心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('01.12.17更新)

五章 国家の守護神


 

 顕幽一貫の連動装置、精神・物質両界の密接な因果関係を根本主義としている日本の伝統的思想にあっては、もちろん現象世界の奥に各種の守護神が存在することを、ほとんど自明の理《ことわり》として取り扱っています。すなわち個人には個人の守護神、土地には土地の守護神、その他山、川、海、水、風、草、木……これを要するに、森羅万象ことごとくその奥に守護神があるものと考えられているのです。もちろんこうした場合に守護神という用語が、必ずしもいつも使われているわけでもありませんが、しかしそれぞれの仕事が、ちゃんと決められているからには、これに守護神という名称をつけても、決して差しつかえはないでしょう。造化の大霊たる天之御中主神《あまのみなかぬしのかみ》でも、やはり宇宙の大守護神である訳です。日本の政教一致の観念、すなわち神事《しんじ》と人事《じんじ》とが、同根から出《い》でねばならぬという考えも、やはりここから出発するものと考えられます。

 かくして守護神は大小軽重、その数は無限に上りますが、しかしわれわれ日本国民にとって、何より関係の深いのは、言うまでもなく日本国家の守護神、天孫邇々藝命《てんそんににぎのみこと》です。したがって日本の古典においても、これについての叙述《じょじゅつ》が最も詳細に書かれています。

 天孫のご来歴、またそのご降臨に至るまでの経路などは、どなたもご承知の事柄とは思いますが、念のために、ここにそのあらすじを申し上げておくことにします。それにはわれわれは順序として、天照大御神《あまてらすおおみかみ》と須佐之男命《すさのおのみこと》との二神の間に行われた、御子生みの神事までさかのぼらねばなりません。まず天照大御神が、須佐之男命の身につける長剣を取って三段に打ち折り、これを噛んで吹き出されると三女神が生まれます。次に須佐之男命が、天照大御神のかけられた玉飾りを取って、同じく噛んで吹き出されると五男神が生まれる。これがかの有名ないわゆる五男三女神の誓約《うけい》の物語です。

 さて五男神のなかで、最も貴い御子が天忍穂耳命《あまのおしほみみのみこと》で、この御方が天照大御神から、豊葦原水穂國《とよあしはらみずほのくに》の統治者たるべき命令を受けるのです。そこで天忍穂耳命は天浮橋《あまのうきはし》にお立ちになって、下界をご覧あそばすと、地の世界はまさに擾乱《じょうらん》の世の中となっており、そのままでは何とも手がつけられない。やむなく騒ぎを治めるための使いとして、いろいろの特使が遣わされましたが、なかなか目的を達するにいたらず、最後に建御雷神《たけみかづちのかみ》が立ち向かうに及んで、ようやくのことで、騒乱を治める目的を達しました。これでいよいよ天忍穂命の降臨の段取りになりましたが、その時たまたま一人の御子がお生まれになりました。それがすなわち天孫邇々藝命で、天照大御神さまは、改めてこの御方に、豊葦原水穂國の統治者たる資格を授けられたのです。その時の神勅《しんちょく》は、日本書紀にはこう出ております。「葦原の千五百秋之瑞穂國は、これ吾子孫の王《きみ》たるべき地なり。宜しく爾皇《すめ》《みま》就て治焉《しらせ》。行矣。寳祚《ほうそ》の隆《さかへま》さんこと、當《まさ》に天壌《てんじょう》と窮《きわま》りなかるべし矣。」

 以上はホンのあらすじを述べただけですが、国家の守護神に対する日本民族の観念がいかに強烈であり、またいかに淵源《えんげん》の深いものであるかをうかがうに充分でしょう。日本国が今日のようにあるのも、煎じつめれば、その最大の原因は、つまる所この観念に行き着くと言ってよいでしょう。したがって万が一、この観念に動揺を来したら、それこそ日本国にとって、ゆゆしき大事です。何もかもめちゃめちゃです。これはよほどよく考えて、攻究を遂げねばならぬ問題であると痛感します。

