あるサイトの掲示板での輸血拒否論争で書いた僕の投稿を、こちらに転載しておきます。こんなことは本来は論争にさえなり得ない程度の問題だと思うんですが、現実問題として、世の中には本当に輸血を拒否して死者を出すような破壊的カルト教団も実在しているわけで、「たまたま一人か二人がトンデモの世界に逝っちゃった」と笑って見過ごすわけにもいかないようなので。
僕としては、そういう教義を創造してしまうのは個人の資質の問題であって、スピリチュアリズムが云々とは関係ないのではないかと思っているんですが、万が一のこと(輸血拒否された子供が死ぬような事件)でも起きたら、日本のスピリチュアリズムはお終いです。そのようなことが起こらぬように“正しい霊的知識に基づいて考えれば輸血拒否によって死を選ぶことはありえない”という、正当なスピリチュアリズムの立場からの意見表明を、サイト内に残しておく必要があると判断しました。
(そのような予防措置をとらねばならないこと、それ自体が、スピリチュアリズムそのものへの冒涜、いや、人間の理性と知性への冒涜であるという思いが致しますね)
まずは有希さんのサイト『人生を変えるスピリチュアリズム』の掲示板でのコメントから。
(ウェブマスターの有希さん以外のハンドルはマスクさせていただきました。特定個人への批判が目的ではありませんし、きっかけになったご本人も今は進境驚くほど著しく、まさに女子三日会わざれば刮目して見よ、アレ?(^^;)
[70] 理性的な判断を |
投稿者:ペーパーバーチ
投稿日:2005年06月28日 (火) 12時17分 |
****さん、はじめまして。
|輸血をされなくて息子が死んでも,それはそれであきらめがつくかもしれない,と思いました。
ちょっ、ちょっと待った! そんなのは単なる盲信、狂信であって、シルバーバーチが説く霊的真理とは正反対の行為です。
たとえば****さん、お子さんが病気で急いで病院に連れて行かねば死んでしまうとしましょう。交差点で信号は赤、他に自動車は一台も通っていない。その状況で「交通法規は守らねばならないから」と、子供を見殺しにしてまで信号を守りますか? 考えるまでもありませんよね。
これがもし“他の人を殺さなければ病院に行けない”だったら考える余地はあるでしょうが……(ま、ちょっと極端すぎる例かもしれませんが(^_^;ゞ)。もう一個極端なことを言えば、お菓子を食べるのは良くないとしても、子供がお菓子を口に入れたら「胃に入るのを阻止しなければ」と首を切り落とすような……。
輸血だって同じことでしょう? 確かにシルバーバーチも輸血に賛成できないとは言っています。が、命を捨ててまでも拒否しなければならないほど悪いのか。シルバーバーチはそこまで言っていませんし(少なくとも臓器移植に対するそれとは、明白な温度差がありますよね(※転載時注:この部分は僕の思い込みで、改めて読み直してみるとあまり違いは無いようにも思われます))、それは人間の理性によって判断すべきことでしょう。
スピリチュアリストは狂信的宗教信者であってはいけないと思います。
http://www.paperbirch.com/
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この時点では、まさか有希さんが輸血拒否による殺人を肯定するとは思っていなかったので、断片的なコメントでお茶を濁しています。詳細な反論は他の方に任せて、「ま、とりあえず自分からも一言は言っておこうか」という程度のものです。
ですから、コメント元の方が納得されないであろうとは予測していました。が、驚いたことに有希さんまでもが反論。「地上的視点で見ていらっしゃいませんか」と。残念ながら、その一言でどの程度のことしか考えてないか、分かってしまいました。ご本人は一生懸命シルバーバーチを読んで霊的視点で考えようとしているのかも知れませんが、地上に這いつくばって霊界を見上げるような視点にしかなっていないのです。 また悪いことに自分の読み込みに妙な自信を持ってしまったのか、地上に這いつくばった自分とは違う角度からの霊的視点があることに思いが至らなかった。そのことが「地上的視点で見ていらっしゃいませんか」という一言に集約されているわけです。なんでもサイト休止中にシルバーバーチの霊訓を十数回読んだそうですが、僕は(こんなこたぁ言いたかありませんが)さらにその倍近く読んでいる人間なんで、もうちょっと謙虚に耳を傾けて、よぉく考えて頂きたかったですねぇ(´・ω・`)。
ということで、ドグマの殻に閉じこもってグルグル回ってる感がアリアリだったので、恐らく何を言っても通じないだろうと思いつつ……しかしいったん首を突っ込んだからには最低限ポイントとなる部分だけでも提示しておかねばならんだろっ!と思って書いたのが次の投稿。まだ自らを疑う理性的姿勢が残っていれば(ドグマに凝り固まっていなければ)これらのヒントに対する何らかの反応が見られるはずだ、との望みをかけて。
[91] Re[83]: 不作為の殺人 |
投稿者:ペーパーバーチ
投稿日:2005年06月29日 (水) 18時46分 |
****さん、どうも。
|これって,「大害を避けるために小害を甘受する」みたいなたとえだと思うのです
|が,ちょっと違う気がします。シルバーバーチに従うと,輸血をすることは大害で
|あって,しないことによって息子が死んで,私が悲しむことが小害とはなりません
|か?
