心霊学研究所
『シルバー・バーチの霊訓(5)』を読む

十一章 青年牧師との論争
(その1)


 

 十一章では、伝統的なキリスト教の牧師がシルバーバーチと話したときの様子が収録されています。イエスに対する解釈の違いや、キリスト教の教義に対する考え方など、大変面白いテーマが語られています。

 

牧師「〃改訳聖書〃をどう思われますか。〃欽定(キンテイ)訳聖書〃と比べてどちらがいいと思われますか」

「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」

 キリスト教にどっぷり浸かっている牧師にとっては、聖書の翻訳の違いというのはとても重要な問題なのでしょう。しかし、シルバーバーチにはそんな理屈は通用しません。細かい用語の違いはあれ、どちらも大同小異、たかが一冊の本に過ぎないのです。しかも、後で語られますが、翻訳のもとの本にしてからが、はなはだ信頼のおけないものでしかないのですから……。

 重要なのは、細かい知識をこねくりまわすことではなく、あくまでも実践であり、“人のために尽そうという心”なのです。

 

 ここでシルバーバーチがインディアンであるという話が出、メンバーの一人が「三千年前に地上を去った方ですよ」と言うと、牧師は「ダビデをご存知でしたか」と尋ねます。すると、こう答えました。

「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」

 シルバーバーチはよく自分のことを「卑しいインディアン」とか「野蛮人」と言いす。なぜ自分のことを、ことさら卑下して言うのでしょうか? 実はそれにも深い意味と、人種差別に対する皮肉が込められているのです。

 シルバーバーチが最初に現れた1920年代のイギリスが、現在よりも有色人種への差別感が強かったことは想像に難くありません。その中でシルバーバーチは、インディアンという姿を選んで出てきたのです。それには、インディアン(当時はネイティブ・アメリカンなどという言葉は無かったと思いますが(^^;)が霊的能力に優れた民族であった事が第一の理由として挙げられるでしょう。しかし、それだけではありません。

 それに加えて、人種差別への強烈な皮肉が込められていたのだという事が明らかになっています。「野蛮」とか「卑しい」というのはシルバーバーチが思っているのでは無いのです。交霊会に出席する白人の側が思っている事なのです。
 「卑しく」「野蛮」というイメージをいだいていたインディアンから、思いもよらぬほどの気高く、美しく、感動的な教えを請うという体験。そして、そのシルバーバーチが、あろうことか自分で「卑しい」などと言う……もちろん皮肉を込めて……これでは、一体どちらが「卑しい」のか分からなくなってしまうことでしょう。その教育効果には絶大なものがあったに違いありません。

 シルバーバーチの言葉は、現代の我々にも、文明の有無や肌の色、文化の違いで人間を差別する事の馬鹿々々しさを教えてくれているのです。
(こういう、ちょっとした皮肉を込めた言葉遣いなんかが、シルバーバーチファンにとってはたまらなく魅力的なんですよね。と言うことで(^^;、これは僕の独自の解釈では無く、シルバーバーチの霊訓を読む上での基本的な知識であります。頭の片隅にでも留めながら読まれると良いと思います(^^))

 

「主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶(カナ)った行いです。それがすべてです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯(トモ)してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 口先だけで偉そうなことを言うなら誰にでも出来ます。しかし、口先だけは立派だが実質が伴っていない人間が、いかに多いことか。何を信じているかとか、どんな思想をもっているかなど、本人にとっては重要かもしれませんが、実はそれほどたいしたことではなさそうです。

 安彦良和という人のマンガで『王道の狗』という作品があるのですが、その中に出てきた勝海舟がこんな事を言っています。「大事なのは人物だよ」「言ってることや党派なんてどうだっていいのサ」「主義主張はどうにでも変わるけど人物は変わりゃしないからね」
 どんな資料を元に描かれているか知りませんし、僕にはあまり興味の無かった時代の物語なので、勝海舟が実際にそういうことを言っていたのかは知りませんが(^^;、このセリフ自体はまさにその通り!ですよね(^^)。それが分からない小さな人間ほど、宗教の違いや、思想的立場が違うだけで、バカにしたり敵視したりするものです。右翼とか左翼とか、心霊オタクみたいな人たちを見てみれば、そんな小さな人間がいっぱいいます(もちろん立派な人もたくさんいますが)

 その点、僕が尊敬する野村秋介氏は偉かったと思いますね。新右翼の人間だったのですが、同じ右翼でもダメな人間はダメと言いましたし、左翼でも面白い人物だと思ったら親友として付き合っていたようです。やはり、“人物”というやつですよね(^^)。

 ですから私たちも、決してスピリチュアリズムや心霊の知識を詰め込むばかりではなく、“人物”を磨く事を心がけたいものです。その方が結局、スピリチュアリズムの思想に添った生き方が出来るはずですから。

 

「聖書の原典はご存知のあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しの、そのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。ところが、いつになっても再臨しないので、ついにあきらめて記憶をたどりながら書きました。イエス曰(イワ)く−−と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

 どうしても聖書の言葉の一字一句に拘る牧師に対して、聖書は写しに過ぎず、正確な記録ではないと言い切っています。もちろん全てがデタラメだと言うのではありません。ただ、イエスとは関係ない物語、イエスが生まれる前から存在する伝説や物語の内容も混ざっているということです。

 ですからこの牧師のように聖書の言葉に拘るのではなく、神の摂理を実行することが大切だと、シルバーバーチは言っているのです。「イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです」とシルバーバーチは言っています。

 

 牧師は、「完璧な生活を送ること」「すべての人間を愛すること」は可能かという質問をします。イエスが〃天の父の完全であるごとく汝(ナンジ)らも完全であれ〃と言っているからです。それに対してシルバーバーチは、

「それは不可能なことです。が、そう努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛(ツラ)く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

 どんな人間も、人間としてこの世に生きている以上、完璧ということは有り得ません。完璧だったらこの世に生まれてくる必要が無いからです。ただ、不可能と分かっても、それに向けて努力する事、理想を持つことが大切なのだと思います。

 ただ、統一協会みたいなカルト教団のように、どんなに努力しても更に求められて切りがないようでは困りますが……。所詮人間には、常に100%の努力を続けることなど出来るはずが無いのです(これも、人間は完璧では有り得ないということの一つですね)。無理な努力を強要され続けて、追い詰められて、死んでしまうようではどうしようも無いのですから。

 

(その2に続きます)


10章に戻る目次11章「青年牧師との論争」その2に進む

心霊学研究所トップページ