心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('01.07.16登録)
第八信 ロンドン雑記(5)
マゴツキ振り
曲がりなりにも、ドウやら自分の住居が定まり、いくぶんロンドン生活が板についた形になるにつれて、私の心霊行脚熱は、日ごとに熱さを増してきました。たしか八月二十六日(日曜)の朝でした。新聞を見ると宿から程遠からぬケンティッシ・タウンの『スピリチュアリスト同盟教会《Spiritualist Alliance》』で、午後七時から日曜の例会が開かれる----との広告が出ていました。どんなことをやるか、いっぺん様子を見ておこうという考えから、青柳さんを道案内にして、夕方から例のバスで出かけてみると、その付近はロンドンの場末で、あまり品のよい所ではありません。二、三度道を聞いて、ようやく捜し当てたのが、いわゆるハイゲート街五番地の『スピリチュアリスト同盟教会』です。二百人ぐらい入れる広間で、正面が一段高い演壇となり、机やピアノなどの配置がよろしくあって、割合にこざっぱりしています。私たちは、入口のところに控えた一人の婦人から、賛美歌集を貸し与えられ、しかるべき座席につきましたが、実際の会衆は男女とりまぜて三、四十人ぐらいに過ぎませんでした。 やがて賛美歌の合唱に続いて、ウッドコックという人の講演。こいつが鼻声で一時間ばかり聴者を悩ませた後で、キングという若者が現れて、聴衆に向かって霊視の実験をやりました。死者の人相描写《description》、ならびに死者からの通信伝達《message》です。それを十人あまりの聴衆に試みたうえで、最後にまた賛美歌で閉会という手順。すっかり済んだのは、夜の十時頃でもあったでしょう。 この種の会合に出るのは、今日が初めてでもあり、私たちはさっぱり勝手が分からず、ことに会の終わりに近づいた時に、小さなザルを回して寄付金集めをやられた時は、すこぶる異様に感じたのでしたが、その後ちょいちょい場数を踏んでみると、大小、広狭の差こそあれ、いずれも似たり寄ったりのやり方で、これがいわゆるイギリス風というものであったのでした。だいたい普通のキリスト教会から型を学び、これに多少の新味を加えた折衷的な方法で、保守的気風の濃厚な英国としては、まったく妥当なところでしょうが、他国、ことに日本のような国柄では、とうていこのまま鵜呑みにするわけにはいかない性質のものと思われました。 私が他の会衆と共に辞し去ろうとしていると、さっそく講演者のウッドコック氏につかまりました。先生聞き取りにくい声でしきりに話しかけます。---- 「私の心霊治療所は、ウッド・グリーンの一四八番地にあります。私のお目にかけたいと思うのは、霊界の指示に従って製作した、一種の電磁気医療器機で、特に眼の治療に不思議なききめを発揮します。失明者や、ソコヒ患者がドシドシ治るのです。ぜひ一度見学に来てください」 そう言って詳しく所番地を知らせてくれたので、拒むわけにも行かず、それなら明晩の午後七時にお邪魔をしましょうと約束をしてしまいました。 すると、この教会の世話係のスメッドレー夫人が、また黙って引っ込んではいません。---- 「この教会の会長は、心霊家として有名な老オスボルン氏でございます。この三十日の午後七時には、拙宅で故文豪リイ・ハントに関する同氏の講演がございますが、実は拙宅は約百年前、文豪リイ・ハント氏の住宅でありまして、当時の有名な文学者、詩人たちの入り浸りの場所だったのです。シェリー(Percy Bysshe Shelley)も、キーツ(John Keats)も、バイロン(George Gordon Byron)も、チャールス・ラム(Charles Lamb)も、皆来訪者だったのです。