心霊学研究所
『シルバー・バーチの霊訓(5)』を読む

五章 迷いの過去から悟りの未来へ


 

 この第5章のレジュメを書いたのは95年の6月、つまり地下鉄サリン事件の犯人がオウム真理教であることが分かってきて、世間が騒然としていた時期でした。我が心霊学研究所でも時流に乗って(^^;、オウムの事も例に挙げながら説明したりしました。

 

「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。」(P.66)

 オウム(に限りませんが)の修行というのは、ちょうどこの逆の事をやっているわけです。「人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪」って、俗世から隔離された無知の状態に置き、薬を使った物質的な悟り----実のところ、それは悟りなんかとは全く関係ない状態なんですが----に満足しているのですから。

 彼らが麻原彰晃の悟りの証拠として胸を張る「超能力」も、しょせん物質的な力に過ぎません。空中浮遊が最終解脱者の証拠だなどと思っていることが、すなわち、彼らがまだ、「物質万能主義」から一歩も出られないでいる証拠だと言っても良いでしょう。(ま〜それ以前に、麻原が空中浮遊をしたということが「???」なんですが(^^))

 さらに、「修行が遅れる」という理由で肉身の面会を拒否するに至っては、「自己中心主義」ここに極まれり....と言えるでしょう。

 

「より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。(中略)
 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境がきびしく、いずこに向かうべきかが分からなくなった時でも、“事実”に裏うちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。」 (P.66-67)

 とはいえ、どんな辛いことや悲しいことがあっても、それが『心霊学的』に見るとどんな意味を持っているのかを考えるだけで耐えられる……というほど世の中単純ではないでしょうね、やっぱり(^^;。たとえ「霊的観点から観たら、素晴らしい意味のあることなんだ」と思おうとしても、正直に言えば、挫けるときはやっぱり挫けますし、泣けるときはやっぱり泣いてしまいますよね(;_;)(そんなことでドーする!)

 しかし、たとえ挫けたとしても、スピリチュアリズムの知識さえあれば、「訳も分からず、ただ辛いだけで終わった」ということにはならない(少なくともなりにくい....ハズ(^^))ですし、成長への教訓にし易いのは確かだと思います。

 と、これでは間違った印象を与えてしまいそうなので一応補足しておくと、本当は挫けちゃあイカンのです。シルバーバーチが言っているのは、「霊的真理を理解した人間は、どんな厳しい試練にも負けることはない。しょせん物質の世界でしかないこの世には、本来霊的存在である人間を挫けさせることが出来る事など絶対に起こり得ないのだから。」ということなのですから。

 もちろん僕も、頑張って試練を乗り越えます。本当です(^^)。(と、わざわざ付け加えるところが却ってあやしい!?(^^;)

 

「私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代おくれの教説ではありません。素朴な理性----あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡智の真偽を判断する手段に訴えております。もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。」 (P.67-68)

 僕は昔は、いろいろな宗教の人と話をするのが好きで、ごくマレにですが、道端でお祈りとか布教をしている人をつかまえて(^^;、お話をしていたことがありました。(と言っても、決して議論をふっかけていたわけではありませんよ(^^))

 それで、ある宗教団体の人と話しをしていたときに、こんな事を言われたことがありました。
「理屈で考えていてはダメなんです。頭で考えることを止めて、思い切って実践してみることです。それが信仰です。」
……冗談じゃないと思いましたね。そんなものが信仰なら、僕は永久に信仰を持つことは出来ない、と。

 「理性」は人間が神から与えられた能力の一つです。神を理解するために理性を使っていけないはずがありません。シルバーバーチも、理性を使って判断することを求めています。

 ところで、世の中の宗教で、理性的に検討しても信じられるものが、いったい幾つあるでしょうか?

 

「人類がいかに永いあいだ道を見失ってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。(中略)
 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の“師”たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場所がなくなってしまいました。(略)宗教の唯一の礎であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。」(P.71)

 いかに立派な寺院を持っていようとも、霊力が働いていなければ宗教とは言えません。僕は先日イタリアでたくさんの教会を見てきましたが、それが巨大であればあるほど「こんなところに霊力が働いているものか!」という気持ちになりました。あれだけのものを造るためには、かなり大きな犠牲が払われているはずだからです。そんな場所に、高級霊が降りてくるでしょうか?

 幾多の屍を乗り越えて、信仰のために? まさか。

 しかし、過去の古い信仰は急速に力を失いました。そして、この地上世界に再び高級霊界からの霊力が働きかけていることを、スピリチュアリズム運動は示しています。

「多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることができるようになりました。“死”の恐怖を取り除き、“愛”が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことができること、(宗教的束縛から)精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望をもたずに、“よい知らせ”を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意のできた魂が存在している事実を立証しております。
 これほどまで美しい話、これほどまで分かり易い話、人生の本質をこれほど簡明に解きあかしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。
 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。(略)私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べるとき、それは有るがままの事実を述べているのです。
 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まされる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々----その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。」(P.72-74)

 この地上世界をスピリチュアライズ(霊的に刷新)しようとする霊的世界からの働きは、絶対に後退することはありません。なぜなら、この「霊的真理を啓蒙する運動」は、この世だけで行われているのでは無いからです。霊界の上の世界から下の世界へ、さらに幽界の上層から下層へと順番に、気の遠くなるほどの年月を掛けて行われてきたからです。それが19世紀の中半になって、ようやくこの世に届いたという事なのだそうです。

(初出06/14〜15/95 Nifty-Serve FARION mes(13) )


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