神社の存在は、これを肯定するというのでは、何の事やらほとんど意味をなしません。今から一昔前、かの日清戦争の時代に、ある御用商人が軍隊に牛肉の缶詰を納めたが、いざ戦地でこれを開けて見ると、中には牛肉はなく、砂利が一杯つまっていたというので、非国民呼ばわりを受けたことがありました。まったく中身なしの缶詰では、何とも致し方がありませんが、神霊ヌキの神社は、ちょうど右の不正缶詰のようなもので、そんなものを国民に強いる学者、神職などは、非国民だと言われても、あるいは返す言葉がないかも知れません。

 私は今ここで神霊の有無について、かれこれ論じている暇《いとま》もなく、またその必要もないでしょう。何となれば、心霊科学の立場からすれば、この問題はすでに学術的に立派に証明された事柄であり、これを否定する位なら、むしろ自分自身の存在を否定した方がマシだと思考せらるるからです。もしもこれに対して今なお疑義を差し挟まれている方がありますなら、何とぞ、心霊上の有力な参考書をひもとくとか、また有力な心霊実験に臨むとか、それぞれ必要な手段を講じていただきたいのです。私どもとしては、いかなる場合にも喜んでご相談にあずかり、でき得るかぎりのご便宜を計ることを辞さないものです。

 が、神霊の実在が事実であるから、神霊が神社の内部に入っておいでなさると考えることは早計です。ご承知の通り、神霊は超物質的、第四次元的存在であり、これに反して、神社は物質的、第三次元的存在です。ゆえに、ちょうど人間が家屋の内部に入っているような具合に、神霊が神社の建物の内部に入っていると考えることは、はなはだ不合理なのです。

 神社制度を創始された我々の祖先達にしても、決してそんな幼稚極まる、唯物観念の奴隷ではなかったと信ずべき理由がたくさんあります。ご覧なさい、神社は決して宏壮《こうそう》な建物であるを要しません。畏れ多い話ですが、伊勢の神宮にしても、大きさからいえば、とうてい東大寺や本願寺のような大伽藍と比較はできません。中には間口がたった三尺(訳注:約1m)か一間(訳注:約1.8m)の小社も少なくありません。そして神社というものは、これで一向に差し支えなしとしてあります。この一事を見ても、我々の祖先達の霊的直感力が非常に優れていたことがうかがわれるのです。

 さらに物質主義的見地から到底不可解なのは、あの神社の中枢をなしている御神体でしょう。曰く、御幣《ごへい》、曰く玉または石、曰く神鏡《しんきょう》……あれはそもそも何を意味するか? 「どんなものが入っているかと思って扉を開けて見たら、ただの石コロが入っていた……」私はかつて、某神社の立ち入り検査に来た一人の官僚が、そんなことを言って侮蔑の色を浮かべているのを目撃したことがありますが、こんな態度で神社の調査をしたら、どこの神社も軒並みに落第です。私はそんな連中をつかまえて、決して不敬呼ばわりは致しません。が、そんな連中が、心霊上の知識によくよく欠けているのには、いささか呆れざるを得ないのです。

 心霊科学の立場からすると、日本の神社ほど信仰教育の機関として理想的にできているのは、世界中のどこにもないと痛感します。神霊と人間との念波の感応道交《かんのうどうこう》を助ける点において、そこに一点の申し分もなく出来ています。まず人間の側からいうと、あの鬱蒼《うっそう》とした老松老杉の木立、あの清浄なる白木造りの神殿、あの苔蒸せる石段《いしだん》、あのすがすがしい御手洗《みたらし》……人間をして、しばしなりとも、平生の邪念を一掃して、神に近づかしむるようにしてあります。次に神霊の側からいうと、極度に神聖に保たれている御神体をアンテナとして、人間の世界と感応の道を開くことができるのです。全くもって至れり尽くせりなのです。

 われわれ心霊学徒の立場からすると、かの仏教の寺院、またキリスト教の教会堂なども、決して棄てたものではないようではありますが、ただいかにも、少々無用の装飾、または不純な夾雑物があって、信仰教育機関としての効果がかなり殺《そ》がれているように思われます。これは実地に体験された方々は、とうにお気づきの点でしょう。

 これを要するに、日本の神社は、すべてを意念のエーテル波動と解し、その見地から考察を加えた時に初めてその有り難さが判ります。われわれは平生、鎮座だの、鎮守だのという言葉を使いますが、もちろんこれは敬虔の念から出た言葉の綾《あや》です。神霊を単なる主観的存在だとするのはもちろん間違いですが、神霊と神社とを同位同格に考えることも、また同様に間違いで、どちらも正しい神霊観とは言えません。

