心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('99.12.21作成)
本夕は幹事の藤井さんから、霊媒について、なるべく砕いた話をせよとのご注文。うまくできるか、できないか、なんとも請け合いかねますが、せいぜいそのつもりで、あまり肩の凝らない霊媒漫談を試みたいと存じます。 霊媒というと少々バタ臭い感じがしますが、実をいうと、そうしたものは、昔からこちらにもあったもので……ことによると西洋よりも、東洋の方が、かえって霊媒の本家筋かもしれません。無論その名称は国々により、また時代によっていろいろと異なります。曰く霊能者、霊覚者、または覚者、預言者、巫女《みこ》、口寄せ、神懸かり。またごく新しいところでは、第六感所有者、異常能力者……数え上げたらまだ他にもたくさんあるでしょう。無論これらの名称には、それぞれ異なった意味があり、どれもこれも皆同一義、同性質のものであるとは言い切れないようですが、しかしすべてに共通の点があることも、また間違いのないことです。で、取り扱いの便宜上、私どもはその共通点を捕えて、概括的に、すべてを霊媒と呼ぶことにしているような次第で……。言うまでもなく霊媒とは、英語のいわゆる medium のことで、つまり霊界と、現世との媒介者という意味です。あまり風雅な言葉でもないので、中には霊媒と呼ばれることを、毛嫌いする方もありますが、この言葉もだんだん古くなって、錆が付いてきたら、結構品位が出るでしょう。イヤ現在でも、そろそろ霊媒という言葉が、一般に通用しかけてきたようです。 名称の問題などは、まずどうでもよいとして、さてこの霊媒と普通人との相違点が、主としてどの点にあるのか? を考えてみたいと思います。ちかごろ日本では、霊媒または霊媒的な人物が出ると、すぐさまそれを精神病患者と見なして、精神病院に送り込むことがはやりのようですが、これは果たしてどんなものでしょうか? この論法でいったら、釈迦だの、イエスだの、弘法大師だの、神功皇后《じんぐうこうごう》(訳注----仲哀天皇の皇后。応神天皇の母)だの、もしかすると和気清麻呂《わけのきよまろ》だのという方々も、もし現代に生きていたら、やはり松沢(訳注----東京の都立精神病院)行きの部類に入れられましょう。何ともドウも妙な話で……。 冗談はさておいて、心霊家の立場から、普通人と、霊媒とのもっとも重要な相違点を挙げるとすれば、それは本人が自分の意識を使うか、使わないかの問題のようです。つまり普通の人は主として自我意識で働き、たとえ他人の意見を受け売りするような場合にも、あたかもそれが自分の意見であるかのような風をします。これに反して霊媒は、できるだけ自我意識を押さえつけ、時とすれば、ほとんど無意識の状態にまでもなってしまい、そのようにしてその身体を、自分以外の他の人格に使用させます。それが取りも直さず交霊現象と称するもので……。 これを要するに、普通人と霊媒との相違は、単に身体の使い方を異にするというだけでありまして、別に身体そのものの構造には、必ずしも異なった箇所はありません。その証拠には、いかなる人間でも、ウンと正規の精神統一法を修めれば、ある程度の霊媒現象を起こします。私どものところでは、この三年来、会員の希望者に統一の実習を行っております。その顔ぶれは役人、実業家、会社員、新聞記者、芸術家などといったインテリ階級で、普段の仕事をするときは、立派な普通人ですが、しかし統一会へ来て、入神状態になったときは、すっかり別人格者となり、中にはかなり優れた霊視、霊言、その他の超常能力を発揮している人たちもあります。「そんな馬鹿なことが出来てたまるものか。あれはトリックさ……」世間には、まだそんな事をおっしゃる方がいるようですが、これはいわゆる食わず嫌いというものです。いかなる能力だって、その道で適当な修行法、訓練法があり、外部からは、ちょっとその要領が分かりません。ことに霊媒能力などというものは、そう手軽に出来るはずのものではないのです。まぁ、三年もみっちり稽古してからのことです。 中にはまた、ヘタに霊媒の修行などをしていると、人間がおかしくなってしまい、ひどいときは精神病になりかねないなどと、心配するかたもありますが、これもとんだ取越苦労です。発狂する、しないは、当人の素質いかんの問題(※)で、精神の薄弱な人間は、下らない衝動のために、ツイ気がフラフラとなってしまいます。これに反して意思が堅固で、精神力が旺盛な人物は、解決の困難なことに当たれば当たるほど、ますます奮い立って、鬼神も逃げ出すくらいの働きをします。精神統一の修行を行って、発狂するくらいの人間は、碁や将棋をやっても、学問の稽古をしても、酒を飲んでも、神仏に凝っても、何をやっても発狂しかねないでしょう。