前編をアップした後、Y塾と江原さんは既に決別しているとのご指摘をいただきました。調べてみたところ確かにそのようでしたが、論旨に変更の必要は無いと思いましたので、訂正せずに公開いたします。
さて、いくら僕が書いても、本当にあのマスコミで活躍している江原さんが、そんな人たちと仲間なのかと、信じられない人もいることでしょう。どうせ江原さんがちょっとお愛想言ったのを拡大解釈しているのではないかと……。そう考えるのも当然のことです。片やテレビ・雑誌などのマスコミ媒体に登場する有名人。対する僕は地方在住の単なる一サイト制作者。第三者として単純に考えれば、僕だってテレビに出ている人の方を信じます(^^;。
そこで参考資料として、ここにY塾の掲示板に江原さんが投稿した内容を、一部引用して紹介しようと思います。本来は全文転載したいところ(都合の良いところだけ抜き出したと思われるリスクを避けたいので)ですが、著作権法に触れるようなことをしては彼らと同じ穴のムジナですから(Y塾の掲示板に当サイトから無断全文転載されたことが何度かあります。彼らはそういうモラルも持ち合わせません)。
Y塾掲示板
http://www.simple-j.com/k-bbs4/kbbs.cgi?bn=284136
まずはY塾掲示板#0488[02/10/14<月>-02:58] の『私の感想』というタイトルの発言。江原啓之名義での投稿です。
第一印象
最初にこちらの掲示板を拝見したとき、なんとも温かな印象をもちました。
どのような、酷評があったとしても、真摯に対応し、その冷静さと誠実さに、とても心地よさを感じました。
まず、通信メッセージについて
はじめて、通信を読ませていただいたとき、とてもよい波動であると感じました。また内容においても温かみのある内容でいて、また納得させられる通信で、質の高いものであると感じました。
そして私の得ている通信ともかなり一致しているため、共感することがおおくありました。
しかし書き込ませていただく以上もう少し深く考察させていただかなければとも思い、失礼ながら少し霊的に調査させていただきました。
そのために、スピリチュアリズムの実践を第一にしている、経験豊な大御所霊能者3人とサニワ1人のご協力を得て、そして僭越ながら私の計5人により霊査ならびに分析をさせていただきました。
その結果、今は不安定(理由はのちほど)ながらも、高次からのメッセージを受けているとの結論にいたりました。
このような世界に多い思い込みによる一人芝居のメッセージではなく、確かに霊的世界よりの働きかけがある。ということを4人それぞれ霊能者が霊視。
また内容についても、歴史的通信そして過去日本で研究された通信なども参考にして、サニワが中心となり5人で分析し高次の働きがけがあると判断しました。
またこの場で明かす必要も無いので書きませんが、どのような霊からのメッセージであるかも確認いたしました。(勝手に調査してしまい、申し訳ありません。また霊能者ならびにサニワの名前もこの場では公表いたしません。ご了承ください。ご希望あればY塾さんには、お伝えいたします。)
掲示板という多くの人の目に触れる場所でY塾を支持するに当たって、相当慎重に検討したようです。協力者と共に総計5人の人間で、Y塾の霊界通信(いわゆるメッセージ)を検討するのはもちろん「霊査ならびに分析」したとのこと。もちろんこの時も、Y塾のサイトには神戸事件のことも堂々と載せられています。この5人全員とも酒鬼薔薇聖斗の少年Aは冤罪だと思っているのでしょうか? いずれにせよ、江原さんがこのようにY塾を高級霊界とつながっていると断言してしまったのは、前項で紹介した2ちゃんねるでの妄想的暴走行為をY塾が行った後の話です。「その時は良かったが後でおかしくなった」という言い逃れは出来ません。
同じ投稿で更にこんなことも言っています。
素晴らしい可能性をもっているY塾さん、また霊界から正しく働きかけられているY塾さん。
私は期待しています。こんな私ではたよりないですが、私にご協力できることがあれば、おっしゃってください。
なにかのお役に立てることもあるかもしれません。
これからの日本のスピリチュアリズムは調和が大切だと思います。
お互いがんばりましょう!