 ついでに、私がここで一言付け加えておきたいと思うのは、各神社の眷属のことです。神社の祭神は、普通皆高級の神霊で、物質的現界とは遠くかけ離れた上の世界に居住されておりますが、しかし現界の神社の神聖を保ち、かつ現界人の保護指導に当たるべく、人間とあまり距離のかけ離れていない適当な幽的存在、主として自然霊を眷属として使われていることは事実です。神社の境内で無礼を働いて神罰を蒙《こうむ》ったなどというのは、あれは皆そういった眷属の仕業で、決して高級の祭神そのものが神罰を加えられるのでも何でもありません。この点は、人間としてよくよく注意すべき事と考えます。さもないと高級の神霊に対して、とんでもない勘違いをしかねない恐れがあります。

 

 さて神社を考える以上、われわれとしては、ただちに祈願について考える必要があります。神社と祈願とは、どこまで行っても切り離せない性質のものだからです。

 つらつら考えるに、祈願または祈祷の起源は、人間が人間以上の存在を認めて、これに依存せんとする気持ちの現れで、非常に古い歴史を持っているのです。そしてそれは、恐らく思索の結果というよりも、むしろ感情または本能の所産で、ある程度理屈抜きで自然に始められたものなのでしょう。ある人が「祈願は、人間とは物質以上の存在であるという内的確信から出発している」と述べましたが、私も大体そんなことだろうと考えています。

 さて祈願にもいろいろ種類がありますが、中でもっとも原始的なのは、恐らく一つの哀願、つまり困ったときの神頼みでしょう。「なにとぞこの厄難から免《まぬか》れさせてくださいますように……」まあそういった種類で、俗にこれを現世利益だの、ご利益信仰だのと申します。そして首尾よくその祈願が叶った時には、当然これに対するお礼、感謝が伴います。もっとも中にはひどい奴があるもので、神様に頼むだけ頼んで、あとは知らん顔をしているのがあります。これではいかに神さまでも、良い気持ちはなさるまいと思います。

 ご利益信仰的な祈願もある程度仕方がないでしょうが、ただ困るのは、それがあまりにも私利私欲の色彩を帯びることです。つまり自分の力で立派に出来る仕事を神様に頼んで、手ぶらでうまい汁だけ吸おうという太い了見です。この夏、私は箱根に行った時に、箱根神社を参拝しました。しばらく社頭《しゃとう》で息を入れておりますと、東京の実業家らしい三十代の若者が、大きな声でしきりに神様にご祈願していました。聴くともなしにそれを聴いていると、「商売繁盛しますように」とか、「家内一同が無病息災に暮らせますように」とか、気の毒なほどたくさんの注文を持ち出して、神様を困らせていました。「これではあまりムシが良すぎるようだ……」私は思わず苦笑を漏らしたことでした。こんな祈願は、神様に通じる代わりに、ややもすれば、いたずらな動物霊などに通じますからお気をつけて下さい。

 もう一つ祈願で困るのは、これが口癖の文句の行列になることです。どこの神社へ詣でても、いつもスラスラと、ちょうど鸚鵡《おうむ》のようにきまり文句を並べ立てる。これではご本人の耳には届くかも知れませんが、とうてい神様に通じるはずがありません。祈願には熱と力が必要です。つまりそれが止むに止まれぬ、衷心《ちゅうしん》の思想感情の勃発したものでなければならないのです。それでなければ、とても強力な念波とはなり得ない。これは思想伝達の心霊実験が教えるところですから、絶対に間違いありません。

 つまるところ、祈願は、それが単独の私的祈願であろうが、また多数合同の公的祈願であろうが、いずれにしても、まず動的であり、また積極的であるを要し、さもなければまったく祈願の効果がないのです。思想というものには、たしかに動静の二方向があります。静的なものはそれ自身の内にとどまり、動的なものにして初めて外に働きます。仕事をする気がないのなら静思内観だけで良いのですが、何か仕事をしようと思えば、外に向かって自分の思想を力強く放射せねばなりません。

 フランスの神経専門家のバラダック博士は、先年多くの実験を行い、人体の放射線を写真に収めました。それは、ある特別に調整された乾板を用いて空間を写すのですが、ある多人数の祈願会でそれを試みると、大衆の頭上に飛龍のような一大円柱が現れました。それからまた、熱心に祈願をしている一人(熱心なカトリック信者のド・ローカス大佐)の身辺を写してみると、その乾板には、頭上約1mのあたりまで上昇している、シダ状の妙な光体が現れました。これらの実験が何を物語るかははなはだ明白で、熱情をこめて祈願をすれば、その人の体内から一筋のエネルギーの流れが放射されることがよく判るのです。言うまでもなく、その際に必要なのは魂から出発する心霊的エネルギーであって、口から出る言葉はただ空気に振動を与えるだけなのです。

