心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('02.03.14更新)

六章 日本民族の使命と信仰
(その1)


 

 一 いまだかつてない大試練

 『非常時』『危機』『難局』……これらの言葉はこの数年来、耳にタコができるほど聞かされて来ましたが、それにもかかわらず、非常時的要素、危機的要素は少しも解消して行かず、時間がたつほど、かえってますますその濃度を強めつつある感があります。一九三五、六年の海軍会議が目前に迫っている(訳注:これが書かれたのは1934年)。----国際連盟脱退の後始末は早急に解決せねばならない。----日本製品に対する全世界の封鎖政策は次第に厳しさを増しつつある。----ブラジルにおける日本移民の受け入れ先は完全にふさがれそうになっている。----世界の気運は何やら大平洋、中でも特に日本を中心として大きく変わろうとする様子が、はっきりとうかがわれる。----このほか数えあげたら対外的にも、また対内的にも、有形的にも、また無形的にも、本当に深く憂慮すべき諸問題が、ほとんど際限もなく私たちの前途に横たわって、いとも不気味な暗影を投げかけています。建国以来二千六百年の長い歳月の間に、われわれの祖先達も、ずいぶん危ない橋を渡り、難局をくぐりぬけてはいますが、しかしわれわれが現在直面しつつある周囲の形勢は、過去のそれらの何れと比べてみても、優るとも決して劣らない重大性をおび、深刻味をおびています。まったくもってわれわれは途方もない時期にめぐり合わせたもので、いかにどう見積もったところで、現在は日本民族にとって、まさに伸《の》るか反るかの大試練の時期に違いないのです。

 この際いたずらに世迷い言を並べたり、自暴自棄におちいったりすることは、日本民族の伝統的精神が断じて許さないところです。われわれはあくまで積極的に、またあくまで楽天的に、有形無形にわたる一切の人事をつくしてこの非常時を見事に克服し、それによって少しでも早く全世界に、平和と秩序とを回復させることに絶大な努力を払わねばならないのですが、それにつけても全ての根本にあるのは、言うまでもなく
 挙国一致の実を挙げること
です。言い換えれば全国民の理想、理念、目標などが、ある偉大で崇高な何物かによって完全に融合統一せられ、九千万の同胞が、さながら一団の火の球となってわき目もふらずこの難局にぶつかることです。万々一それができなければ、日本国の運命は不安定でまた危ういものです。

 さすがに日本国民の民俗的自覚は、最近数年来じわじわと強まりつつあります。はなはだ喜ぶべき傾向をたどっているものと見受けられます。たとえば内閣の組織にしても、最近いずれも挙国一致を標榜しておりますが、これはたしかに時代精神の喜ばしい一つの反映と認めてよいでしょう。政治以外の諸方面にあっても、そうした時の巡り合わせは、相当きわだって認められないでもありません。

 が、遺憾ながら現在の挙国一致は、まだ決して理想的な挙国一致----安心してこの非常時をまかせてよいというほどの完全無欠な、総動員的な精神的団結の域に達しているものとは、いかに贔屓目に見ても、とうてい考えられないのです。つらつら考えるに、近代の日本において国民的団結の成果がもっともよく挙がったのは、まさしく日露戦争当時で、国民挙げて傲慢《ごうまん》非道のロシアを正義の敵、平和の敵と睨みつけ、不世出の聡明な天皇である明治大帝の威光の下に、立派に正義と奉仕の実績を挙げたのでした。私どもは、その時代を追憶するごとに、今でも胸の奥に興奮の血のささやきを聴かずにはいられないのです。しかるに現在の局面の重大性は当時の何倍もであるのに、現在の国民の一致団結は、その当時の四分の一にも達していないというありさまです。こんな事で一体全体どうする気か? ちっとは個人的、また局部的な利害損失の打算の外に超越して、真剣に民族的、全的問題に心血をそそいで見る気持ちにはなれないのか。……心ある人々は、おそらく誰もそう叫びたくなるだろうと考えられるのです。

