スピリチュアリズム勉強会&座談会
('02.04.12作成)
その2
ペ:今、祈りの結果という事が出たので、P.133の7行目
この「インスピレーション」が結果だと思うんですよ。前にも出た話なんですけど、「私にはこれは何とも出来ないからせめて祈ります」という考えがありますよね。祈りの本質からいうと、何にも出来ないから祈るというのではいけないような気がするんです。何にも出来ないように思うのは仕方がないとしても、何か出来る事がないか教えて下さい、というような祈りとか、どうすれば良いか分かりたい為の祈りとか、そういう祈りなら良いかなと思うんです。 有希・長田:なるほど、本当にそうですよね〜(感心) ペ:感心されてしまった……(^_^;ゞ 有希:確かに、何にも出来ないからせめて祈りだけでも、というのは消極的過ぎますよね。 ペ:そういうのって、人任せにして、そこで終わっちゃうじゃないですか。そういうところに違和感を感じていたんだなぁと、ここを読んで思ったんです。何かをする力を下さい、という祈りをして欲しいなと思います。 長田:なるほどね〜、確かにその通りですね。ただ良くなって下さいというのは祈りの本質じゃないですよね。以前からペーパーバーチさんがそういう祈りに対する考えに批判的だった理由がやっと分かりました。 有希:でも今言った事というのは、普通私たちが陥りやすいところですよね。何も出来ませんから祈らせて下さい、というのは一見するととっても謙虚で良く聞こえますもん。でも実はそうじゃなくて、自分は何もしようとしないで、他人任せ、霊界任せにするということですから、これはちょっと卑怯なのかも。 ペ:そういうふうに僕は思っていたんですけど、でもイマイチはっきりとは分かってなかったんですね。それに、そういうことを言うとこっちが何だか悪者みたいに思われちゃうじゃないですか。 長田:次からはとってもいいアドバイスが出来ますよね。ちょうどその事がP.134の後ろから5行目ですけど
こういう祈りがやっぱり本当の祈りですね。 有希:P.132の1行目を見てください。
いつも思うんですけど、前に「あなたの都合のいいように真理を曲げるわけにはいきません」というような箇所がありましたよね。それと同じで、人の気持ちばかり気にして、こんなことを言ったらどう思われるだろうとか、そういう事ばかり気にしていたら役には立てないですよね。 長田:相手が嫌な事でも言わなければならない事は言わなければならないから、自分が嫌われるのを恐れていては役に立てないという事ですね。 有希:そうそう、相手に悪く思われるから言わないとか、そういうのはだめなんですよね。「利他愛」というのはその人の魂にプラスになる事だから、その人にとっては嫌なことだったあると思うんです。そう思うと、愛するのはどんな形でもいいんですよね。まぁ、出来れば傷つかずにプラスにしてあげられたら一番いいんだけれど。人によっては傷つくような事を言わなければ目がさめない事もあるわけだし。だから、時々ペーパーバーチさんが書いているのも、キツイけどいい事書いているなぁと思うことがよくあります。もちろん言う方もカルマとか色々あるけれど、受け止める側の問題も大きいですものね。言われた方はそこから何を学ぶかということですから。 ペ:一応、ある程度言葉は選んでいるんですけどね。これはこう書くしかしょうがないよなぁと思いながら書いてしまう事は結構多いですね。普通の人はそう思うと「やっぱり書くのをやめておこう」と思うかもしれないですけど。 有希:私だと、この人は受けとめる力がある人だなと思えばきつく言えますけど、そうじゃなければあまり言いません。ん〜、これでは愛がないのかも。 ペ:そんなことは無いんじゃないですか? やっぱり相手に合わせるって必要でしょうし。 長田:ここのP.136、1行目