すると、全くの別人を事件の被害者の父親で実は真犯人の人物だと信じ込んで、その心情を切々と綴り続けたのも「霊界から正しく働きかけられている」結果だったのでしょうか? そんな人たちと協力していくつもりなんでしょうか? 彼らの行為に「調和」があるのでしょうか? 大いに疑問ですし、こんな人たちに頑張ってもらっては困りますね。
さて、当サイトの掲示板などに於いて、僕はなるべく江原さんのどこがおかしいのか、何が間違っているのか、理由を挙げて批判してきました。しかしそれを単なる“非難中傷”と言いがかりを付け、いきなりこんなことを言い始めます。Y塾掲示板の#500[02/10/20<日>-07:02]、『私の感想。その1』と題した投稿です。
そして、今後わかりませんが、非難中傷には熱心なのに、このように意見を述べましても何の反応も無いことに対しとても虚しく、ゆえに一人相撲と思ってしまうのです。
これに先立つ江原さんの発言で、僕や、心の道場さんへの反論(めいたもの?)があったようですが、反応が無いのも当然です。あんな他所の掲示板に書かれても僕は読んでいませんでしたし、心の道場さんはなおさらです。少なくとも僕は、あんなところで反論されているということを知らされていないわけで、知らないものに、どうやって“反応”しろと言うのでしょうか? しかも、論拠を挙げての批判さえ中傷と言った舌の根も乾かないうちに、心の道場さんについて、とんでもないことを言ってのけます。
神道系新興宗教の二代目教祖さんで霊能者
これは他人からこのように聞いたということにして書かれていますが、事実について何の注釈も無い以上、投稿者本人(つまり江原さん)に責任を帰すべき発言と考えてよいでしょう。これこそ酷い中傷で、実際の心の道場の代表者の方は、宗教とも精神世界とも何ら関わりの無い、普通の仕事を持って働いておられる一般人です。心の道場としての活動も、その仕事の収入から身銭を切ってやっておられます。
それを教祖などと言うなら、江原さんこそ「スピリチュアリズム研究所などと名乗っているが実態は新興宗教の教祖」と言われるべきでしょう。少なくとも、それで少なからぬ収入を得ているのは事実なんですから。
さて、相手のいない場所で一人相撲をとっていた江原さん。相手のいないところで反論するだけではなく、謙虚なフリするのも忘れないあたり、さすがの抜け目無さです。
私は本心から私を叩いたペーパーバーチ氏およびその掲示板賛同者、そして心の道場さんにも感謝しています。
なぜなら、そのおかげで多くの学びができたからです。
多くの支持を受けている反面叩いてくれる人がいてこそ、私が謙虚の大切さを改めて自戒することができるのですから。
謙虚の大切さを自戒したんだそうですが、この人にとっての謙虚って一体何だろうという発言が飛び出します。#0768-05[03/01/15<水>-05:11]『ぺー氏へ、私からの最後の言葉。』より。
童話
あるところに、とても寂しがりで、ひ弱で、ワガママな男の子がいました。
そのこのお友達に、とても力持ちの男の子がいました。
その力持ちの子は、いつもみんなの、荷物をもってあげて、とてもよろこばれていました。
寂しがりやで、ひ弱な男の子は、それが悔しくてなりませんでした。
どうにかして、自分がみんなから注目してもらえるか、必死に考えました。
そして、あることをしようと、たくらみました。
「あいつの悪口を言って、みんなから悪者にされれば、ぼくの、おかぶがあがる!」と。
「そして、なかまわれすれば、人気は、ぼくのものになる!」
よくじつから「力持ちの男の子が、きみの悪口を言っているよ!」とか
「あのこは、いやなやつなんだ!」といいふらしました。
そのことで、おともだちたちは、とても、いやな気持ちになりました。
それをしった、お世話やきの、優しい男の子が、みんなをあつめて、
話し合いました。すると、寂しがりやの、ひ弱な子がいいふらしたうそが、
ばれてしまいました。
そして、寂しがりやの男の子が、きらわれて、ますます寂しくなってしまいました。
それをかわいそうに思った、お世話やきの男の子が、みんなをあつめました。
そこで、悪口をいったことを、あやまるようにいいました。
さいしょは、もじもじしていた、寂しがりやな男の子も、やっと「ごめんね」といえました。
それを聞いた、力持ち名男の子が「いいよ」とこたえました。
そして「これからは、きみも、てつだっておくれ」といいました。
お世話やきな、優しい男の子や、そのほかの、おともだちも、
とてもうれしくなって「じゃあ!きょうは、みんなで、いっしょに、にもつをはこぼう」といいました。
