心霊学研究所
『シルバー・バーチの霊訓(5)』を読む
十一章では、伝統的なキリスト教の牧師がシルバーバーチと話したときの様子が収録されています。イエスに対する解釈の違いや、キリスト教の教義に対する考え方など、大変面白いテーマが語られています。
キリスト教にどっぷり浸かっている牧師にとっては、聖書の翻訳の違いというのはとても重要な問題なのでしょう。しかし、シルバーバーチにはそんな理屈は通用しません。細かい用語の違いはあれ、どちらも大同小異、たかが一冊の本に過ぎないのです。しかも、後で語られますが、翻訳のもとの本にしてからが、はなはだ信頼のおけないものでしかないのですから……。 重要なのは、細かい知識をこねくりまわすことではなく、あくまでも実践であり、“人のために尽そうという心”なのです。
ここでシルバーバーチがインディアンであるという話が出、メンバーの一人が「三千年前に地上を去った方ですよ」と言うと、牧師は「ダビデをご存知でしたか」と尋ねます。すると、こう答えました。
シルバーバーチはよく自分のことを「卑しいインディアン」とか「野蛮人」と言いす。なぜ自分のことを、ことさら卑下して言うのでしょうか? 実はそれにも深い意味と、人種差別に対する皮肉が込められているのです。 シルバーバーチが最初に現れた1920年代のイギリスが、現在よりも有色人種への差別感が強かったことは想像に難くありません。その中でシルバーバーチは、インディアンという姿を選んで出てきたのです。それには、インディアン(当時はネイティブ・アメリカンなどという言葉は無かったと思いますが(^^;)が霊的能力に優れた民族であった事が第一の理由として挙げられるでしょう。しかし、それだけではありません。 それに加えて、人種差別への強烈な皮肉が込められていたのだという事が明らかになっています。「野蛮」とか「卑しい」というのはシルバーバーチが思っているのでは無いのです。交霊会に出席する白人の側が思っている事なのです。 シルバーバーチの言葉は、現代の我々にも、文明の有無や肌の色、文化の違いで人間を差別する事の馬鹿々々しさを教えてくれているのです。
口先だけで偉そうなことを言うなら誰にでも出来ます。しかし、口先だけは立派だが実質が伴っていない人間が、いかに多いことか。何を信じているかとか、どんな思想をもっているかなど、本人にとっては重要かもしれませんが、実はそれほどたいしたことではなさそうです。 安彦良和という人のマンガで『王道の狗』という作品があるのですが、その中に出てきた勝海舟がこんな事を言っています。「大事なのは人物だよ」「言ってることや党派なんてどうだっていいのサ」「主義主張はどうにでも変わるけど人物は変わりゃしないからね」 その点、僕が尊敬する野村秋介氏は偉かったと思いますね。新右翼の人間だったのですが、同じ右翼でもダメな人間はダメと言いましたし、左翼でも面白い人物だと思ったら親友として付き合っていたようです。やはり、“人物”というやつですよね(^^)。 ですから私たちも、決してスピリチュアリズムや心霊の知識を詰め込むばかりではなく、“人物”を磨く事を心がけたいものです。その方が結局、スピリチュアリズムの思想に添った生き方が出来るはずですから。
どうしても聖書の言葉の一字一句に拘る牧師に対して、聖書は写しに過ぎず、正確な記録ではないと言い切っています。もちろん全てがデタラメだと言うのではありません。ただ、イエスとは関係ない物語、イエスが生まれる前から存在する伝説や物語の内容も混ざっているということです。 ですからこの牧師のように聖書の言葉に拘るのではなく、神の摂理を実行することが大切だと、シルバーバーチは言っているのです。「イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです」とシルバーバーチは言っています。
牧師は、「完璧な生活を送ること」「すべての人間を愛すること」は可能かという質問をします。イエスが〃天の父の完全であるごとく汝(ナンジ)らも完全であれ〃と言っているからです。それに対してシルバーバーチは、
どんな人間も、人間としてこの世に生きている以上、完璧ということは有り得ません。完璧だったらこの世に生まれてくる必要が無いからです。ただ、不可能と分かっても、それに向けて努力する事、理想を持つことが大切なのだと思います。 ただ、統一協会みたいなカルト教団のように、どんなに努力しても更に求められて切りがないようでは困りますが……。所詮人間には、常に100%の努力を続けることなど出来るはずが無いのです(これも、人間は完璧では有り得ないということの一つですね)。無理な努力を強要され続けて、追い詰められて、死んでしまうようではどうしようも無いのですから。
(その2に続きます) |