心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('01.12.20登録)
第十信 欧州大陸の一角(1)
パリのお上りさん
暇なようで忙しいのが、私のロンドンの生活で、どうもまとまった時間が取りにくくて困りました。なるべく日本の事情を、外国に知らせたい心づもりがあると同時に、またなるべく先方の内部事情をも、誤りなく探りたくもあり、その結果は講演となり、実験となり、訪問となり、見学となり、手紙の往復となり、それら全部をたった一人の手でやりくりするのですから、ずいぶん骨が折れます。 「この次にこちらへ来る時には、英語の達者な、しっかりした秘書なしには、まっぴらゴメンだ!」 時には、そうしたため息をもらしたのでした。いつまでたっても際限のない話なので、とにかく私は、十月の中旬を期して、ひとまず全ての交渉を打ち切り、いわば息抜きのつもりで、簡単な大陸めぐりを試みることにしました。衣服は着のみ着のまま、手にぶらさげたのは小型のカバン一つ、途中一切の出入往来は、トマス・クック社に頼んで連絡切符にしてもらい、できるだけ涼しい顔をして、旅行を続けられるような段取りをしました。 「いよいよこれで自由の身体になった。気楽にしてやれ」 もともと気楽にするには、案外都合よくできている人間なので、十月二十一日の朝は、時刻を見計らってベッドを離れ、宿の奥さんが運んできた、一杯の紅茶を啜《すす》ると同時に、カバンをブラさげて、ハムステッドのバスの終点に行ってみましたが、午前八時過ぎだというのに車一台、車掌一人見えません。 「なぁーんだ、今日は日曜か! 何というナマケ者の揃っている土地柄だろう! 仕方がない、タクシーを奮発してやれ」 幸いタクシーの方は、三〜四台待っていましたので、その一台を呼んで、ヴィクトリア停車場へと急がせました。日曜の朝ときては、市内はまるきり人間の往来が止まったようなもので、自動車は気持ちよく走る走る! 全く無人地帯を行くかの観がありました。 フォークストン行きの大陸連絡列車が、ヴィクトリアを出たのは正に午前九時。途中どこにも停まらぬので、これも気持ちよく、美しい田園の間を傍若無人に進みました。イギリスへ最初着いた時は、ドーバーから東寄りの海岸線を通りましたが、今度は西寄りの地面の上で、森と、草原と、田園住宅とが錯綜する、イギリス特有の風光を、思う存分に眺めることができました。 フォークストンの海陸《かいりく》の連絡は、なかなかよく出来ていて、乗り換えやら、税関の検査やらもすらすらとすみ、乗客一同が甲板の控え室に席を降ろしたと思った時には、モウ船は動き出していました。 そこまでは非常にうまく行ったのですが、しばらく進んだ時に、雨まじりの暴風が急に襲来したので、船は相当に揺れ出し、婦人客の大部分は、洗面器を抱えてゲーゲーと色気のないマネを始めました。実を言うと、私もあまり良い気持ちはしなかったのですが、一生懸命に静座の姿勢をとって、ドウやら洗面器の厄介にだけはなりませんでした。しかし、とても甲板へ出て飛沫《しぶき》を浴び、海峡の大観を隅々まで知り尽くそうというほどの元気はありませんでした。 船がブーロンの港に入ったのは、0時半頃だったでしょうか。ここの連絡も非常に良くできていて、桟橋からすぐにパリ行きの汽車に乗り込むのでした。ブーロンとフォークストンとは、海上わずかに二十海里(約37km)余、全く目と鼻の先にありながら、モウここでは何もかもフランス式で、物売りまでが、語尾の上がったフランス語を使っているのが、ちょうど回り舞台で芝居の場面が急に変ったような感じを与えるのでした。 まもなく汽車は海岸づたいに、南へ南へと走り出しましたが、フランスの田舎の様子がまた自由で、気まぐれで、野趣に富んでいて、型にはまったイギリスの風光に飽きた眼に、大きな癒しを与えたのでした。 「こんなところにも、両国の国民性が良く現れているから面白い。不思議なものだ」 窓にもたれて、私は飽きることなく、往来するあちこちの風光に眺め入りました。 アツベヴイユ、アミエンなどという、以前より聞き覚えのある駅を通過して、汽車がパリの北停車場についたのは、正に午後の四時五分、夕暮れの色はすでに全市をとざしかけていました。 私が手にカバンをブラさげて、ノソノソ、プラットホームを歩いていくと、たちまちクック社の徽章《きしょう》をつけた駅の見張人と、キチンと紳士らしい服装をした同社の老案内人とが、先方から私を呼びかけました。 「ミスタァ・アサノ……?」 こんな場合には、われわれ天孫民族の顔は、非常によい目印を彼らに与えて便利です。その代わり、この顔では、とても秘密探偵の仕事などはつとまりそうもありません。 私が笑いながら、そのアサノである旨を答えると、老案内人は達者な英語で、いろいろ私に話しかけました。 「あなたのお宿は、ルーヴルという大きなホテルです。パリの中心に近いところですから、どこへお出かけになるのにも便利です。クック社への距離ですか? そうですねぇ、徒歩で二十分、自動車で五分というところでしょう。----これからご一緒に私がお送りします」 さっそく出口で、一台の自動車を呼んで私をのせ、自分も同乗して、いろいろと説明するのですが、その風采《ふうさい》の立派なのと、英語の達者なのとは、旅行案内所の従業員などにしておくのは、まったくもったいないようでした。 