子供が死ぬことによる悪いことは「私が悲しむこと」ですか? お子さんが得られるはずだった、それから数十年の地上世界での経験は? 地上に産まれるのだって、単にセックスすれば子供は出来るってもんじゃありませんよ。霊界で綿密な計画が立てられ、産まれてくる本人の決意と、背後霊団の献身的な働きかけがあって、初めて人は産まれて来るのです。それを全部無駄にして、「輸血は良くないから死んでもらいます」ですか?
(死は悲劇ではないから、と言うなら、自殺や殺人がなぜいけないかを考えてみましょう)
そうですね、肉食はいけないとシルバーバーチが言っていたから、肉を食べているような人が、これ以上罪を重ねる前にポアしてあげるべきでしょうか? なんかどこかで聞いたような理屈のような気もしますが、私は霊訓を読んで自分で考えてそういう結論に達しましたから! 地上的視点で考えてはいけませんし、何よりこれは命より大切な信仰の問題ですからね!!……って、何かおかしいと思いませんか? あなたの理性は悲鳴をあげていませんか? それとも「おかしいと感じるのは地上的視点に囚われているからだ。ポアせよ! ポアせよ!」ですか?
シルバーバーチは“理性”を使って検証せよと、クドイぐらい何度も言っています。僕は、この理性というキーワードこそ、シルバーバーチの霊訓の中で最も大切なものだと思っています。如何に素晴らしい霊的真理といえど、宗教的(妄信的と言うべきか)なタイプの人間が中途半端な理解で振り回せば、カルト的妄想体系を作り上げることなど簡単だからです。
そもそも、シルバーバーチの霊訓に沿って考えると言いながら、本当にその意味するところを読み取れているのでしょうか? シルバーバーチが「輸血をすることは大害」であるなどと言いましたか? 原文を見てみましょう。
| わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得
| ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、
| それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人
| 間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわ
| るさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合に
| よっては好ましくないケースも有り得ます。
確かに賛成はしていません。が、その悪影響はと言えば、「場合によっては」「有り得ます」という程度で、つまり悪影響なんて起きない可能性もあるということですよね。しかも悪いことがあるとしてもその程度はせいぜい「好ましくない」止まり。いったいどこが「大害」なんでしょうか?
