心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('01.12.06更新)

四章 再生説と古神道


 

 前回において私は再生の意義について概説し、現世の生活は、取りも直さず、霊の修行のために設けられている一つの学校であること、従ってある霊は、そこで幼稚園の過程を修め、ある霊は小学校、またある霊は大学の過程を修めること、また宇宙学校の教育方針は、あくまでも開発主義であり、各自の努力を必要とすることなどを申し上げました。いかにも大ざっぱな説明でしたから、皆様の納得しがたいところも沢山あったことと思いますが、それは回を重ねるに従って、次第に補足して参りましょう。今回からは再生の手続きについて申し上げようかと存じます。

 が、再生の手続きを申し上げるについては、その前提として、霊的世界の組織、並びに霊という言葉の意味を、もっとはっきりさせておく必要が生じてまいりました。霊的世界(または死後の世界、他界、等)というのは、超現象の世界に対する総称で、実はその中に、いくつもの世界が存在するのです。また霊魂という文字もそれと同様で、詳しく言ったら、霊の中にも無数の等級があるのです。心霊研究者が、唯物主義を当面の敵として、荒っぽい論義を行っていた間は、こんな概括的な用語で十分でしたが、再生説などという微妙な問題を論義するには、到底それでは用事がつとまらなくなって来ました。少々面倒臭い話で、皆さまにお気の毒ですが、しばらくご辛抱を願います。

 まず霊的世界の組織----それから申し上げることにいたします。これは実に厄介な仕事で、どこからどう説明して良いか、実は私自身さえ、ちょっと途方に暮れております。申し上げるまでもなく、霊的世界を調査する手段方法は、
  霊媒という道具を使用すること

より外にありませんが、この道具は死んだ機械とは異なり、それぞれに違った力量をそなえ、それぞれに異なった能力を持ち、一つとして同様なものがありませんから、従ってAの報告は、多少Bの報告と異なり、またBの報告は、いくぶんCの報告と一致しません。時とすると、相互の間に、天と地ほどの相違さえ生ずる場合もあります。で、現在においては、世界各地に現れた有力な霊媒の報告を集めて、厳密な比較研究を行い、さらにそれを仏教、キリスト教、道教、神道などの古教典に対照し、まずこれだけは動かないと思われる箇所を申し上げるよりほかに、どうしようもありません。こうして述べるところが、絶対的真理であるという保証は、とても出来ませんが、それが人間の手で行われる霊的世界の調査として、最も信頼すべきものであることは確かです。今まで、一宗一派の帰依者達が、一つや二つの経文のみにこびり付いて、それを唯一無二の真理であるかのごとく押し売りせんとした態度にくらべれば、非常な相違です。

 とにかく、私がこれから申し上げようとする霊的世界の組織は、そうした比較研究の結果、やっと出来上がったもので、現在としては、まずこれなら大丈夫と、折り紙を付けて宜しいものと思考されます。今いちいちその出所を申し上げていた日には、いたずらに混雑を来すばかりで、まとまりがつきませんから、ここには一切省略しますが、ただ一言皆様にご報告しておきたいと思うのは、最近数十年間に、世界各地の有力な霊媒を通じて、霊的世界の組織について示されたものが、不思議にも
  日本古神道の教義
と、主要な点において、ことごとく一致している事です。これはお国自慢でも何でもなく、全く赤裸々な事実で、私自身も今更ながら、日本古典の案外値打ちのあるのに驚嘆している次第です。外面的には日本の古典は、実に安っぽく見えます。ちょっと見ると、幼稚きわまる一つのお伽噺ぐらいにしか見えません。が、それは解釈の仕方ができていないからで、いったん真の解釈の鍵を握ってみると、世界のいかなる教典よりも、一ばん歪みと、ゴマカシが少ないように感じられます。ところで日本古典の解釈にかけては、私はこの席においでの荒深さんの霊媒的能力に、大いなる敬意を払うものです。私が荒深さんを調べ始めたのは、まだホンの最近、やっと半年ばかり前からに過ぎませんが、しかし容易ならざる長所を発見しつつあります。今後二年三年と追究を重ねて行くうちには、よほど見るべき成績を挙げ得るでしょう。今までの所でも、すでに相当の収穫が挙げられつつあります。日本の心霊研究のために、はなはだ慶賀すべき事柄です。