先年英国の心霊家が、精神病院へ行って患者の身元調べを行い、その報告を発表していますが、それによると、精神統一の修行のために発狂した患者は、ただの一人もなく、これに反して学者だの、牧師だので精神病になっているものが、非常に多数に上っているのを発見したのでした。 ※訳注----つまり当人の素質次第では、やはり精神病になる危険性はあるわけです。ですからこれは、決して取越苦労とは言えない気がするのですが……。 ただしすべて霊的な修行は、直接その人の精神作用に影響を引き起こす仕事ですから、ヘタな真似《まね》をすれば、もちろん非常に有害であることは事実で、注意の上にも注意を要します。この修行で何より肝要なことは、その人に感応している、憑依霊を見破ることです。形があり身体をもっているものならば、肉眼で見分けることができますが、肉体のないものは、肉眼ではまったくダメで、その結果時とすれば、ろくでもない動物霊や、愚にもつかぬ野天狗などに翻弄されて、取り返しのつかぬ失敗を演じます。中でも危険なのは「人は神なり」だの、「即身成仏」だのという、半面の真理のみをとらえた、きわめて非科学的、観念的な標語を鵜呑みにして、神想観だとか、座禅だとか、その他いいかげんな修法《しゅほう》を行っている連中です。これでは人体に感応するものは、ことごとく神であり、仏であるという理屈になり、そこに秩序も、階級も、向上も、進歩も、何もないことになります。それはつまり悪平等という奴で、思想的にも、断じて許しがたいことになります。 これを要するに、罪は霊媒現象そのものにあるのではなく、これを取り扱うものの無知にあるのです。無知でも取り扱ってよいものは、この世にただ一つもなく、いわゆる『生兵法は大怪我のもと』です。ためしに電気の知識も持たずに、電線をもてあそんでご覧なさい。感電して死んでしまうに決まっています。 霊媒現象に対しては、他にもいろいろな難癖やら、異論やらたくさんあります。中でももっとも有力な異論の一つは、交霊現象をもって、単なる本人の潜在意識の発動であるとする議論で、日本の学会では、これが一番勢力があります。むろん人間は一個の生き物ですから、いかに自我意識を押さえつけようと必死になったところで、本人の意識が、全然残存しないとは保証できません。これは霊媒使用に、必然的に伴う弱点で、ラジオでいえば、つまり雑音のようなものです。ゆえに真正の心霊家は、あらゆる心霊現象をもって、絶対的に純粋無垢のものとは考えません。常に冷静沈着な批判の眼を光らせ、少しでも不審な箇所があれば、きっぱりとこれを排除することに躊躇しないのです。が、少しばかり潜在意識の混入があるから、霊媒現象のすべてが、潜在意識の産物であるとするのは、あまりにも早計、あまりにも乱暴、あまりにも非論理的です。霊媒現象の大部分は、とうてい潜在意識説をもっては説明不可能です。それで、潜在意識説をとる人たちは、苦し紛れに詐術説などを担ぎ出し、ご自分に都合の悪い現象は、みなトリックだというのですが、考えてみれば、人間の心情というものは何とさもしい、何と浅はかなものでしょう。近代心霊研究が起こってこれで九十年、今では心霊専門の大学さえ、三つも四つも出来ているのに、今なおこんな子供だましのようなことを言って、一時を糊塗しようとするのだから、イヤハヤ恐れ入ってしまいます。
さて一口に霊媒といっても、もちろんピンからキリまであることは当然のことで、ちょうど一口に相撲取りといっても、横綱とフンドシ担ぎとでは、かなり段違いであるのと同じです。心霊問題に理解のない方々は、よく「霊媒などというものは」というような、“一山いくら”的な取り扱い方をしたがりますが、これは実際問題として、サッパリ何の役にもたちません。他の職業と同じく、やはり一人一人について、厳密な評価をすることが必要です。霊媒だから良いのでも、また悪いのでもありません。良い霊媒が良く、悪い霊媒が悪いというまでのことです。 で、細かに言ったら、霊媒も十人十色、百人百様ですが、大別すれば二種類に分けられます。つまり、 ところで、近代において奇跡的物理現象の能力者として、ほとんど破天荒というべき人物が、わが日本……しかも明治時代の日本に出現しているから意外です。それは例の鶴岡市の長南年恵という婦人です。彼女は絶食絶飲の状態を続けること十四年、大小便の生理作用は全くなく、またその生涯に一度の月経もないというのですから、人間として途方もない変わり種で、……惜しいかな彼女は、明治四十年、享年五十歳で死にました。 この人に起こる現象の種類は、すこぶる種々雑多で、とてもここにその詳細を申し上げる余裕はありませんが、中でも特に優れていたのは、心霊学徒の言うところの“物品引寄現象”でした。