心霊学研究所
kaleidoscope
('00.05.09作成)

偽善のススメ----野村秋介の生きざまに学ぶ


 

 スピリチュアリズムの勉強などをしていて、いろいろな人と話していると、(特にニューエイジ系の本を好んで読む人に多いのですが)あまりにも善人過ぎる人(^^;に会うことがあります。

 いや、善人であることがいけないわけではありません。ただ、あまりにナイーブで、視野が狭すぎると感じるんですね。それで、なにか善いことをしても、それが「本当に心からのもの」で「一点の私利私欲がない」全面的に清らかな状態でないと、それは愛の行為ではなかったと思い込んで苦しんでしまうという……。ほとんど笑い話ですが、実際にそういうドツボにはまっている人が多い。

 霊的知識というのは、人間を解放し、幸せにするものでなければならないと思います。宗教の歴史を観てみると、キリスト教はユダヤ教のがんじがらめの戒律から人間を解放しましたし、唯物主義(これも実は一種の宗教です)はキリスト教のドグマから、スピリチュアリズムは唯物主義の“死の恐怖”と“利己主義”から、人間を解放しつつあります。

 が、スピリチュアリズムの流れから出てきたはずのニューエイジ思想が、その薄っぺらさ、包容力の無さゆえに、新たな束縛、苦しみを産み出していると、僕は考えています。愛とか善意を信じることが悪いわけではなくて、それを考察するにあたって、何か欠落しているものがあるのではないかと……。

 たとえばマザー・テレサは、優しい笑顔とは裏腹に、ニューエイジャー的なナイーブさとは正反対の強さを持っています。一例を挙げると、彼女は自分のことを金の亡者だと言うぐらい、いつでも何でもカネ、カネ、カネと言い、要求できるところからはもれなく要求していたそうです。それはもちろん(私利私欲ではなく)ご自身の活動を維持するために必要だったからです。

 また作家の曽野綾子さんも、NGOに資金援助する募金活動をしていることは有名ですが、援助する相手(その多くはボランティアです)を徹底的に疑い、監視する様子が著書に書かれています。それはもちろん、自分たちに寄せられた善意の寄付金が、間違いなく正しく使われるためです。

 無自覚に善意を口にする人たちには、そういう発想、そういう行動は出来ないでしょう。善意のボランティアを疑ったり、お金を要求するような行為は“愛の行為”ではないからです。上っ面だけのいい子ちゃんな雰囲気に酔っているだけで、時には偽悪的になる覚悟など無いのですから。当然、自分が偽善者かも知れないなどとは恐くて考えられません。善悪の片面しか見ない、考えないから、どんどん薄っぺらく、ひ弱になっていきます。

 シルバーバーチは言います。「利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません」(『シルバー・バーチの霊訓(5)』近藤千雄訳・潮文社刊)と。しょせん善と偽善も紙一重、不完全なこの世の人間が完全な善を行おうなどと思うところに無理があります。だから、僕はつねづね「これは偽善だ→偽善でも何もしないよりはマシだ→偽善は善だ」という悪の三段論法を提唱しているのですが(^^;、要は、自分は心からの善人だなどと(それこそ傲慢なことを)思い込みたがらないことが必要ではないでしょうか。

 「こんなのは偽善だ」と思っていても「たとえ偽善でも、自分はこうしたいからするんだ。徳を積む? その考え方こそ不純じゃないか」と言い切って行動できれば、それこそ却って本当の無私の行為かなと思います。

 で、ちょっと思い出したのが、僕の尊敬する野村秋介さんの言葉です。今回槍玉に挙げたニューエイジャーのナイーブさとは、全く正反対の人といえるでしょう。
(野村秋介さんは、新右翼の論理的指導者とも言われた人です。以下に引用した著書の出版直前、朝日新聞社に乗り込み、短銃で自決しました。……知らない人もいるでしょうから念のため)

 

 僕はよくこんな例を挙げる。ラッシュアワーで、プラットホームにたくさんの人がいて、大混雑しているときに、ふらっと倒れるような少女がいたら、起こさないどころか、逆に腹を立てる人が大半だと思う。誰も起こさない。皆、急いでいるし、起こしていると電車に乗り遅れてしまう。でも、僕は起こす。僕は絶対に起こしてやる。そうして、「ケガはなかったか」くらいの声は掛ける。そうすると傍の者は、僕がその倒れた少女のために起こしたんだと錯覚する。
 でも、違う。僕は、僕自身のために起こしたんだ。僕がもし、その倒れている少女を知ってて、知らん振りで通り過ぎてしまったら、僕は必ずそのことを、僕の心の中で重みに思う。もちろん、思わない人もたくさんいるだろうけれど、僕は思う。だから、僕が倒れている少女を起こした行為は、僕自身のためにやったことだったのが、結局は少女のためにもなったという、ただ、それだけのことなんだ。
 (中略)もちろん、僕だって、死ぬときは、「天皇陛下万歳」と言って死ぬだろう。(中略)でも、それは、天皇陛下のためじゃない。自分自身のためだ。僕が民族派として生きてる矜持
《きょうじ》、誇り、そうしたものを、卑劣なことで穢したくないためなんだと思う。
(『さらば群青』野村秋介著・二十一世紀書院刊 P.295-296)

 

 地球上の人類が全員善人になったり、一部のオカルト好きが夢想するように一夜にして地球全体の霊性が一段上がったりなどということはあり得ないのですから、ここに挙げたような“自分のための善行のすすめ”こそ、世の中を良くする一番の近道ではないか? そう、僕は思うのです。(それに、行動さえしていれば、中身は後からついてくるということもありますしね)


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