心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('99.12.12作成)
かのメースン氏の『神道の創造的展開』----既にご承知の方もありましょうが、これは先ごろ同氏があるところで行った、講演の記録です。もともと一度の講演ですから、これのみをもって、同氏の神道観の全貌が尽くされていると考えることは、早計かもしれませんが、しかしその反響は、かなり各方面に起こっており、私に対して、これに関する意見を求められる方も少なくないので、ひとつ簡単に、心霊学徒の立場から論評を試みることにいたします。 ご承知のとおり、メースン氏は、本年四月に来日し、今なお本邦に滞在して、神道のことを調べている、北米の新聞記者です。私も氏とはこの六月ごろ、一度面会したことがあります。それはたしか東京心霊相談所で、北村霊媒の襦袢抜きの実験を行おうとしていた時でした。突然早稲田の中桐教授に伴われて、見学に来られたので、私は氏に頼んで、北村君をロープで縛らせました。実験後、しばらく神道に関する談話を交換しましたが、しかしなにぶんにも十分な時間がなかったので、お互いに思うところを披瀝するにいたらず、再会を約束して別れたことでした。が、この短時間の会見にもかかわらず、私をすこぶる感心させたことは、メースン氏が、普通の研究者たちと異なり、心霊問題についての、相当の知識と見解を持っていることでした。したがって氏の神道研究には、相当な深みがあり、単に表面的な観念の遊戯に陥っていない点があるのでした。「この人ならば、本当に日本の神道の神髄に触れることができはしないかしら……」掛け値なしに、私はそう感じたことでしたが、今回氏の講演として行われた『神道の創造的展開』を一読するに及んで、私の考えにほとんど間違いのなかったことを発見しました。 そもそもわが神道の由来や淵源を考えるに、それは明らかに人間の第六感に訴えるところの、神人交通をもって出発点としております。試みに日本最古の記録たる古事記、日本書紀などを取り出して見てみるがいい。いずれも当然のように、神代の記事と、人代の記事とを、全然同一態度で、ゴッチャに取り扱っていることを発見します。ほかでもない日本古代の霊能者たちの眼には、超物質界と物質界との区別が、そうはっきりと分からぬくらいに、いずれも事実として見えていたのです。換言すれば、人間の第六感に映ずる超現象の世界も、人間の五感に映ずる現象の世界も、ほとんど彼らにとって同じ価値を持っていたのです。この間の事情が分からなければ、日本の神道、日本の古典は、永久に解けない一つの大きな謎となるのです。 不幸にして、日本近代のいわゆる国学者、または神道家の一部には、この事情が十分に分かっていません。少なくとも明治以降の日本の学者の大部分には、さっぱりこの間の真相が分かっていなかったと信ずるべき理由が大いにあります。試みに明治以来、日本で出版された神道関係、古典関係、歴史関係の書物を挙げてみるがいい。たった一つでも、超物質的、霊的世界の実在を、そのまま率直に示したものがありますか? 明治以降の学者たちの説くところによれば、日本の神代とは、歴史以前の野蛮かつ無知蒙昧な原始時代に過ぎないのです。また彼らに従えば、日本の神代とはおそらく日本渡来以前の、どこかの外国における乱暴な酋長、土地の豪族のたぐいにすぎなかったのです。要するに、どこまでいっても彼らの視野は、平面的な物質的現象界から出ることがなかったのです。これではおそらく百年経っても千年経っても、日本神道の神髄を掴む見込みはありますまい。 ところがわがメースン君に至っては、決してそうではないらしいことが、その講演の中に明らかにうかがわれるのです。彼には『神霊』ならびに『神霊の世界』の観念が立派にできているのです。それだけでもメースン君は、明らかに日本の学会、または宗教界の水準を、楽々と越えていると言わねばなりません。果せるかな、その神道観は、なかなかよく要領を掴んでおり、いくつか傾聴に値する卓見もないこともありません。 これから一つメースン君の意見の紹介かたがた、必要に応じ私の考えも交えて見ることにしましょう。