「どうしてこんな上品な老人が、こんな下働きの仕事をしているんだろう」 余計な話ですが、私は心ひそかにそんな事を考えつつあったのでした。その日は、特に立ち入った話もせずに、ホテルの玄関でそのまま老人と別れましたが、四日後に至って、初めてその素性が判って、私はアッとびっくりしたのでした。その次第は、いずれ先で書くことにして、ここではしばらくお預かりに致します。 さて二十一日の夕刻に『ルーヴル・ホテル」に着き、二十五日の午前十時に、同ホテルを辞するまで、まるまる三日間の私のパリにおける行動は、ここにいちいち書いている暇もなく、またそれほどの価値もありません。後の思い出に、ただ要点のみを略記しましょう。 二十二日午前は、クック社のパリ市内観光コースに加わり、すっかりお上りさんぶりを発揮しました。通訳付きの大型自動車で、マデレーン寺院から出発して、凱旋門、シャンゼリゼの大通り、トロカデロエ、エッフェル塔、ナポレオンの墓のあるインヴァリッドなどなど、グルグル巡りを、二時間ほどもやっただけの話ですから、詳しいことはさっぱり判りません。通ってから案内を観て、「なぁーるほど」と、感心するぐらいのところです。ただおかしかったのは、その団体に、意外にも一人の有名な日本人が乗り合わせていたことで、最初私は、「スペイン人か何かかしら」ぐらいに考え、言葉もかけずにいましたが、トロカデロで下車した際、突然先方から、日本語で話しかけて、私を驚かせました。 「なかなか寒いですね」 「日本のお方でしたか? 大変失礼しました。お一人ですか?」 「イヤ家族が買い物に出かけましたから、私一人で観光しているところで……」 「私もご同様で……。どちらからお出でです?」 「長い間コンスタンチノープルへ行っておりましたが、これから国に戻るところです」 「コンスタンチノープル? そうすると、そこの大使はたしか小幡さんでしたね」 「実は私がその小幡で……」 私はここで腹をかかえて大笑いをしました。 「小幡さんなら、間接にはよくお噂を伺っていましたヨ。あなたのご存じの芳沢君、鈴木君、それから松井君……彼らは皆私の友人なものですから……。私は先刻、うしろからあなたを見て、スペイン人かと思っていました」 「これでもスペイン人ぐらいには通用しますかしら」 小幡さんも笑いました。そして一緒にトロカデロのバーで、シャンパンの立ち飲みをやって雑話を交えました。 その日の午後にも、私は引き続いて市内観光グループに加わり、午前中に見逃した東北方面、ノートルダム寺院とか、ペエル・ラシエースの墓地とかを巡りましたが、四時頃から土砂降りの大雨となり、ほうほうの体《てい》で引きあげました。夜は夜で、かろうじて宿で一枚の切符を世話してもらい、オペラ座のワーグナー物ものぞきましたが、歌や音楽をききわける耳を持ち合わせないお上りさんには、あまり面白い仕事ではありませんでした。 「市内見物は今日一日で充分だ。明日は代表的な市外の名所でものぞいてやるか」 そんなことを考えて、ぐったりくたびれた身体をベッドに横たえました。 翌二十三日の午前十一時、私はまたクック社を訪れて、ヴェルサイユ宮殿行きの団体に加わりましたが、こいつは大当たりでした。だいいち天気がカラリと晴れ上がったところへ持ってきて、美しく紅葉せる森をくぐり、きれいに澄み切ったセーヌ川に沿い、坦々たる大道をドライブするのですから、気持ちの良くないはずがありません。おまけに先方には、フランスの歴史とは切っても切れない、ヴェルサイユ宮殿だの、ナポレオンとジョセフィンとに関連するマルメゾンだのという大プレゼントが控えているのですから、なるほど世界の見物人を、ここに引き寄せるはずだとうなづかれました。過去のフランス国民は、これらに対して、ずいぶん高価な犠牲を払いもしたでしょうが、現在のフランス国民は、ドウやらそれでメシを食っていると言った按配《あんばい》です。 「ずいぶん元手がかかっているのだもの、ちっとは利息も付かなくちゃ」 現在のフランス国民には、そう言った考えが、たしかにあるようです。各国ともそれぞれ異なった事情があるのですから、一概に他の為すところをけなすこともできませんが、同時にまたそのマネをする必要もなさそうです。 とにかく二十三日は、終日ヴェルサイユ方面でつぶれてしまい、翌二十四日、パリの滞在日数は、今日一日限りとなりましたので、私はなるべく時間を利用するつもりで、午前中は、急いですぐ近くのルーヴルに飛び込みましたが、十六世紀のフランシス一世から始まり、十九世紀後半のナポレオン三世まで、三百年がかりで造り上げた建物の、馬鹿に広いのと、馬鹿に贅沢なのと、馬鹿に間の抜けているのとには、ただただ呆れるばかり。その広いところへ持ってきて、やたらに並べ立てた著名な彫刻、絵画、その他の点数の多いことも、またいささか困りもので、とてもさっぱりした観賞気分などは浮かんできません。 「いくらでも勝手に並べ立てるがいい。誰がいちいち観て歩けるものか!」 私はさっさと素通りをしましたが、それでも二時間あまり費やしました。ルーヴルで面白いのは、何十人もの小画家が、しきりに名画の模写をしていることで、時にはまるで原画そっくりのものを造り上げているのが、ちょいちょい見受けられました。 「ここでもフランス人は、過去に卸《おろ》した資本で飯を食っているナ」 私はそう考える時に、微笑を禁じ得ませんでした。 |