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雑誌・テレビなどマスメディアで人気の江原啓之が「いつの日かこのような本を世に出したいと思い続けて」きた本(なんだそうだ)。氏の指導霊である昌清《まさきよ》霊の霊言集にして「真のスピリチュアルメッセージ」……と、まぁ、そういうことらしい。 なるほど他の本や活動では、さまざまな制約があって言いたいことも言えず、企画に合わせて言いたくないことも言わねばならないというジレンマは理解できないでもない(その是非は別として、ではありますが)。それでは、本当に出したかったというこの本ならばと、多少の期待を持ちつつ読みました。そして最初の数ページだけで、ああ、こりゃダメだ、と(^^;。 地上の人間を「ぬしら」などと呼ぶ尊大な態度。括弧で「あなたがた」などと注記されていますが、これはどちらかと言えば「お前ら」という感覚でしょう。確かに辞書的には「あなた」という意味も出ているのですが、しかしこれは(特に現代では)目下の人間に使う言葉です。こうした呼びかけ方がこの霊の本質を象徴的に表していますが、如何にもっともらしいことを語ろうが、文章の端々から横溢する傲慢さ、品性下劣さは隠しようがありません。全編を通じてのこの“人を見下した態度”は万人が認めるところでありましょう。 その傲慢な昌清霊がこの世の人間の傲慢さを語っているのは失笑ものですが、しかしながら、これは自らの傲慢さをカムフラージュする案外良い手でもあったようです。「この世の人間の傲慢さを批判している昌清霊が傲慢なはずがない」と思ってしまう人も少なくないようですから。と学会の志水一夫もどこかで言っていましたが「正誤表が間違っていると思う人は多くない」ということでしょうね。 そして「なのじゃ」「なのじゃ」にときどき古めかしい単語を混ぜて、また「なのじゃ」のオンパレードのインチキ古語。そうして取ってつけた小道具以外は現代語そのもので不自然極まる、読んでて背中がムズムズしてくるようなシロモノです。まるで「〜アルヨ」と喋る中国人や「〜ニダ」と喋る朝鮮人(苦笑)。確かにマンガのキャラクターか何かだったら「なのじゃ」とでも言わせれば昔の人らしさは出るのかもしれませんが、そういうのをマトモな大人に真面目に読めと言うのは、それは人間の知性と理性に対する侮辱というものでしょう。 だいいち、「なのじゃ」だの「ござる」だの「生《あ》れる」だの「ぬしら」だの、読みづらくて仕方がない。現代語で話す気がないのか能力がないのか。要は「自分は自分の喋りたいように喋る、ぬしらが読みにくかろうがまったくもって興味のないことじゃ」ということなのでしょう。こうした点からも昌清霊の傲慢で自分勝手な本性がうかがわれ、この世に霊的真理を伝える使命を負ってでた高級霊でないことが強く示唆されるのです(もちろんその一点だけで断言することはできませんが)。小桜姫物語も文語体ですが、あれだって当時なりの“現代文”で書かれているのであって、昌清霊のごとくさかしらぶって昔の霊っぽさを演出しているわけではありません。 いくらなんでも平家物語のような美しい文章をモノせとは申しません。シルバーバーチのように、批評家からも称賛される名文で語れとも言いません。小桜姫のように品良く話せとも要求しません。比ぶるべくもないとはいえ、せめて最低限、見苦しくない言葉で語って欲しいものです。
では、読みながら附箋を貼った中から、コメントしやすいところをいくつか取り上げてみます。控えめに貼ったつもりだったにもかかわらず24ヶ所にもなったので、ちょっと全部は書けませんから。本文(霊言の部分)たったの150ページ(しかも活字も大きい)しかないのに、この突っ込み所の多さは何?という感じですが(^_^;ゞ。 ぬしらが想像し、つくる「神」は、「唯一絶対」であることが多かろう。 これはいかにも人間的な感覚で神を捉えているようですが、神が「さらなる向上を望んでいる」などということは有り得ません。神は無限の存在です。無限に1を足しても、100や1,000を足しても、例え何億何兆を足しても、元より増えることはありません。