心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('01.04.12登録)

第七信 ロンドン雑記(4)
クルー・サークルを訪ねる


 

 クルー・サークルのことは、すでに私の『心霊講座』でも、相当くわしく紹介してあるところで、英国滞在中、ぜひとも訪問すべき期待の霊媒ですから、私はある日手紙をクルーのホープ氏に送り、八月十九日の日曜日に訪問したいが、ご都合いかがと問い合わせました。すると十八日に返信が来て、待っているから、お出かけくださいとのことでした。

 汽車の時間表を出して調べてみると、クルーは、ロンドンから北西に向かって250km、急行で三時間以上かかります。しかもあいにく日曜の英国の汽車は、発車数がほとんど平日の三分の一ぐらいに減り、クルー行きは、午前十一時半、ユーストン発以外に適当なのが見当たりません。「こいつァ弱ったナ。汽車までがお休みをするとは、まったくけしからん!」 憤慨《ふんがい》して見てもはじまりません。その旨を電話で、ケンシントンの『ロイヤル・パレス・ホテル』に滞在中の、久米民之介氏に連絡し、とにもかくにも、その十一時半の汽車に乗るために、ユーストンの停車場で落ち合う約束をきめました。久米氏とは、シベリアの汽車でお馴染みになり、その際自然にクルー・サークルの話が出てきて、「そういうことなら、ぜひ一緒に出かけましょう」との約束が成立していたのでした。

 極東のお上りさんには、英国の田舎めぐりは、ヘソの緒を切って以来はじめての経験ですから、なかなかの大問題です。その前夜は、二、三時間もかかって地図をしらべたり、荷物をまとめたり、写真の乾板を買ったり、とんだ大騒ぎをやりました。明けて十九日の日曜、幸い天気はさして悪いほうではなく、生ぬるい風が吹いて、黒い雲の断片が、おてんとさまを時々隠す程度です。十時頃大急ぎで、日曜の遅い朝食をしたためて、地下鉄でユーストン停車場へ行って見ると、久米氏は父子《ふし》三人連れで、私より先に来て待っていました。

「子供たちも一緒に行きたいと言いますから、連れてまいりました。差し支えはないでしょうネ」

「それは却って好都合です。写真を撮るには、老人一人ポツンと座るよりは、若い人たちが加わるほうが、きっと成績が良いでしょう。多量のエネルギーを供給しますから」

 発車の回数が少ないせいか、車内はそうとう混んでいましたが、ともかく私たちはしかるべき座席に割り込みました。切符は私の提案で三等にしましたが、設備はなかなか上等で、内地の二等より少々上等なぐらい、しかも最大急行であって、クルーまでどこにも停車せず、一気に乗りつけようというのですから、案外気がきいているのでした。

 ユーストンの停車場を離れて、ものの三十分も走るうちに、周辺の景色は、モウすっかり田舎じみてきましたが、日本の田舎との相違は、頗る格段なもので、どこへ行っても、レンガ造りの家屋。どこへ行っても、広々とした草原とブナの森。そしてところどころに牛だの、馬だの、羊だの、白馬だのがノソノソしている光景は、田園というよりは、むしろ一大遊園地のような感じを与えます。耕地といったら、全体のやっと十分の一も無いぐらいでしょう。それでいかにイギリスという国が一方向に歪んだ、不自然な発達を遂げつつあるかを察するに充分でしょう。植民地や属領がウンとあるから、これで生計《くらし》が立ちもしましょうが、万が一にも世界の現状が壊れたら……。余計なお世話焼きかも知れませんが、私はイギリスの田園の美観にあこがれる前に、これではイギリス人は、天の恵みを使い果たしてしまうのではないか、というような感に打たれざるを得ないのでした。

 が、私たちの乗った汽車は、日本のお上りさんが何を考えていようと、そんなことにはお構いなしに、いくつかの村落を越え、兵陵を越え、また停車場を越えて、午後三時半頃にクルーに着きました。時間表では二時五十三分着とありますから、これでは三十分も延着したわけで、その後ようすを見るに、ドウもイギリスの汽車は、よく平気で延着をやるようです。よくこんな真似をして、どこからも文句が出ないものだと、私は心からイギリス人の偉大なる寛容性に感嘆しつつある次第です。

 クルーは人口五、六万の小都会で、ロンドンから来てみると、なるほどいかにも田舎臭い感じがしました。とにもかくにも、駅前で一台のタクシーをやとい、二階建のちっぽけな家屋の並んだ、すこぶる人通りの少ない街を突っ走ると、まもなくクルー・サークルの所在地たる、マーケット街というのに来ました。「いよいよ来たナ!」と思うと、いささか心のときめくのを感じました。

 自動車は同街の百四十四番地と銘打った家の前に停まりました。すぐに車の音を聞きつけて、五十余歳の黒衣の婦人が、ドアを開けてくれましたが、それはかねて写真で見覚えのある、バックストン夫人でした。「フムなるほどこれだナ!」と、私は心の裏で叫びました。

 街道に面した狭い応接間に通されて、待つ間ほどなく、ホープ氏が現れました。見たところ六十才ぐらいの好々爺で、これもかねて写真でおなじみの顔でした。初対面の挨拶もそこそこに、私はさっそく来意を告げました。----