病人が薬ビンをもっていわゆる御神水をもらいにくると、彼女はいつも栓をしたままの薬ビンを御神前にそなえ、数分間黙祷を続けているうちに、やがてビンの中に、御神水がパッと瞬間的に充満するというのです。それは一度に何本でもかまいません。ある時などは、四十本の空きビンに、御神水がいっぱいになったということで、これがレコードのようです。ちょっと聞くとまるで嘘のようですが、幸い立派な証拠物件が、さんざん残っているから、疑いようにも疑われません。中でも何より確かな証拠は、神戸の地方裁判所の法廷で、判事・検事立ち会いの上でこれを実験したことで、それは明治三十三年十二月十二日のことでした。右の記事は、同月十四日の大阪毎日新聞に掲載されています。なおその当時、年恵から御神水をもらって飲んだ人たちは、現にたくさん生存しているから、いっそう確かです。 今日でこそ有識者階級の間に、霊的事実に注意を払う傾向が出てきましたが、明治二十年代、三十年代の頃の日本は、何といっても世間一般が幼稚で、やたらに西洋かぶれしており、したがってこんな破天荒な活きた事実を、目の前に突きつけられていながら、ほとんど誰も深い注意をこれに向けようとせず、「そんな事を口にするのは識者の恥だ」位に考えているものばかり多いのでした。“宝の山に入りながら手ぶらで帰る”というコトワザがありますが、当時の日本国民は、全く心霊の宝を握り潰してしまっていたわけで、当時私などは、すでに大学を出て、そろそろ世間に顔出しをしていた頃なのですが、よもやこうした、とんでもない奇跡が、日本国内に起こりつつあるとは、夢にも知りませんでした。気運が熟せぬとは、まったく致し方のないものです。 が年恵の身辺には、さすがにたくさんの信者が集まり、かなりの大騒ぎをしていたらしく、当時の記録類も、かなり残っております。信者の一人で、年恵の世話役をしていた一人に、岸本という人物がおり、その手による記録に『御神様より御告げ控帳』(明治三十一年二月より)、『御神々様御告之記』(明治三十一年吉月吉日)などというのが数冊あります。いずれも半紙横綴りの通《かよ》い帳(訳注----帳簿の一種)式の帳面で、いかにも当時を思い起こさせるに足るものがあります。が、中でも私どもの最大の興味をひくのは、『御神水御授覚』(明治三十四年改)という帳面で、これがその現品です(実物提示)。これは先程申し上げたとおり、物品引寄せという方法で、患者たちが神水を授けられた時の日記帳で、明治三十四年、三十五年、三十六年、三十七年の四ヶ年にまたがっております。一日に少ない時は一〜二本、多い時は五〜七本、十本、十五本くらいに上り、もっとも多いのは明治三十五年六月二十三日の日付で、「四十本」と記入してあります。一ヶ月の平均数は、大体百本程度のようで、とにかく非常に面白い、そして非常に大切な文献であることは間違いありません。 際限がないから、長南年恵に関する事柄は、このへんで勘弁していただいて、次に現在の日本国が有する物理的霊媒について、ごく簡単に申し上げておきましょう。数こそ少ないが、その技能においては、決してどこの国に比べても見劣りはしません。イヤ日本のみが持つレコードさえもあります。現在私どもの専属霊媒の中では、北村、本吉の二霊媒が、なかなか優れた成績を挙げつつあります。両人の得意とする現象の種類からいえば、曰く物品引寄せ、襦袢抜き、縄抜き、直接談話、テーブルその他の物品浮揚、物体貫通などあります。私どもは毎月一回ないし二〜三回実験することにしてありますので、今では少々慣れっこになってしまい、格別深い感銘を感じなくなりましたが、考えてみれば、実に驚くべき進歩です。たった十年前には、実験室内でこの種の現象を起こし得る能力者は、ただの一人も日本には見当たらなかったのです。これができるようになったのは、妙なもので、昭和三年の暮れに、私が心霊旅行から戻ってからのことです。 現在の心霊家の間には、これらの現象に関する学術上の理論も、だいたい分かっています。一口にいえば、すべての心霊現象は、人間だけでは出来ず、また霊界の住人だけでも出来ず、疑いなく顕幽両界の合作によるのです。換言すれば、人間的エネルギーと、霊的エネルギーとが結合して、ここに一種特別の心霊的構造物、いわゆるエクトプラズムと言ったようなものを造り、普通ではとうてい不可能であるようなことを立派にやってのけるのです。これは独り心霊現象に限らず、“イザ鎌倉”と言ったような場合に、しばしば人間離れした、とんでもない大々的な現象が起こるのも、ことごとく顕と幽との、双方の合作の結果のようです。今までの科学者たちは、主として単に人間のみを考慮に入れて説明を下そうとしていたので、どうも一向に要領が得られませんでした。