悪影響があるとしても幽体レベルのこんな程度のことで……可能であれば他の治療法(霊的治療も含め)を求めるべきでしょうし、また輸血用の血液の代替物を希望することこそ、スピリチュアリストとして有り得る理性的な対応なのであって、「輸血が駄目だから死んでもらいます」などという不作為の殺人が容認されるとは思いません。
(ついでに書いておきますが、事故などで急死した場合は幽体へのダメージも大きく、目覚めるまでにかなりの時間が掛かる場合があると言います。輸血によるダメージを云々している場合ではないと、少なくとも僕は思います)
エホバの証人の話が出ましたが、エホバの教義によれば、輸血を受けた者の霊は永遠に損なわれ、天国に入ることは出来なくなるということになっています。「幽質の要素に好ましくない影響がある……かもしれない」程度のことで殺してしまうより、エホバの人たちのほうが余程理屈が通っているように感じるのは、決して僕だけではないはずです(ま、どちらも狂ってるのには変わりないと思いますが)
http://www.paperbirch.com/
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これに対する有希さんのコメントは……シルバーバーチの霊訓の関係箇所の複数羅列、でした。だからぁ、その霊訓の解釈が間違ってるんだって言ってんですけどねぇっ! 論破された新興宗教の信者がいきなり経文を復唱し始める姿を見るようで、同じスピリチュアリズムを学ぶ仲間としては見るに忍びない思いが致しました。が、センチメンタルになっている場合ではありません。下手すりゃスピリチュアリズムの間違った解釈による殺人が行われる可能性があるわけですから。
ドグマに囚われている人を説得するには時間が必要になってくるので、今回はターゲットをその他の一般読者に変更。あくまでも霊的な視点から、そしてスピリチュアリズム的な物の考え方を伝えねば……霊的真理とは「輸血は良くない→子供が死んでも諦めよう」なんて短絡的で薄っぺらなものではなく、ましてやそんな結論を出したことをもって「霊的視点のステージが上がっておめでとう!」などと言えるものではなく、もっと複眼的に考えねばならないものであるということを伝えねばなりません。そのために、あえてこの世の側の問題には触れず(そういうことを書くと「地上敵視点」という逃げ道を与えることになるからです。また、それを語るに足る知識を持たないというのもありましたが)霊的視点に絞ったコメントを書くことにしました。
(この世の側の問題については意図的に触れていません、例えばエホバの証人周辺を調べて見れば、医療の現場での問題が少なからずあることは分かります。輸血拒否によって子供を死なせてしまった事件を継起としてかかれたドキュメンタリーとして『説得−エホバの証人と輸血拒否事件』という本をお勧めしておきます。この問題を考える全ての人が必読の名著、僕のエホバ関係の知識のネタ本でもあります(^^;)
[322] 愛に時間を……スピリチュアリズムと輸血拒否問題(1) |
投稿者:ペーパーバーチ
投稿日:2005年07月24日 (日) 06時33分 |
(↑タイトルはR.A.ハインラインの引用(^^;)
何やら時間がかかり過ぎてしまった感がなきにしもあらずですが(^^;、輸血拒否問題について途中でほうり出したままになってましたので、いくつかの考察のヒントをご提供させていただいて、一応の区切りをつけておこうかと思います。特定の誰あてのコメントというよりも、「輸血するぐらいなら死を」という理論はおかしいと感じつつ、スピリチュアリズム的視点から考えた時になぜそれが間違っているのか説明できずにスッキリしない思いを抱えていた人の考える材料になればと思います。情緒的に「そんなもん間違いに決まってるからだ」という態度はスピリチュアリズムでは推奨されませんから(^^)。
前回のコメントで僕は、霊的真理といえども中途半端な理解で振り回せば容易にカルト的なものに変質すると言いました。今回はそのあたりを取っ掛かりに、少し丁寧にご説明させていただきます。まずはシルバーバーチの言葉をひとつ、ご紹介しましょう。
|そして、それまでに入手した神示を資料として、信条・儀式・
|祭礼・ドグマ・教説等を分類して綱領をこしらえる、いわゆる
|神学的操作を始めたのです。今日まで引き継がれているものの
|うち、どれ一つとして霊の資質と実質的に関わりのあるものは
|ありません。
|(中略)理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつも、なお
|それにしがみつきます。
(『シルバーバーチ不滅の真理』8章)
#99で有希さんからいくつかシルバーバーチの言葉が紹介されましたが、霊訓の本質的なところを見ず、細切れに分類された言葉の表面的な理解から恣意的につまんで結び付け、実質とは関わりのない“ドグマ”を作り上げてしまっているのではないかと感じました。ジャンル別に分類して読むのは分かりやすい反面、短絡的・表面的な理解にはまりやすいので、よくよく注意が必要です。
有希さんが引用された箇所をもう一度見てみましょう。
|何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、
|あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありませ
|ん。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそ
|れなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪
|いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決ま
|ることです。
なるほど治療も摂理の範囲内で処理すべきで、その善し悪しは“霊的法則”にどの程度適っているかによって決まる、と。しかしシルバーバーチは次のようにも言っています。
| まず申し上げておきたいのは、全ての生命は大霊のものだと
|いうことです。身体が衰えて霊がその身体から解放される時が
|到来すれば、自然の摂理に従って死を迎えます。
|
|――それを医学的処置によって引き延ばすことは正しいことで
|しょうか。
|
| 間違ってはいません。
|
|――たとえそれによって苦しみも長引かせることになってもで
|しょうか。
|
| そうです。ただし、忘れてならないことが一つあります。死
|すべき時が来れば必ず死ぬということ、そして、地上界のいか
|なる手段をもってしても、その摂理だけは変えられないという
|ことです。
ここから読み取れることは、シルバーバーチは少なくとも医学的処置を否定してはいないということです。常識的に考えれば自然の摂理に反しているようにも見える、機械装置による延命処置も、外科的な手術のたぐいも、科学的に合成された薬品のたぐいも、シルバーバーチは否定していません。例えば臓器移植についても……
|患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構
|なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだ
|からです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも
|感心しません。その移植片そのものが問題を生み出すからです。
|肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない
|実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問
|題を解決するカギです。
(『シルバーバーチ愛の絆』)
意外に思う人も多いでしょう。自分自身からの移植なら全然OKなんですね(少なくとも、死は悲劇じゃないので移植してまで生きようというのは地上的視点だ、などとは言いません)。このことから類推すれば、人工培養血液や、自己細胞培養によるクローン臓器も、スピリチュアリズムでは反対する根拠を持っていないことになるわけです。が、まあ、それについては後半のアーティクルで。
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[323] 愛に時間を……スピリチュアリズムと輸血拒否問題(2) |
投稿者:ペーパーバーチ
投稿日:2005年07月24日 (日) 06時35分 |
さて、ここまで読んだ方の多くは、こんな疑問を抱くかも知れません。霊的法則の範囲って、いったいどこまで? はい、お答えしましょう、霊的法則の範囲内です。って、これではトートロジーですね、「バカボンのパパだからパパなのだ」という(^^;。もうちょっと分かるように言いかえれば、最も大切なのは“霊性への影響”であるということです。全ては霊的成長に資するためなんですから。
さらに加えて、この問題を考えるには「霊的成長は何のため?」ということも考えあわせねばならないはずですが、そのことについても後で触れることにします。
さて、このあたりで念のため、基本的なところを、も一度確認。いくら地上生活が一瞬で死は悲劇ではないと言っても、地上生活の機会は貴重なものであり、特に幼い者の命は救えるに越したことはない……これは良いですよね? いちおうシルバーバーチの言葉も引いておきます。
| あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したが
|ってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべ
|きではありません。
(『シルバーバーチの霊訓(8)』5章)
この世で生きる機会を、シルバーバーチも大切な物と思っていることはお分かりいただけると思います。シルバーバーチは霊界への帰還が悲劇ではないこと、霊界がいかに素晴らしいかを繰り返し説きましたが、それは多分に死別の悲しみを和らげるためのメッセージの側面が有り、裏を返せば「それほど素晴らしい霊界生活と引き換えにしてまで得た地上生活の貴重さ」も読み取らねばならないはずです。単に「霊界は素晴らしいから死は悲劇じゃないんだ〜」としか感じられないんでは50点しかあげられません、要追試ですね(^^;。
特に子供の霊は(成長過程で)何度も地上に戻ってこなければならなくなるという、霊的に考えても中途半端で不安定な状態を余儀無くされます。これは言ってみれば、せっかく覚悟を決めて歯医者に行ったのに治療途中で帰されたようなもんです。詰め物してくれないの? 神経出てるんですけど〜、みたいな(^^;。