「私の同行者の久米さんは、この五時二十分の汽車でロンドンへ引き返したいのですが、一つ大急ぎで撮影をお願いできませんか。もっとも私のほうは別に急ぐ必要はありません。場合によっては、一晩クルーに泊まってもかまいません」

「イヤ充分間に合いますヨ」

と、ホープ氏は落ち着いたもので、

「あなたのも一緒に撮ってしまいましょう。写真の乾板はロンドンからご持参でしょうナ?」

「ええ持参しました。これです……」

 私はさっそくカバンから、持参の乾板二ダースを取り出しました。

 クルー・サークルが写真撮影に関して執っている方法は、私の『講座』にも紹介してありますが、実際やるところをみると、思ったよりも一層無雑作で、まったく手間も隙もかかりません。まず乾板を磁化《マグネタイズ》するのだと言って、封のまま右の乾板全部を卓上に置き、その上にわれわれ三人、ならびにホープ氏と、バックストン夫人と、総計五人で手を載せます。やがてホープ氏は瞑目して、極めて短い祈りをささげ、精神を統一しますが、これに要する時間は、全体でやっと五分ぐらいのものです。

「さあこれで仕度はできました。誰か一人こちらの暗室に入って、乾板を取枠にいれてください」

 そうホープ氏が促しますので、若い久米さんが(平八郎氏)がまずその役目を勤めることになり、さっそく暗室にはいって、持参の乾板二枚を取枠におさめましたが、無論右の取枠は充分綿密にしらべた上、乾板には鉛筆で記号を付けました。

 私の分は私自身で手を下しました。

 それが終わって、いよいよ久米氏父子三人を撮影する段取りになりましたが、イヤ万事がまったく無雑作極まるやり方で、何もかも開けっ放しのムキ出しで、詐術もへったくれもあったものではありません。いささか普通のヤリ方と異なる点は、ホープ氏と助手のバックストン夫人とが、暗箱の外部に片手をかけて、軽く精神を統一するような真似をちょっとやるだけの話です。側でその実況を目撃しつつあった私は、非常に安心しました。----

「イヤなかなか堂に入ったものだ。二人とも落ち着き払って、なんら不安や焦りの痕跡もない。これぐらい自信ができりゃアしめたものだ……」

 そんなことを考えているうちに、早くも二枚の乾板の撮影を終りましたので、入れかわって、今度は私がイスに腰をかけ、同じような方法で、これも二枚ほど続けて写してもらいました。

「さっそくこれから現像にかかりましょう。どなたかご一緒に暗室に来てください」

と、ホープ氏が申しますので、久米氏と私とが暗室へ入りましたが、それは階段下の物置を暗室に改造したもので、三人はいると、モウ身動きもできないぐらいです。ともかく赤ランプの下で、四枚の乾板に現像液を注いでみると、久米氏のほうの一枚と、私のほうの一枚とに、おのおの心霊像《エキストラ》がはっきり現れてきたのにはびっくりしました。

「ヤア出た々々! エクトプラズムがどっさり見える! どっちの姿も婦人らしい……」

 そんなことを言いながら、私たちが暗室から出てきますと、室外で待っていた久米氏も目を丸くして、水だらけの乾板を手に取って、しきりにすかして見るのでした。

 私たちがホープ氏のところにいたのは、前後ようやく一時間ほどでした。久米氏父子は、午後五時二十分の汽車でロンドンに帰るために、また私は行き当りばったりの汽車で、マンチェスターのオーテン氏を訪問するために、まもなくそこを辞して、再びタクシーで停車場へ急ぎました。

 ホープ氏からいよいよ出来上った写真を受け取ったのは、それから四、五日後のことで、その時の手紙に

「もし心霊像が誰であるかお判りでしたら、どうかその旨をご通知ください」

との注文が書いてありました。

 さて受け取った写真を手にとって熟視しますと、私の方には、一人の中年の日本婦人の顔が、はっきり写っているほかに、モウ一つ不鮮明な若い女の顔が、横向きに現れていました。が、私にはそれら二つの顔が、誰の顔であるかを充分につきとめることができません。この点すこぶる物足りない感じもしますが、他日帰国した時に誰かに見せたら、あるいは心当たりができるかも知れません。クルー・サークルの写真には、これまでに、そんな実例がしばしばあったようですから……。

 私の心霊写真が、少なくとも現在の所では、いささか物足らぬものであったのに対し、久米さんのほうの心霊像《エキストラ》には、立派な心当たりがありました。これに関しては、非常に意義深長なる一場《いちじょう》の物語がからんでいるのですが、それは個人の私事に関係していますので、遺憾ながら、当分私は発表の自由をもちません。

 クルー・サークルについての私の実験は、なおいまだその途中にありまして、今後なるべく機会を見つけて、再三調査を進めたいと考えていますが、とにかく、彼らが純正無二の心霊写真家であることに関しては、そこに一点疑義を挿む余地のないことは、極めて明白です。

(三・九・六 ハムステッドの仮住まいにて)


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