私は便宜のために、メースン氏の主張の要点を、一つ一つ抜き出していくことにします。氏は冒頭からこう喝破しています。 が、氏の表現法は、いささか非学術的で、不透明なきらいがあるのではないかと思います。これはやはり私が普段主張しているとおり、「神道の根本的基調は、自然法則の順守である」と述べたほうが、意味がいっそう明白になると思います。私は『日本国民の精神的指導原理』の第三章で、このように説いておきました。---- 「日本の国民性は人為的法則、たとえば教義とか、教条とか、学説とか、習慣とかいったものなどよりも、むしろ宇宙の万有の神に内在する、活きた自然の法則を、よりいっそう信じ尊ぶ傾向をもっている。この見解に大多数の識者の賛同を得られるものと信じます。現にわれわれの祖先たちが、昔から使い古した用語、たとえば神の道、まことの道、惟神の大道、天地の大道などというのは、つきつめれば、この精神を言い表したものに相違なかろうと信じます。またぜひそう解釈せねばならぬと、私は主張するものです。宗教かぶれの一知半解の神道家、または霊術者たちの中には、時としてこれを浅く、狭く曲解しようとするものもないではありません。すなわち神の道とは、日本にのみ通用する、一種特別の狭い道であるとしたり、惟神の大道とは正しい論理や、学問の指示を無視し、愚にもつかぬ思いつき、動物的本能に盲従しようとすることだとしたりする類です。こんなことを考える連中は、結局時代の落伍者で、もちろん二十世紀の舞台から、さっさと引っ込んでいただかねばならぬと思います。自然法則の順守----この観念こそは、日本国民が一切の既成哲学よりも、むしろ近代科学と提携すべき傾向を持っていることを、もっとも有力に物語るものである……」 つきつめれば、メースン氏の主張と、私の主張とは、その内容精神において、格別の相違はないものと考えられます。氏のいわゆる『人生そのもの、精神そのもの』というのは、つまり人為的な細工や、工夫を施さない、自然そのままの姿ということに相違ないと思うのです。これは明らかに近代科学の狙っているところです。 それにしても、北米の新聞記者の中に、メースン氏のような、日本精神の真の理解者を見出すことは、まことに愉快ではありませんか。孔子の言い草ではありませんが、「友あり遠方より来る、また楽しからずや」です。アメリカというと、近ごろ日本では、頭から拝金主義の国、独り善がりの空疎な人道主義の国とけなしたがる風潮がありますが、これは必ずしも当たらぬ場合があります。すべて何事も、“一山いくら”的に、概念で片づけることはできない。ことにアメリカのような、あらゆる人類の集合地に対しては、大いに用心しなければなりません。アメリカは、一方において唯物主義の“ゆりかご”であると同時に、他方においては、近代スピリチュアリズムの発祥地でもあります。また一方において、頑迷で無知なワカラズ屋の巣窟であると同時に、他方においてエスマン、ホールソン、リンカーン、ロングフェローなど、非常に洗練された哲人・優れた人物も輩出しています。日本とアメリカとは、一見すれば、ソリの合わないところがいろいろと多いことは事実ですが、しかし表面のカスをすっかりかき落とし、後天的な付着物をきれいに削り去ってしまえば、両者の間に一脈相通ずる、精神的連鎖が存在することは事実です。彼我両国はその点において互いに一致し、共鳴し、また協調することができます。メースン氏などは、そうした神聖な使命を帯びているものの一人に相違ないと思います。 次いでメースン氏は、神道の顕著な特色として、こう言っています。---- 一体既成宗教のほとんど全部が、厭世的傾向を帯びているのは、そもそも何故か? 無論これは民族性だの、時代相だのというものが加味した結果でもありますが、しかしその最大原因の一つは、結局内在的霊界の真義に徹していないことだと思います。すなわち霊界とは、何やら死者のみが生息する別世界で、生者が触れられるのは、単にこの穢れたこの世だけだという考えに、捕われていたためだと思います。これでは人間が厭世的、隠者的になり、クヨクヨと来世ばかり望んで、その日その日を送るのも当然です。 ところが、人生は心得一つ、覚悟一つで、必ずしも、そんな窮屈なものではないことが、今日では学術的に明白になりました。すなわちわれわれは心身の浄化、不退転の努力により、肉体を持ったままでも、ある程度立派に霊界と接触し、そちらからの指導や、援助にあずかることができるのです。そうなると、現世は必ずしもイヤな場所ではない。