っという冗談はともかく(^^;、地上の生命も霊的法則に反しない限りは守らねばならない、こんな当たり前のことを確認せねばならないとは情けない限りですが、一応確認しました。
はい、長くなりましたが、実はここまでが前置き。以下本題に入ります。あまり形而上学的なことに終始しても理解しにくいでしょうし、より具体的に、何は良くて何がいけない(と思われる)のかを、いくつかの実例を挙げて個別に考えてみましょう。「ではその肝心の霊的法則の範囲とは?」というところからです。
具体的にOKなモノから挙げましょう。先ほどちょっと書きかけましたが、自分の身体の一部を移植するのは問題ないとシルバーバーチも断言していますね。ならば自己血輸血も当然OK。人工血液も、他の生物の要素を使わないものであれば無問題。また、骨折時にギブスなどで固定するのも大丈夫なようです(霊的治療より早いと言ってますね)。
逆に絶対ダメと思われるのは、支那で行われているような、移植用の臓器を調達するために政治犯をでっち上げて次々死刑にするような……(ってか、こりゃスピリチュアリズム以前の問題(^^;)。
では動物実験や人体実験によって開発された、もしくはそれらの実験結果によって認可された経歴のある薬や治療法は?……実はこれ、洋の東西を問わず現在の医術のほぼすべてが含まれてしまう訳ですが----もちろんそれを使うことで直接的に実験動物の生命が失われるわけではないというイイワケは可能でしょうが----“霊的法則に反しない”ことを厳格に求めるのであればNGであると言わざるを得ません(※)。現代の医学はすべてなんらかの存在の犠牲の上に成り立っており、その恩恵を受けることは、前提として存在する犠牲者や動物実験を追認することになると、言えなくもないからです。
※……その点で最悪なのが実は漢方薬でしょう。人の命などゴミ同然に扱われた古代支那で、何千・何万の無辜の民の命が人体実験の犠牲になっているのですから。苦痛や命の損失を最小限に抑えるよう配慮された動物実験で開発される現代の西洋医学の薬などカワイイものです。医学全般を否定的に書くと、能天気に「漢方は大丈夫」などと馬鹿なことを言う人間が少なくないので予防線をはっときます(^^;。
が、シルバーバーチが現代医学を“完全否定”したという話は、寡聞にして知りません。既に開発された薬を否定したところで過去の実験事実がなくなるわけではありませんし、だったら目の前の救命や苦しんでいる人が楽になる手段を捨てるべきではないということでしょう。霊的法則への適合性を考えるにしても、狂的な厳密性を求めている訳ではないということが、ここからも伺われます。
というところで、いよいよ輸血の問題を考えてみましょう。念には念を、ここでもう一度シルバーバーチの言葉を確認しておきます。
|わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せ
|ざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血
|液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれている
|からです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によ
|ってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までも
|が他人に移されることになり、これは、場合によっては好まし
|くないケースも有り得ます。
はっきりと「幽質の要素」と言っていますね。幽質の要素が悪影響を与える場合があるので賛成できないということです。さあ、これだけ丁寧に書けば、霊的な視点で物事を考える習慣が身についている人なら「あっ!」と気付くはず……少なくとも「あれっ?」と引っ掛かるものを感じるハズです。「もしかして、これって物的な話なんじゃないの?」と。
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[324] 愛に時間を……スピリチュアリズムと輸血拒否問題(3) |
投稿者:ペーパーバーチ
投稿日:2005年07月24日 (日) 06時35分 |
サヨウ、幽質なんてのは、所詮は物質に過ぎないのでアリマス。ま、確かにですね、地上に張り付いた視点で上を見上げれば“霊的”と見えるのも分からなくもないんですが、やはり本質的には自然界の法則の範囲内のことなんですね。現世の物質と比較をすれば精妙なバイブレーションで構成されているだけで、その本質は物質に過ぎず、この件での検討課題である「霊的法則」とは別次元の問題です。
念のため付け加えれば、幽体だけでなく霊体だって同じことです。霊の本質、順守するべき霊的法則とはレベルの違う問題に過ぎません。
もちろん「それでもこれは霊的法則の問題なんだ! 命を助けるより輸血しないことを選ぶべきだ」との主張も可能であろうとは思います(妥当とは思いませんが)。それこそ「カルシウムを採らないとイライラするようになるから良くありません」というのだって、霊的法則の問題と主張することは(狂的な厳密性を求めれば)可能なのであって、だったら「カルシウムを破壊する副作用のある薬を飲むぐらいなら治療せずに死ぬべき」という話になるんでしょうか? 精神的に不安定になってイライラするようになるなんて恐ろしい霊的な問題だ……そんな主張だって可能と言えば可能、というか、この例と輸血拒否の論理は、程度が異なるだけで全く同質、同じ構造の主張に過ぎません。