私たちは偶然にも、三年前にそこに引っ越してきましたが、近ごろリイ・ハント夫妻からの霊界通信に接し、百年前の事情がすっかり判りかけて来たのでございます。ぜひ三十日の晩にはお出かけください」 かなり面白そうな話なので、私はこれにも承諾の旨を答えてしまいました。 「先生なかなかモテますナ」と、帰り道に青柳さんは私の顔を見て言いました。「そんな具合に進むと、今に忙しくて目が回りますヨ」 「小手しらべに、こんな不景気なところからはじめてみるサ。最初から桧舞台に乗り出すとまごつくからネ」 実際私は、自分の練習台にするつもりで、この種の訪問を開始したのでしたが、後になってみると、果たしてこれは私の予想を裏切りませんでした。再三マゴマゴしているうちに、だんだん勝手が判ってきて、「何だい、ロンドンのやり方はこんなものかい」という気になってくるのでした。百聞は一見にしかずは、外国旅行において、特に痛切に感じさせられます。 明けて八月の二十七日----約束に従って、今日は単身でバスに乗って、ウッド・グリーンに出かけましたが、それが案外遠方の場末であったのには驚きました。東京ならば赤羽か、板橋付近とでもいったところです。それでもドウやら指定の家をさがしあてて案内を頼むと、果たして昨日のウッド・コック氏が待っていて、二階の客間に導かれました。二言三言しゃべっているうちに、やがてドヤドヤと、三人の来訪者が室内に入ってきました。紹介されてみると、それらはスイスの心霊家で、私と同様、例の医療機械の見学のために来訪したのでした。 「私はアッシマンというものです」と、その中の一人が私に名刺をくれました。「私はスイス人ですが、この十数年来英国に帰化して船舶業を営《いとな》むかたわら、心霊問題に没頭し、グレーター・ワールドという週刊新聞を刊行しています。本日日本のスピリチュアリストにお目にかかれたのはとても嬉しいことでした。そのうちぜひ拙宅へもおいでください」 この人もさっそく私を引っ張りにかかりました。そんなに引っ張りたいならいくらでも引っ張らせてやる。何でも練習だ。……という腹があるものですから、私は強いて拒みもしませんでした。すると先生すぐにたたみかけて、 「ではこの三十一日の晩に、拙宅へおいでください。自動車を差し向けますから」 という、のッぴきならぬ談判です。 「ではそういうことにお願いしましょう」 と、私はまた新しい約束をしてしまいました。 まもなく私たちは隣室に入って、問題の医療器機をみましたが、それは一見、大型の幻灯機械と言ったようなもので、磁気を通すしかけのカーボン電灯を、色ガラスのメガネ越しに覗く仕掛けに作ったもので、現に一人の中老の婦人患者が、ソコヒの治療を行いつつありました。最近十数年間の治療の結果からすれば、よほど顕著な成績を挙げつつあることに、疑問の余地はないようですが、どうしてこんな簡単なしかけのものが、そういう効果を奏するのか、理論的な説明は、少しもついていないようでした。---- 「霊界から、これこれの装置にせよと命令されたとおり、何度も何度もやり直しをして、初めて完成したもので、われわれはただ機械的に仕事を運んだだけです。その理由は、今のところは、われわれも十分判りかねます」 当事者のウッド・コック氏は、こんなことを述べるのでした。その使用法なども、いちいち各患者について霊示を仰ぐ必要があるらしく、これが進んで一般向きの医療器機となるまでには、まだまだ五年や十年はかかるものと見受けられました。 一時間ばかり説明を聞いたり、使用法を見たりして、再び客間に戻り、葡萄酒をごちそうにあずかった上で、アッシマン氏などと共に辞去したのは、午後の十時頃でした。帰途私は、同氏の自動車で、ハムステッドの宿まで送りとどけてもらい、バスで夜道をまごまごする苦労をまぬかれたのは、まったく私にとっての大景品でした。 