イヤそれどころか、この不完全な人間の世界、地上の生活を、超現象の理想世界と、なるべく一致させるべく一生をささげるところに、人間として絶大な興味がわき、また絶大な喜びが味わえるわけです。これが実に近代スピリチュアリズムの主張であると同時に、またわが神道の神髄でもあります。 すなわち日本の神道が、現世教であるということは、断じて現世享楽主義という意味でもなければ、また物質的実利主義という意味でもありません。神人合一、顕幽一致による、理想的な地上経綸であり、国家経営です。メースン氏は感心にも、大体この間の事情に触れているように見受けます。これは次に氏の講演記録を読んでいくと、うなずけます。 メースン氏が、次に挙げた神道の特色は---- 「宗教のもっとも純なるものは、主観的に出ているものと思う。ところが神道の歴史を読んでみると、天孫邇々藝命が、高天原から降臨あそばされた。すなわち今まで主観的なものから、客観的に物の形にお現れになったと私は解釈している……」 「この神道の精神は、物質的にますます拡大しようと努力するものである。現代語でいえば、このわれわれの精神というものは、このわれわれ自身の形を通して、この物質世界に現れたものである……換言すれば、神そのものがすなわち物質というものを造りあげているのである」 これは実に、神道の精神を十分に会得したものの言説です。日本ではご承知のとおり、敬神崇祖をもって日本精神の結晶と考えます。古来、日本人のこれに関する説明は簡単明瞭です。「人は祖に基づき、祖は神に基づく」----ただそれっきりです。直感の異常に発達していたわれわれの祖先たちは、これですっかり了解ができたらしいのですが、現在の普通の日本人には、これだけでは意味が通じません。「人が祖に基づくは、ある程度遺伝説で説明できるが、祖が神に基づくに至っては、何のことやらとても納得できない。第一に神などというものが果たしてあるのか、ないのか? まずそれを決めないで、イキナリ祖は神に基づく、などというのは乱暴きわまる……」十人のうち九人までは、こうした抗議を申し立てそうです。 この種の疑惑を解くためには、ドウあっても、近代スピリチュアリズムの結果を雇い入れるよりほかに方法はありませんが、その点に関するメースン氏の説明は不十分であり、反対論者からは、単に空疎な独自の主張と考えられるおそれが大いにあります。つまりその主張に間違いがあるのではなく、その主張を裏書きすべき学術的論拠が、少々足りないのです。 心霊研究の方からいうと、日本の地上降臨説、つまり、メースン氏のいう創造説を裏書きすべき有力な資料は、次第次第に蓄積されつつあります。それらの中でもっとも大切なのは、かの超物質的な幽的存在、いわゆる自然霊が、心霊家によって発見されたことです。それら自然霊は、ある程度心霊実験によって把握できましたが、さらに霊視、霊言、自動書記能力などを活用することによって、今日では、もはや疑義をさしはさむことができぬくらい、確実につきとめられつつあります。日本神道のいう神々、西洋でいうところの天使などは、ようするにこれら自然霊の一部……むしろその首脳部で、それこそ実に人類創造の当事者なのです。創造の手順は、私のいうところの『創造的再生説』というもので、つまり自然霊が部分的に地上降臨する、言い換えれば神々の分霊が物質に宿って、一個の独立的存在としての形態をとるのです。この現象はメースン氏のように、「主観的なものが、客観的に物の形に現れた」と哲学的に述べても、また心霊家の多くがいうように、「霊界居住者の念(will)が、物質化したのである」と述べても、どちらでも宜しいでしょう。 いずれにしても神道の精神は、道徳的には敬神崇祖となり、目的としては、永遠の向上進歩を期する創造的展開となり、働きからいえば神人合一、顕幽一致の連動装置となります。詳しいことは、私の『日本国民の精神的指導原理』をご参照ください。メースン氏の講演に対する疑問の大部分は、あれで大抵除かれることと思います。 さらにメースン氏は神道の特色の一つとして これを善意に解釈すれば、メースン氏の意見には、大変面白い点があります。既成宗教の多くが目標とするところの神と、わが神道が目標とするところの神との間に存在する観念の相違を、メースン氏は、ほぼ把握できているように思われます。が、その説明がいかにも不十分なので、うっかりすると、単なる多神教の宣伝に堕してしまいそうです。