 さてそれならば、霊的世界をどう分けたら宜しいかというと、私はこれを三つの大きな世界に分けたいのです。すなわち
 一 神界
 二 霊界
 三 幽界

の三つで、これに現界を加えると、合わせて四つの世界になります。地球を包囲する雰囲気内は、以上四つの層が重なり合っていますが、もちろんその中で、一ばん精妙希薄なのが神界であり、霊界、幽界と順次これに次ぎ、人間の日常最も密接に接触する現象的物質世界が、一ばん鈍重濃厚であるのです。いうまでもなく、それぞれの世界は、場所や距離の区別でなく、われわれの立っている地上が、同時に神界でもあり、また霊界でも、幽界でも、現界でもあるのです。ちょうど、空気とエーテルと重なり合って、同一空間をふさいでいるのと同じようだと思っていただけば宜しいでしょう。

 地球の雰囲気内が、以上四つの界、もしくは層から成立していると同様に
  われわれ人間の体も、また四つの層から成立
しており、そのお陰で、人間はそれぞれの界に、交通の途《みち》が開けているのです。日本の古神道では、その四つの層を順次に
 一 奇魂《くしみたま》
 二 幸魂
《さきみたま》
 三 和魂
《にぎみたま》
 四 荒魂
《あらみたま》
と呼びます。つまり神界というのは奇魂の世界、霊界というのは幸魂の世界、次に幽界が和魂の世界、現界が荒魂の世界なのです。四魂の解釈は、日本古神道にとって重要無比のものですが、これに関する面白い解釈が、今回荒深氏の霊言によって出現したので、日本の神典が、初めて生きたように感じられます。今まで神道の学者達は、四魂を平面的にのみ解釈したので、その説明に無理が出て、近代心霊研究の結果と両立しかねましたが、右のとおり、これを縦に解釈したことによって、永年の疑問が初めて一掃された感があります。ざっと申し上げますと、奇魂とは非常によく澄んだ境涯で、一切の汚濁と離れて宇宙の大精神と合一……、少なくとも非常に相接近した、悟りの境涯です。地球の雰囲気内ではここが最高の理想郷、いわゆる神界ですが、もちろん、それが終局というのではありません。奥には奥があり、一層高所から達観すれば、その上に更にすぐれた神界があるのです。すなわち地の神界(地上世界からみた神界)というのは、天照大御神の知ろしめす世界の、霊界ぐらいに相当するらしいのです。しかしそうどこまでも奥へ奥へと突き進んで行った日には、際限がありませんから、現在の我々としては、しばらく地の神界で打ち切りにしておくことに致しましょう。地の神界とても、われわれ人間の境涯から見れば、
  玄々微妙なる直覚《チョッカク》(直接に感じ知ること)の世界
であって、人間界には、ホンの片鱗しか現れていないようです。人間は、キリストや釈迦をもって、ほとんど理想の極致と考えたがりますが、それは霊的世界の奥の方に接しないから、そう思うので、彼等には、かなり娑婆臭いところがあるようです。彼等が多く接したのは、せいぜい幽界の中の、ちょっと気のきいた境涯ぐらいに過ぎないようです。これには異論がありましょうが、詳しい話はこれを他日に譲ります。

 次に第二段の霊界、すなわち幸魂《さきみたま》の世界というのは、現代的に申し上げれば、いわゆる
  精神的向上の世界
です。幸魂の『サキ』は『先』であり『咲』であり『去』であり、つまり地上的雰囲気を離れて、理想の天地に安住する状態を指すのです。地上の人間の、よほど気のきいたところでも、一昼夜二十四時間中、果たして何時間をこの世界に過ごすものがあるのでしょう。ヘタな連中になると、食うこと、視ること、眠ることなどに、ほとんど二十四時間中の全部を占領され、幸魂の世界には、さっぱりご無沙汰を致しがちのようです。

 次に第三段の幽界、すなわち和魂《にぎみたま》の世界となると、よほどその所に人間味が発生してまいります。和魂という事を現代的に言い表すと、つまり
  共存共栄を眼目とする境涯
で、人間でも少し気のきいた連中になると、相当多量の和魂を持っています。いわんや幽界の居住者となると、厄介な肉体を放棄した結果、衣食住の心配がなくなり、人間のようにガツガツ、ガミガミ相争う必要がないはずです。で、幽界が和魂の世界であるのは、当然すぎるほど当然なのですが、死んでも、地上生活の悪習慣が抜け切れない亡者連は、幽界にいながら、依然として地上世界に見るような、争闘《そうとう》や軋轢《あつれき》にふけっています。そんなのがいわゆる修羅道だの、餓鬼道だのに落ちていると言われる連中で、要するに幽界の落武者、霊魂学校の落第生と言わねばなりません。