(大川隆法も同じ間違いをしていましたが、いかに無限ということが理解しづらいかということなのでしょう) 守護霊は類魂ゆえ、守護霊が一人いるも、二人いるも、人数にこだわること自体おかしい。(P.30) 同じインディビジュアリティに属する存在であっても別のパーソナリティを持つ存在ですし、その中の一人だけが守護霊をつとめるのは厳然たる事実です。ですから、それにこだわることがおかしいなどと言ってはぐらかすのはそれこそおかしな話です。おそらく著者が、例の一時間五万円のボッタクリ心霊相談で、同じ相談者に対して前のときと全然違う守護霊を“霊視”しまったことでもあるんでしょう(まだ生きてる人を守護霊と言ってしまったこともあるそうですし(^^;)。なるほど人数にこだわられては困るわけです。こうした著書で予防線を張っておくとは、さすがに用意周到、頗るお利口な戦略ではあります。 ぬしらが幽世に戻ったとき、その他の部分の再生の記憶も蘇る。(P.34) 霊界でもある程度進歩するまで、そのような事はありません(マイヤースの『永遠の大道』などを参照のこと)。この昌清霊の言葉を信じるとすると、幽界レベルではもちろん、霊界でさえグループソウルのことを知らない霊が多いことの説明が付かなくなってしまいます。 たましいが肉体に宿るのは、胎児として母体に宿ったときじゃ。 要は分かってないという事なんですが、見栄っ張りな昌清霊は「分からない」とは言えなかったんでしょう。ちなみにシルバーバーチは「受胎」の瞬間であると言っています。ちょっと引用してみましょう。 ----霊はどの段階で身体に宿るのでしょうか。受胎の瞬間でしょうか、それとも胎動期つまり十八週ごろでしょうか。 「この問題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します」 「または、それより以前から」などといういい加減な説明をするぐらいなら、正直に「知らない」と答えれば少しは見所があったものを……。知らないことを知らないと言えるのは、信頼できる指導霊の証なんですから。 この現世に生れる意味は二通りあるのじゃ。 無論そうした側面もあることは否定しませんが、そのためにこの世に生まれてくるというのはあまりに後ろ向きですね。カルマの負の側面ばかり見ているから、カルマと言えば「前世で○○があってそれを解消するために云々」という話ばかりになってしまう。低級霊能者ならともかく、高級霊が言うことじゃないでしょう、こんなのは。人間がこの世に生まれるのは借金を返すためですか? 貯金を貯めるためだと思うんですけどね。然り、かような昌清霊の着眼点の低さからは、この霊が実際に存在している境涯の低さが伺われてしまうのであります、嗚呼。 女に生まれ出でた者は、母性を学ぶため。 そういうこともあるんでしょうが、そうじゃないことだってあるハズですよね。子供を作らない人も、結婚しない人もたくさんいるんですけどねぇ。何だか本当に、自分の思い込んだ狭い範囲の考えから出られない人(霊)なんだなと思ってしまいます。 男も同じじゃ。子を宿せぬという問題がどれだけ多いか。また、父となれぬ者、家族をもてぬ者、これらがいかに多いか。 は〜(呆然)。父性・母性を学ぶために生まれているのに、それを失っていることのたましいの警告として子供が生まれなくなってしまうわけですか。それでは尚更学べないのでは?(苦笑) まぁ、それは良いとして(良くないけど)、これは子供が出来ずに悩んでいる人、結婚したくても出来ない人に対してあまりにも無神経ですね。そういえば江原さんがどこかで「深刻に悩んでいる人ほど相談予約電話は繋がりやすい」という意味のことを言っていたのに対して、この人は悩んでいる人の気持ちなんて分からない人なんだなとの感想を述べた人がいて深く同情したものですが、この霊も霊媒と同類のようです。もっとも、警告されているのだぞと脅すことによって新たな顧客獲得を目論んでいるとすれば「気持ちが分からない」のではなく「分かった上で利用している」ということになるのかも知れません。ま、どちらにしてもロクなもんじゃないですが。 