翌二十九日の午後十一時には、職業心霊家として、ロンドンで相当名の売れている、ヴァウト・ピーター氏を訪問しました。先生なかなかの愛書家で、シェークスピアの原版などを蔵し、人柄も温厚かつ誠実で、はなはだ当たりのよい人物でしたが、その霊能には、深く感心するわけにはまいりませんでした。そのやり方は布で両目を覆い、椅子にもたれたまま入神状態に入り、私の背後に見えると称する霊魂の取り次ぎをするもので、西洋では一番ありふれたものなのです。やり方が平凡か否かは、もとより問題になりません。要はその内容・価値如何にあるのですが、残念ながら、その一時間にわたる入神談話は、あまり私の心を打つものではありませんでした。ことによると、外国人に対しては、十分な能力を発揮できないのかも知れません。参考までにその一部を挙げると、次のような事でした。---- 「あなたの背後には、古代の日本服を着た、泰然自若《たいぜんじじゃく》たる老人のスピリットが控えています。あなたの仕事は、このスピリットから大いに助けられている。何っ、そのスピリットの姓名とおっしゃるか……。それを名のるのはまだ早いと言われる。あなたの事業はまだまだ完成しない。仕事はこれからだ。ヨーロッパから日本へ帰ってからの話です。あなたの背後には、他にもたくさんのスピリットが控えている……」 ざっとこういった性質のもので、間違いとも、正確とも、どっちつかずの抽象的なものでした。同行の青柳氏に対しても、いろいろのことを述べましたが、それも深刻味に欠けているようでした。 その翌日三十日の午後七時には、スメッドレー婦人との約束を守って、ハイゲート・ロードの十三番地……例の百年前に、文豪リイ・ハントの住宅であったというところに単独で出かけます。ここも相当わかりにくい場末の裏町で、四、五回通行人にたずねて、やっと探し当てました。モルティマー・テレエス第十三号などというと、いかにも堂々と聞こえますが、現在では一向にふるわない旧式の建物です。しかし百年前、この辺がかなりさびれた村だった頃に、病詩人のキーツが、ほど遠からぬ、かのハムステッドの住宅から、散歩がてらに出かけてきた建物かと思うと、なにやら懐かしい気分がして、立ち止まってあたりを見回したのでした。 スメッドレー夫人に案内されて客間に通ると、そこは小集会に適したように改造され、数十脚の椅子が並べてありました。 「オスボルンさんも、先ほどからあなたのお出でをお待ちしております。どうぞお掛け下さい」 言われるままに、とある安楽椅子に座っていると、すぐに一人の柔和な顔つきの白髪の老人が現れて、固く握手しました。---- 「私がオスボルンです。よくおいで下さいました。まだ定刻までには三十分の余裕がありますから、それまでゆっくりお話を致しましょう」 私は主として、最近に起こった日本の心霊現象を話し、またクルーで撮った心霊写真を、カバンから出して見せたりすると、オスボルン氏も喜んでその体験の数々を話し、死後六週間目に写したという亡夫人の心霊写真を、ポケットから出して、私にくれたりしました。さすがに小さいながらも、一つのスピリチュアリスト教会を率いる人物だけあって、学識経験共に敬服すべき点が少なくありませんでした。その後数回の会見を重ねているうちに、とうとうロンドンにおける私の親友の一人となり、それから面白い心霊現象があったら、通信の交換をする約束までしてしまいました。 そのうちボチボチ時間が来ると、男女とりまぜて二十人あまりの人が集まったので、例の通り、型にはまった賛美歌合唱があり、つづいてオスボルン氏の、リイ・ハント夫妻の幽霊に関する霊的事実の物語がありましたが、内容が面白く非常に参加者を楽しませました。---- 「リイ・ハントの日記によると、病詩人のキーツの病気が重くなったときには、三週間ばかり、この家屋の二階の寝室に寝ていて、ハント夫妻から、手厚い介抱を受けたことが書いてあります。