これに似ていますよね。 ペ:そうですね。だから、本人が思うような「こうなってくれればいいのに」という祈りは意味がないということですよね。霊界が本人の希望している方向に進ませたいかどうかなんて分からないわけだし。次のP.137の8行目
というように、人間の側の希望みたいなのは分かっているんですよね。霊界の側は、本人が苦しんでいるのを涙をのんで見ているというか、本人が乗り越えるまで見守るしかないということも言っていますから。願望をかなえてくれたりというのは、高級霊界にはないんですよね。 有希:P.137の3行目
ということですよね。でも、進歩を遅らせるような要求はみんなよくしますよね。それで見かけの結果でみんな判断するじゃないですか。例えば、大学に落ちたから運が悪いとか。でも大学に落ちたことでかえってよい結果になっていった、という事もあるわけだから、何が幸いして何が災いしているかを地上の表面的な一つ一つの結果だけを見て判断するのはよくないですよね。私も就職試験に落ちたのは本当にショックでしたけど、そのおかげで真理にめぐり合えたと思っていますから。そういう体験は、気がつかないだけで誰でもあると思うんです。 長田:でうですね。でも今は無意識にいい様に考えちゃうから、急に言われても思い出せないな。 有希:さっきの祈りが届くかどうかというので、P.138の2行目にもあります。
ということで、祈りで願ったこと=届くかどうかというのは、また別の問題だということですね。 ペ:P.139の3行目
やはりそれぞれの霊性のレベルに応じて回答が届けられるという事ですよね。だから、それぞれに応じて自分が何をすべきかという答えが届けられるわけだから、自分のレベルも高めていかないと、祈りに対するより高いレベルの回答がもらえないということでもあるでしょうけど。 有希:私も同じことを思いました。逆を言えば、自分は真剣に純粋に祈っているつもりでも、その内容が利己的だったりすると、純粋さにつけこまれて低級霊の影響を受けてしまいますよね。じゃあどうしたらいいかと言うと、やっぱり先に真理を受け入れて、理性で判断できるだけのものを持つしかないですよね。自分の理性でこれは正しいのかどうかを見極める力を持っていないのにインスピレーションだけを受け取ると、それをすばらしいものだと錯覚して、そのインスピレーションに頼りすぎちゃうので、これはまずいかなと思います。中にはそういう人いますものね。 ペ:自分の頭であまり考える事が出来ないというか、それに依存しちゃっている人はいますよね。それから、内容は立派な事を祈っているとしても、本人の霊性が伴っていないと、その祈っている自分に酔っている状態に陥っていることが多いと思うんです。そうなると低い霊が寄ってきちゃいますよね。 有希:そうそう、だから祈りという行為自身は本当にすばらしいんだけど、その祈り自身が真摯な祈りなら悪い霊は寄って来ないと思うんだけど、利己的な方に真剣に祈ると絶対にまずいですよね。 ペ:でも一見真摯な祈りでも、そういう祈っている自分が好きというようになっている人は駄目だと思うんです。言葉だけは真摯でも、やっぱり内容が伴っていない人がいるじゃないですか。 有希:いるいるそういう人。人に聞かせるために一見立派なお祈りをする人もいます。 ペ:それこそまさに最初に言ったように、「自分には何も出来ないから祈ります」というようになると、「祈っている自分が好き!」な状態になりやすいんですよ。 長田:そうね〜なるほど。 有希:これって陥りやすいところですよね。祈るのが好きなのはいいけれど、祈ってさえいればいい、みたいだとちょっとね〜。 長田:たとえ、力を与えて下さいという祈りだとしても、それでよしでは何にもならないという事ですね。 有希:具体的に自分がちゃんと行動に移せるだけのものにしていかないと意味がないものね。 長田:ちょっと耳が痛いな〜。 ペ:実際に後で何か行動するつもりで祈らないと、本当に真摯な祈りとは言えないじゃないですか。 長田:そうですよね。