心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.07.14公開)
私の修行場を少し降りた山の中腹に、こじんまりとした一つの平地がありました。周りには程よく樹木が生えて、ちょうど置石のように自然の石があちこちにあり、一面にびっしりと苔がむしていました。そこが夫婦の会合の場所に決められました。 ご承知のように、こちらの世界では何をやるにも手間暇がかかりません。思い立ったが吉日で、すぐに実行に移されるんです。 『話が決まったんだから、今すぐ出かけよう。』 おじいさんは眉毛一つ動かさずに、すました様子で先に立って歩かれました。私は仕方なく後について歩き始めましたが、その胸の内は千々に乱れて、足の運びも自然と遅れがちになりました。 言うまでもなく、十数年の間現世で連れ添った夫と久しぶりで再会するのですから、私の胸には夫婦でなければわからない一種特別の嬉しいような感情がこみ上げてきたのです。だって人間なんてたとえ死んでしまったからといって、夫婦の愛情がすぐに変わってしまうわけではないんですもの。変化しているのはただ肉体があるかないかという点だけで、しかも愛情は肉体の受け持ちではないようなんです。 でも嬉しさがこみ上げる一方で、また一方ではなんだか恐ろしいような感情もまた胸に迫ってきたのでした。何しろここは幽界で、自分は今修行の第一歩を済ませて、現世の執着がようやく少しだけ薄らいだだけの未熟者です。ですから幾十年かぶりで夫に会った時、果たして心の平静が保てるだろうか、果たして昔のあの見苦しい愚痴や未練が頭をもたげはしないだろうか。なんて、考えれば考えるほど我ながら危なっかしくて仕方がないのでした。 そうかと思うと、私の胸の中にはまた、なんだかきまり悪くて仕方がない部分もあるのでした。もちろん久しぶりで夫と顔を合わせる決まり悪さもあるんですが、それよりもっと恥ずかしいのは、神様の手前という事でした。あんなそ知らぬ顔をなさっていても一から十まで全てご承知の神様の事ですから、『おやー。この女はまだ大分シャバの臭みが残っているな。』なんてお思いになってられるんじゃないかしらなんて思うと、全く穴があったら入りたいほどで、顔から火が出るほど恥ずかしくなるのでした。 それでも予定の場所につく頃になると、少しは私の腹も据わってきました。『たとえ何があっても、涙だけは流さないようにしよう。』そう堅く決心しました。 会合の場所に着いてみると、夫はまだ来ていませんでした。 『まあ、よかったわ。』その時はそう思いました。いざとなるとやはりまだ気後れがして、少しでも時間を先延ばしにしちゃいたいのでした。 おじいさんはと見れば、どこ吹く風といった様子で黙り込んで、向こうを向いて景色なんかを眺めておられました。 |