 が、この際いたずらに、つかみ所のないご立派な言葉で嘆いてみても何の効能もありません。空砲では小雀一羽落ちません。われわれとしては心静かに日本民族として、あくまで遂行せねばならぬ大きな使命が何なのかを充分に見きわめ、さらに進んで、その使命遂行の原動力----千秋万古を通じて絶対に動くことがなく変わることもない、信念の主体についての正しい認識と、自覚とを高めねばならないのです。私どもの見る所が間違っていなければ、日本国民の大部分は、それに対する精神的準備が、まだ十二分に出来ているとは言えません。そしてそこに完全なる挙国一致の実の挙がらない、最大の原因が存在するものと考えられるのです。

 

 二 大家族主義的統治能力

 おしなべて何れの民族でも、皆それぞれの使命、言い換えれば他の民族にはとうてい真似のできない、ある特殊な技量や能力を持っているので、そこに天の配剤の妙味が窺われます。黒人にして初めてアフリカの処女地を開拓し得、エスキモーにして初めて北極の氷雪の中に安住することができます。それならば日本民族の地上における特殊な使命は、そもそも何であるのか?

 これについては、観点の相違から、多少意見の相違は免れないでしょう。しかし私どもは、主として二千六百年にわたる過去の国民的業績、生きた史実を資料として、公平な判断を下すことによって、日本民族の大使命が、どうあっても、
 大家族主義的に地上を治める能力
であると断ずるものです。言うまでもなく、侵略された事がない純粋無垢の皇室を中心とする、君主と民衆が一体となった有機的連動装置の創造と運用とは、まったく世界の歴史に似たものがなく、こればかりは厳然たる歴史的事実ですから、他の何れの民族がいかに口惜しがっても、その向こうを張るわけにはとうてい行かないのです。日本民族は、いつも外国人から口癖のように、マネばかりしているとあざけられ、宗教でも、哲学でも、科学でも、機械工芸でも、ほとんど全部外国からの輸入品、日本国民の中から出てきた独創的な物など、ほとんどただの一つもないとののしられます。しかしこれは日本国民が二千六百年にわたって、全生命を打ち込んだ大創作物----世界に比べる物のない、大家族主義的、道義的な国家の状態の完成----を見落とした観察ですから、これは決して全ての真相を把握した、公平かつ周到な観察とは言えないのです。満州問題でも、日本は世界各国の認識不足に悩まされましたが、しかしそれなどはほんの局部的、末端だけの認識不足であって、深く論ずるに足りません。ただこの特殊な国体を見事に完成した、日本民族の独創的天才を無視するに至っては、あまりにもはなはだしい認識不足であると私どもは痛感するものです。

 無論日本民族には、他にいろいろな長所もあり、同時にまた短所もあります。が、それらはいずれも付随的、局部的なものであって、日本民族が未来永劫、心血をそそがねばならぬ宿命的な大事業は、個人主義的侵略主義の正反対である、大家族主義的かつ道義的に地上を治める方策の完成以外の何物でもないと信じます。

 万が一日本民族にして、この自覚を失うことがあれば、それこそ日本民族が地上から姿を消す時でしょう。何となれば、それでは日本民族の日本民族たるゆえん、つまりその存在価値が消滅するからです。

 説いてここに至って、われわれはさらに一段の思索をすすめ、この大家族主義的、道義的精神の由来する根本を、奥へ奥へと追究せねばならなくなりました。言い換えれば何が日本民族をして、こんなとんでもない独創的能力を発揮できるようにしたのか? という問題です。単なる表面の事象は誰にもわかりますが、その事象の内面にひそむ、奥深く微妙な根本的な原因が判らなければ、はなはだもって心許ない。それでは上滑りして、まさかの場合にいかなる精神的動揺をきたさないとも限りません。私どもの観るところによれば、日本民族が神武建国以来二千六百年間に、時として危険極まる大錯誤を演じ、必ずしもゆるぎなく一貫した立派な面目を維持できなかった最大の原因は、たしかに日本精神の由来の根源についての深い理解が、全国民の心魂に、充分に徹底するまでに至らなかった点にあるかと思うのです。この欠陥はもちろんできるだけ早く、そしてできるだけ完全に除去しなければなりません。それには当然の順序として、われわれはまず古事記、日本書紀などの古典について、ひととおり綿密な調査をやりとげ、それらが何物を私たちに指示するかを、十二分に検討すべきであると思います。日本古典と日本精神とは、とうてい不可分な存在であり、これを無視し、もしくは軽視した議論や研究は、とうてい物の役に立たないのです。これから一応簡単に、古典の内容を調べて見ることにしましょう。