 次に最後の現界、即ち荒魂《あらみたま》の世界というのは、一口に言ったら、つまり
  欲望と情熱とに燃えつつある動物的境涯
です。まさしく荒魂は、一面からいえば新魂でもあり、まだ充分の精錬《せいれん》薫陶《くんとう》を経《へ》ず、その結果、お粗末な動きしかできない、霊魂学校の新入生徒に過ぎないのです。

 とにかくこうして見ると、一個の人間の成立は、なかなか複雑なものであることが判るでしょう。私達が今まで、一山いくら的に、ただ肉体と霊魂との区別を説くにとどまって居たのは、実は問題を簡単化するための、便宜法に過ぎなかったのです。内面から考察すれば、宇宙の万有は、たった一つの霊、たった一つの生命の現れですが、外面から視れば、それは奇魂、幸魂、和魂、荒魂の四つに大別せられ、各魂とも、それぞれの本質をそなえ、それぞれの層、若しくは界を組織しているのです。私は便宜のために、それぞれの本質に、それぞれの名称を付けておきたいと思います。すなわち
  真体、霊体、幽体、肉体
の四つです、少々無理な名称か知れませんが、他に適当な言葉も見当たりませんから、しばらくそう呼ぶことに致します。奇魂だの、幸魂だのというよりか、少しは現代人の頭脳《あたま》に入り易いかと思うからです。試みに右の四つの名称を、西洋的に言い表しますと、真体は Spiritual body. 霊体はMental body. 幽体はAstral body. 肉体はPhysical body. ということになりましょう。枝葉の点についていえば、多少の相違もありますが、根本において、右の分類法は、全世界の心霊研究者間に、共通のものであると見なして差し支えないのです。

 すでに生きている人間が真体、霊体、幽体、肉体の複合体であるとして、しからばその組成の割合はどうかというと、生を現界に受けている以上、肉体(荒魂)が、その主要部分を占めていることは、改めて申し上げる迄もありません。従って人間は、その必然の結果として、ある程度欲望と熱情とに支配されます。近頃よく世間で高唱される『性の悩み』……全くそれは人間として、免《まぬか》れ難き弱点です。困ったものだが致し方がありません。荒深さんの守護霊から聞きますと、
  普通の人間は荒魂が九割を占める
ということでしたが、蓋《けだ》し当たらずといえども遠からずでありましょう。九割を差し引いた後の一割を他の三つ、奇魂、幸魂、和魂で、少しづつ分割するのですから、いかにも心細い話で、これでは動物と相隔てること、ホンの一歩であるのも無理はありません。食って、飲んで、寝て、起きて、子孫を遺して、後はほとんど零《ゼロ》……。あまり万物の霊長などと威張れた義理でもありません。もっともこれは、よくよく平凡な人間を標準としての話で、霊魂学校の課程を相当踏んで来て、ある程度物質的欲望の上に超越した人間は、和魂や幸魂の分量がずっと加わり、外観的にも、気品が自《おの》ずから高くなります。例えば学者は自ずから学者らしく、博士は自ずから博士らしく、美術家は自ずから美術家らしいのを観ても、思い半ばに過ぐるものがありましょう。ですから、俗気または野気満々たる山師どもが、どんな大きな顔をして
  活神だの活佛《かつぶつ》だのと
駄法螺を吹き立てて見たところで、とうてい駄目です。九割以上も荒魂《あらみたま》で造りあげた、お粗末千万な容貌風体《ふうてい》の所有者が何になります。同時にまた、生きている人間に向かって、余り多きを求めることも、大いに慎まねばなりません。いかにすぐれた哲人高士《こうし》でも、現界の住人である以上、荒魂の五割や六割は持っていますから、幽界や霊界のすぐれた居住者のようには、とうてい参りません。人間味のない人間は、つまるところ現界の片輪者で、やたらにそんな片輪者を尊重すると、結局人生の破滅を招来することになります。インドなどが、恐らくその良いみせしめで、日本の心霊家は、断じてそんな真似をしてはなりません。

 かく現世の人間が、肉体を主要機関としているように、幽界の居住者は、幽体を主要機関とし、霊界の居住者は霊体、神界の居住者は真体を主要機関として居ることは申すまでもありませんが、その割合は、人間の場合にキチンと一定し得ないと同様に、他界の居住者の場合にも、キチンと一定していないようです。ここに順序が生じ、等級が分かれます。つまり内面から見れば一列平等、外面から見れば千差万別、再生ということは、そうした宇宙大装置の中にあって行われる、一つの大切な仕事であるようです。

 イヤ準備的説明がだんだん長くなり、本日は遺憾ながら、この辺で打ち切りとせねばなりませぬ。次の機会には、も少し本題に近寄り得ることと存じます……。(昭和三年五月二十日於大阪心霊研究会)

 


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