 この際単なる主観的な放言などは、絶対につつしむべきです。ともすれば愛国的な熱情にかられる一部の神道家などは、わが日本が神国であることを頭から決めてかかり、古典の記録を鵜呑みにして、一切の学問的研究を無視し、心霊科学などというものは、異端邪説の類でもあるかのごとく考えたがるようです。その稚気は愛すべきであるが、その愚は及ぶべからずです。そんな態度でのぞむから、この日本国から真の信仰が次第に影をひそめ、共産主義のならず者などが出てくる現状なのです。理知的研究心の発達した現代の教養人は、どうしても自分の理性が満足せぬかぎり、何ごとをも深く信ずることが出来なくなっております。もったいない、ありがたい、畏れ多い、でおとなしく納まっていることができなくなったのが、二十世紀人です。そんな理屈っぽい奴は日本人ではない、実にけしからん次第である、といきまいて見たところで少しも始まりません。現代人がぜひとも実験・実証を望むというなら、すべからく実験・実証をもって彼らを導く工夫をすべきではないか。それが真の道のために忠実なるゆえんでありましょう。近代心霊科学という学問は、実にそういった意味で生まれ出でたのです。

 モウ一つここで慎まねばならないのは、排他的な島国根性です。「日本には日本の道がある。どうして西洋の残りカスをなめるなど……」そんな事を言って、高くかまえる方々が相当に多い。もっとひどいのになると独りよがりに、何々の命《みこと》、または何々の神の神勅であるなどと呼称し、自分以外にはとんと通用せぬ、根拠もない独自の主張を、臆面もなく振りまわしてはばからないのがあります。別に悪意でやっているのではないのかも知れませんが、実に困ったものです。

 言うまでもなく、世界の法則には、国境の差別や、人種の差別はありません。もしあるとすれば、それはニセモノに相違ない。ただ単に世界に通用せぬばかりでなく、日本においても同様に通用しません。無論われわれは、西洋の残りカスなどをなめる必要はありません。が、西洋のものは全部クズ、日本のものは全部珠玉と、観念的に初めから決めてかかるのは乱暴に過ぎます。われわれの求むるところは西洋にも通じ、また日本にも通ずる千年後まで朽ちない真理、磐石不動の科学的事実でなければなりません。

 私が力不足もかえりみず、万難を排して、永きにわたり心霊科学の実地研究を行い、また西洋の心霊書類の調査に微力を費やすゆえんは、実にそうした考えからです。欧米の心霊家の中に、ずいぶん下らないのがあることは事実ですが、しかし道のために刻苦精進、ほとんど一切の名利を忘れて、真理の追究にかかっている優れた人格者も、決して絶無ではないのです。その点は公平に見て、欧米の方が、むしろ日本よりも勝ち目がありましょう。

 それはともかく、私をして何より愉快に思わしめることは、欧米の心霊家の中に、これが果たして外国人かしら、と思われるほど、まるっきり日本の伝統的精神、または日本古典の指示に、ぴったり一致したことを説くものがあることです。日本国は、たしかに欧米の心霊家の中に、自国の知己をもっています。およそ世の中にこれほど愉快な話がまたとありましょうか!