 

 三 造化《ぞうか》の三神と太陽系の主宰神

 改めてここに指摘するまでもなく、日本の古典(主として古事記、日本書紀)は、『神代』の巻と、『人代』の巻とにはっきりと分けられています。私どもがここで取り扱おうとするのは、もちろん主として『神代』の巻で、われわれ心霊論者の立場からすれば、その中にこそ広大無辺な世界の根本道徳、宇宙の神秘が包蔵されていると考えられるのです。これから一通りその内容を検討してみることに致しますが、なるべくはっきりと要点が掴めるように、神代の巻の中において、何人《なんびと》も心得ておかねばならぬ最大の要点のみを摘出して、箇条書きに致しましょう。ちなみに日本古典の『神代』の中には、明らかに三箇所の別々な『界』が取り扱われています。すなわち第一が宇宙神霊界、第二が太陽神霊界、第三が地球神霊界です。これは時間的にも、また空間的にも、絶対に混同してはならないものですから、読者はあらかじめ、そのつもりで古典に挑んでいただきたいのです。

 (一)造化三神----造化三神はもちろん宇宙の源の神で、ここに日本の精神的な宇宙観が述べられています。『天地の初発《しょはつ》の時、高天原《たかまのはら》に成りませる神の御名は天之御中主神《あまのみなかぬしのかみ》、次に高御産巣日神《たかみむすひのかみ》、次に神産巣日神《かみむすひのかみ》、この三柱の神はみな独神《ひとりがみ》成りまして隠身也……』これが古事記の開巻の文字です。日本神話の筆法については、先へ行ってさらにまとめて述べますが、その特色の一つは、神名が単なる無意味な名称でなく、むしろ神格の定義となっていることで、それは造化三神の場合にも適用されています。すなわち天之御中主神とは、これを現代語に訳せば、要するに「宇宙最奥の中心主体」ということになり、無限絶対の一元的実在《God》の代表語として、まさに最適のすぐれた表現であると思われます。次にタカミムスビと、カ、ミムスビ----タは言霊的にいえば明らかに陽を意味し、カは明らかに陰を意味します。またムスビはもちろん結びであって、動の世界において陽と陰とが、まさに相対不離の関係にあることを表わし、いかにも巧妙に万有の根底に横たわる、大自然の法則を暗示した言葉です。わが国では以上の三神を、普通造化の三神と称えますが、要するに、三神は即一体、これを内に収めれば一元に帰し、これを外に放てば陰陽の二元に分かれるのであって、古今東西、どこをどう捜したところで、これ以上に完璧を極めた宇宙観はありますまい。かの仏教の空即是色、色即是空などは、いかにも巧妙は巧妙ですが、定義としてまだ不完全を免れません。この点において日本古典と拮抗し得るのは、わずかに支那の易経ならびに老子ぐらいのものでしょう。

[註]日本神話は、造化三神について多くの神名をつらね、宇宙の進化発達に関する超現象的内面世界の秘事を漏らしていると考えられますが、われわれの研究がなお未熟であり、また差し当たりこれに触れるための時間もありませんので、全部これを省いて、直ちに第二段の太陽神霊界の叙述に移ります。

 (二)太陽神霊界----簡単に述べると、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》が御禊《ごけい》(訳注:みそぎの一種)の行事を行われた時に、たくさんの神々がお産まれになったが、最後に三貴神の出生となります。左の眼からお生まれになったのが天照大御神《あまてらすおおみかみ》で、この神様が高天原の主宰神、右の眼からお生まれになったのが須佐之男命《すさのおのみこと》で、海原《うなはら》の主宰神です……。

