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僕の友人の一人に「悟りを開いた」と主張している人間がいたことは以前にも何度か書いたことがありますが、僕がこの本を読んだのは、彼に薦められたからだったと思います。当時の僕にとって彼(Mさんとしましょう)は「霊能力を持っていて、心霊治療も出来て、悟りも開いているすごい人」でしたから、完全に影響を受けてしまいまして「これは重要な本だね。注意して読まないと誤解する危険性はあるけど」なんて、したり顔で言い合っていたものです。今思えばこんな程度の善し悪しも判断できなかったのかとナサケナイ限りですが(^^;。 それでもその後、シルバーバーチの霊訓などのスピリチュアリズムの書籍を読むにつれ、Mさんの“悟り”の怪しさや、この本の危険性にも流石に気付くことができました。が、どちらかというと感覚的に理解するタイプだったMさんは、表向きは「シルバーバーチすばらしい。なまけ者の〜はダメだ」と言うようにはなったものの、根本的な考え方の部分ではなかなか抜け出せなかったようです。 それから数年後。彼は瞑想中に精神に異常を来《き》たし、やがて自殺してしまうのですが、その根本的なところで原因になっているのが、「悟り」とか「霊能力」とかいう(霊性進化とは次元の違う)アクセサリーのようなものを求める心、囚われから脱することが出来なかったことではないかと、僕は考えています。そう、この本を初めとするニューエイジ系、精神世界系で弄《もてあそ》ばれている“霊的子供の玩具”への囚われから逃れられなかったことが、最も大きな問題だったのではないか、と。 更に悪質なことに、この本では、そうした玩具から卒業した次の段階……霊性進化にとって最も肝心なことの一つとも言える“苦に立ち向かう必要性(そのことの素晴らしさ)”を否定してしまっています。この本を読んだ人は、霊的子供のための玩具から卒業することが難しくなるであろうと、容易に想像できます。この本の間違った知識が、読者の霊的成長の足を引っ張ることになるわけです。その意味で、これはニューエイジのもっとも典型的悪書と言えるでしょう。 この本には、努力なんて必要なく悟ることが出来るとか、あらゆるものがそのままで完全なのだとか、ニューエイジ系の本でおなじみのセリフが次々と出てきます。「今のあなたのままで、できる限り愛しなさい。」とか。 でも、よぉく考えれば分かると思います。こんなのは何の実効性もないお題目のようなものです。単なる空理空論で何も言っていないに等しい。「卵よお前はそのままで鳥なのだ。さあ空を飛べ」と言ってるようなものです。飛べると言われれば飛べるような気になる人もいるんでしょうが、実際に飛ぶにはそのための具体的な成長のプロセスを経る必要があるはずです。が、この本にはそのプロセスは何も書かれていません。ただ、こう思えとか、こう考えれば、みたいなことを頭の中でグルグル回しているだけです。 あまつさえLSDを試してさとりを得られたと言い始めるのですから何をかいわんや。結局この人の主張する「さとり」とは、ニューエイジ的な麻痺した状態を勘違いしているに過ぎないわけです。 オリヴァー・サックスの有名な著書に『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫NF)というのがありますが、その中に、脳腫瘍で感情や記憶が壊れてしまった人の話が出てきます。その患者はある宗教教団にいたんですが、脳腫瘍のために精神の一部が欠落した状態が当にタデウス・ゴラスが主張している悟りそのもので、その教団内でもステージの高い人と言われていたようです。(やがて症状が進んで手に余るようになると放り出されて施設に入ることになるのですが) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 脳腫瘍の痴呆状態をステージが上がったと勘違いした教団や、LSDによる迷妄状態を“さとり”と勘違いしたタデウス・ゴラス。ニューエイジに分類されるものの多くには、これらと同じ問題が内包されていますよね。光だ愛だ波動だエネルギーだ導きだと、言っていることの一つ一つは“決定的な間違い”と言えるほど狂っているわけでは無いかもしれません……ちょっとズレているだけで。が、現実世界から逃避し、地に足の着かぬ脳内理想世界に暮らす彼・彼女らは……一見愛に満ちているように見えますが……そんなものは現実世界との接点が“麻痺”しているがゆえの勘違いに過ぎません。 接点がなければ摩擦も負荷も起こり得ませんから、本人的には愛に満ちた世界に入れたかのように思うのも無理はありません。が、そんなものは空ぶかしのエンジンが何千回転でも回ってしまうのと同じで、実際の霊性は少しも上がってはいないわけです。いや、この『なまけ者のさとり方』に書いてあるようなことをやっていたら、それこそ空ぶかし用のチューニングをしているようなものです。 そりゃあ、空ぶかししてるぶんには気持ち良く何万回転でも回るでしょう。あまりにも気持ちよく回るので負荷を掛けるのが馬鹿らしくなるのも分からないでもありません。努力することや、シルバーバーチの“苦の哲学”みたいなのをニューエイジ以前の古い考えとして否定しようとするニューエイジャーの如何に多いことか。 でもそれは「クラッチをつながなければならないなんて古い考えだね。そんなことをしたってエンジンの回転数が落ちるだけなのに」と言ってるようなもんです。彼らが忘れているのは、たとえエンジンを何万回転で回そうが、クラッチをつながない限り車は前に進まないということ……っというか、空ぶかし用にチューニングしたエンジンなんて、たぶんクラッチをつないだ瞬間に壊れるでしょうけど(^^;。 だからニューエイジゃーは負荷が掛かることが嫌いなんですね。壊れちゃうから(苦笑)。ニューエイジの人の多くが議論を嫌うのも同じ理由でしょう。本来、議論することこそスピリチュアリズムとニューエイジを分ける最も重要なキーワードである(と僕が考える)「健全な懐疑精神」の発露なんですが、ニューエイジの人は「懐疑される」という負荷には耐えられないようです。マシュマロのように柔らかな“愛”に包まれていないと……実際、論破される過程で壊れていくのはそういうタイプの人だったりします。 というわけで、当然のごとく評価は★一つ。ただし、典型的と評した通りニューエイジ的な考え方が凝縮された、ある意味ニューエイジの決定版的な本ですから、そのテの連中のものの考え方を知りたいのなら、読んでみるのも良いかも知れません。 |