みんなで、なかよく、にもつをはこんだら、寂しがりやな男の子も、とてもうれしくなりました。
そして、その日から、その男の子は、さみしくなくなりました。
おわり。
……一体これは何なんでしょう。相手を小馬鹿にして鬱憤《うっぷん》を晴らそうという、それ以外の意味が何か少しでもあると言い張るつもりなら教えて欲しいものです。ま、これでこの人の人間としての底の浅さがハッキリと分かりましたし、悔し紛れにこんな事を書いた時点で彼の負け。僕が小躍りして喜んだのは言うまでもありません。ついでに(飯沼さんが説得して出すのを止めさせたという)営業妨害だという内容証明も送ってくれれば、もっと良かったんですが。マスコミに持ち込めば、もっと多くの人にこの人たちのおかしさを知ってもらう契機になったでしょうに……。残念無念。(このページを見たら、今からでも送ってほしいものです)
次に関連情報として、2001年の特設掲示板が終了したころにY塾から送られてきたメールを公開します。(送られたメールは公開するということは、予め通告してありました。為念)
以前とは別の「ある男の物語」を添付致します。あなたがよく御存知の男のことか
もしれません。お読みください。
特設掲示板の過去ログを全て閲覧できるようにする責任があなたにはあります。
25日に示されたあなたの見解に対して、私たちは大いに異議があります。火事騒
ぎ等であなたのお宅が分かりましたので、いずれ直接お伺いするかもしれません。言
うまでもないと思いますが、私たちは暴力的な人間ではありません。ただ、「真実の
検証」については人並み外れた厳しさを持っています。あなたを訪ねるとしたら一重
にその目的のためです。ご協力頂けるものと信じます。
飯沼正晴・堀江克子
もちろんログは全て公開しているのは皆さんもご存知の通りです。このメールのように強がりを言っているものの、彼らは自分たちのサイトでも特設掲示板のログを公開すると言っていたにも係わらず、今に至るまでログが公開された様子はありません。こちらからも、このログを自分たちのサイトでも必ず公開するようにと、何度も要請しているんですが……。
火事騒ぎ云々は、僕が「スピリチュアリスト日記」で近所の火事について書いたことを指しています。つまりこの人たちは、ウェブサイトの記述からお前の住所を調べたぞと言っているわけです。オソロシや……。
さて、添付された『ある男の物語』はこちらです(↓)。噂のY塾の霊界通信「メッセージ」です(苦笑)。2ちゃんねるで大ハズレだった、神戸事件の犯人の心理描写と比較しながら読んでみると良いですね。また、上の江原さんの『童話』と読み比べると、やはりこの二者は精神構造も似ているのかなという気もしてきます(^^;。
ある男の物語
○予定の時刻は迫っていた。次々と入ってくる言葉は、「最後」に向けてそれぞれに自分の思いを伝えている。それが本音であろうとなかろうと。
その男は追い詰められたような気持がますます募る。自分は最後の締めくくりに何を言ったらいいのか。混乱があったのも確か、逃げ出してしまいたいのも確か、いつものように皮肉っぽくおどけて見せたらいい、しかしそうはできない気持も同時に自分のなかにはある。でも怖い…。
結局何も言えないままに「終了時刻」が過ぎていった。こんなはずではなかった。このままではだめだ。まるで自分が負けてしまったかのようだ。それはまずい。そんなのは我慢ならない。
だいぶ時間がたって書き連ねた言葉は、やはり、負け惜しみだった。自分でも分かっている。でも、どうしようもなかった。
○彼は気づいていたのだ。自分が間違っていただけだった、と。しかし気づいたその時にそれを認め、詫びることができなかったのだ。一言謝れば済んだはずなのに、そこでは自分の間違いを認めるのが悔しくもあり、怖くもあったのだ。だからそれを認めないため、間違った自分を守るために、過ちを重ねることになったのである。言い訳、言い逃れ、偽り、無視。中傷、揶揄。何とかして「悪いのは彼、彼ら」にしたかったのだ。
しかしそのもくろみは成功しなかった。そればかりか自分たちの暗い心の淵まで人前にさらすことになった。自分ばかりか、今まで「一定の評価」を得ていた人たちの心の闇ばかりが浮き彫りになっていく。
惨めだった。わめきたて、口汚く言うことしかできない自分たちが。しかし、やめることはできなかった。少しでも早く終わらせたい。これ以上続けたらもう自分たちの立場はない。
終わってほっとするのは自分たちだ。彼らは全く動かなかった。何を言っても崩れなかった。自分たちのどうしようもなさばかりが目立ってしまった。
