心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('00.06.22作成)

十二章 筋の通らぬお国自慢


 

 人間の頭脳の働きは、各自の間にそれほど隔たりはないものらしく、学校の試験の成績を見ても、優等生と落第生との点数の差は、めったに倍もは違いません。

 それなら人間の主張する議論や、意見にも、そう大した違いがなくても良さそうに思えますが、実際は決してそうは行きません。ある人々は百代の後までも残るような名論を吐くのに、ある人々は三日ともたぬような屁理屈をこねたり、前提と結論とが、サッパリ噛み合わない、まるで寝言のような暴論を吐いたりする。一体これはドウしたわけでしょうか?

 よくよく考えると、人間には肉体、幽体、霊体、本体の四媒体がそなわっているように、その精神の働きも、欲望、感情、理性、叡智の四段階になっているようです。そのうち人間の頭脳が受け持っているのは、三番目に挙げた理性で、人間はもっぱらこの道具を使って推理や、考察を試みる仕掛けになっています。人間が万物の霊長として地上に君臨し得るのは、主としてこの道具が大いに発達しているお蔭ですから、それゆえ人間の世界で、頭脳の尊重され方は一通りではありません。「あの男は頭が良い」----それで大体その人の格付けが決まるぐらいです。

 ところが困ったことに、この頭脳はめったに単独では働かないで、ややもすれば欲望や、感情と野合したがる傾向を多分に持っています。欲望と感情とは、実に理性の明鏡を曇らせる2大要素で、それらの加わる分量が多ければ多いほど、議論の筋がおかしくなります。暴論、かたよった理論、空言、駄ぼら、異端、邪説、こじつけ、手前味噌……そういった悪質のものは、ことごとく欲望と感情のために、論理の道筋が歪曲された結果です。つまり頭が悪いというよりは、むしろ頭脳が曇らされているのです。

 現代日本国民の多数も、決してご多分に漏れず、相当その頭脳が欲望と、感情のために曇らされています。ことに日本人は愛国心に富んでいるためか、とかくお国自慢をやりたがります。「大日本は神国なり、天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝え給う、我国のみ此の事あり、異朝には其のたぐいなし……」 北畠准后《じゅごう》(訳注:三宮に準ずる皇族の位)なども、『神皇正統記』を書くにあたり、そう筆を起こしています。この種のものは他にも枚挙にいとまなしです。

 こういう罪のないお国自慢は、たとえそれが純正科学の批判の前には、いささか無力であるとしても、あえて咎《とが》め立てるにも及ばないでしょう。うるわしき純情のほとばしりとして、われわれはむしろその前に頭を下げたいぐらいです。ただ困るのはいわゆる贔屓の引き倒し的な、あまりにも辻褄の合わない、あまりにも幼稚きわまる、あまりにも道理に合わぬお国自慢です。日本国がしょんぼりと、東海の一角に楽隠居《らくいんきょ》生活を決め込んでいた時代ならともかく、現在の日本国民の一言一行《いちごんいっこう》は、すぐに世界中に広がるのですから、うっかりした真似はしてもらいたくないのです。国威を傷つけ、国家の威光をさえぎることにかけて、うっかりしたお国自慢は、しばしば危険思想にも劣らない害毒を流すことになるのです。

 私としては、あまり実例を挙げたくはないのですが、抽象的言説では、事実が通じない恐れがあるので、止むを得ず一つ二つ、面白からぬお国自慢の標本を拾い出して、簡単な評言を加えることにします。

 何よりまず片腹痛いのは、近代科学、なかでも心霊科学をけなすことによって、神国日本の評価を高めようとする、愚劣極まるお国自慢です。彼らの説くところは大体こんな感じです。「西洋では一八四八年のフォックス家の幽霊事件をもって、近代心霊科学の紀元とするが、神国日本は太古から心霊の国である。古事記や日本書紀の上巻は全部心霊の所産である。今更西洋のまねをして、心霊科学などとは不見識である」 これはまさしく心霊科学と、霊的事実を混同したもので、こうなると全く手が付けられません。この筆法で行ったら、「神国日本においては、日月《じつげつ》星辰《せいしん》が昔から天にかかっている。今更西洋のまねをして、天文学の研究などとは不見識である」ということになってしまうではありませんか。