ハント夫妻は、ほんとうに当時の詩人、画家たちの熱心な保護者であり、世話役であり、キーツを世間に紹介したのも、ハントのしたことだったのです。それがことごとくこの場所における出来事だったのですから、この家屋と、当時の文壇との因縁関係は深いのです。リイ・ハント夫妻の霊魂が、今日なおここに出没するのも無理のないはずです。現在この家屋に住んでおられるスメッドレー夫人は、熱心なスピリチュアリストであり、そしてその愛娘----目の前にいるキング夫人は、優れた霊視能力の持ち主ですので、それ以来三年、霊界からの通信が、しきりに同夫人を通じて届いています。ハント自身も、またその夫人も、しょっちゅう姿を見せます。言わばこの家屋は、一つの幽霊屋敷ですが、他の多くの幽霊屋敷とは異なり、はなはだ無害な、はなはだ興味深い幽霊屋敷です」 この講話が済むと、今度はキング夫人の入信講演がありました。夫人はやっと二十三、四才。産まれたばかりの赤ん坊の可愛いお母さんですが、その霊能は遺伝的なもので、瞬間的に入信して、男子そっくりの声音で、堂々と講演を始めます。しかもその内容が、なかなか立派で、180cmもあるヒゲ面の男を後ずさらせる器量があるのですから、私もいささか驚かされました。オスボルン老人が激賞して、「入神講演者として、たしかに五本の指に入る仲間の一人だ」と言ったのは、必ずしも誉めすぎではないようでした。 約一時間たらずでそれが済むと、今度はオスボルン老人、私に向かって「なにか日本語で少しばかり挨拶を頼みます」との事なのです。全然予期していないことなのでちょっと弱りましたが、むげに断るわけにもいかず、やむを得ず、十分間ばかり感想を述べて引き下がろうとすると、「ついでに、今の演説を英語に訳してくれないか」との注文。これはいよいよ驚いたものの、なにくそッと度胸をきめて、まがりなりにも英語訳を試みましたが、いずれも同情心にあふれる人たちのこととて、大いに喝采を浴びせてくれました。内容はホンの下らないもので、英文学者としての自分と、心霊学者としての自分との、二つの立場から、リイ・ハント、ならびにその時代の文豪たちに関して、思いついたままの感想を述べたに過ぎませんでした。渡英後、私がいつもありがたいと感ずるのは、ひととおり英文学をかじっているおかげで、いざとなると、その知識を持ち出す都合の良さがあることで、英国人を喜ばせるには、ドーもこういうやり方が一番良いように感じられました。 ともかく、これらが私の英国における処女講演なので、私だけには非常に意義あるものでした。「なぁに、英語の講演だって、やってやれないことはない」という感じが、胸の奥の方に宿っただけの効果は、確かにあったのでした。 その翌三十一日には、私に二つの約束がありました。一つは心霊大学の副総裁をつとめている、ド・クレスピニィ夫人との約束で、午後四時からお茶の会へ来てくれとの注文。も一つは、前にも書いたとおり、スイスの心霊家アッシマン氏との約束で、午後六時に、自動車を同夫人のところに回すことにしておきました。どちらも、今日はごちそうばかりで、大変にありがたい話のように聞こえますが、お上りさんには、これが却って一つの苦痛で、「うまく話が持ってくれればいいが……」というような、軽い心配が胸の奥にあるのでした。 定刻を見計らった上で、私はタクシーでアーティラリー・マンションのド・クレスピニィ夫人を訪れました。夫人のことは、大体紹介者のガウ氏から聞いていましたが、それによれば、亡父は有名な海軍の提督、また亡夫は海軍の将校だそうで、今は静かに一人で暮らしながら、心霊問題に関係するかたわら、文学方面にも手を染めている人らしいのです。「ハテどんな人かしら」心の中にいろいろ想像をめぐらしながら、いよいよ会ってみましたら、年齢はすでに六十ぐらいと思われる、きわめて上品な老婦人で、そしてたった一人住まいでありながら、なかなか立派なフラットを占領して、ノンキに暮らしているのでした。