○「もうだめだ。これ以上は。」 この男が救われる道は。
いずれの場合でも、救われる道はある。たとえそれが「いつ」であっても。ただそれを選び取るかどうかはいつも本人に任されている。
答えは至極簡単である。「謝ること」それでいいのだ。あとは過ちの埋め合わせができる。謝るところから始まるのである。漂っていた重苦しい雰囲気は、雲が晴れたように明るく清々しいものにもなろう。それまで自分が見せていた「軽口をたたく皮肉っぽい言い方」はもうできなくなる。(自分がそうしようとも思わなくなるのだ)。代わって、それまで奥に隠れていた繊細で真面目な彼が姿を現すだろう。言葉によって苦しい思いや痛い思いを経験したからこそ、棘のある嫌な言葉で自分を守っていた男はもういない。「詫びる」という最も素直な言葉(それは「ごめんなさい」)を表現することで、それまで表に出ていた彼は流れ去ってしまうからだ。恐れたり、逃げようとしたり、逆に責めることで守ろうとしたり、そのために言葉を弄していた彼はもういない。
新たに人々の信頼を得るまで、そう時間はかからない。なぜなら、心から素直に詫びた者を痛めつけようとする者などいないからである。その男の言葉に嫌悪感を持った者たちは、ほっとし、安心するだろう。彼はやっと目が醒めたのだ、と。詫びることのできた彼を祝福するに違いない。
その時初めて彼は、ひとつの学びを終えて、一歩成長したことになるのだ。「学ぶこと」の意味を本当に実感できるのはこの時であり、本や話からは得られなかったものを手にすることができるのである。
○しかしながら、彼には別の道を選ぶ自由ももちろんあるのだ。
それは「自分の過ち・誤りを認めないこと」である。今の延長上でこの先も続けていこうとすることである。その場合、彼は「偽り」「ごまかし」「言い訳」「作りごと」の鎧を着続ける。時間の経過とともにそれは彼を圧迫し、重くのしかかる。それを着た自分を出発点にしてこの先を歩むのだから、それが「普通の自分」となる。裸の自分が自由で軽やかで柔軟なのに対して、そこからずっと続く「普通の自分」は不自由で重苦しく堅い。それは彼の心に反映される。その心の状態を世間では「精神的な病」と分類する。決して解消できないものである。自分で着込んでしまったものは自分の意志で脱ぐしかないのだから。
それまで軽妙に振るまっていた自分はいなくなる。言葉は出せない。それまでの臆病さは「怯え」として表れ、わずかなことにも過敏に反応する。「人」に顔を向けられない。人の視線が恐い。
その男はそれでなくても恐がりなのに、それを出さずにいられたのに、それどころか張りつめた糸のようになっていく。それだけ彼は、実は悪気のない男だということだ。小心なだけで、善良な男だったのだ。その男にとって着込む鎧はあまりにも重い。自分を守るはずのものに自分が押し潰される。心も体も。
○男は知っているはずなのだ。何が正しく、何が美しいか。何が力を持ち、何が人を救い、導くのか。その「本質」に初めて触れた時の喜びに立ち返れるかどうか。その時の素直で純粋な喜びを、いつしか忘れていた彼。
再び謙虚になって、学び直しができるかどうか。「知った者」ではなく「まだまだ分からない者」としての自分になれるかどうか。
救いはいつももたらされる。しかし、その道を少しでも早く本人が選び取れば、それだけ早く本人にもまわりの者にも喜びがもたらされるのである。「たとえ地上にいる間に気づけなくても、霊界に戻った時、あるいは<いつかは>」とは言う。けれども地上にいる間に気づき、埋め合わせと貢献を果たし、胸を張って霊界に戻ることを彼を導く存在は願っているのであり、そのために導いているのである。
長! 実は僕、今に至るまで一度もこれを通して読んだことがありません(^^;。いつもの調子であまりにダラダラと長いし、他の人への「メッセージ」もみんな同じような内容だったので、とても読んでられない(^^;。
でも、前項で紹介した2ちゃんねるの「■■神戸事件の謎に迫るpart3■■」を読んでいただければ、そこに飯沼さんが書いた「論客=被害者の父親=犯人」という妄想を元に書かれた心理描写と、まったく同じ表現が繰り返し出てくることに嫌でも気付かれることでしょう。つまり、それと読み比べていただければ、彼らの通信が全くデタラメなものであることが分かるわけです。そしてそんなデタラメな通信を「高次の働きがけがある」と霊査してしまった江原さんの霊能力の信頼性も、推して知るべしである、と。
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