 言うまでもなく、霊的事実は太古から存在しています。そしてそれは決して日本に限ったことでなく、西洋諸国としても全く同様です。ただ古代人は霊的事実をとらえて、これに科学的検討を加えるすべを知らなかったので、そこにおかしな迷信が発生したり、またその反動として無神、無霊魂説が起ったりして、人心の堕落、思想潮流の悪化、社会の混乱を招き、その余弊は二〇世紀の今日にまで及んでいます。この弊害を徹底的に人間の世界から排除するには、ドウしたところで、科学的研究の発達以外に絶対に道はありません。最初は物質科学ばかりが全盛をきわめたので、まだ面白くありませんでしたが、後ればせながら、一九世紀の中頃になって、幸いにも心霊科学が勃興の気運に向ったので、ここに初めて思想問題、信仰問題に目鼻をつけ得る見込みが立ったのです。何を喜ぶべきかと言って、人間生活にとって、また日本国民にとって、これほど喜ぶべきことはありません。

 それにしても、この判り切った道理が飲み込めないで、今頃なおキツネにつままれたような寝言を吐くものが、あちこちに絶えないというのは、そもそも何故なのか? 他でもない、前に述べたとおり、欲望と感情とのために、理性の明鏡が曇らされているためのようです。なかでも欲望の影響が最も恐ろしい。「心霊科学の鋭いメスで、どしどし弱点をえぐられては、自分達の職業が成り立たなくなる。こいつァたまらない」 そう言った生活上の強迫観念が胸の底に働く時に、ツイうっかり筋の通らない屁理屈でもこねたくなるのが、肉体を持つ人間の浅ましさです。西洋でも、心霊科学に向かって、蟷螂の斧を振るう者は今なお沢山います。なかでもキリスト教会の牧師などがその代表者ですが、これもひとえに欲のために、理性が働かなくなっているからです。

 今や人類の世界には、あらゆる方面にわたって、革新の気運がみなぎっており、宗教界にしても、霊術界にしても、その他の何でも、いたずらに古い形式を守っていられなくなりました。個人的利害を計算したら、なるほど心霊科学は、あるいは邪魔者かもしれません。私もその点は大いに同情します。が、時代が時代ですから、私はわが親愛なる同胞が猛省一番、利己的臭いを帯びた小さな欲望や、小さな感情からきれいに抜け出られることを切望に堪えません。

 次に片腹痛いのは、神武以前の皇紀を捏造《ねつぞう》したり、または日本国のある地点を、人類発生の霊地なりと称したり、その他いろいろの浅はかな工夫をほどこして、神国日本の名声を高めようとする、幼稚極まるお国自慢です。その熱心さは、あるいは殊勝《しゅしょう》であると言えないこともないかも知れませんが、その愚は到底及ぶべからずで、結局そんなものは日本国を傷つけこそすれ、少しも日本国の利益にはならないのです。日本の国体は、嘘や方便で固めるまでもなく、あまりに神聖、あまりに堅実、あまりに厳然たる事実です。科学が発達すればするほど、研究が微に入り細に入れば入るほど、いよいよますますその天衣無縫の真価を発揮して行くのが、日本の国体です。今更何の必要があって、到底学術的に堪えない、デタラメ説を雇い入れる必要がありましょう。

