心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('99.11.23登録)

第二信
大連の足かけ五日


 

 神戸から大連までの船の三日間の生活は、まことに楽しい、清い、夢のような生活でした。まるまる三日間、船体は微動だもせず、思う存分袂(たもと)をひろげて、夏の海風を満喫し、おまけに船室は一人占め、食卓は理解ある紳士ぞろい、どこにも不満がありませんでした。

 が、この結構な航海も、やがて終わる時がきました。濃霧(のうむ)を外洋に避けたために、数時間到着が遅れましたが、十四日の午後四時には、すでに私は堂々たる大連の桟橋へと横づけにされていました。

 船の生活が余裕しゃくしゃくだったのに引きかえ、大連で私を待っていた陸上生活は、相当多忙なものでした。座談会が二回、公開講演会が一回、個人の面会がざっと数十件、おまけに最後の一日を、旅順(りょじゅん)の古戦場と、風景を見て回るのにあてたので、十二時前に就寝できた日がないほどでした。

 まず晩餐をかね、その座談会は、到着の二時間後に、大連ホテルで開かれました。これは次男の勤めている、古川電気大連支店の人達十人ばかりの催しで、もともと心霊問題とは、ほとんど関係のない性質のものでしたが、関係の少ないだけ、それだけ各種各様の質問の矢が、雨のごとくしきりに私の所に集中し、話の性質が、徹頭徹尾心霊化してしまいました。最初はずいぶん突飛な質問も出ましたが、もともと理解のよい人達だったこともあり、二〜三時間の後には、すっかりメートルが上がってしまい、「霊界との直接取引ができると聞いちゃ、こりゃあ黙ってはいられない。われわれもさっそく大連に心霊研究所の支店でも出さなくちゃなるまい」などと気の早いことを言う人もありました。

 とにかく古川電気の人達に限らず、大連の居住者は、概して思想信仰問題に対して、内地人よりもはるかに真剣味が強く、そして(迷信への)捕われかたが、よほど少ないように見受けられました。恐らくこれは境遇の相違が、大いに関係しているのかも知れません。内地人は四六時中、せかせかした物事の動きに没頭しているせいで、客観的に自己をかえりみることができず、いわゆる「魚市に入りて魚臭を知らず」の傾向があります。早い話がちょっと考えてみても、霊魂の存続を無視して祭祀を行ったり、霊界通信(すなわち天啓、啓示)をヌキにして宗教を論じたりすることが、いかに無理があるかは判り切った話で、釈迦だって、キリストだって、皆そればかり行って来た連中ではありませんか! しかるにそんなことはおくびにも出さず、せっかく世界の心霊家が、五〜七十年にわたって、鋭意収集した貴重な霊的事実を、はたから覗いて見る程度の誠意さえもなく、資本いらずの思想善導業や、精神作興(さっこう=奮い起こすこと)業を開始して、大いに国家のために助けになることだと称するのだから虫のいい話で、これで思想が善導されたり、精神が作興されたりするなら、おそらく地球上に亡びる国土はありません。

 「まったく近ごろ内地人はだいぶ慌てていますね」と、私は調子づいてのべました。「思想が悪化したというので、ヤレ信仰の鼓吹(こすい)だ、言論のとりしまりだ、国体を明らかにするのだ……。まるで火事場さわぎです。前年乃木軍が、鉄壁の守りを誇る旅順要塞を陥落させたのにしても、最後はやはり正攻法によって塹壕(ざんごう)を掘り、敵の生命である堅固なとりでの下に爆薬をすえつけ、根底からこれをくつがえすことによってのみ、初めて目的を達しました。日本国の現在の思想悪化は、要するに心霊を無視した、唯物思想が跋扈(ばっこ)していることが、その根底をなしています。それなのにこの根底をくつがえすことをせず、自分自身が依然として唯物教に入信しながら、いくら騒いだところでとうていダメです。彼らは説きます----霊魂の不滅とは、その血統や精神が子孫に伝わることだ。永遠の生命とは、その感化が後世にまで及ぶことだ……むろんこれにも部分的真理はないわけではありませんが、それはむしろ副産物で、霊魂は子孫の力を借りずとも、十分に後まで残り、永遠の生命は、後世への感化以外に、厳として独立した意義をもっています。その事実を正攻法で解決しようとせず、関係のないことを言ってゴマカそうとするのは、二十世紀の科学的世界には、まるきり通用しない卑怯なやり方で、これでは、いつまでガムシャラに突撃をくりかえしても、おそらく最後の勝利は得られませんよ。軍事問題だって、心霊問題だって、理屈は同じことです。皆さんはどうか正攻法で、どこまでも心霊研究の塹壕(ざんごう)を掘りひろげ、日本国をおびやかしている、不健全な思想の固い砦を根底からくつがえしてください。日露戦争当時の旅順の要塞と、昭和時代のある種の悪宣伝とは、形の上では天地の違いがあっても、日本を危うくする点においては、まったく同じですからね」

