心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('00.05.05作成)

十一章 霊媒の取扱い方について


 

 心霊研究と霊媒とが、不可分の関係にあればあるほど、いかにすれば良い能力者を養成でき、またいかにすれば、その能力を永続させ得るかは、われわれ心霊学徒にとって、実に最大の関心事の一つです。それゆえ、私が心霊問題にかかわりあってからの、二十年の努力の少なくとも半分ぐらいは、おそらくこの仕事にささげられたと言ってもよいかも知れないのです。

 ところが世間の方々は、なかなかわれわれの苦労の成果を取り入れてくれません。甚だしきに至っては、なるべく霊媒を堕落させ、またなるべくその能力を撲滅させるべく、全力をあげているのではないかと考えられるフシが、なきにしもあらずです。『権兵衛がタネ蒔きゃカラスがほじくる……』イヤハヤ世の中というものは、なかなか皮肉にできあがっています。おかげさまで私などは、これまで霊媒問題に関して、何回苦杯《くはい》をなめさせられたか知れないのです。

 が、過ぎ去ったことは、今さら愚痴を並べても仕方がありません。肝心なのは、これから先のお互いの心得です。で、私の過去のとぼしい経験に基づき、霊媒に対してドウいう取扱い方をすればよいか、イヤむしろドウいう取扱い方をしてはならぬかを率直に申し上げ、皆様のご考慮にあずかりたいと思うのです。一体いかなる道具でも、その取扱い方を誤ればすぐに狂ったり、壊れたりします。ましてや霊媒は生身《なまみ》の活きた機械、しかも極度に壊れ易く出来上った、精巧無比の機械ですから、なおさらその取扱い方に対して、細心の注意を要する次第です。

 私の考えが間違ってなければ、一般世間の方々は霊媒に対して、あまりに持ち上げすぎるのと、またあまりに貶《おとし》めすぎるのと、いつも両極端に走りすぎる傾向が大きいように見受けられます。これはどちらも感心しません。なかでも好ましくないのは、霊媒を持ち上げすぎることで、そのために、ややもすれば、有能な能力者をさっぱりダメにしてしまいます。ドウも担《かつ》がれて結構なものは、お神輿《みこし》ぐらいのものらしいですね。

 念の為に、これからさまざまな担ぎ屋さんを、分類して列挙してみることにしますが、私が第一に挙げたいと思うのは、
 霊媒を生き神、または生き仏扱いにすること
です。ご承知のとおり、これは心霊科学以前の、古代人たちがことごとく陥《おちい》った弊害で、釈迦、イエスのような第一流の天才的霊能者が現れ、普通の人間には、とても真似することのできないような奇跡を演じたり、また一言一句、さながら珠玉のごとき説法《せっぽう》を試みたりすれば、周囲の人たちは喜びとありがたさのあまり、これを一種特別の存在として崇拝し、これを中心として、何々教と名のりをあげる段取りになったのです。その弊害《へいがい》は延々《えんえん》として今日までおよび、なんぞ変った能力者でも見つかると、ただちにそれをかついで、一切の批判、一切の考慮をヌキにして、大馬鹿騒ぎを演じかねません。これは現在の日本国とて、決して例外ではありません。

 こうした弊害を有効にくいとめるには、何をおいても霊的知識の普及が肝要です。心理学や、医学なども、迷信打破に対して、一役買って出ようとしていますが、なにぶんにもそれらは、いささかお門違いの武器であって、やたら狂ったように超常現象の抹殺にのみ走り、その結果迷信と同時に、正信をも排斥することになるので、かえって識者から、フフンと鼻の先であしらわれる傾向があります。そこへ行くと、やはり餅は餅屋、真の心霊学徒は、まず第一に超常現象、超常能力者の科学的検討から始まり、キチンと迷信と正信との仕切りを立て、思想信仰の落ち着きどころを明示することを忘れぬから、それは一方において、正しい信仰の無二の良友であると同時に、他方においては不正な迷信団体、思想団体の目の上の大きなコブなのです。ドウしたところで、これからの世の中は、この心霊科学のモノサシで、人事百般の再整理を断行せねばダメでしょう。

 さて心霊科学が、これまでに成しとげた功績の一つは、たしかに人間の中の変わりダネである超常能力者----霊媒についての認識を、学術的に究明したことであると思います。心霊科学の見地からいえば、霊媒と言ったところで、別にそう大して不可思議的存在ではなく、本質的には普通人と霊媒との間に、何の相違も認められません。すなわちどちらも、肉体の外にエーテル体を持ち、どちらも自分の中に、魂《たましい》と称する、神秘的なものを包蔵《ほうぞう》し、どちらも宇宙間の一単位として、独立して存在する資格を持っています。霊媒だからと言って、別にその霊格が高いわけではなく、また霊媒に限って、特に神の寵児《ちょうじ》だというわけでも何でもありません。要するに神の前にはすべては区別なく平等、ただその受け持ちが相違しているだけです。

