心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
(9/18/99登録)

第一信(1)
東京から神戸へ


 

 かねて出発の日ときめてあった七月十日が、とうとうやってきました。朝六時頃目をさました時に「いよいよ今日だナ」という考えが、先に私の頭にひらめきました。

 旅行の準備は、半年も前からボツボツ施してあったので、今日になって、格別な用件もありませんでしたが、ただ今度の旅行で、一ばんの番狂わせは、七日の夜半から胃腸を損じたことでした。自分では、相当警戒はしていたつもりでしたが、月の初めから送別のご馳走がつづく間に、ツイうっかり飲み過ぎと、食い過ぎをしたものと見え、胃袋の方からお謝りが出ました。医者のほうでは、胃酸過多症というものでしょうが、主観的には「この上飲食無用」の警報であると受取られました。

 で、私は大急ぎで下剤をのみ、その上八日、九日の両日を絶食で過ごしました。そのお陰で、胃の輸出入の平均が初めて取れ、気分は迅速に回復しましたが、ただ九日の午前中、ペコペコの腹をかかえてポーランド、ロシア、イギリスの三領事館を訪ね、旅行免状の査証を受けて歩いたのは、少々楽でもありませんでした。そもそも旅行券だの、査証だのと、まるで封建制度の遺物みたいなものをかつぎまわることは、どなたにも厄介千万な仕事に相違ないと思われますが、この日の私には、特にそれが面倒に考えられてなりませんでした。

 「世界の人類も、ところどころにお関所を設けて、狭く暮らしているようなことではまだ駄目だ。いつになったら、もっとさっぱりした、真の文化の世の中になることやら……」

 そんな愚痴が私の胸の底の方にわだかまるのでした。

 が、これらの雑務もドウやら滞りなく済み、同時に体力が回復するにつれて、出発当日の私は、すっかり上機嫌になってしまいました。おまけに連日の陰鬱な天気が、ドウやらカラリと晴れ上がったのですから一層うれしく、シベリア鉄道位、何のことがあるものかという勢いになって来ました。

 酷暑の見送りは、かねて平にお断りしていたのですが、それでも、会員諸氏をはじめ、友人親戚の方々が五〜六〇名も、東京停車場にお見送りしてくださったのは、恐縮の至りでした。「是非ともこりゃ心霊土産を、どっさり持参して帰らねば、皆さんに申し訳がない。しっかりやって来よう……」----皆さんに送られて、プラットホームに出た時に、私は堅く堅くそう覚悟をきめたのでした。

 午後八時四十五分、汽車は見送りの人々を後にして、停車場を出発しました。車窓から首を突き出してみれば、最初数秒の間は、皆さんの顔の輪郭がはっきりしていましたが、間もなく、夜陰の中にすべてが朦朧と融け合ってしまい、次の瞬間には、それも薄墨でひと刷毛さっと塗り消されてしまいました。やむなく自分は室に入って、しばしそのまま黙座をつづけました。

 明けて十一日の朝早く、汽車はすでに伊吹山麓を走りつつありました。一昨年から、私は毎月一度づつこの東海道を往復していましたが、今度は少々長い心霊旅行の旅立ちだと思うと、見慣れた景色も、何やら普段とは別な意味で、見送ってくれるようにも感ぜられました。

 大阪にはホンの数分の停車でしたが、そこでも数人の知人達から見送りを受けました。かくて午前九時四十分、三ノ宮に着くと、ここには京阪神間の会員諸氏が数十人待ち構えていてくれました。挨拶もそこそこに、荷物を受け取り、さっそく自動車で桟橋横付けのバイカル丸に乗り込みました。五四〇〇トンの相当な巨船、設備万端で案外と気持ちが良いのは、むしろ意外でした。

 見送りの人達と、サロンに集まって、別れの杯を挙げつつ、よもやまの歓談に残りの時間を費やしました。私の心霊研究会は、関東の大震災が取りもつ縁で、自然東京と大阪とを、二大中心として発育をとげることになり、どちらにも同様に力こぶを入れてくれる、強固なる擁護団があります。昨夕東京停車場で袂を分けた人々も、今朝神戸の船上で再開を約する人達も、顔ぶれは違うが、情においては皆甲乙のない人ばかり、まるきり利害得失の打算を外れて、一団となってこの学問のために真心を尽してくださるのです。思えば私のような、つまらない人間が音頭取りをして、よくもここまで純真な思想団体を組織することができたものだと、自分ながら不思議に思えてなりません。頭数からいえば、会員の数はもちろんまだ言うに足りません。しかしながら、私たち心霊科学研究会に限って、そこに人を釣り寄せるための餌もなければ、また人気を煽るための御神輿(おみこし)もない。求めるところはただ宇宙の真理、仰ぐところはただ天地の大道。馬鹿正直といえば、恐らくこれ以上の馬鹿正直はなく、融通がきかぬといえば、恐らくこれ以上融通のきかない仕事はないでしょう。とにかくこうした団体が相集まり、五年経っても、十年経っても、一貫して少しも変わりがないというのは、まさに現代の一大奇跡で、まさしく天未だ日本国を見捨てざることの、最も有力な証拠ではないかと思います。

「全く有り難い話だ。自分はよっぽどしっかりせんといかんな」

 私はサロンに集まる親しい人達の顔を見回しつつも、いつしかそう心に誓わざるを得ませんでした。

 やがて時刻が移って十一時四十分にもなったので、見送りの人達は別れをつげて、ゾロゾロ下船しましたが、埠頭における例の劇的光景はなお続きました。甲板から私が投げた数十本の五色のテープは、それぞれ陸上の人達の手につながれて、思いがけぬ虹のように見えるほどでしたが、やがて正午を過ぎて十五分、バイカル丸の巨体が進行を始めたと同時に、つながれたテープはプツリプツリと切断し、いつしか船と陸とが遠ざかって、お互いに打ち振る手の動きも船具に隠れ、帆柱(ほばしら)にさえぎられて、しまいには黒白も分からなくなってしまいました。「いよいよ旅に出たな!」

 そうした感じが強く私の胸を打ちました。


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