 こんなことをしゃべったことは記憶していますが、他は何を言ったかはっきり覚えておりません。

 翌七月十五日は、大連には珍しい大雨で、この分ならおそらく来訪者もなく、ゆっくり執筆ができるかと喜んでいたのはホンの束の間、大連の熱心な研究会員たちから電話がかかって「この雨天では、旅順にお出かけになるわけにもいかないでしょうから、今日は午後四時から、ゆっくり内輪の者だけで座談会を催したいと思いますが、ご都合はいかがですか」ときた。こうなっちゃ、もちろん敵にうしろを見せるべきではないので、喜んで出席の旨を答えました。そうするうちにも、雨にもかかわらず来訪者がボツボツある。多くは心霊研究者ですが、たまに大本教筋のも混じっていて、大いにとまどいました。それには、知らぬことは正直に知らぬと言い、しいて意見を求められれば、現在の私の立場から、同教に対する考えを述べてやりました。(訳注:浅野和三郎は過去、大本教の幹部だったことがあったが、このときは既に袂を分けている)

 午後になってから、二〜三件訪問をすませ、やがて約束通り四時に、公園の某亭に赴きます。と、かねて会員名簿でおなじみの方々が、ポツリポツリあつまって、やがて二十名足らずになりました。一人一人と話をするには、少々人数が多すぎますので、挨拶がわりに、二時間あまり口からでまかせにおしゃべりをし、晩餐に移ってから、またそれが済んでからは、主に私のほうが聞き役となり、とうとう十一時半になってから、びっくりして辞去しました。
 この座談会は、私にとって非常に意義深いもので、有志の方々と、完全に意思の疎通ができたのが、うれしかったばかりでなく、大連市が有する霊媒について、ほぼ見当が取れることになったのは、何より貴重なお土産でした。私がぜひ一度稲敷(いなしき)夫人を訪ねてみようと決心したのも、確かにこの夜の座談が縁になったことでした。

 翌七月十六日、午前七時半というのに、早くも若林夫人の来訪を受けました。前夜の約束で、霊媒の稲敷夫人のもとに私を案内してくださるためなのです。大連に熱心な人は多い中にも、この若林夫人などは、特にこの道に熱心な方で、三人の幼い子供たちの慈母として、また満州の野に苦労して農園を経営される良人(おっと)の内助者として、忙しい身でありながら、心霊問題に対して深い理解を持ち、このためには、いかなる犠牲をも払わんとしておられる、けなげな覚悟は誠に見上げたもので、いたずらに浅はかな時代の浅はかな潮流に押し流されればいいという、内地の軽薄な女性の、とても足もとにも及ばぬところと痛感されました。

 「こんな婦人を生む、満州の植民地の前途は、たしかに有望だ。この分ならきっと勝てる」

 わたしはそう胸中でつぶやいたのでした。

 稲敷夫人の能力については、ゆっくり調査の上で、また申し上げることにしましょう。ここではただ、同夫人がよほど恵まれた霊媒的才能の所有者の一人であることを述べるにとどめましょう。年齢は今年四十一の痩せぎすの婦人でした。

 それから再び若林夫人に導かれて、同夫人の実家である川上さんのお宅を訪問し、昼食のもてなしにあずかりながら、北満州におけるリンゴ栽培、その他一般農業の現状、ならびに将来について有益なお話を伺いました。

 私が川上宅を辞して大和ホテルに戻ったのは、午後の三時でした。一〜二の訪問者に接しているうちに四時となったので、直ちに近くのキリスト教青年会館に赴きました。これは有志の発起で、そこで公開講演を行うことになっていたからで、私の講演の標題は『スピリチュアリズムと古神道』というものでした。要は心霊研究からスピリチュアリズムへ、またスピリチュアリズムから古神道へ、の何人も辿らねばならぬ道順を説いたもので、要するに、私のいつもの持論を、大連の先覚者たちに向かって、直接訴えたに過ぎませんでしたが、百名あまりの聴衆は、きわめてまじめに耳を傾けてくれたようでした。この日大連は、非常に呼び物の多い日で、米国大学選手対内地団体の野球大会やら、修養団の発会式やら、東京大相撲の興行やらが、いやがうえに人気を集めていたにもかかわらず、あくまで地味な私の一人講演に、これほどの来場者があったのは、ほとんど予想外の感がありました。

 以上で、私の大連滞在のあれこれは、だいたい書きました。十七日には私は次男を携えて旅順に赴き、爾霊山(にれいさん=二〇三高地)の頂点に立って、心ゆくまで往年の追憶にふけりました。帰途星ヶ浦の景色のきれいなところをさぐり、ホテルに帰りついたのは、モー六時過ぎでした。

 私がいよいよなつかしき大連に別れを告げ、十余名の親しい人達に送られて、シベリアに出発したのは、その翌十八日午前八時十分でした。
(三、七、二〇、ハルビンより満州里に向かう汽車の内で)

 


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