 それならば普通人と、霊媒との受け持ちの違いは何か? と申しますと、これを一言にして尽くせば、普通人はもっぱら自分の意識で働き、これに反して霊媒は、その入神中に、自分以外の意識で働く……。ただそれだけの違いです。ですから普通人でも、熱心に精神統一の修行でもやれば、ある程度までは霊媒的能力を発揮し、同様にまたいかに優れた霊媒でも、少し油断をしていれば、たちまちその能力が減退することを免れないのです。

 結局のところ霊媒能力でさえ、他の一切の能力と同じく、一つの技術、一つの職能であり、したがってその能力の保存、または発達のためには、自他共に常に細心の注意を怠ってはならないのです。私がイの一番にこの項目を数えあげ、注意を喚起するゆえんです。

 さすがに既成宗教界の人たちでも、釈迦とか、イエスとか、弘法とか、日蓮とか言ったような傑物《けつぶつ》は、決して世人の口車にのるような、ヘタなことはしませんでした。彼らがお神輿あつかいを受けたのは、いずれもその死後で、彼らとしては、おそらく他界で苦笑を禁じ得なかったことでしょう。が、こうした立派な心構えを、普通の人間に要求することは無謀もはなはだしい。誰しも他人から囃《はや》し立てられれば、ツイ良い気になって、納まりたくなるのが人情です。こいつァやはり側《はた》の人が注意して、本人が、なるべく悪い路に迷い込まぬように仕向けてやるのが、賢明な行動です。

 近ごろの世の中で、生き神気取りで失敗した堕落党の旗頭は、おそらく出口王仁(訳注----王仁三郎《おにさぶろう》のこと)でしょう。私もあの人のことならよく知っていますが、あれだとて、最初は多少真面目なところ、しおらしい点がないわけでもなかったのです。したがって最初の頃の彼の霊媒能力には、多少見るべきものがあったのです。いかにせん、大本教の名声が広まるにつれて、いかがわしい人物が、信仰の名において彼の身辺に群がり、そして彼を聖師扱いにしてしまいました。王仁たるもの堕落せざるを得んやで、せっかくの霊媒能力も、すっかりダメになりました。大本教の破綻の原因は、もちろん彼自身の内にもありますが、しかし少なくともその責の一半は、周囲の連中が、やたらに彼を担ぎ上げた点にあるかと思考せられます。

 大小の差、程度の差こそあれ、こうした醜い現象は、今や日本全国のいたるところで起こっています。現代の闇を照らすような超常能力の所有者が、なかなか日本国から現れないはずではありませんか!

 第二に私が挙げたいと思うのは、ちょうど昔の大名が芸人でも抱え込むような具合に
 霊媒を自分の手元に抱え込みたがること
です。現在のように、すぐれた霊媒の数が非常に払底している際に、こんな真似をされては、われわれは全くもってやりきれないと同時に、それが十のうち九まで、霊媒自身の堕落の大きな原因ともなるのですから、一層面白くないのです。私がこれまで知っている範囲内だけでも、甲は某政治家の黒幕、乙は某株屋さんの参謀、丙は某多額納税者のお抱え、といった具合に、案外お抱え霊媒の数が少なくない。が、それらの霊媒たちの末路は、いずれも皆判で押したように面白くないのです。

 それが何故そうなのかは、少し考えてみれば、誰にも判ることです。ご承知のとおり、霊媒の背後にも必ず守護霊、司配霊等が控えており、生きとし生けるものの救済、思想の善導、真理を明らかにすること、その他天下公共の大問題の解決などのためには、それらが喜んで懸命の努力を払ってくれるだけでなく、しばしば高級の神霊からの援助さえあります。ところが不幸にして、その霊媒がいったんある一個人の奴隷となり、その人の利欲、または感情を満足させるべくつとめるとなると、勝手がすっかり違ってきます。思ってもみなさい! 偉大なる神霊はもとよりのこと、いやしくも少し気のきいた守護霊、司配霊ならば、なんで一個人の欲望、または感情の満足のために、犬馬《けんば》の労(訳注----主君のために力を尽くすこと)を執《と》るはずがありましょう。そうした霊媒の末路の振わない原因は、ここに隠れています。そうなっては抱え主も損、抱えられた霊媒も損、また一般世間も損、どこにも得するものはないのですから、これはお互いに、よっぽど気をつけていただきたいのです。霊媒とレンゲ草とは違いますから、必ずしもこれを野に置くにも及びませんが、少なくとも霊媒の個人的買収、または独占は、断じて避けるべきだと痛感します。

