心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('00.08.17作成)

十四章 スピリチュアリズムと神社問題


 

 どこの家庭にも近ごろは、大概一個のラジオ・セットが備《そな》えつけてあります。そして決まった時刻にスイッチを入れ、波長の調節をしておくと、東京、大阪、その他の放送局からの放送が聞こえてきます。これは毎日何十万、何百万の人々によって経験されるところの活きた事実です。

 この際少しでも知性のあるものなら、ドウしてあんな現象が起こるのか?という疑問を持つのは当然です。もとより普通の素人は詳しい理論や手続きなどはよく知りませんが、しかしラジオ・セットが一つの変換器《transformer》であり、うまい具合に波動の調節をしてくれるから、それで百キロ、千キロより遠くの音声をも明瞭に聴き得るのだというぐらいの概念は持っています。(訳注:キロとしてある部分は原文では里。一里は約4km)

 まさか、いかなる愚物《ぐぶつ》でも

 「放送者がラジオ・セットの内部《なか》に入っているのである」

だの、または

 「ラジオの音声はあれは客観的に存在するのでなく、単に聴く者の主観……心の中にのみ存在するのである」

 だのと考えている者は滅多に無かろうかと思考されます。形而下《けいじか》的な事象《じしょう》に対して現代人の常識は、そこまで進んできたのです。

 ところが、形而上《けいじじょう》的な事象に対しては、現代人……しかもその中でも知識人層に属する人たちまでが、大真面目になって、ちょうど右に述べたような意見を発表しているのですから、驚き呆れざるを得ないのです。

 他でもない、近ごろ一部の神職《しんしょく》および学者間の論争の題目となりつつある「神社観」です。つまりAは「神霊は神社に鎮座している」と主張し、Bは「神霊は単なる主観的存在で、神社に鎮座するものでない」と主張するのです。

 どちらにもそれぞれ応援団があり、なかなかお賑《にぎ》やかなことですが、およそ心霊科学の見地から観て、これぐらい愚劣極まる論争はないのです。何となれば双方とも全然学問的な考え方から外れ、また日本精神の目的からも外れており、共にお話にならないからです。

 不敬ながら、私どもが心霊科学研究会を興《おこ》してここに十有余年、一通りは心霊学的な事実と理解を紹介したつもりですから、本会の会員や読者には、まさか、そのような明々白々たる問題に判断を誤るようなものも居るまいとは信じますが、近頃しきりに『新興日本』と題する新聞紙状の刊行物を私の手元に送ってきて、これに対する意見を求めるものが多いので、やむを得ず極めて簡単に私の考えを述べておくことにいたしましょう。

 言うまでもなく、日本の神社観を確立するためには、まずその準備としてスピリチュアリズム……物質科学なみに心霊科学の事実と、理論とに立脚して、帰納的に作り上げられた、最も完全な人生の指導原理の概略《がいりゃく》を理解する必要があります。多くの人たちはその準備もなく、単に自分の貧弱な主観で議論をするから、何の役にも立たないわけで、今回の神社観の論争などがその良い見本です。困ったことに、日本国の思想界・信仰界には、そうした種類のつまらぬ論争が、あまりにも多すぎると思います。

 さてスピリチュアリズム的主張の中で、日本の神社観を正しく解釈するのにまず必要なのは

 超物質的神霊界の実在

です。主観派の鶴藤教授という人は「宇宙の大元の霊は認めるが、個々の霊は認められない」と言い、そして何か私の心霊実験にも立ち会ったようなことを述べておられますが、私は同氏と面会した記憶はありません。少なくとも氏は私の研究会に来て、ただの一度も研究したいと申し込んだことはないのです。そんな態度で現代の心霊科学に批評がましい事を口にされるのが、そもそもの間違いです。理論からいっても実験からいっても、今日のスピリチュアリズムはまさに難攻不落《なんこうふらく》、いやしくも理性や常識の所有者なら、どうしてもこれを認めなければならぬ道理になっています。それも充分研究の上で、いちいち実証を挙げて論難《ろんなん》を試みられるなら、筋道も立ちますが、ほとんど一片の霊的常識も持ち合わさずに、とてつもないことに日本の神社観などという、天下の大問題に食ってかかるのは、あまりにも非人格的、またあまりにも非科学的です。私はこうした厭《いと》うべき気風が、一日も早く日本の学会から姿を消すことを、国家のために切望に堪えません。現代人は、日本の学究たちの多くが唱える、かの浅薄《せんぱく》な主観説には、もはや飽き飽きしているのです。

 次にスピリチュアリストの主張の中で、神社問題を正しく理解するのに必要なのは

 念波の感応道交

です。思想が一つのエーテル波動であらねばならぬことは、テレパシーの実験がなにより有力にこれを証明します。今日においてこれを疑うものは、ラジオの原理を疑うものと同じく、とうてい理性や常識の所有者として遇することはできないのです。

 さてこのテレパシーの実験において何より大切なことは、発信者と受信者との心の波長を合わせることで、それには双方とも雑念を一掃し、精神を放送すべき事物にのみ集中統一する必要があります。そうすることによってのみ、ここに初めてテレパシーという現象が起こるのです。

 テレパシーにあっては、距離は少しも問題ではありません。心の波長さえしっくり合えば、百キロ離れても、千キロ離れても立派に通信ができます。これに反して心の波長が合わなければ、たった二メートルほどでも決して伝達はできません。

 日本の神社問題も、この見地に立って、学術的に正しい解釈を下さねばならぬことは、ここで言うまでもないのです。神人合一は、神と人との心のエーテル波動の感応であり、そして神社はこの感応を可能ならしめる、もっとも神聖なる機関なのです。

 ご承知の通り、地上の人間は物質的肉体に包まれており、従ってその念波ははなはだ不純であり、鈍重であるを免れません。これを浄化してなるべく神に近づけるのには、いろいろな工夫や方法がありますが、日本の神社はそれらの中で正に最も理想的と言ってよいのです。鬱蒼《うっそう》たる森林、神さびたる建物、苔蒸せる石階《いしばし・せっかい》、清浄そのもののしめ縄、すがすがしい御手洗《みたらし》……人間の劣情を一掃し、人間の意念を内へ内へと導くことにかけて、地上のどこに、これ以上の境地が見出されるでしょうか。果せるかなどんな俗物でも、神社の前に額《ぬか》ずいた時には、通例最も人間離れのした神心になるのです。

 これは人間の側からの神社観ですが、神の側から申しますと、神は神社……なかでも、その御神体を媒体として、できるだけ人間の意念に近づくべく努力されるのです。神霊の念波はあまりに精妙、あまりに迅速で、そのままでは、人間の世界との交通が難しい。それで、普通何らかの器物を媒体として、その波長を緩《ゆる》められるのです。御幣《ごへい》、御神鏡《ごしんきょう》その他は決して単なる飾り物でも何でもないことは、有力な霊界通信の多くが教えるところです。

 従って人間としては、極度に御神体を大切に取扱い、人間の指紋だの、人間の邪念だので、悪い記録を付けないようにしなければなりません。これは神に対する礼としても大切ですが、しかし学術的には、それ以上に必要な実用的な事柄なのです。

 以上述べた所は、はなはだしく乱雑を極めましたが、現在日本の神道界の一部に巻き起こされている論争が、双方共にいかに見当外れであるか、また日本の神社制度が、民衆の信仰教育機関として、いかに理想的であり、いかに絶好の模範を全世界の人類に示すものであるかが、大体お判りになったと考えますので、細説は他日に譲り、今回はこれで筆を置きます。(昭、十一、六、二八)


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