私もここに「魂の奥底からの誠心誠意の祈り」と書いてあるけど、はたしてどこまでが誠心誠意の祈りなんだろうとか、心の奥底から湧き出る祈りとはどんなだろうと考えちゃいましたもの。私の祈りは言葉では自分を使って下さい、と言っているけど頭で考えている祈りに過ぎないなぁと思います。それこそ形だけ整えてそれで満足しているという、陥りやすいところにいるのかなと思います。 ペ:祈るだけで行動しなくてよしと出来ちゃうのでは、最初から誠実じゃないでしょ? 有希:ある意味、偽善的ですね。 長田:そうですね。 有希:でも祈っている間は違う自分が出てくるので心地いいんですよね。違う自分と言うと変だけど、自分の外側の余分なものが全部取っ払われた感じというか。自分の中身が全部剥き出しになって、何もはばからなくて済むから心地いいというか。で、やっぱり通じると意味も分からず涙が出てくるんですよ。言葉で表現するのがとっても難しいんだけど、感動という一言で置きかえれるような感覚じゃないんです。人それぞれ感じ方が違うと思うから、私がこう言ってもみんなと同じとは限らないと思うので、それを掲示板に書いてくれるととってもうれしいなと思うんだけどね。 長田:それこそ、言葉で表現するのは難しいから書きようがないよね。 有希:なんで日本語って感動という言葉しかないんだろう。何かもっとあってもいいと思うんだけど。ペーパーバーチさんが、早くお祈りで色々感じてあれこれ言ってくれるといいなあ〜。 ペ:口には出さずに色々考えたりはしていますよ。声に出してとなると、その状態を第三者的に見る自分が恥ずかしくなっちゃいますから。しゃべるのは苦手だし。 有希:上手下手は関係ないですよ。次回のお祈りお願いしようかな。 ペ:まぁそのうちに……。ええと、最後にP135の4行目
この「私にも理解できない難解な用語を用い」というのが、いかにもシルバーバーチらしい皮肉な感じが出ていてすごくいいなぁと思って。 有希:シルバーバーチにも理解できないことってあるのかしら? ペ:本当に判らないわけじゃなくて、シルバーバーチ流の皮肉ですよね、ここで言っているのは。神学や哲学のような、そういう難しい言葉はシルバーバーチも意味がないと思っているということでしょう。神学とかすごい難解じゃないですか。難解になっちゃうのは結局、本当の霊的真理が分かっていないからそうなっちゃう。普通に考えて矛盾していたり、わけが分からないことがあると、何か理由付けの理屈が必要になるから「神学」というものが出来てくるわけで。 有希:本当は霊的真理は誰にでも分かりやすい、ごくごく単純な基本ななのに、それを逆に難しくするというのは、人間のエゴですよね。というところで、次回は九章の「キリスト教のどこが間違っているのか」ですね。 ペ:なぜか毎月次のテーマがタイムリーになっていますよね。 有希:ほんとに(^・^) では今日はここまでにして、感想で終わりにしましょう。 長田:今日は祈りに関して、陥りやすい点をペーパーバーチさんに指摘されてとても良かったと思います。マンネリになってくると、どうしても頭だけの祈りになっているような気がするし、それでよしとしている自分もいるような気がして反省できました。有希さんの祈りの感覚を聞いて、感じた事を言葉で表現するのって何て難しいんだろうと改めて思いました。私も早く祈りによってもっと純粋に、もっと深まりたいなぁと思います。 有希:今日はペーパーバーチさんが以前掲示板で書いていた「ただ祈るだけでは」ということの真意がはっきりわかったし、すごく納得できました。「祈り」に関する感覚は、他の人のことを聞いたことがないので、多くの人の祈りの感覚を知ってみたいですねえ。 ペ:今まで漠然と思っていことが、今回改めて本を読み直して、こうして話をしているうちに形になってきたのが面白かったですね。やっぱりシルバーバーチの霊訓って、何回読んでも、未だに読むたびに新しい発見があるんで、つくづく凄いもんだな〜と思います。 |