心霊学研究所
小桜姫物語
('04.01.16)

七十五.入水者の救助


 

 次は、夫婦喧嘩から危うく自殺しそうになった女性の話をしましょうか。だいたい夫婦喧嘩は犬も食わないというのは世間の常識ですもの、中には傍で見ているこっちの方が恥ずかしくなっちゃうなんて場合もあります。ある日一人の男が真っ青な顔をして、あわてて社《やしろ》の前に駆けつけました。何ごとかしらとじっと見ていますと、その男はハアハアと弾む息も整えず、次のように訴えました。

『神さま、どうか私の一生の願いを聞いてください。実は私の女房が自殺するといって家を出たっきり、行方がさっぱりわからなくなってしまったんです。神様のお力で、どうか最悪の事態だけは避けさせてください。実際彼女がいなくなると私は本当に困ってしまいます。私が他に愛人を作ったのは、ほんの出来心なんです。だから心から可愛いと思っているのは、やっぱり長年連れ添った女房だけです。ただ彼女があんまり焼きもちばっかり焼くもんですから、つい腹立ちまぎれに頭を二、三発ぶって、貴様みたいなやつはくたばってしまえ、なあんて怒鳴っちまいました。しかし心の底では決してそんなことは思ってもいません。ついあんなことを言ってしまったのは、本当に私が悪かったと思います。これに懲《こ》りて私はさっそく愛人と手を切るつもりです。大切な女房に死なれては、私はもうこの世に生きている甲斐がありません。』

 この男は三崎の町人で、年は三十四、五の分別盛りでした。そんな男が涙まじりでこんなことを言うんですから、私はおかしいやら気の毒やら、あら失礼、とにかくあきれ返ってしまいました。でもせっかくの頼みですから、とにかく家出した女房の行方を探ってみますと、すぐにその居場所がわかりました。女性は油ヶ壷《あぶらがつぼ》の崖の上にいて、しきりに小石を拾っては袂《たもと》の中に入れている所を見ると、やっぱり本当に入水自殺するつもりらしいのでした。そしてしくしく泣きながらこんなことを言っていました。

『くやしい、くやしい。自分の大切な夫をあんな女に寝取られて、黙ってなんかいられるはずがないわ。これから死んであの女に取り付いて、仇《かたき》を取ってやるんだから、覚悟してなさい。』

 普段はちょくちょく私のところにもお参りに来る、いたって温和で、顔立ちもそう悪くはない女性ですのに、嫉妬のためにとち狂って、まるで手がつけられない状態になってしまっているのでした。

 見るに見かねて私は産土の神さまに、氏子の一人がこんなことになっちゃってますけど、どうぞよろしく、とお願いいたしました。寿命がないものはいくらお願いしてもダメですけど、やっぱりこの女性には寿命が残っていたんでしょうね。産土の神さまのご眷属《けんぞく》が、ちょうど神主のような格好でその場に現われ、今しも崖《がけ》から飛び込もうとする女性の前に、両手を広げて立ちはだかったんです。

 不意の出来事に、女性は思わずキャッと叫んで、地面に尻餅をついてしまいました。でもその頃の人間は現代の人間と違って、少しは信心がありましたから、この女性もすぐにハッと気づいて、とんだ心得違いをしたと心から後悔したらしく、死ぬことを思いとどまったのでした。

 一方私の方ではそれとなく夫の心に働きかけて、油ヶ壷の崖の上に導いてあげましたので、二人はやがてバッタリと顔を合わせました。

『ああ、生きていてくれたか。なんとありがたいことだろう。』

『これというのも神さまのおかげだわ。これから仲良く暮らしましょうね、あなた。』

『俺が悪かったんだ。許してくれ。』

『じゃあ、これからは私のことをいっぱい可愛がってね。』

 二人は涙を流しながらお互い抱きしめあって、いつまでも離れようとしないのでした。

 その後二人はすっかり心を入れ替えて、村人皆から羨ましがられるほど夫婦仲がよくなりました。現在でも彼らの子孫はあのあたりで栄えているはずですわ。

 


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