 あくまで擬人的筆法で書かれているので、誰でもうっかりすると、身近な人間の出来事に当てはめて見たくなりますが、心霊科学の立場からこれを解釈すれば、この神話は明らかに全世界の人類に対して、もっとも普遍的な、そしてもっとも実際的な信仰の対象を指示したものと考えられます。抽象的観念論者は、口を開けばすぐに宇宙だの万能の神だのと言いたがりますが、地球上に生息する人類にとって、それはいささか秩序階梯を無視した、突飛で身のほどを知らぬ行ないであり、実際問題とすれば、われわれ人類にとって最高の目標は、形而上的には太陽神であり、また形而下的には太陽系です。あくまで地面から足を離すまいとする日本民族の神話が、太陽神の信仰と崇拝とに最大の力点を置くゆえんで、これはたしかに、世界の一般人類の規範とすべき事柄だと考えられます。世に神書経典と称するものはたくさんありますが、この点において日本の古典は、断然名誉の孤立を守っているわけです。

 が、近年欧米諸国においても、心霊学徒によって幽明交通の道が開かれ、ぞくぞく見るべき霊界通信が現れるに及んで、欧米の人々の眼も、ようやく太陽神の存在、ならびに太陽神界の組織に開けて来つつあります。いわく「太陽神は地上の人類にとって、事実上の宇宙神である。キリスト教のいわゆるキリストは、太陽神以外の何物でもない」いわく「太陽系の物質的、外面的形態は、つまるところ一つの生きたエネルギーである太陽神の意思の表現であり、太陽とその惑星とは、不可分の統一体を形成している。そしてその中間の一見空間と思われる所には、生命に満ち充ちた幾層かの霊界が存在する」いわく「太陽神の偉大さは、その無尽蔵の光明と、温熱と、威力とに遺憾なく表現されている。これらは外部的、物質的属性だが、われわれはこれを手がかりとして、太陽神の内面的、精神的な大きさを想像するべきである」いわく「太陽は実に最高級の天使たちの総本部であり、それ以下のすべての天使たちが憧憬し仰ぎ慕う中心であり、いっさいの活力、いっさいの指導方針は、皆そこから与えられる」これらの言葉が、皆欧米の心霊学徒の口を通じ、筆を通じて現れてきたのですから、日本としてはまさに予期せぬ喜びではありませんか。つきつめて考えれば天照大御神の神格について、近代心霊科学の指示するところと、日本神話の指示するところとは、正に符節を合わせているわけです。

 私たちはここであまり長く筆をとどめて、詳しい説明を試みているゆとりはありませんが、ただ一・二の神名について、思い浮かぶままに略解を下しておきましょう。まず天照大御神という御神名----ひかり輝き、あまねく宇宙全体を照らす太陽を機関として、太陽系全体の経綸に当たらせ給う、最も尊く最も高貴な大神霊の御神格が、なんと遺憾なく、この一語の中に包蔵されていることでしょう。かのキリスト教徒が、天を仰いで「天にましますわれ等の神」とたたえているのも、つまるところ神に向かって天照大御神に対する、崇敬のまごころをささげているものと考えてよいと信じます。それから須佐之男命----これはまさしく荒男命《すさのおのみこと》で、荒魂を多分にそなえて、今や盛んに生物的生命の育成にあたり、場合によっては大噴火、大地震をはじめ、あらゆる種類の天変地異を巻き起こし、果敢に、剛健に、また積極的に、最後の完成に向かって向上の道をたどりつつある、地球の魂の真の様子を、極めて適切に指摘した神名かと考えられます。須佐之男命のお治めなさる海原とは、もちろん水に包まれた地球のことを指すものでなくて何でありましょう。月読命《つきよみのみこと》についても卑見がありますが、これは煩雑さを避け、ここでは省略することにします。

[註]日本神話には、太陽系の天体の中で、わずかにその三つだけしか挙げられていません。現代の学術的見地からすれば、ちょっと物足らないようにも思われますが、人類生活の実際に即していえば、これは極めて正当な処置だと考えられます。日常われわれが非常に大きな関わり合いを持つのは太陽、大地、大陰(月)の三つであって、他の天体に至っては、その関係が比較にならぬほど希薄です。日本の神話が力点をこの三つに置いたゆえんでしょう。しかもこの神話の出現したのは、文明の未だ発達していなかった、遠い遠い太古の時代です。われわれはむしろこの啓示が充分に用意周到に出来上がっていることを、大いに賛美して良いと思います。

(その2につづく)

 


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