心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('01.04.08更新)
今まで私はもっぱら心霊問題の科学的研究、つまり学問としての心霊研究について力を注いで来ました。むろん今後どこまで行っても、私はこの方針を捨てる考えはありません。なぜならば、心霊に対する研究心が衰え滅びることは、社会のすべての問題に対する基礎工事の崩壊を意味するからで、政治も、道徳も、宗教も、その瞬間から、ただちに腐敗堕落の経路をたどります。とりわけその影響のもっとも顕著なのは宗教です。現在、世界の既成宗教のほとんど全部が、いかに実社会に対する影響力を失いつつあるかを見ても、思い半ばに過ぐるものがあるでしょう。つまり他界との直接取引があってこその宗教で、断じて が、我々は、ただ脇目もふらずに研究室に立てこもって、心霊問題さえ研究していれば、それで万事足りるというわけにはいきません。我々は、皆さんとおなじ生身を持って実生活に直面する、言わば活きた人生の構成分子なのです。 本日は思いついたまま、取りあえず、祈祷《きとう》または祈願《きがん》についての卑見《ひけん》を述べて、皆さんのご批判をお願いしようかと思います。 言うまでもなく世間には 近代心霊科学の研究が、長足の進歩をとげるにつれて、この点は一層明白になってきた観があります。極度に厳正無比なやり方で、主観・客観、各種各様の、無数の心霊現象を研究してみると、どうしても、現象世界の奥に、微妙で不可思議な一つの未知の世界、いわゆる霊界の存在が疑いもないことになります。その霊界には、低級愚劣な住人も少なくありませんが、同時にまた偉大・優秀、とても人間業では太刀打ち不可能と思えるような、すばらしい住人もいます。「いや実に恐れ入ったものだ!」----そうした感嘆《かんたん》の声は、いやしくも真剣味をもって、他界との実地の交通に当たった研究者の、ひとしく発するところです。 これはどういう事かと言うと、人間が大いばりでお山の大将と思い込んで疑わないのは、霊的な知識が皆無の時に限ったことで、霊界の実状を知れば知るほど、心霊の知識が加われば加わるほど、次第々々に頭が上がらなくなり、とどのつまり、一切万有の奥の奥の無限絶対の圧倒的な力である神に向かって、ありがたく仰ぎ慕う以外に、どうしようもないことになるのです。自分の微弱なことを自覚する者の、やるせない衷心《ちゅうしん》よりの訴え----それが取りも直さず、宗教的な真の祈祷であり、祈願なのでしょう。私は、こうした意味の祈祷・祈願こそが、この上なく純粋で誠実な人間の心情の清いほとばしりであって、非常に貴いものであると確信しています。 祈願の根本的意義は、こんなところで一応わかったとしても、我々は少し立ち入って、祈願を行う者の心の準備、その他について、できるだけ考察をすすめて、万一にも取り返しのつかない過誤に陥ることのないようにつとめたいと考えます。 まず この事実が判明してみると、祈願というものが、いかに細心の注意をもって行われなければならないのか、言を待たずして明白でしょう。われわれはぜひとも、 が、善意のみが、愛のみが、正しき祈願の全資格を作り上げるものではないようです。善意の祈願であっても、そこに判断の誤りがあっては、まったく駄目です。つまり、正しい知識、正しい思慮の加わった善意の祈願----これでなければ、充分に祈願の威力を発揮し得ないのです。こう考えると、祈願が容易ならざる、困難な仕事であることがお判りになるでしょう。世間には往々にして、最大の善意を持って、とんちんかん極まるデモンストレーション祈願をして、あたら貴重な時間を浪費している者が、少なくないのです。ご参考までに、私が腑に落ちかねた一つの実例を申し上げましょう。 私の知人にOという一人の敬神家がいますが、この人は毎朝未明から起きて、神前で二時間ばかり、いろいろな祝詞《のりと》をあげて、祈願を込めるのを日課にしています。祈願の内容のあれこれは、白紙に清書して、神檀《しんだん》に張り付けてありますが、これを見ると、『天下太平、国土安全、五穀豊穣、聖寿《せいじゅ》無窮、家内安全……』といったような文句です。私はそれが善意の祈願であることには、毛頭疑いをさしはさみませんが、ただそれが、果たしてOという市井《しせい》の一個人の祈願として、思慮分別に富んだ適当な祈りなのかということに考えが及んだとき、いささか疑念がわいたのです。なぜかというと、私にはどうしてもこの人に 私の言うところの正しい祈願の意義は、これでほぼ見当がついたと思いますが、実際問題として、ここにぜひとも深い考察を必要とする、非常に大切な事柄が、なお一つ後に取り残されています。他でもない。それは 換言すれば、いかなる神、もしくは仏に向かって祈願するべきなのか?という問題です。 この点に関して、キリスト教徒は、一面から見れば、はなはだ手間のかからない境遇になっています。彼らから言えば、祈願の対象は、たった一つの神しかないことになっており、どんな問題でも、ことごとくそこへ持ち込めば良いのです。問題を単純化するという点から言えば、これほど簡単なやり方はありませんが、しかしそこには、非常な無理も伴います。物質的現象界と、無限絶対の宇宙の大霊との中間に、何一つ存在する物が無いというなら、このやり方で差し支えないでしょうが、それが事実でないことは、すでに心霊科学上、立派に証明されていることで、現象界の奥には、厳として霊魂の世界が存在し、整然と秩序立って、天地の経綸の任務を遂行《すいこう》しつつあるのです。その事が判らなかった時代に、これを無視したのは仕方がありません。ちょうど地理学の発達していなかった時代に、われわれが欧米の人々を「一山いくら」的に、南蛮人と呼んだようなものです。が、だんだん他界の様子が判ってきた今日、いぜんとして旧態を墨守《ぼくしゅ》し、しいて目をつぶって、他界の存在を否定しようとするなど、実に下らない話で、いわば ただし、日本式の八百万《やおよろず》の神の思想にも、たくさんの弊害が伴うことは事実です。その最大の弊害はまさしく 言うまでもなく、信仰は各人の自由、一分一厘他から強制することのできないのが、信仰の信仰たるゆえんです。われわれは、夢にも他の信仰に向かって、くちばしを挟んではなりません。一神教だの、多神教だのと言ってののしり合うがごときは、心霊的な知識のとぼしかった、十九世紀の風習で、現代人の最も慎まねばならない事柄です。だれでも皆境遇が異なり、性情が異なり、習慣が異なり、国土が異なり、また頭脳の深みや、理解の程度が異なります。各人の信仰を一つにしようなどと言ったところで、それはとうていできない相談、信仰は一人一人にことごとく違うというのが、まさしく本当でしょう。したがって祈願の対象を、どこに決めるのが一番良いかという問題に対して、私はこれこれの神、もしくは仏に限ると考えることは、とてもできません。結局私の考え得るところは、ただ次の数語につきます。 「すべての祈願は、それが仮にも、私の言うところの正しい祈願でありさえすれば、各人その認めるところのいずれの神、またはいずれの仏にささげても少しもかまわない。その対象が、宇宙で唯一の真の神だから高尚なわけでもなければ、またそれが諸神諸仏の一つであるから安っぽいわけでもない。最も用心すべきなのは、正しい祈願と、ご利益信仰との違いを間違えないこと。下手な祈願なら、むしろやらない方がよっぽどマシである」(昭和三年二月二十六日於大阪心霊研究会) |