スピリチュアリズム勉強会&座談会
('02.01.23作成)
その1
参加者:有希、長田、ペーパーバーチ 有希:12月もだんだんと終わりになって来ました。ところで今年は寒いですね。私はどちらかというと暑いのより寒い方がまだいいなあ。 ペ:僕は寒いのは苦手ですけど、冬は好きですよ。スキーが出来ますから。今年は残念ながら行けそうにないですけど。 長田:まだ2人目のお子さんが生まれてないんですよね。でも、もうすぐですね。 有希:これが発表されている頃には生まれていますよね。 ペ:ええ、そうじゃないと困ります(笑) 有希:では、始めましょう。今日はP84からでしたね。 ペ:後ろから5行目ですけど、 また皆さんは、無知蒙昧なもの ―― これを皆さんは“邪悪”と呼んでおられるのですが ―― に邪魔をされるのではないかとの不安を完全に捨て去ることが出来てしかるべきです。大霊とその摂理の保護のもとに生き、そして行動しておられるからです。(P.84) 結構スピリチュアリストと自称している人の中にも、すごく力の強い巨大なサタンみたいなものが邪魔しに来るというような事を言っている人がいますよね……桑原さんとか。そういうのは間違いで、本当に正しい道を摂理に沿って生きているのなら、そんなのは全く心配する必要のないことだ、とここには書いてあるわけです。 有希:そういうことですね。この蒙昧とはどういう意味なんでしょう。何も知らないという事でしょうか。でもこれがどうして邪悪となるんでしょう。 ペ:邪悪な存在のように見られているのは、結局無知ゆえにそういう行動をしているのだ、という事じゃないかな。 有希:今まで“邪悪”というと、利己性というか、人の事を陥れてやろうとか、自分さえ良ければ他はどうなっても良い、みたいな心のことだと思っていたんですけど。 ペ:でもそういうように考えて行動するのも、結局(霊的真理に対する)無知ゆえにという事ですから。 有希:なるほど、そうですね。シルバーバーチの交霊会の場合、真理をどんどん述べているのに、中にはとんでもなくこの世的な質問をする人もたぶんいたと思うんです。悪気があって言うわけではないけれども、周りからすると「え?」となるというか、どうなんでしょうか? ペ:その程度なら邪悪とまでは言わないですよね。 有希:そうすると知識ばかり豊富で、例えば大槻教授みたいに、すごく知っているけど肝心な事は知らない人とか、それも邪悪なんでしょうか? ペ:ううん、僕はあの人を知的な懐疑派として取り上げるのは抵抗があるなぁ……ま、それはともかく、あの人は結構邪悪みたいですね(笑)。自説を通すために嘘を書いたり、後で言うことが変わったり。そういう事がよくあるみたい。 有希:その次を読むと、 心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づけません。善なるものは善なるものが支配するところにしか存在できないからです。(P.84) とありますから、やはりさっきペーパーバーチさんが言ったように、低級霊を怖がるのは自分がそのレベルなんだという事になりますよね。 ペ:ちなみに先程の“蒙昧”の意味を参考までに言っておくと「知識が開けずに物事の道理に昧《くら》いこと」を言います。「昧」は「味」じゃなくて(笑)「くらい」という字なんですね。 有希:要するに先ほどからペーパーバーチさんが言われている“無知”という事ですね。 ペ:ええ、そうです。 長田:昔も今もテレビで低級霊とか憑依霊とかやっているけど、知識がないと自分もいつか憑依されるのではないだろうかと不安になると思うんです。それとか、何か不幸な事が起こると低級霊とか先祖の霊が祟っているんじゃないだろうかと。正直、私も少しばかり霊の事を知った時には不安に思いました。でも、正しい知識と前向きで明るい意識を持っていれば、低い霊は近づけないというのを知ってすごく安心したんです。だから、今テレビで興味本位に恐怖心だけを煽り立てていますけど、正しい知識を知っていれば大丈夫というのをもっと知って欲しいと思います。 有希:それは私もそう思います。 ペ:次のページにも同じ事が出ていますよね。 恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖心は生じません。(P.85) これはまさにその通りですね。 有希:人間って中途半端に知っていると余計に不安になるんですよね。動物のように全く知らなかったら、死ぬという恐怖心すらないですもの。余分な知識ばかり入っていて肝心な事を知らないから、それこそ無知なんですよね。 ペ:また間違った知識をもっていたりとかね。 有希:そう、中途半端に知っていたりすると余計に不安が増大することってありますよね。この前テレビを見ていて、癌ではないのに自分は癌だと思い込んでしまって、死ぬのが怖くて結局死んでしまったという話をやっていました。