過ぎ去ったことは如何ともしがたいとして、これから急いで態度を改めることです。ここに北村霊媒が、先ごろ大阪で実験した物体貫通の実物と、写真とがありますからお目にかけます。前者は“こより”で、一銭銅貨を貫通したものであり、後者は同じくこよりで、紫檀《したん》の硯蓋を貫通したのものてす。実験に要した時間は、せいぜい数秒だったでしょう。(実物提示) なお日本には北村、本吉二氏のほかに、物理現象専門の優れた霊媒が二人ほどおります。一人は亀井霊媒で、この種の能力者としては、世界でも有数と言ってよいでしょう。とにかく人間界に起こった奇跡のほとんど七〜八割までは、この人一人で立派にできます。ただ困ったことに、近ごろは満州へ行ったきり、なかなか戻ってまいりません。その埋め合わせというわけでもありませんが、これまで京都に住んでいた物理現象の新進霊媒の萩原という人が、先ごろ東京に移住し、心霊研究者の小田文学士がその世話役となって、実験に応じることになっております。ごく最近にも、東京、大阪両地で約七〜八回ほど実験を行いましたが、直接談話、物品浮揚、エクトプラズムの抽出などにかけて、なかなか見事な成績をあげたとの報告があります。同君は今年二十七歳の元気な青年ですから、前途は非常に有望です。実験をご希望されるかたは、私どもの会に申し込んでくださってもよろしい。できるだけご便宜を図ることにしましょう。百聞は一見にしかずで、たった一回の心霊実験によって、翻然《ほんぜん》として間違いを悟った人も、決して少なくありません。私としては皆様が、単なる抽象的観念の迷路をたどられるかわりに、しっかりと地面に足を踏みつけて、実験的に、一歩一歩に、着実に堅固な前進を続けられることを切望に堪えません。 物理的霊媒については、この辺で話を切り上げておいて、今度は精神的霊媒について、簡単に申し上げることに致しましょう。精神的とは読んで字のごとく、本人の主観に起こる、無形の精神現象のことです。したがって直接この種の現象を認識するのは、霊媒自身のみで、他人はただ間接的に、霊媒の報告に基づいて、正しいとか正しくないとか、つまらないとか、価値があるとかの判断を下すことしかできません。その点物理的現象のように、手っ取り早くはありませんが、しかし宇宙や人生の闇を照らすような、素晴らしく価値のあるものは、むしろこちらのほうに見出されます。昔からよく耳にする、天才とか、悟りとか、観自在とか、神通力とか言っているのは、要するに、われわれの言う精神的心霊現象にほかならないようです。これにも種類はかなり多く、曰く霊視、霊言、霊聴、霊書、サイコメトリー、その他まだありましょう。幸いにして日本国は、この方面の優れた能力者に恵まれており、オリンピックで言ったらちょうど水泳とか、三段跳びとか、マラソンとかいったような具合です。今日は詳しい話は出来ませんが、ただ一人だけ実例を挙げるなら、それは先程の銅貨貫通の北村霊媒----あの人の霊視能力は、まさに天下一品であるのは確実です。必要な時に、私はよく透視の実験を北村氏に求めますが、数十〜百回の実験において、まだ一度も失敗したことがありません。むろん北村霊媒とて、生身の肉体を持った人間ですから、絶対に間違わないとは保証しかねますが、まああれくらいの的中率を持つ霊媒は、私の狭い見聞範囲内では、まったく類例がありません。あれくらいの的中率なら、これを実地の問題に活用しても、そろそろ間違いはないんじゃないかと考えています。 霊媒の紹介はこれ位で切り上げ、最後に霊媒養成の件について、私の感じるところをちょっと申し上げて、終りにしようかと考えています。 先程も一言したとおり、霊媒だとて、本質的には別に普通の人間と何の相違もないのですが、ただ職能的見地から人間を区別すれば、やはり霊媒に向く人と、向かない人があります。碁にしてもヘタな碁なら、誰にでも打てますが、しかし五段七段の腕前には、なれる人となれない人があります。これは絵でも、詩でも、数学でも、語学でも、何でもかんでも同様です。そんなわけで、優れた霊媒的天分の持ち主は、めったにあるものでないというのが、やはり事実です。 同時にまた、霊媒能力の発達・大成には、必死の練磨を必要とします。これまでの世の中は、霊媒などはてんで眼中になく、ややもすれば、むしろ迫害でもしようというありさまですから、霊媒養成に必要な機関は、どこにも設けられませんでした。私はそれを思うたびに、日本国はなんとバカな真似をしたことかと、残念に考えられて仕方がありません。もしその点において、日本国民が少しでも先手を打っていたら、よもや今日のように、袋小路に追い詰められたような状態に陥ることはなかったでしょう。 それでは霊媒養成法の要点は、どの点にあるかと言いますと、私の観るところでは、 |