これは是非とも大修正、大補足を加えておく必要があります。 神道の神の観念は、メースン氏が説いているところよりも、はるかに複雑深遠です。私がしばしば説いているとおり、日本の教えにあっては、第一に宇宙の万有の最始原としての、絶対的実在を認めます。これが取りも直さず第一義の神であり、易でいうところの対極です。メースン氏のように神道に全能の神という考えがないと言い切ることは、断じて間違いです。しかし神道では、他の宗教のように、絶対の神のみを、信仰の対象としないこともまた事実です。神道では、宇宙の一元の静的状態が破れると同時に、ただちに陰陽の相対的二元が現れ、その結果いわゆる八百万の神々の発生となるのです。すなわち神道の根本的原則としては、一神と同時に多神を認めるので、仏教のいう空即是色も、易のいう「太極分れて両儀を為す」も、老子のいう「一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」も、その表現の方法は異なれど、その根本の観念は全く同一だと考えられます。 モ一つ神道の神の観念として大切な点は、神界の組織統一に、絶大な重みを置くことです。換言すれば、天照大御神を中心とする、神界の一大連動装置ともいうべきものを認め、これをもって人生経綸の指針ともしていることです。日本のいわゆる皇室中心の大家族的制度組織----あれはつまりは、この考えから天然自然に発生したわけで、この点日本の神道が、他の一切の既成宗教と異なるところで、メースン氏のいう『創造的展開』も、そのお蔭でできるのだと私は信じます。氏の創造的展開に関する説明は、なかなか上手にできてはいるが、惜しいかな、要点の掴み方が足りないので、うっかりすると無秩序、無中心の猪突猛進主義の宣伝になりそうです。これはくれぐれも警戒を要します。 なおメースン氏は、創造的展開の説明をした後で、しきりに崇神(しうじん・すじん)天皇(訳注----十代天皇、在位97〜30B.C.と伝えられる。実際には三〜四世紀頃の人物と思われる)のご事蹟を賛美しています。すなわち天皇が鏡と、剣とを笠縫邑にうつされたのは、偉大な信仰上の革命だというのです。「崇神天皇は今まで宮城(きゅうじょう)の中にあった御鏡(みかがみ)を、宮殿から出され、そして各地に、神社というものをこしらえた。それで神の霊なるものは、宮殿から神社にうつされたのである。そこで天皇はご自分の努力によって、その他いろいろの意味において活躍されたのである……」何やらよくは分かりませんが、崇神天皇が、神器(しんき)を宮中から他にうつされたのは、従来のように神に依ることをやめ、もっぱら人の力に依って、自分自身の運命を開拓する意味であると解しているらしい。 私も崇神天皇が不世出のすぐれた君主であらせられたこと、また神器を宮中から他にうつされたのは、日本史上画期的な大きな業績であることを信じるものですが、しかし不幸にして、私の所見は、メースン氏の所見とは大いに相違します。私は神器をうつした件をもって、人間が自力で運命を開拓することの象徴であるとは考えません。あれは統治者たる皇室のみの信仰が、崇神天皇の時をもって、ようやく一般の国民的信仰に移りつつあったのだ、と解するものです。いかに考えても、メースン氏の説明は、少々コジツケの気味があるように感じます。 次にメースン氏は 全くメースン氏のいうとおり、日本は満州征服などを夢見てはいけません。新時代の日本国民は、率先して満州の新天地に移住進出し、子々孫々にわたって、忠義に厚く善良な満州人として、第二の神道的国家を建設する覚悟で進むのでなければ、到底ダメだと痛感します。そうなれば、ここにアジア大陸の一角に、初めて真正の意味の日本の姉妹国が生まれます。傭兵のような了見で、真の新満州国の基礎が築けたら、それこそ奇跡です。我らの祖先たちは二千年がかりで、この日本の島国を、立派に築きあげました。もしも現在の日本民族が、アジア大陸に向かって、新国家建設の手腕と、意気とを発揮しえないとあっては、まさに先祖の面汚し、何の面目があって、祖霊に地下で会えるものかというものです。 とにかく最後の一節のみで、メースン氏の講演には、立派に生命があると考えます。いずれそのうち、私は再び同氏と会見を試み、十分こちらの意見も披瀝しておこうかと思っています。私の紹介ならびに批判は、これをもって終わりといたします。(昭、七、十一、二十七) |