本当は死ななくてもいい病気だったのに、自分で死を呼び寄せてしまったんですね。知らないという事は怖い事だなと思いました。 長田:そうですね、死に対する知識を知らないと本当に怖いですよね。死=恐怖になってしまいますから。 有希:本当は死んでも死んでいなくて、元いた世界に戻るだけだし、逆に地上の肉体の重さから抜け出せるわけだから、そういうことが分かれば怖くなくなるんですよね。知らないってことは、やはり恐怖心を呼ぶものですね。 長田:本当、そうですね。 物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それに幾つもの側面があるに過ぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。(P.86) これは具体的にはどういうことでしょうか? ペ:テスターの本などで書かれている、心の持ちようで体の調子にも影響を与えているというのと同じ事じゃないでしょうか。そればかりでなく、心の姿勢みたいなものが、社会的な行動……たとえば仕事……にも反映したりとか、そこまで含めて言っているんだと思います。 有希:霊と肉の相互作用は大きいですよね。例えば日常的な事で言えば、朝起きてパジャマ姿で髪の毛もボサボサで顔も洗っていない状態で人に会うのと、ちゃんと正装して人に会うのでは気持ちが全然違いますものね。外側から内面に影響を与える事ってあると思います。外面は関係ないと言いながらも結構影響している部分はありますね。その逆の例ですけど、霊的なことを知らないと、お金とか見た目で人を判断するけど、霊的なことを知ると見た目じゃなくて、その人の持っている人生観みたいなもので判断するようになるとかね。物的なものにとらわれなくなると、そういう物的な方への影響も出て来ると思います。仕事でも、生活のため、給料をもらうために働くのと、本当に誰かに喜んでもらいたくて働くのとではやる気の大きさが違うような気がするし、そんな事ですよね。 ペ:そうですね。そういうのはお互いに伝わって来るものがあるはずだから、結果にも影響を与えるでしょうね。 有希:霊から物的な方へ、物的な方から霊へとね。 ペ:確かに汚い格好をしていたら、ダラーとした汚い気持ちになりますよね。 長田:それはそうですね、よく分かりました。 有希:次に、私がシルバーバーチを読んでいつも活《かつ》を入れられる事があるんですよ。P84の後ろから4行目です。 この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野に置くことです。(P.86) シルバーバーチにはいつもこういう視点がありますよね。世の中では様々な問題が起きるし、悩みを一杯抱えている人がいますけど、今だけを見るとその悩みに終始してしまって、気持ちがどんどん暗くなってしまいます。でも、永遠の生命を視野において見ると、これは自分が成長するチャンスなんだと段々思えてきますよね。そうすると今度は悩みが苦しみでなくて楽しみになって来るというか、逆になることがあります。だから、視野の広さ一つでまるっきり正反対になってしまいます。私はこういう言葉にいつも活を入れられます。そういうのってありませんか? ペ:ありますよ。生きていればどうしても色々な苦しい事は起きて来るし、でも何も知らない人は逃げたいとか、それをよける事を考えるのだろうけど、(霊的な知識を得ることで)それを乗り越える事で自分が何か得られるんじゃないかと前向きに受け止められるようになるというのは、かなり違うと思います。 有希:それはすごい違いますよね。 ペ:ここの一つ前の行に…… その苦境の中で悟るべきものは何かを真剣に考える方が、より賢明であるということです。(P.86) 確かにその通りですよね。 有希:だからたくさんの知識を持っていて、色々な本を読んでいて何もしないより、このたった1行を真剣に自分の人生の中にとらえられる方がずっと価値があると思います。 長田:本当にそうですね。 有希:それからP87の1行目 あなた方のいう“人間味”は地上世界でのみ通用することで、内部に宿る霊力は大霊に属するものです。(P.87) この“人間味”というのは“個性”とは違うのかしら。 長田:私もそこを質問しようと思っていました。 有希:私は人間味のある人は個性があるということだから、それはその人らしくて良いと思っていたものですから。 ペ:ここは僕は全然注目していなかったところですねぇ。読み過ごしてました。 有希:一般で言う人間味というのは、悪い部分も含めて言うのかもしれないですね。「人間だから欠点があるのは仕方がない。それはそれでその人らしくていいんじゃないの」みたいな意味の部分かなと思ったりもしましたけど。 ペ:そうですね。人間だからしょうがないよ、というような部分かもしれないですね。 