心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.01.29公開)

五.臨終


 

 気の進まない現世時代の話も一通りかたづいて、私はなんだか身が軽くなったように感じます。そちらからご覧になったら、私たちの住む世界はとってもたよりなく見えるかもしれませんね。でもこちらから現世を振り返ると、それは暗く、狭苦しくうつろな世界なんですよ。どう考え直してみても今さらそのころの出来事を話そうという気持ちにはなれません。

 えっ、まだ私の臨終の模様を聞いてないとおっしゃいますの…あらほんと、そういえばそうですね。じゃ仕方ないわ、今から大急ぎで一通りそれをお話してしまうことにいたしましょう。

 前にも言ったとおり、私の体はだんだん衰弱していきました。床についてもさっぱり眠りにつけず、はしをとってもぜんぜん食事がのどをとおらず、心の中はいつもむしゃくしゃしていました。くやしい、うらめしい、味気ない、寂しい、なさけない…。自分でも何がなんだかよくわからない様々な妄念妄想が、嵐のように私の衰えた体の内を駆けめぐっていたのです。それにお恥ずかしい話ですが、本当は気が弱いくせに、持って生まれた負けず嫌いの気性から無理にも意地を通そうとしていたのですから、結局は自分で自分の身を削っていたようなものなんです。そういうわけで、私は新しい住居に移って一年も経たないうちに、あの唯一の心の支えであったお墓参りさえもできないほどに病みほうけてしまいました。一口に言ってそのころの私は、消えかかった青松葉の火が、プスプスと白い煙を立ててくすぶっているようなものだったのかもしれません。

 私が重い枕について、立ち上がることさえできなくなったとき、そのことを第一に聞きつけて駆けつけ、何かと介抱してくれましたのは、やはり実家の両親でした。『こう離れて住んでいては、看病するのも手が行き届かなくて困るんだが…。』めっきり頭に白いものが混じるようになった父は、そんな愚痴をポツリともらし、何かを考え込んでいるようでした。たぶん内心は今からでも私を鎌倉に連れて帰りたかったんでしょうね。勝気な母は別に口では何も言いませんでしたが、そこはやはり女の身ですから、物陰でそっと目頭をふいて、ため息をついたりしていました。

 『いつまでも年老いた両親に苦労をかけて、私はなんて親不孝なの。いっそのこと全部投げ出しておとなしく鎌倉へ戻り、養生でもしちゃおうかしら。』そんな素直な考えも心のどこかでささやかないでもなかったのですが、次の瞬間には例の負けず嫌いの気持ちが私の全身を包んでしまうのでした。『夫は自分の目の前で討ち死にしたんだったわ。憎いのはあの北条、たとえ何があっても、いまさらおめおめと親元なんかに帰れるもんですか。』

 鬼の心になりきった私は、両親の好意に背き、また天をも人をもうらみ続けて、実に生き甲斐のない日々を送っていましたが、それも長くは続かず、いよいよ私にとって地上生活最後の日がやってきました。

 現世の人たちから見れば、死というものはなんだか薄気味悪い縁起でもないものに思われるでしょうが、私たちから見れば、それは一匹の蛾がまゆを破って抜け出るのにも似た、格別不思議でも不気味でもない、自然の現象にすぎません。だから私としては意外と平気な気持ちで自分の臨終の様子もお話することができちゃうんです。

 四百年も昔のことなのでずいぶん記憶も薄らぎましたが、ざっとそのときの実感をお話してみますね。何よりもまず感じたことは、気がだんだん遠くなっていくことで、それはちょうどうたた寝しているような気持ちに似て、正気のあるような、ないような、何とも言いようのないうつらうつらした気分です。傍から見れば、顔が引きつったり、冷たいあぶら汗がにじみ出たり、死にゆく人の姿は決して見栄えのよいものではありませんが、実際自分が死んでみると、それは案外楽な仕事ですよ。痛いも、かゆいも、くやしいも、悲しいも、それは魂がまだしっかりと体の中に根を張っている時だけの事です。臨終が近づいて、魂が肉のお宮を出たり入ったりうろうろする頃には、いつとはなしに一切がどこかへ消える、というよりむしろ遠のいてしまいます。誰かが枕もとで泣いたり叫んだりするときは、ちょっと意識が戻りますが、それもほんの一瞬で、やがて何にもわからない、深い深い無意識のもやの中へと入り込んでしまうんです。私の場合はこの無意識の期間が二、三日続いたと、後で神様からうかがいました。でも二、三日というのはどちらかといえば短い方で、人によっては幾年、幾十年と長い永い眠りを続けている場合もあるんだそうです。とにかくその長さにかかわらず、この無意識の状態から目を覚ましたときが、私たちの世界の生活の始まりで、舞台がすっかり変わっちゃってるというわけなんです。

 


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