肉体の栄養状態の変化で精神状態が不安定になろうが、他人の幽質の要素の流入で性格が変わってしまおうが(もちろん問題はそれだけではありませんが)、しょせんは物的問題であって限定的な影響しか起こり得ません。最も重視されるべき霊への影響を言えば、決して“取り返しのつかない問題”とはなり得ない性質のことでしかないわけです。この世で温かい家族愛に包まれて成長して行く子供時代の貴重な経験とは、到底引き換えられるものではありません。
このように物的な問題を霊的なことと取り違え、殺人を推奨する論調が出てしまったことは、長らくネット上でスピリチュアリズムの啓蒙に努めてきた者として忸怩《じくじ》たるものがあります。なぜこんな結論に飛びついてしまったのか? それは一つには地道に代替手段を摸索する発想がなくて、インスタントな結論に飛び付こうとする宗教信者的丸投げ思考がベースにはあるのでしょうし、最も大きな原因は(今回冒頭で書いたことと関連しますが)シルバーバーチの言葉を皮相的になぞることに終始して、何のためにスピリチュアリズムの計画が進められているのかという本質的な部分が抜け落ちていたからではないか、と想像します(これ、聞いたら「霊的真理を広めるため」なんていう本末転倒な回答が出るんじゃないかとの不安さえ感じたり(^^;)
スピリチュアリズムの目的は何かと言えば……霊的真理の啓蒙なんてのはもちろん目的ではなく手段です。では霊性の進化? いや、それもまた大いなる勘違いで、何のために成長しようとするのかというのこそ“目的”として出なければおかしい。それは何かといえば、思いっきり平易に言えば“みんなが幸せになるため”です。霊的真理の啓蒙も、霊的成長も、それこそが全ての存在(もちろん自分も含め)の幸福への道だからです。
理論的な部分の解釈を間違えるのは誰にでも避け得ないことです。その時、とんでもない方向に行ってしまうか踏みとどまれるかは、根本的なところで上記のスピリチュアリズムの真の目的----何のために?----を理解しているかにかかっていると思います。その上で、前回も書いた“理性”(論理をベースに置いた上で、自らの許容範囲、判断ミスの可能性などを総合的に判断することが最低限必要。自らの正しさを妄信して突き進むのは理性的とは言えません)を働かせて判断することです。シルバーバーチも言っているように、理性に照らして受け入れられないと思ったなら、その判断にしたがうべきです。それを「そう思うのは地上的視点」などという理屈で極端な解釈に走るようでは、エホバの証人やオウム真理教と変わりません。
これが仮に数百年後の未来の話であれば、輸血程度のことでも「じゃあ先に霊界に行ってるよ」と、幼い子供までが言えるほど進化した社会になっているかも知れません。が、現状ではどうでしょう。霊界探訪記や、小桜姫物語のような霊界通信においてさえ、死に別れた相手への想いにはいくばくかの寂寥感が拭い去れないほどで、まして幼い子供であれば、成長過程で(霊界から)家族への訪問が必要となる事情もあります。これは非常に不自然な状態なのであって、霊的法則に照らして考えれば、幽質の移植などの悪影響を考えても、命を救うのに輸血が避け得ないのであれば、どちらを選ぶべきかは明白ではないでしょうか。
いや、命が云々などというのは問題の一部に過ぎません。愛する家族と触れ合う時間の一瞬一瞬が、その生活のあらゆる場面のとりとめのない出来事の一つ一つが、単に「命の大切さ」だの「幽質への影響」だのといった卑小な問題などより遥かに大切なのであって、輸血拒否が云々などという考えが出ることそのものが、そもそも物事の価値判断が全く出来ていないと言わざるを得ません。実際に輸血が必要な局面に直面した時……親子で共に手を取り、愛情を育み、学び、成長して行くかけがえのない日々を選ぶのか、それとも輸血拒否して命を捨てることを選ぶのか(最大限見積もっても霊界に入るころには消滅する程度の幽的理由で!)。どちらが幸せで、どちらに愛があって、どちらを神はお望みになると思うのでしょうか?
そういえば、相当あれこれ読んで勉強しているはずなのに、いつまでたってもシルバーバーチの霊訓とどこぞの怪しげな霊能者の理論を同列に並べて「こんな説もあります」なんてやってる人もいますよね。ちょうどそれと同じで、なんでその程度の価値判断もできないのかなぁ、と。一見いろいろと考えているようでいて、実は上っ面をなぞるだけの言葉遊びになってしまっているんじゃないかと。
例えば株式投資の世界でも(分かりにくい譬えかもしれない(^^;)、理性的な投資家であれば、たとえ100%に近い確信があっても全財産を賭けるような投資方法はしません。IT革命がはやされたころ、多くの証券会社やアナリスト、投資家が、高騰したIT企業の株価を正当化する理論を論じ、甚だしきは信用取引(要するに借金)まで使って全財産を投資しました。その結果どうなったか? ITバブルの崩壊により全財産を失うだけでなく、億単位の負債を背負う者が続出することになりました(少なからぬ数の自殺者も出たようです)。自分の論理の正しさに全てを賭けた、彼らは(ある程度、論理的ではありましたが)果たして理性的だったのでしょうか?