長田:よく、感情の起伏の激しい人に対して「すごく人間らしい」と言う人がいるけど、それが良いのか悪いのか分からないんだけど。 有希:そうなんですよね。それで“個性”とは何だろうなと考えちゃったんです。“パーソナリティー”と“人間味”とは違うのかしら。それについては、たしか「続スピリチュアリズム入門」に書いてありましたよね。 ペ:パーソナリティーとは、地上での意識、人物像ですね。 有希:そうするとここで言う“人間味”はパーソナリティーということになりますね。魂の成長とは関係ない付属的な部分だから、地上だけのものなんですね。 ペ:その後のイエスの言葉で良い事が書いてあります。 その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。(P.87) これはやっぱり霊的な知識というか、霊的視点を基盤に持ってその上でこの世を生きるべきであって、地上の視点というか動物の一種としての人間としてこの世を生きていてはダメだよ、ということですよね。 物的な目で永遠を裁いてはいけません。より大なるものを見ずして小さなものを裁いてはいけません。(P.88) これも同じ意味ですね。 有希:物的な目というか、自分の狭い視野と少ない体験で霊的なことを裁く人は結構いますよね。もともと人間が何かを裁く事自体がどうかと思いますけど。裁くだけの基準を持っていない人の方が裁きますよね。 ペ:そうですね。自分の狭い経験だけで判断して、こうに違いないと裁きますよね。 有希:だから視野の広い人とか、確実なものを持っている人って、かえって安易に裁けないんだと思うんです。わかるだけに下手な答えを簡単に出せないんですよね。 あなた方に気に入ってもらうために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。(P.88) これは私が一番見習わなければいけないところだといつも思う事なんです。別に摂理を曲げて説くわけではないんですけど、ついつい相手の気持ちを察しちゃうとなかなか強い事が言えなくなっちゃうんです。「まぁ、あなたがそう思うのならそれでいいよ」とついつい言ってしまって、そういう事ってないですか? ペ:ありますよ。でも言ってもしょうがない人にはしょうがないですから。 長田:そうですよね。 有希:自分が思ったように理解して欲しいって思っている人って、たくさんいますよね。でもその人が理解して欲しいように理解してあげようと思うと摂理を曲げなくちゃならないことも出てきてしまうので難しいなと思います。つい最近、ある人からメールをもらったんですが、その人は自分の事を覚えていて欲しくて、色々な人に誕生日のメールをせっせと出しているようなんです。それって変だよと言いたいんですけど、かわいそうで言いそびれています。気持ちはすごくわかるだけに、強い事がなかなか言えないんです。 ペ:はー、誕生日ねぇ。僕は自分の誕生日なんて忘れてて、マックに教えてもらって初めて気付くくらいですよ(Macintoshは誕生日に起動すると「誕生日おめでとうございます」と出ます。ちょっと嬉しい(^^)) 有希:私もその口です(^・^) その時に思ったんですけど、私たちはある程度仕事は充実しているし、家族もいるし、精神的にも霊的にも充実しているから、自分のことはもう気にならなくなっているんじゃないかしら。でもメールをくれた人というのは、仕事は充実していないし、結婚もしていないし、親ともそんなにうまくいっているわけではないので、すごい孤独な中で生きているんじゃないかと思うんです。だから自分の存在を忘れてほしくなくて、友達のことを気にかけているのかもしれないと思ったんです。こういう人って結構多いような気がします。 ペ:やる事がないとつまんない事を考えちゃうんですよね。 長田:そうですよね。自分の家族があるだけでも違いますもの。まず家族を養っていかなければいけないとなると、自分のことなんか後回しになりますよね。子供の誕生日は覚えていても自分のは忘れちゃいますし。 有希:それってとっても幸せな事ですね。30歳を過ぎて、自分の誕生日を祝ってもらえなくて寂しく思うのって、本当に寂しくなっちゃいます。 長田:聞いただけでも本当に寂しくなっちゃいます。その人って、結局自分の存在の意義がわからないんですよね。自分自身の価値を自分で見出せないから、誰でもいいから自分のことに気が付いて欲しいと思うんでしょうね。 有希:そうね。でも誰かがその人を認めてあげたとしても、結局その人自身が肝心なことに目を向けていないから焼け石に水ですよね。 長田:結局は苦しい中にあっても自分で行動を起こして、仕事や家族などの人間関係を通して、自分自身で存在価値をつかんでいくしかないんでしょうね。 有希:このメールをもらった時は何とも言えない感じでしたけど、何とか強くなってくれるといいな。 |