 それにしても、我々の祖先達は、そろいもそろって、何という優秀な第六感的直感能力の所有者であったでしょう。悠久の太古において、彼らがほとんど不用意らしい態度で、あっさり述べたものが、今日下から上へと、実験的に少しずつ奥の方に探究のあゆみを進めてみると、驚くべし、ことごとくそれが正しい事柄ばかりです。何のことはない、今日の心霊科学は、後からあえぎあえぎ日本古伝の諸説を追いかけているような按配《あんばい》です。ご承知のとおり、欧米のスピリチュアリズムなるものは、近代心霊研究の結果から帰納して構成された、人生の指導原理なのですが、それがいかに肝心な点において、日本固有の指導精神、または古神道に伝わるところと、ことごとく一致しているかは、すでに私が何度も指摘したとおりです。キリスト教の聖書だの、仏教の経典だのも、もちろん結構なものには相違ありませんが、しかし近代の心霊眼をもって厳密に調べますと、その中にかなり重大なる誤謬と、かなり顕著なる不完全と、またかなりいかがわしいドグマを発見します。これらは当然、削除や補修が必要です。しかるに一見おとぎ話のような日本の古典には、よし宇宙の全てをことごとく網羅しているとは言われぬかも知れませんが、少なくともその中に、誤謬とドグマだけは、今までのところただの一つも発見されないのです。これは私のひいき目でも何でもありません。公平無私の立場にあるものは、皆これに一致するのです。

 話題があまりわき道に走ることを避け、今回は国家の守護神問題について、西洋の心霊家が、最近どんなところまでこぎつけたかを調査し、皆様のご参考に供することにしましょう。くれぐれも、西洋人の意見など聴くには及ばん、などとひねくれた排他的島国根性を出さず、世界大家族主義の大らかな度量をもって、いちおう彼らの言うところをきいていただきたい。西洋心酔はもとより唾棄すべきですが、西洋毛嫌いもあまりに大人げない。そんなケチな了見では、世界を舞台とする、空や海のように度量の広い、我々の偉大なる祖先の前に合わせる顔がないではありませんか!

 

 欧米の心霊研究はずいぶん永い期間にわたり、主として霊媒を使って、人間の霊魂との交渉を開いているにとどまりましたが、その後次第に、超現象の世界を深く広く究明するにつれ、人霊以外の存在、いわゆる自然霊が、他界に存在することを発見するに至りました。私の知るところでは、この点に関して、セオソフィの研究者達が先駆者であると思いますが、心霊学徒としては『死後の世界』および『幽界行脚』の著者たるワード学士を挙げるべきでしょう。その著書の中に、妖精ならびに龍神などの様子が、すこぶる詳細に伝えられております。

 そのうち故コナン・ドイルの『妖精来』が出るに及んで、欧米の心霊研究は、ここに新時代を画するに至り、他界には人霊と全然別個の一種の存在、自然霊がドウあってもいるに相違ないという確信が、次第に濃厚となるに至りました。しらべて見ると、西洋には妖精と交渉を有する霊能者がなかなか多く、しかもその写真までが、立派に何枚も撮れています。それに関する紹介は、すでに私の書いた『妖魅と妖精』(『心霊と人生』昭和六年四月号)、粕川章子氏の『妖精について』(同昭和六年七月、八月号)、同じく粕川氏の『コナン・ドイル卿の妖精感』(同昭和六年十一月、十二月号)等がありますからご参照を願いたい。

 が、妖精とか妖魅とかいうだけでは、まだまだわが古神道に伝えられる神々とは距離が遠く、とうていそれで満足はできかねます。で、私としては現在手元に揃っている、日本の霊媒の全能力を挙げて、それに関する研究に従事し、その一部分だけは、すでに『心霊と人生』誌上にも発表しました。すなわち龍神に関する研究がそれです。しかしなにぶんにも、ほとんど私一人に限られた霊的調査では、いかにも心細く感じて、いささか躊躇の気味でおりましたところ、今回図らずも英国のジョフレー・ホドソン氏の新著『天使来《カミングオブエンジェルス》』を一読するに及び、やはり西洋にも仲間があるなと思って、はなはだ愉快に感じました。が、さらに一層愉快なことは、彼が太陽神界の組織、ならびに国家の守護神などについて、相当突っ込んだ霊的研究を発表していることで、この点において、彼はまさに欧米の心霊学界にあって、先頭第一の役割をつとめたわけです。私としてはドウあっても、その要点だけなりと、本邦の識者に紹介せずにはいられぬ気がします。