 一部の人たちは、いくら神様にお願いしてもさっぱり効果がないなどとこぼしますが、これは恐らく神様に罪があるのではなくて、ご当人に罪があるのだと思われます。つまりその祈願の性質が好ましくないか、それとも祈願の力が弱いか、二つのうちどちらかであろうと思われます。ただし実際問題となれば、右の二つは多くの場合において一致しています。すなわちそれが不純な祈願であれば、自分でも内心気がひけるから、そのせいでその力は弱く、その逆に正しい祈願であれば、自分でも大いばりで、いわゆる俯仰《ふぎょう》(訳注:下や上を向くこと、起居動作)天地に恥じざるというほど気力が奮い立っており、時とすれば、神様に向かって号令をかけかねない勢いになります。そんな祈願なら、もちろん天地の神明に感応するでしょう。

 私は今ここで、いかなる性質の祈願が不正であるかを、キチンと判で押したように決めることはできません。人間の発達程度には大きな相違があり、したがってある人に適当な祈願が、必ずしも他の人に適当とは言えません。日本国内にもいろいろな種類、性質の神社の存在が必要視されているのも、そのためなのでしょう。が、祈願の概括的指針としては、「できる限り私欲私情から遠ざかれ」というのが、古今東西の識者の等しく推薦するところです。マイヤースの通信にも、こんなことが説かれています。----

 「神に祈願する者は、自己の偽りのない心を披瀝《ひれき》し、まず自分自身を浄めねばならない。神の前に開陳《かいちん》せんとする願望に、一点利己主義の臭いがあってはならない。彼はすべからく自己の殻から抜け出て、一切の生命と合流するという気概がなければならない。そうすることによってのみ、彼は初めて神に近づき得る。原則として彼自身に許される祈願は、精神的・霊的なものだけである。他人のためにのみ、彼は物質上の恵みを祈願して差し支えない。さらに忘れてならぬことは、祈願はこれを述べる場所の違いによっては、少しも神聖化しないということである。神社、寺院、教会などは、あなたの精神を正しい方向に導く効果はあるであろう。これと同様に山間の静寂な場所なども、あなたの気分を高めるのに適当かも知れない。祈願を行うに際して、あなたがそうした境地を選ぶことは非常に望ましい。が、どこに居ようが、それ以前の問題として大切なことは、あなたの心から、恐怖、疑惑、猜疑心、利己心、怒り、怨み、その他の罪・汚れを、きれいに払いのけることである……。こういった一般的忠言は、あまりにも難しきを人に求めるように見えるかも知れないが、各自はその分に応じて、差し障りのないよう取捨すればよい。各自は知的にも、また情的にも、それぞれ等差があるのであるから、これらの忠告の適用は、各自において工夫することが必要である。これを要するに祈願に大切なものは、真心の一語につきる。中身のない浮ついた言葉が一番いけない。無邪気で熱心な、粗野な田舎者の子供っぽい祈願が、しばしば堂々たる礼式と荘重なる言葉使いで行われる大僧正の祈願に勝って、神に達するゆえんである……」

 説いて充分とはいえませんが、これなどはたしかに、祈願の性質をきめるのに、多少の参考になるところがあると思います。

 次に私は祈願の対象について一言したいと思います。「どこの神様にお頼みをすればよいか?」----私はよくこういう質問に接しますが、実際問題として、それはあまり拘泥するには及ばないと信じます。たとえば、ここに洋上で難破した船舶があるとします。そうした場合にとるべき最善の手段は、できるだけ強力な無線で救助を求めることで、どこの無線局と特別に指名する必要もなければまた余裕もない。祈願の場合もこれと同様です。神霊の世界は四通八達《しつうはったつ》の連動装置になっており、必要と考えれば、時と場合でそれぞれ適当な援助を与えてくれます。この際大切なのは、ただ強く正しく『神様』を念ずるだけで、それ以外に人間の方で申し込み所の選択などを気にする必要はないでしょう。

 最後に一言ご注意申し上げておきたいことは、いかにすれば祈願を強力にすることができるか?ですが、これはきわめて簡単で、できるだけ焦点を造ればよいのです。換言すれば、その目標をただ一つにきめて、これに全力をあげればよいのです。やたらに気ばかり多くて、「両手に花」とか「犬も歩けば棒に当たる」のような軽薄な態度は、ただ祈願の場合にうまくいかないだけでなく、何をやるにも、まず失敗は免れないと思考されます。(昭和十一年十月二十四日於大阪有恒倶楽部)

 


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