心霊学研究所
『シルバー・バーチの霊訓(5)』を読む
(承 前) どうしてもイエスを神格化して捉えてしまう牧師に対して、シルバーバーチはこう述べます。
イエスのどこが偉大だったのか? 神の独り子だったから偉大なのでは無いということです。私たちと同じ人間として生まれ、人間として育ち、人間としての生き方の規範を示したから偉大だったのだということです。 イエスを何か特別な存在であるかのように祭りあげ、イエスが十字架につけられたことで私たちが救われるなど、野蛮な教えと言うほかありません。それでは動物を生け贄にささげたユダヤ教と、なんら変わりないではありませんか。そんな誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなど、僕は御免被ります。 同じ人間として生まれたのだから、私たちにもイエスと同じような生き方が出来るはずだと考えてみましょう。もしも、「やはりイエスは特別な人間だ」と言える人がいるとしたら、それは、イエス以上に努力をしても、彼と同じ境地に到達出来なかった人間だけのはずです。しかし、イエスと同じだけの努力が出来る人間も、そうそういないでしょう。従ってイエスを特別な人間と言える人は滅多にいないはず(あ、三段論法だ(^^;)
善なる思念は神から来ると言う牧師に対してシルバーバーチは、「では悪の思念はどこから来ますか」と聞き返します。牧師はそれに答えられませんが、本当は悪魔からと答えたいところなのでしょう。それに対してシルバーバーチは……。
まさに神はすべてに宿るということですね。キリスト教では神は全能であると言っていますが、人間にとって都合の悪いことは“悪”という事にしてしまう所に矛盾があります。このシルバーバーチの言葉は、その矛盾点を厳しく突いているわけです。
〃信ぜよ、さらば救われん〃という〃回心の教義〃について……。
キリスト教の重要な教義を、スパッと気持ちよく否定してくれています。もちろん牧師は反論します。公正とは言えないと思うが、そこにこそ神の愛の余地があるのだ、と。しかしこれはごまかしに過ぎませんよね。悪の限りを尽くした人間と、つつましく善良に生きてきた人間が同じ扱いを受けるとしたら、そんな事のどこに「神の愛」があるというのでしょう。自分が蒔いた種のぶんだけ受け取ることが出来る……そこにこそ「神の愛」と「公正」があるはずです。 死を前にしてすべての罪を告白して懺悔する……たしかに美しいことかも知れません。そして、もちろん何も言わないより何百倍もマシです。しかし、それでお終いではないのです。懺悔したところから、罪の償いが始まるということです。
確かに、未だに二千年も前の霊能者の言葉を後生大事に抱えているのは、冷静に考えてみれば奇妙な事です。こんな事は、いかに偉大な人でも、他の分野----たとえば科学とか芸術----では有り得ないことですよね。それが宗教の宗教たるゆえんなんでしょうけど……。 シルバーバーチも、このあとの部分で、何ゆえ全知全能の神を一冊の書物に閉じ込めようとするのかということを言っています。つまり聖書を絶対視することは、かえって神を矮小化することに他ならないと言っているわけです。 ただ、人間の知恵でだんだん進歩していくものかというと、宗教の場合はそういうわけでもないのは難しいところです。実際、キリスト教に関しては、イエスの死後にどんどん歪んでいますね。ペテロが伝道を始めた時には既に変質し始めていたぐらいです。 で、手前みそになりますが、スピリチュアリズムとはその歪みを正し、イエスが説いた教えより、更に先を行こうとする試みであるわけです。
牧師が、西洋暦のはじまりとキリストとの関係について質問したのに対して、シルバーバーチは、キリスト教会の大聖堂が建てられた為に貧民修養施設のまわりが日影になり、より劣悪な環境になった例を話しはじめます。そして……。
僕もイタリアに行ったときには宏壮な教会の数々を見てきました。その大きな事、美しいことには圧倒されましたし、その雰囲気から神聖な気分になることは分かるのですが、やはり、これだけのものを造るぐらいなら、もっと有益なことがいくらでも出来たのではないかと思わずにはいられませんでした。「これを造るのに、何人奴隷が死んでるんだろうねぇ」などと言っていたものです(ちょっと意地が悪いですかねぇ(^^;) 同じ事は仏教にも言えるのですが、教会などを不必要に華美に飾りたて、広大なものを造り、大衆を犠牲にすることには無頓着でいるというのは、やはり霊的な真理というものを理解していない……言い方を変えれば、神の心を理解していないということでしょう。神の僕(しもべ)たるべき教会がそんな事で良いはずがないのですが……。その点、日本の神社など、非常によくできているようですね(『心霊学より日本神道を観る』一章を参照のこと) |
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