まだ1/3も進んでいません。先を急ぎましょう。 ぬしらは、なぜ結婚をする。なぜ離婚をする。なぜ不倫をする。 さて、これを読んでいる皆さんは、果たしてそんな理由で結婚しているでしょうか? 求めたい、得たいという心が「正の表現」として表れれば、生きることの真理、哲学へと変貌するであろう。しかし「負の表現」とならば、物欲、食欲、性欲へと表現をふくらますのじゃ。(P.93) それにしても、これらを「負の表現」としか考えられないとは、何と寂しい、何と哀れな人なのでしょう。もちろん、物欲も、食欲も、性欲も、人間の生物としての側面が求めるものですし、そればかりになってはいけないのは勿論です。が、これらは全て人間が生きるために必要なものであって、決して「負の表現」などと切り捨てるべきものではありません。溺れてはいけないのはもちろんですが、単純に否定するのではなく、うまく制御して乗りこなし、更なる進歩のための力にすべきものです。 ただ「負の表現」として否定してしまうなら、それがなぜ存在するのかという意味の半分しか見えていないということです。それは現にそのようにあり、そのことに「負の表現」以上の意味があるのです。単に否定して良しとするのは、それこそ傲慢というものでしょう。 美人にたましいの良い者が少ないのは、そのためじゃ。美人で性格も良いという者がなかなか見受けられないのは、そのためじゃ。(P.122) まさに酔っぱらい親父。きっとこの時、昌清霊は酔っぱらっていたに違いありません。っというか、こういうのを高級霊の言葉と思える人間がこの地球上に存在するとは……なかなかに信じがたいことでありますなぁ。 ……このぐらいでもう十分でしょう。引用してコメントし易いところを選んでご紹介しましたので、かならずしも特に酷い所を網羅しているわけではありません。他にも、早死にするのは学びの達成が早いからだとか(P.119)(一概に言えることではありません)、仕事は人と関わるためだとか(P.95)(そんなのは一面に過ぎません)、愚かでアホで何の取り柄もないと思うのが謙虚さだとか(P.146)(卑屈と謙虚を取り違えていますね。というか卑屈な信者体質の人間になって欲しいのでしょう)、便利さを求めるのは弱さゆえだとか(P.153)(進歩というのをどう考えているのか。原始時代に高度なスピリチュアリズムが有り得たか考えるが宜しい)、呆れるような“霊言”が次々と出てきます。 上記の通り、語られる内容は全体に陳腐で理性を反発させるものであり、感じられる人格は低俗。知的な検証に耐えられるレベルではなく、信じたいから信じるという態度で望むのでない限り信じるのは困難です。明らかにおかしい箇所以外の比較的マトモなことを言っている部分でさえ、その多くはシルバーバーチの劣化コピー……たとえば類魂の話など、分かりやすいシルバーバーチの説明を分かりづらく、かつ不正確に説明し直しているに過ぎません。実際、類魂の説明ではどこかで読んだような言い回しが頻出します。盗作とまでは言いませんが、少なくとも真面目にスピリチュアリズムを学ぼうとするなら読む価値を見いだすのは困難です。強いて言えば、霊媒の潜在意識にある言葉を突っ付き回して霊言をでっち上げる低級霊の姿が見える、という意味では興味深い部分もある……と言えなくもない、こともないか(^^; 最後にシルバーバーチの霊訓からご紹介しましょう。 もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断規準に訴えることによって人間が真の自分を見出《みいだ》し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。
こんな本でも、スピリチュアリズムもシルバーバーチの霊訓も知らない人が読めば、素晴らしい深遠な霊的真理と思うかも知れませんが、しょせんはバッタモンです。高級霊の霊言集として評価すると★一つ。人間の書いた本と考えれば、おまけして★二つというところでしょう。一応は、誰にでも一目瞭然のトンデモ本ではありません。但し、ページ数は少なく文字は大きい。空白も多い。一時間で読めてしまいます。 |