ここで交わされている輸血理論も同じことです。それでもIT投資家が賭けていたのはしょせんお金でした。しかしここには、たった2〜3日考えただけで(自分の論理の正しさに)子供の命を賭ける結論を出してしまう軽信家がおり、その決断を誉めそやす人間まで……。ITバブルの当時、心ある一部の投資家はIT信者の妄信ぶりに警鐘を鳴らしましたが、全く聞き入れられることはありませんでした(まさに“信者”でした)。ここで輸血拒否で固まっている人達も、目を覚ますことは難しいでしょう。しかし、全財産以上の命までかけたこの投資が、死後にどれほど大きな負債を残すことになるのか……。
それだけの覚悟があってこの大博打に出るというなら、それはもう「お好きにどうぞ」と言うしかありません。ま、こう言っちゃ何ですが、しょせん他人のことですし(-_-;。でも、少なくともそれを「理性的な判断」などとはお考えになるのは、人間の理性に対する冒涜であると、僕は思います。
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この投稿に対する有希さんのコメントも、公平を期するため転載しておきます。
(転載がまずければ一部引用に変更しますのでご連絡ください>関係各位)
[332] ペーパーバーチさんへ |
投稿者:有希 投稿日:2005年07月24日 (日)
21時40分 |
ペーパーバーチさんがシルバーバーチの言葉を引用しながら述べてくださいましたが、ペーパーバーチさんのお考えとしては「輸血は必要」ということですね。
こうして理論的に順を追って述べてくださると、他の方にはとても理解しやすかったのではないかと思います。
>
ここには、たった2〜3日考えただけで(自分の論理の正しさに)
>
子供の命を賭ける結論を出してしまう軽信家がおり、その決断を誉めそやす人間まで……。
この表現からすると、私の発言に対しても含めていらっしゃるようですが、どうも真意をご理解していただけなかったようですね。
それはそれで構いません。
ご自分の掲示板ではどのような表現をしようと構いませんが、ここではこうした“軽信家”“誉めそやす”などという表現は慎んでいただきたいと思います。
私は、その方がシルバーバーチの考えを正しいと理解したことが軽信とは思いません。
また、これはその方がその時考えられたことですし、今後そうすると決められたわけでもありません。
それを、“軽信家”とするのはいかがなものかと思います。
そして、私は褒めたわけではなく、その方が以前の考えから一歩進まれたことに敬意を払ったのです。
“誉めそやした”となると、私の発言がさもいけないとおっしゃっているように感じます。
まあ、これはどのように受け取っていただいても構いませんが。
それに、このご意見からすると、
>
それだけの覚悟があってこの大博打に出るというなら、それはもう「お好きにどうぞ」と言うしかありません。
輸血を拒否する人の方が間違いだというように受け取れますが、そういう意味でしょうか。
シルバーバーチは輸血には反対であっても、いけないとは言っておりません。
ですから、輸血をするにも、拒否するのも、最終的にはご自分で答えを出されるのが望ましいと思います。
ご意見がいくらペーパーバーチさんの善意から出たものであって、1,2度諭すのは良いとしても、それ以上にゴリ押しされるのは好ましくないと思います。
私が以前の内容を読み返しますと、その方は絶対に輸血を拒否するとは言われておりません。
例え今そうしたことを考えていても、その時になったら輸血をするかもしれませんし、また逆に、今輸血を容認している人がその時になったら拒否することもあり得ると思います。
あくまでも、ペーパーバーチさんのお考えは尊重いたしますが、この場ではご自分の考えに合わないことは間違いであるような表現はあまり好ましくありませんので、今後投稿される時はそうした配慮もお願いいたします。
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「自分で考えて(2〜3日だけだけどな)答えを出したのだから軽信家じゃありません(大意)」ですか……嗚呼、論点を逸らしてお逃げになられた、と思ったのは僕だけではないでしょう。書かれた内容が理解できなかったのか、それとも(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい状態なのかは分かりませんが(^^;、これではまるで統一協会の霊の親です。「本論以外の部分にしかコメントしない」「反論を踏まえず同じ話を繰り返す」宗教の人がよくやる手です。恐らく無意識なんでしょうが。 僕は「その方がシルバーバーチの考えを正しいと理解したこと」を軽信と言ったわけではありませんし、「その方が以前の考えから一歩進まれた」んではなく、むしろトンデモナイところに堕ちかけていると言っているわけですし、「私の発言がさもいけないとおっしゃっているように感じます」……感じますっていうか(^^;、まさに「いけない」ということを思いっきり言っているので、せめて相手が何を言っているのか、そしてご自分の主張の「どこを」「どのように」否定されているか、理解してからコメントしていただきたいものです。