 以上の諸説が、学問的見地から見て、少しも取るに足らないことは、ここに余計な説明は必要ないと思います。もし不十分な点があるとしても、近代科学は、種々雑多の方向に於いて、貴重な生きた資料を収集し、また整理して、確固たる結論を作りつつあります。地質学、史学、考古学、人類学、進化論、比較言語学、生物学、その他まだ沢山あります。これらは皆事実に立脚して出来上った学問ですから、その主張を覆すには、何をおいても、まず反証となるべき正確な事実の提供が必要です。その準備なしに、勝手な異説を立てるほど馬鹿げ切った話はありません。ところが不幸にして、そんじょそこらのお国自慢専門家には、その点について何の準備もないばかりか、果たして学問研究に対する理解が、有るか無いかさえも頗《すこぶ》る疑問です。コジツケと当て推量----これで自分の主張が通り、これで二〇世紀の新人たちが頭を下げて、自分たちの後について来るものと考えているらしいのです。何が馬鹿らしいといって、こんな馬鹿らしいことがどこに有るでしょう。

 が、それよりも更に片腹痛いのは、彼らが神国日本の光輝を宣言する者を以って自任しながら、いつの間にやら、自分自身が金箔付きの唯物論者に成り済ましていることです。どこまで大昔に遡《さかのぼ》ったところで、物質界はあくまで物質界です。そんなことで、神霊の実在を認め、敬神崇祖《けいしんすうそ》を建国の基本とする日本の国体を、ホンのわずかでも宣伝されてはたまりません。お門違いもここに至って、まさに“至れり尽くせり”ではありませんか!

 今更断るまでもなく、神霊の世界は超物質的なエーテル界で、それが物質界の根源なのです。したがって我々の祖神の治める神霊界あっての、地上の日本国であって、地上の日本国あっての、祖神の治める神霊界ではないのです。これは物質科学、ならびに心霊科学の実験実証の上に築かれた、最後の結論ですから、何人も服従せねばならぬ根本原理です。

 我々の祖神のあまねく治める神霊の世界が、この完全無欠の日本国体の淵源《えんげん》である以上、その理想は、世界のいずれの地点にも実現し得るのです。申すも畏れ多い極みですが、現に第一代天皇神武大帝に於かせられては、最初九州の一角に根拠を求められたのでした。したがって当時の日本国というのは、わずかに九州の一角でしかなかったのです。大帝が祖神のお告げを承《うけたまわ》り、都を大和国に決められたのに至って、日本国の範囲は近畿地方を中心として、かなり拡大されましたが、しかし東海、東北、北陸、蝦夷などと称する地方は、決して日本国の範囲内ではありませんでした。今日の日本国は、決して最初からの日本国ではありません。上は皇室から始まり、下は我々の優れた祖先たちが、数百千年にわたって、必死の努力をして築き上げたおかげで、今日の日本国が出来上ったのです。土地そのものは決して日本国ではありません。忠義に厚い国民が、神武大帝の建国の精神を行き渡らせ、天皇陛下の家来として、生死を度外視して、祖神の示し給える理想の実現にあたるところに、日本国は地上のどんな場所にも出現するのです。

 日本民族の使命が、ここに在るとも知らず、また現在の日本国が、我々の祖先たちの、血と肉との犠牲の賜《たまもの》であることもわきまえず、旧弊に後ずさり、執着し、無知、無気力、まるっきりお門違いの国土の自慢などに耽《ふけ》ろうとするのは、そもそも何たる不心得でしょう。が、よくよく考えると、こうした愚説が発生するのも、結局その人が欲に目が眩んだ結果に他ならぬようです。「近頃日本国は、国民精神復興の機運に向って進みつつある。自分たちもひとつこの波に乗って、一旗挙げたいものだ。それには何かしら、あっと世間の注目を浴びるような奇説を唱えるに限る」ドウもこう言ったような野心が、無意識のうちに働いているようです。

 まだまだ他にも俎上《そじょう》に乗せたい、筋の通らぬお国自慢は沢山ありますが、もともと私としては、この際アラ探しが本旨でも何でもありませんから、今回はしばらくこの辺で筆を止め、なるべくそれらが自然消滅に帰するのを気長に待つとしましょう。(昭、十一、五、二九)


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