座にはその友達らしい一人の老婦人もいましたが、共にはなはだ愛想良く、いっしょに歓迎してくれました。話はそれからそれへと、自然心霊問題に移り、中でもリイド夫人に関するクレスピニィ夫人の実験談は、非常に参考になりました。 「リイド夫人の実験には、私、何十回のぞんだか知れませんが、いつも見事な成績でございました。死後の生存と言うことについては、もはや一点の疑いを差し挟む余地がありません。ご帰国の際は、アメリカをご通過ですか----それならぜひ立ち寄って実験なさいませ。何なら私から紹介状を差し上げても宜しゅうございます」 いかにも物静かに、そして親切に打ち解けて話してくれるのでした。それから心霊大学の話も出ました。 「まだそこへお出でになりませんのですか……。それなら、来週の月曜の午後十一時にお出でなさいませんか。ちょうど私が参る日でございますから、ご案内をいたしましょう」 「それは何より好都合です。ぜひそういうことにお願いいたします」 ここでもまた訪問の約束ができてしまいました。たとえば糸をたぐるようなもので、それからそれへと、順次に引っかかりができるのが、自分ながらおかしいようでした。 とうとう二時間あまり話し込んで別れを告げると、ちょうど良い具合に、アッシマン氏が、向こうから自動車で、門前まで迎えに来てくれたところでした。 早速それに乗っかって、折から降り出した小雨を物ともせず、同氏の邸宅へ向かいましたが、そこは案外に遠い遠いロンドンの郊外、私の住んでいるハムステッドから、さらに8kmほども北寄りの田園住宅地で、自動車が相当の速度で走ったのにもかかわらず、ざっと一時間もかかりました。 さっそく客間へ案内されて、奥さんにも引き会わされました。家族のものが、いずれも生えヌキのロンドン子でないだけに、かえってお上りさんには、居心地がよいように感ぜられました。夫婦とも大の日本びいきで、日本の人情、風俗、歴史、伝説……手当たり次第に質問の矢を放ちます。なかなか忙しい目に遭わされました。 やがて食堂へ通ると、卓上には日本のお客さんを歓迎の意味で、菊の花をウンと活けてありました。これは非常にありがたかったのですが、同じく歓迎のつもりで、砂糖で煮詰めた、米の粥みたいな妙なものを食わしてもらったのは、すこぶる迷惑しました。半熟で、ドロドロしていて、イヤに甘ったるいのですから、まるで甘酒の化け物です。飯の炊き加減は、やはり日本に限るようで、こちらの米料理のごちそうは、よほど警戒を要します。先方では好意のつもりで、せっかくごちそうしてくれるのを、全く食べないわけにもいかず、ありがたいやら、迷惑やら、ほとほと困ってしまいます。こんな辛い目には、他でも二、三回遭わされました。 さいわい、甘酒の化け物に続いて現れたのが、チキンの丸煮であったので、ムシャムシャやりながら、スイスお国自慢の、芳醇な葡萄酒の大杯《たいはい》を傾け、やっと生き返った気がしました。 食後にはまた客間へ戻って、心霊談義に耽りましたが、それまでには、七歳になる娘さんが、すっかり私に馴れてしまい、チョコンと膝に座り込みました。そして眠くなった時には、「おやすみなさい」と言って、かわいい唇で、私の頬にキスをしました。私も多少マゴつき気味ながら、キスを返してやりました。イヤハヤ東洋のお上りさん、重ね重ね戸惑うことばかり多いので、大弱りのていたらくです。 再び自動車で、夜の田舎道を送られて、ハムステッドの宿へ戻ったのは、モウかれこれ十二時近い頃でした。 八月末における、私のロンドンまごつきぶりは、ざっとかくのとおり……。こんな事をやっているうちに、いくらかずつは勝手が判って来て、一種のクソ度胸ができていくところ、自分ながらおかしいようでした。(三・十・十五) |