ここでスピリチュアリズムのサイトの主宰者ともあろう者が輸血拒否を肯定してしまったのは、スキーインストラクターが、初心者の生徒が一晩考えて我流の間違った滑り方を編み出した(※)のを「一歩進みましたね」などと言って肯定してしまったようなものです。不幸なのは生徒で、足をひねって骨折するか、暴走して崖下に落っこちるか……間違いを正せない者に他者を導く資格なんかありません。
※初心者が実際よく編み出すのが「思いっきり後傾して板を押し出して曲がる」という技術(^^;。コントロールが利かないので思いっきり危険ですし、変な癖がついて後々まで上達の障害になります。うっかりしてると生徒同士で教え合ってたりします。(学生時代にイントラのバイトをしていたころの経験です(^^))
そもそも欧米のスピリチュアリズムの160年の歴史で、スピリチュアリズムの信仰のために輸血拒否をして誰かが死んでしまったという問題は(僕が知る限り)一件もありません。シルバーバーチが現れた1920年代以降、霊媒のバーバネルが英国のスピリチュアリズム界で活躍していた60年間はもちろん、それ以降今に至るまでも、シルバーバーチから直接教えを受けた人間だけでも現在も数百人単位で存命のはずです。が、そのような問題を起こした人間が一人だっていたでしょうか? いないでしょ? じゃあ、もうほとんど答えは出てるようなもんですよね。まあ、みんなと違う考えだから間違っているに違いない、などと言うつもりはありませんが、シルバーバーチをちゃんと読んでいればあんな結論が出るはずがないでしょ?
現世の医者だって輸血が人間にとって良いか悪いかと聞けば「悪い」と言いますよね。どうしたって大なり小なり拒絶反応は出るんですから、他の方法がなくて必要だから仕方なくやっているだけで、決して無条件に賛成できる方法じゃない。しかし、これを単純に教条的に捉えて、
「医者が輸血はよくないと言ったんだから、たとえ子供が死んでも輸血拒否すべきです。情緒に流されない、これぞ医学的・科学的視点! 自分で考えてこの結論を得たことを祝福しなさい」
なんて言い出す人間がいたら、そいつは狂人です。
然り而して、極端な教条的・カルト的思考を排してシルバーバーチの言葉を虚心に読めば、現世の医学もシルバーバーチも“輸血などという方法はなるべく避けたい”という点では一致しているのだとご理解いただけると思います。しかし「可能な限り輸血は避けて治療を」「代替手段の開発を」と求める、もしくは70歳過ぎた高齢者が輸血を伴う治療を拒否するのと、「(自己決定能力のない子供について)死んでもいいから輸血はしないで」と求めるのでは全く意味が違います。
この世で生きられるはずの数十年の人生で実現できるかもしれない様々な可能性を、この世の人間の勝手な判断で奪って良いはずがありません。この世を去るべき運命であるなら輸血をしようがしまいが肉体を離れることになるわけですし、肉体を離れるならば輸血による影響など問題視するにも値しない微々たるものに止まるはずなんですから。
「私は知識を論拠として生まれる信仰はけっして非難しません。私が非難するのは何の根拠もないことでもすぐに信じてしまう浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心でもって補わざるを得ません。といって、その結果として同情心も哀れみも優しさも敬遠して“ああ、これも自然の摂理だ。しかたない”などと言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽くすべきです。そう努力する中において本来の霊的責務を果たしていることになるからです」
(『シルバーバーチの霊訓(6)』P.21)
※上記引用箇所は、Yahoo掲示板でsdr200_l7さんが引用されていたのをいただきました(^^;。そちらよりもうちょっと長く引用してます。
霊的知識の断片を切り張りして、砂上に楼閣を積み上げるのはよしましょう。“アリガタイオコトバ”に思考を委ねるのはよしましょう。そこに“理性”はありません。それは“考えている”とは言えません。思考停止であり、依存です。早く目を覚まして、今度は自分の頭でしっかり考えて、自分が今何処にいるのか考えるべきです。地上の人間としての自然な愛情や同情心から目を背けさせようとするものが、霊的真理であるはずがないのですから。
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