 ホドソン氏は、自身第六感的な霊能の所有者で、相当鋭い霊視能力を持っているようです。『天使来』の序文の一節----

 「自分が日頃散歩する谷間の景色も美しいが、その内面の生活に至っては、さらに一層美しい。そこにはあらゆる種類の自然霊が充ち充ちている。妖精の世界は、極めて人間の世界に近い。自然は薄衣《うすぎぬ》をもって、その美を包んでいるが、これを突き抜くことは、さして困難でない。自分は幸いにして、ある程度その特権を恵まれている。自分はしばしば谷間の自然霊たちとめぐり逢って、彼らの楽しい生活に親しむことを得た。さらに自分はこの谷間の自然界を司配する一人の天使、ならびにその仲間の天使たちにも交わり、さまざまな貴い教えに与かることを得た。が、自分が特にうれしく感じたのは、ずっと高級の一天使からのインスピレーションに接することができたことで、これによって、初めて天使と人間との関係を知ることを得た」

 ホドソン氏は西洋流に、いつも天使《エンジェル》という言葉を使用していますが、これはもちろんわが国の神々、または龍神と同意義のものです。氏は天使の性質、種類、形態等を、なかなか詳しく記載していますから、少しくその要点を紹介することにしましょう。

 天使の性質についてはこう述べています。----

 「自分の経験から言っても、また東洋の古伝から言っても、天使は死せる人間の霊魂ではなく、自然に自覚的な存在者たる域に達した、最初から生き通しの霊----ひとくちに言ってしまえば、いわゆる自然霊である。自然霊の中には地霊、水霊、空霊、火霊などがある。地霊は通俗的にノームと呼ばれ、大抵は地中に住んでいる。彼らの体はエーテル的な元質からできているから、地面などはもちろん障壁とはならない。平気で地中のエーテル的復体の中に動きまわっている。天空を自由に駈けめぐるのは、世俗のいわゆるシルフ、水に親しいのはニフム、火と親しいのはサラマンダーである。これらの四種類の天使たちは、必ずしも四大元質と直接関係のない、他の別種の天使たちと共に、太陽系の偉大なる進化的生命の要素であり、肉眼には見えないが、実はこの地球上で、われわれ人類の隣人なのである」

 その形態についてはこう述べています。----

 「彼らはもちろん有形、有体の存在であるが、ただ彼らの体は超物質的であり、したがってそれから放たれる光は、われわれの肉眼で見られるスペクトルには属さない。彼らは位置と容積とを持っている。が、ただ三次元世界の空間の制限には縛られない。奥の奥の無形の世界の天使たちは、光彩乱れ散る美しい光の存在で、何とも言葉に表わせぬほど美しい、半透明の薄い姿がぼんやりと拝まれる。そしてその身辺からは偉大なる力が、それぞれ象徴的色彩となって四散する。身長は、発達の程度にしたがって6〜30m位、その容貌は荘厳、明朗、その目は歓喜の光にかがやき、時とすれば、事に当たって圧倒的な威力をほとばしらせるが、ただ完全なる自制と憐れみとが備わっているので幾分その強さが和らげられる」

 天使と人間との相違、また両者の交渉については、こう述べてあります。----

 「人間が天使に近づこうとすれば、純潔、直截、無邪気、虚心の四性質を発達させねばならない。何となれば、それが天使の特性だからである。天使たちは一度も肉体に宿った経験がない。高級の天使たちは、疑いもなくとうてい人間の追いつくことのできない、偉大な能力を持っているには相違ないが、しかし物質界にあっては、依然人間が主人公である。何となれば、天使は直接物質に触れることができないからである。人間がその自由意志をもって、この鈍重なる物質界に宿って、いろいろな経験を積み、権力を振るいつつある以上、当然人間はこれに対して代償を払わねばならない。人間はこれによって、必然的に純情を失うが、天使たちはそれを失わない。人間は必然的に、個人的、対立的、利己的であるを免れないが、天使たちはあくまでも協調的、共存的である。人間は目的を達するために、紆余曲折を免れないが、天使の行為は直裁で簡明である」