 モ一つ担ぎ屋さんの中で、一番タチの悪いのを挙げるなら、それは
 霊媒を囮《おとり》に使って、信者集めをたくらむこと
で、広い世間には、そうした目算を立てるヤマ師が、なかなかに多いようです。が、これはあまりにも低級愚劣で、われわれの関知する限りでないと思いますから、今度は霊媒を貶《くさ》す方の代表者を拾い出して、簡単に考えを述べることにしましょう。

 貶《くさ》し屋の第一は
 一切の霊媒を詐術師扱いにすること
で、これは一部の偏狭な学究、ためにするところのある宗教家などの間に、もっとも多く見出されます。もちろんいかなる社会にも詐欺師はいるもので、新聞紙の三面欄は、いつもそうした記事でにぎわっています。したがって数ある霊媒の中に、詐術的なものが絶無であるとは、誰にも請け合えませんが、しかし最近八十年間に、かくも輩出した多くの霊媒、また現在においても、極度に厳重な管理のもとで、絶えず学術的実験に応じている真面目な霊媒をつかまえて、詐術師呼ばわりをした日には、世の中に詐欺師でないものは、一人もいないという理屈になります。こんな時代遅れのたわごとを吐く連中には、須らくウンと重税でも課して、国庫の充実を図っても良いと思います。とにかく、日本国に今なおこうした連中が存在するのは、決して国家の名誉ではないと思われます。

 次に挙げたいのは、
 霊媒を精神病患者扱いにすること
で、これは言うまでもなく多くの医師、心理学者、ならびに司法官などの愛用の手法です。ある特殊な場合には、おそらくこれも一つの便利な方法で、必ずしも排斥はできませんが、しかしいつもいつもこの手ばかり使われては、真理は泣きます。すでに述べたとおり、霊媒の多くは精神異常者でも何でもなく、平時は少しも普通の人と違わない。違うのはただ入信状態において人格がかわり、しばしば人間離れのした異常能力を発揮するだけで、それはすぐれた画家、詩人、発明家などが感興《かんきょう》ひとたび到《いた》れば、しばしば途方もない天才的能力を発揮するのと、本質的にまったく同じなのです。精神病的な不健全な霊媒は、あれは霊媒のクズで、そんなものはひとり霊媒に限らず、普通人の中にもたくさんあります。ウソだと思ったら、ためしに松沢病院(訳注----東京の都立精神病院)にでも行ってごらんなさい。患者の大多数は、霊媒上がりでも何でもないことを発見するでしょう。

 とにかく優れた超常能力者をつかまえて、やたらに狂人扱いをすることは、世界列強と肩を並べ、大飛躍を遂《と》げんとこころざす新興日本のために、はなはだ拙いところです。いつまでもそんな真似をしていると、やがて引っ込みがつかないことになりましょう。

 最後にもう一つ 貶《くさ》し屋の大将といえるものを挙げるならば、それは
 霊媒を悪魔の使徒扱いにすること
で、そうした連中はキリスト教、仏教などの分野に最も多い、つまり自分たちは神様、天使、菩薩などの部下、自分たちとソリのあわないものは、ことごとく邪神、邪霊、悪魔、外道の手下、と頭から相場を決めてかかっているのだから、誠に世話はないのです。そのくせ、ためしにそれらの連中に向かって、果たして神とはなにか、悪魔とはなにかと聞いてみたところで、さっぱり要領は得られません。はなはだしきに至っては死後個性の存続、幽明の交通の有無さえも、ご存じない手合いが多いから驚き呆れます。こうなると、彼らはただ迷信家特有の排他的感情から、霊媒に対して、最大級の悪罵《あくば》を浴びせて喜んでいるとしか考えられないのです。

 最近にも私はさる禅宗の名僧?が、ある一人の超常能力者をつかまえて、「なんだ霊媒ふぜいが」とののしっているのをきいて、大いに驚きました。彼らは普段霊だの、仏だのと言っているくせに、霊界と人間界との連鎖に当たる神聖な役目の人間を見下《みくだ》して、空威張りをしようというのです。これではわれわれは、何とご挨拶を申し上げてよいか、ほとんど途方に暮れてしまいます。とにかく無理解、無鉄砲もここまでくれば全くしめたもので、それがいわゆる禅宗の悟りというものかも知れません。

 いや私の筆は、いつしかおかしな所に行ってしまいましたが、霊媒の取扱い方に対しての注意事項は、ほぼこんなところで要点を尽くしたに近いと思いますので、ひとまず筆をおきます。(昭十一、十、九)


十章に戻る目次十二章「筋の通らぬお国自慢」に進む

心霊学研究所トップページ