 天使の太陽崇拝についてはこのように述べています。----

 「天使たちは太陽を全組織の大中心、一切の生命の大本源と考える。ただし天使たちが太陽について抱く神秘的意義は、普通人類には充分に判っていない。太陽は実に最高級の天使たちの総司令部であり、それより以下のすべての天使、すべての自然霊にとって、実に憧憬し仰ぎ慕う中心なのである。いっさいの活力、いっさいの指導方針は、皆そこから与えられる。もちろん最高級の天使たちにあっては、全組織の中に遍在する精気と合流・融合してしまっているから、外部的に具体化した神を、特別に崇拝することはしない。彼らは万有に宿る神と合一しており、彼らにとって神は随所にあるのである。つまり神は、力、光、生命および意識の、没人格的な大中心なのである。しかしながら、それは最高の理想で、その域に達することは、わずかに少数の天使たちにのみ可能である。普通の天使たちは、皆太陽を崇拝の中心とするのである。これがため、彼らは時として他界と遠く離れた天空に集まり、各自の神格に応じて、整然とした秩序をもって何重もの円を描いて、感謝と祈願とのまごころをささげる。円の層は一段また一段と、次第に高く重なり、その先はほのかに霞んで無形の世界に消える。天使たちの身は、いずれも光り輝いているので、そうして造られた集団は、まるで生きた光の聖杯である。すべての心は、愛と賞賛とに充ち充ち、すべての眼は、生命の本源たる日の大神にさし向けられ、それらが渾然《こんぜん》融合して、ここに清く貴い力の集合体ができ上がる。その中から奔流《ほんりゅう》のような、すさまじさをもってほとばしり出る光の流れは、上へ上へと上昇して、太陽神の御胸《みむね》に達する。にわかに虚空には素晴らしい音楽が起こる。礼拝者達の胸の高鳴りの加わるにつれて、楽声もまた強さを増し、ここに喜びにあふれた、光と音との、世にも妙《たえ》なる世界ができ上がる、それに連れられて、いかなる天使も、日頃住むおのれの領域より遥かに高い境涯に進みのぼって、太陽神の無上に気高い御姿を目の当たりに拝するのである。かくてすべてが、心からの喜びの最高潮に達した瞬間に、大神の御答えが初めて下る。それは黄金の光の洪水となって、すべての天使たちの魂に、ひしひしとしみ込む。前後左右、天上天下、辺りはただ逆巻く光の海、そしてその真っ只中に、一段清く、強く、美しき、日の大神の御姿が浮かぶ。むろん神の御姿は見るものの霊格によってそれぞれ異なる。いかなるものも、自己の器量だけしか拝むことはできないのである」

 以上はホンの簡単な抜粋で、しかも私の翻訳がお粗末なので、充分な意味があるいは伝え得ない感があるかと思われますが、とにかくこれだけでも、ホドソン氏の研究が、本邦古伝の神話の注釈のような仕事をしていることをうかがうには足ると考えます。天使は最初から生き通しの自然霊であるということ、天使は太陽系の進化的生命の要素であるということ、天使は超物質的な形態をもっているということ、天使は事に当たって圧倒的な威力を発揮するということ、天使は地上生活の経験がないので、あくまで純情であるから、これと交通を開くには、人間の方で純情にならねばならぬということ、天使……少なくとも人間界に近い天使たちは、太陽を崇拝の中心とすること、太陽は太陽神、ならびに最高級の天使たちの総司令部であるということ、天使たちは太陽崇拝のために、他界を遠く離れた天空に集まるということ----これらを熟読吟味すれば、われわれとして思い当たる節が実に多い。天使というと、少々バタ臭いが、西洋人に向かってバタ臭いのを責めるのは、あまりにも可哀想です。天使という言葉がイヤなら、その代わりに、神々または龍神という言葉を置きかえればよい。なかんずく私が特に面白いと感じたのは、天使たち(神々)が太陽神を拝むために、地界を遠く離れた天空に集まるという一節です。日本流に言ったら、これは当然高天原《たかまのはら》に神集へするというところでしょう。私の霊的実験から言っても、神々の世界では、そう言った神事が行われつつあるように思います。

 

 最後にいよいよ標題にかかげた国家の守護神について、ホドソン氏の説くところを紹介すべき段取りとなりました。氏はかく述べています。----

 「いずれの民族にも、その守護神のないものはない。一面から観れば、民族の守護神は、高級の天使団の一員として、太陽神界から任命され、これを代表するものである。その資格において、彼は主として理想の標準によって動き、自分が司配する民族が、天から受けている使命を察知し、これを適当に指導する任務をおびている。すなわち彼はその民族の進化をうながし、与えられた宿命の完成に向かって、その民族の指導者達を導き、もし彼らにして正しい方向を踏み外さんとすれば、人知れず抵抗不可能な威力をこれに加えて、その補正に当たるのである。言うまでもなく民俗的守護神の背後には、さらにより偉大なる全人類の守護神が控え、さらに進んで各天体にも及び、究極は最終的に宇宙全体にわたって、完全なる組織網ができているものらしい。これらの守護神の威力と叡智とは、広大無辺と言ってよいが、しかし彼らは、決して人類または国民に向かって、その意思を命令するようなことはしない。人間はどこまでも自身の苦い経験によって、内部から開発されて行かねばならない」

 「さらに他の一面から観れば、民族の守護神は、一個の独立した天使としての生命と、事業以外に、全民族意識の統合体たる資格を帯びているともいえる。すなわち一民族に宿る無数の自我が、守護神の内に結晶して、一つの国民精神、一つの国魂を形成しているのである。従って民俗的守護神の資格は、すこぶる複雑である。民族の帯びている使命、民族の課せられた業《ごう》、民族の有する希望----彼はこれら三種の要件を適宜《てきぎ》に調和・按配《あんぱい》して、万が一にも違算の無いよう期せねばならぬ」

 叙述が相当抽象的で、いささか守護神の資格について下せる定義らしく感じますが、問題が問題であるから、恐らく止むを得ないことでしょう。が、ここにもわれわれにとってはなはだ面白い暗示が、相当たくさん発見されます。いずれの民族にも守護神があること、いずれの国の守護神も、太陽神からの代表者であること、いずれの民族にも天の使命とそれによる因果応報があり、これに司配される事、守護神が巧みに自己の威力をもって国民を導きながらも、人民の自発的覚醒を、気長に待つものである事、----これらを頭に置いて、天孫邇々藝命に関する日本古典の記事に対すれば、すべてが生きて来るように感ずるではありませんか。これで天孫降臨の意義もはっきりし、これで日本国民の帯びている宿命も見当がつきます。日本民族というものは、他の世界の混乱を鎮めるために、最後に武神の援助に与かり、葦原の瑞穂の国を統一することが、その使命でありましょう。もしそのご本尊の邇々藝命に至っては、このお方が太陽神界から特派された、日本民族の永遠の守護神でなくて何でありましょう。

 これにつけても日本国民の邇々藝命に対する理解と信仰とは、従来はなはだ不充分ではないかと痛感します。そんなことで、ドウして遺憾なく日本の民俗的使命が完全に果たされましょうか? 世に霊能者・神道家をもって任ずる人達は、なかなか多いですが、ただの一人として、天孫邇々藝命について、内面的にその面影の片鱗をも伝えたものがあることを聞かきません。日本人は近頃よっぽどドウかしています!

 日本の心霊学徒の仕事は、いろいろに分かれますが、しかし日本の守護神に関して内面的研究を施すことは、たしかにその最大任務の一つです。その仕事が十二分に国民の間に徹底し、日本国民全体が、自国の守護神の優れた指導方針によって、一糸乱れず進むようにならなければ、とてもダメです。私は昨今の困難なる世界の状勢を観て、特にその感を深くするものです。(八、四、十三)

 


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